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月曜日

大楠公⑦ ~千早城~


①赤坂城登城道

時は1333年2月、楠木正成の本拠、赤坂・千早城を中心とする金剛山麓の城塞群で、鎌倉幕府軍との戦いが始まりました。(写真①)
これまでお話した正成の戦(いくさ)は、全てこの戦の前哨戦。この赤坂・千早城籠城作戦こそが、正成の反幕府活動・レジスタンス活動の本命なのです。

ここまでの楠木正成の戦の経緯は、是非拙著Blog大楠公①~⑥をご笑覧ください。

では早速、この千早城籠城戦の経緯を一緒に見ていきましょう。

1.強化された籠城戦

この話の1年半前(1331年9月)に笠置山で後醍醐天皇に謁見した正成。(大楠公②)その後、急ぎ赤坂城に戻り、城の補強をするも兵糧の調達が間に合わず、寡兵により鎌倉幕府の大軍と互角に戦いながらも、約1か月半で正成自ら「長期戦は無理!」とばかりに城に火を掛けているのです。(大楠公③

今回はその時の反省から、兵糧は四天王寺に進出して大量に確保しました。(大楠公⑤)また金剛山や吉野城方面との連絡がしやすいように、後詰めの城として千早城を造り、正成はまるでそれが旗城と言わんばかりに、そこに入城します。(大楠公⑥
赤坂城は弟の正季(まさすえ)に任せます。(写真②)
②赤坂城本丸(上赤坂城)
2.断水の計

③赤坂城落城までの段取り
ところが2月に始まったこの戦、なんと赤坂城は1か月弱で、また落ちてしまうのです。

鎌倉幕府軍の中に、冷静に赤坂城を落すための分析をする人がいました。

「赤坂城も千早城も、前回の時のように幕府の大軍で囲んで兵糧攻めにしても、難波に進出して大量の兵糧を調達したのだから、そう簡単には落ちないだろう。それよりも城への水の手を切る方法を考えた方が早い。」

という一武将の案が採用され、地図③で示される南側からの水の手が幕府軍によって切られます。

すると、幕府軍が企図した通り、赤坂城は途端に渇き、楠木正季らは千早城へ脱出。もう1人の後醍醐天皇の勇将・平野将監(しょうげん)らの将兵282人は幕府軍に降伏しました。

めずらしく幕府軍が成功を収めた「断水の計」。赤坂城は前回よりも早く2月下旬には落城します。(写真④)

平野将監以下、降伏した282人の将兵は六波羅へ連行された後、六条河原にて全員斬首、それらのおびただしい首級は獄門に架けられたと太平記には伝えられています。

これでレジスタンスは戦意を失うだろうとの意図が六波羅探題(幕府側)にはあったのですが、完全に逆効果でした。
千早城などに立てこもるレジスタンスは獅子の如く怒るのです。
と同時に、幕府軍に降伏しても決して生き延びることは無い、ならば死してもこの千早城を守り抜こうと、楠木軍らのレジスタンスは決意を新たにするのです。

④赤坂城付近の水の手
かえるやおたまがいます
見せしめにと考えた幕府軍の浅知恵が、却ってこの後かたくなに抵抗するレジスタンスの強靭な精神構造を作り出してしまったのです。

3.護良(もりよし)親王参陣

この赤坂城が落城し、弟・正季は千早城に避難しますが、もう一方、強いレジスタンスの同志が、この千早城に避難してきます。

「大塔(おおとう)の宮」こと護良親王です。

六波羅探題へ一度は終結した幕府軍は、楠木正成の千早・赤坂城を攻めるのと並行して、護良親王が立て籠る吉野方面へも兵を出していることは前回のBlogの最後の方でお話しました。

吉野の護良親王たちも激しく抵抗します。しかし、幾ら護良親王が宮方にしては珍しく武勇に長けたと人物であっても、楠木正成程のゲリラ戦等、戦術に長けていた訳ではなかったようです。

「もはやここまで!」と護良親王も一時は、吉野に散る自分の運命を受け入れようとしました。

ところが、笠置山から十津川へ逃げてきた当初から一緒に戦ってきた村上彦四郎義光という武将が、護良親王を逃がすため、自ら代わりとなったのです。(絵⑤、写真⑥
⑤吉野で護良親王の代わりとなる村上彦四郎
※「キミノ名ヲ。(4)」より
⑥左:吉野での護良親王(大塔宮)陣所
右:護良親王の身代わりになった村上彦四郎の墓所

村上彦四郎の身代わりにより、吉野を脱出することができた護良親王は、楠木正成が立て籠る千早城へと落ち延びていくのです。

4.幕府軍の失敗・二度目の断水の計

吉野を落した幕府軍は、赤坂城を攻める軍と合流し増々大軍となりました。また赤坂城も先程述べました「断水の計」で早々に落ちたので、俄然幕府軍は勢いづいていくのです。

⑦鎌倉・鶴岡八幡宮の源平池に架かる「赤橋」
彼らは赤坂城と同様に「断水の計」をもってして千早城を落そうとします。ここに名越時見(なごえ ときみ)という北条一族の一人の武将が登場します。

◆ ◇ ◆ ◇
脱線しますが、太平記で有名な赤橋守時は北条守時、この名越時見も北条時見なのです。北条家では、一番偉い得宗家に次ぐ家格なのですが、では赤橋や名越などの姓は何か?というと鎌倉の住んでいる地名にあやかっています。ご存知だと思いますが、「赤橋」は鶴岡八幡宮の源平池に掛かる「橋が赤い」ので赤橋(写真⑦)

名越は、鶴岡八幡宮から由比ガ浜方面へ南に段葛(だんかずら)に沿って歩いて行く途中で横須賀線の線路とクロスしますが、その辺りから線路沿いにそって逗子方向の数百mの地域が「名越」であり、そこに北条一族の一部が住んでいたからなのです。
◆ ◇ ◆ ◇

さて、話を戻しますが、その名越時見は、千早城兵が下りてきて水を汲んでいくという千早城北側の北谷川に3000の兵で待ち伏せます。ところが、いつまで経っても千早城から人が降りてきて水を汲む気配がありません。(360°写真⑧)

⑧千早城北側の北谷川
 登っていく人の右側の急斜面の上が千早城

「何故だ?夜陰に紛れて汲みにきているのかもしれない」

と夜間は緊張しながら水辺の見張りを続ける名越軍でしたが、待ちぼうけが長引いて来ると段々気が緩んできます。もしかしたら楠木軍が汲みにくる場所が違うのでは?等とも名越軍の見張り等は考え始めます。

⑨急斜面に付けられた階段を登って千早城へ登城します
「よし、今夜だ!」

と言ったのは楠木正成。夜間見張っている名越軍の見張り兵を夜陰に紛れて楠木軍は襲うのです。名越軍は気が緩んで殆ど居眠り状態だったので、この楠木軍の夜襲に慌てふためき、旗指物や大幕をその場に残したまま、慌てて幕府軍本陣まで逃げるのです。

翌日、楠木軍は、城の櫓(やぐら)上に名越軍の旗指物や家紋入りの大幕を並べ、大きな声で

「流石、名越は北条一族、平家の末裔やな。平家は富士川の合戦で、夜中水鳥が飛び立っただけで夜襲と勘違いし、旗指物や大幕等全部残して逃げ出した聞くが、昨日の北谷川の合戦も同じやで!」

と詰りました。これを聞いた名越時見は

⑩逆茂木(さかもぎ)
「うぬぬ、楠木軍め!つけあがりおって!北条の名家・名越家をコケにするとは許せん!名越軍だけでも突撃を行う!」

と決死の思いで、千早城への突撃を敢行しました。楠木軍が作った逆茂木(写真⑩参照)を破壊し、破竹の勢いで千早城の崖に張り付き登り始めたのです。(絵⑪

読者の方々はお分かりだと思いますが、崖に貼り付いた名越軍も嫌な予感はしたでしょうね。

そう、この嫌な予感を裏切ることなく、楠木軍は千早城の壁に落下用に横向きに縄で止めてあった大木10本の縄を次々と切っていったのです。

この大木落下により名越軍400~500の兵が圧死。また大木を避けようとする名越軍にも楠木軍は城の四方八方から矢を射掛けます。
⑪千早城は常に大木と岩が降る(笑)
(湊川神社所蔵絵)
今までの籠城戦の経験から楠木軍が学んだことがあります。

それは、開府以来、馬上での武器活用に勤しんできた鎌倉武士に対抗するには、馬の使えない山岳戦で、徒歩で弓矢を大いに活用すべきだということです。

楠木正成軍はこの弓矢を最重要視し、近隣農家から集めたにわか兵士に至るまで、弓を持たせ、大量の矢も河内の農民も動員し製作。攻めて来た幕府軍の精錬された鏃(やじり)は付いていない矢とは云え、先は充分尖らせたため、殺傷能力は当たれば左程変わらない矢を大量に作ることで、雨あられのように幕府軍に矢を降らせたことが、一番の勝因だったのではないかと推測します。

いずれにせよ、大木落下による圧死と、大量の矢の餌食となった千早城崖下の名越軍。

実は楠木正成は赤坂城が水の手を切られて落城の話を聞く前後から、大木をくり抜き300もの木船に水を蓄えていたのでした。これらは雨が降るとまた溜まるものなので、水辺に出て行かなくても城内の水は不足しなかったのです。それを知らずに水辺で待ち構えていた名越軍はまんまと正成の奇策に乗ってしまったという訳です。

5.わら人形作戦

⑫左:水分にある藁人形
右:千早城にある藁人形
以後幕府軍は、千早城を包囲し兵糧攻めにすることにしました。するとこの数万の兵は時間を持てあまし、連歌の会や碁、双六、茶会等思い思いをして過ごすようになったのです。

これに対し、また楠木正成は妙案を考えつきました。

私は水分(みくまり)の正成の生誕地や千早城を見て廻った時、写真⑫のような案山子のようなものが、沢山置いてあるのを不思議に思ったものです。(写真⑫

実は、この案山子のようなものこそが、千早城で正成が思いついた妙案だったのです。

というのは、幕府軍が緩み始めると、籠城する楠木軍も退屈しはじめました。少しでも時間があると敵に一泡吹かせる戦術を思いつくのが正成の良い癖ですから、退屈は正成の味方です(笑)。

⑬千早城内で藁人形を作る楠木軍
(楠妣庵観音寺蔵軍、土佐光成筆
「おいっ、おまえら、暇だろう?藁(わら)人形でも作っておけ!」

と、正成は城兵たちに命令します。

まあ当時籠城兵のかなりの割合が半農の郷士です。藁人形や案山子の製作は得意な訳です。たちまち数十体程の藁人形を作り上げます。(絵⑬

出来た藁人形に、千早城崖下で大木落下により圧死した武者や他戦死した兵の鎧兜を着せるのです。

そしてそれを夜の間に千早城の崖下に持って行き、整然と数十体を設置しました。

朝方、まだ靄が千早城を覆っている時に、正成は500の兵を千早城の崖下、藁人形が設置してある場所に出動させます。

わぁーーーー!
と500の兵に鬨(とき)の声を上げさせます。

ノンビリと寝ていた幕府軍は、

「敵襲だ!敵襲だ!楠木軍が決死の覚悟で攻めて来た!」

と慌て逆襲体制を敷きます。早暁の靄で、良くは見えませんが、崖下に武装した兵士達が弓を構えて立っています。

「やはり楠木軍、数は少ない!城を出てくれればこちらのもの。全軍かかれーっ!」

⑭「なんじゃ?わら人形じゃないか!」
と幕府軍の気分の私(笑)
と幕府軍側は数千の圧倒的な兵数で、その楠木軍へ襲い掛かるのです。
楠木軍500は矢を幕府軍へ射掛けながら、徐々に千早城へ引いて行きます。押せ押せの幕府軍が、崖下に辿り着き、兵士らしき姿のものに近づいてみると

「なんじゃあ?!こりゃ。人形じゃないか!」(写真⑭

と叫び終わるやいなや、崖から雨あられのように大木と岩が降って来たのです。(絵⑪参照

あっという間に300の幕府軍は即死、慌てる幕府軍へ今度は千早城から矢が雨のように降りそそぎます。結局、幕府軍は千人近い死傷者を出しました。

対して楠木軍は藁人形30体以外の死傷者がほとんど居ないという完全勝利でした

6.「長梯子の計」vs「火計」
⑮京の大工に作らせた梯子?(橋?)で千早城へ攻め入る幕府軍
(湊川神社蔵、歌川芳員画)

もう1つ千早城の奇策の話があります。

「楠木軍が暇に任せて藁人形なぞを作っていたのだから、我々は本格的な兵器を作ろう!」
と幕府軍は連歌ばかりやっている上層部以外の現場兵士たちは考えていました。

「そうだ、橋を作ろう。楠木軍は素人が作る藁人形だったが、我々は京から本職の橋職人を呼んで、しっかりとした橋を作って千早城の北側の深い谷の上を渡せば、難なく城内に突撃できるのではないか?」

と話し合っていました。写真⑧の谷のことです。この北側の金剛山への登山道は谷が深く、その一方の峰が千早城の本丸です。(写真⑧)

これが現実になるのです。
1333年3月初旬、千早城を兵糧攻めとして、遠巻きにして手を出しあぐねている幕府軍に対して、鎌倉から厳しい下知が届きます。

「それだけの軍勢を持ってして、戦(いくさ)もせずに、只、無為に時間を過ごしているとは何事か?直ぐに攻撃を開始せよ!」

本部と現場が乖離するのは良くあること。現場指揮官の将士たちは「鎌倉はこの千早城攻城の難しさが分かっていない」と不満を言いますが、かねてより、考えていた武士たちがこちらの峰から千早城本丸付近へ長梯子による橋を架けて攻め入る案を献策します。

「よし!それで行こう!」

早速、京から大工500人が呼び寄せられ、付近の木材を伐採して長梯子の製作が始まりました。

そしてとうとう長さ約70m、幅約5mの立派な長梯子が出来上がるのです

⑯長梯子を架けた場所の推定
(Googleマップ加工)
出来上がった立派な長梯子を、自陣の峰から、千早城本丸へと架け、幕府軍6000は「それ行け!」とばかりに殺到します。(絵⑮

ところが楠木軍は、付近の竹を大量に伐採して製作した水鉄砲を使い、この長梯子に勢いよく油を掛けるのです。

そして、薪のような燃えやすいものと一緒に松明を長梯子に投げ込みます。

城へ突撃を開始した最初の兵士は、この状況を見て引き返そうとしますが、何せ6000の軍ですので、押すな押すなの状況で後から後から長梯子へ繰り出してきます。鎧に火が付いた最前列の兵士が橋から飛び降りましたが、高さがあるので即死。他、後ろに逃げようとした火のついた兵士らは火まみれ・油まみれなので、後続の兵士らに火を移しまくる事態となるのです。

そうこうするうちに、火は燃え広がり、長梯子は真ん中から折れ、橋の上の千以上の兵士が猛火の中転落して死亡という痛ましい結果となったのです。

実はこの話、長梯子を架けた場所等はまだ特定されていないようです。私も現場に行って実際に見てみましたが、どうやら地図⑯に示した辺りが一番それらしく感じられました

⑰楠木正儀の墓
木立で分かりづらいですが、後に
千早城本丸の峰が見えています
千早城の本丸に対抗する峰には、現在、楠木正儀(まさのり:正成の三男)のお墓があるのですが、そこから千早城の本丸のある峰まで直線で約70m弱程度です。(写真⑰

なぜここに正成の三男の墓があるのかも良く分かりませんが、土地的にはこの場所辺り以外は100m以上の梯子を渡さないと無理な場所ばかりです。

かなり誇張された部分のある「長梯子の計」vs「火計」の話でしたが、実行はされたのだと思います。そして、またもや正成の「火計」の勝ちですね。

7.新田義貞

さて、数々の「計」を幕府軍、楠木軍ともに仕掛けますが、戦は長引きます。しかし、難波にまで進出して兵糧を確保していた楠木軍は長引く戦に強い体質を作り上げているのです。そして、この長引く戦の中で、幕府軍には足並みの乱れが見られ始めます。

その乱れの初端、病気を理由に千早城包囲網から離脱した武将・新田義貞がいます。

そして病気の理由で今の栃木県の自領に戻った義貞が、鎌倉に向けて挙兵をするのは有名な話で、その転身については色々な説があります。

安部龍太郎氏の小説では、吉野から千早城に落ちて来た護良親王と義貞が、楠木正成を介在して運命的な謁見を千早城本丸でする説が書かれています。(360°写真⑯)
⑯千早城本丸 意外と狭い

この時期以降の、足利尊氏に対抗する、護良親王と新田義貞、楠木正成らの連帯の強さを考えると、この千早城でその3人が会って話をしても決しておかしくは無いように思えます。

長くなりましたので、新田義貞のその後の行動等については、次回詳しく描いていきたいと思います。ご精読ありがとうございました。


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土曜日

大楠公⑥ ~正成の心理戦~

①浮世絵にもなっている
宇都宮公綱
四天王寺を拠点として、現在の大阪市内を舞台に、六波羅からの鎌倉幕府軍の大軍をゲリラ戦法で破った楠木正成。


「馬鹿な!」

と叫んだのは、鎌倉幕府の重鎮 宇都宮公綱(うつのみや きんつな)です。「楠木正成が強いのではない。六波羅の幕府軍が弱いのだ」

そう豪語する公綱は、実は坂東武者の代表格のように周囲からも評判の高い武将だったのです。

宇都宮氏、そう現在の栃木県の県庁所在地でもあるあの宇都宮市が地盤の武将ですから、坂東武者の代表格というのもうなずける事実です。

今回は、まずこの剛そうな武将に楠木正成がどう対処するのかから話を始めたいと思います。ちなみに絵①の宇都宮公綱、絵の右上を睨んでいますね。この右上にある提灯や旗指物、かがり火が、正成の対処のカギとなっていきます。

1.こだわる公綱

これらの豪語を聞いた六波羅探題のお偉いさんらは、早速この剛の武将・宇都宮公綱を召喚し、楠木軍を押さえにいく意思があるかどうか問います。

この時の公綱の答えがまたかっこいいのです。

「押さえにいく気なぞござらん。」
「いくからには、正成と勝負を果たし、奴を生け捕るか、我が身を難波の洲に屍として晒すか、2つに1つあるのみでござる!」

そして、自分が京へ連れて来た手下数十名で正成がいる四天王寺に向かいます。

②東寺の五重塔
ここに宇都宮公綱は兵700を確認
もともと京へ平時の用で来ていたため、宇都宮の国元にいる数千の兵を連れている訳ではないのです。普通でしたら、六波羅探題へ兵を求め、少なくとも前回の戦の時のように数千の規模の幕府軍で向かうのが常道です。

ところが、彼は「借兵なぞあてにならん!」と、手下数十名だけで向かってしまうのです。

「宇都宮公綱を死なせてはならん!」とばかりに六波羅探題は250騎に、公綱の後を追わせます。

また宇都宮公綱のこの事態に、馳せ参じたいと申し出る東国武者も数多くあったため、六波羅探題も「参陣妨げなし!」と許可を出しました。

これらにより、公綱が京の東寺で軍容を改めた時には、数十の兵は約700騎にまで膨れ上がっていました。(写真②)

西国武将・楠木正成成敗に対する公綱のこだわりが、東国武将の心をとらえたのです。
2.こだわらない正成

さて、まだ四天王寺に陣を張る楠木軍、宇都宮公綱が攻めてくる話を、六波羅方面へ放っておいた諜報員から聞きます。
正成の弟・正季(まさすえ)を始め、取巻きの多くが、

「なに!また六波羅の幕府軍が性懲りもなく攻めてくるのか!前回にもましてギッタンギッタンにしてやろうぞ!」

と息巻いていました。

弟・正季は正成に言います。

「兄上、今回は以前より味方の士気も高い上、敵の軍容も700程度と前回の7分の1程度です。なにやら坂東武者の恐ろしさをたっぷりと思い知らせてやるなぞ、粋がったことを言っているようですが、河内武者の意地にかけて全滅させてやりましょう!」

周囲も皆、まるで対巨人7連勝中の阪神タイガースが次の巨人戦に挑むときのように、目をランランとさせ、正成の指示の言(げん)を期待します。

③正成のこだわりのなさに唖然とする取巻き
※「キミノ名ヲ。(3)」より
「逃げるさね。」(絵③)

「は?」

「正季、以前お前に言っただろう。幕府への反発勢力ここにあり!という狼煙(のろし)を上げることが出来ればいいんだよ。それは出来た。」

「しかし、兄者。今わが軍は前回の勝利で勢いに乗っています。今少しでも幕府側の出鼻を挫くことが出来れば、更に全国的な反幕府勢力は拡がり、効果は高いと思うのですが・・・」

「正季、宇都宮公綱の手勢は700程度と言うであろう。公綱は幕府の中核の武将じゃ。それがたった700で我々に向かって来るのは酔狂でも我々を馬鹿にしている訳でもないのじゃ。命懸けなのじゃよ。命懸けの優秀な指揮官が指揮する寡兵程怖ろしいものはないぞ。」

「しかし・・・。」

「しかしもへったくれもない!この戦で六波羅探題の上層部が何を考えているのか想像つかんのか。確かに兵力と勢いでわが軍は負けないかもしれない。しかし、我々が今まで幕府軍を寡兵で引き寄せて時間稼ぎをした赤坂城の戦と同様、宇都宮公綱の寡兵によって我々の軍を赤坂へ戻さず、この難波に引き付けておこうという六波羅の企みが分からんのか!その間に鎌倉から大軍が京に到着し、我々は赤坂に戻ることができなくなって、それこそこの難波で全滅するのを待つばかりじゃぞ!」

「そこまで深いとは・・・」

「そうと分かれば、無駄に一兵たりとも宇都宮公綱との戦で失いたくはない。さっさと赤坂へ帰ろう。」
④四天王寺の敷地

結局言い負かされた正季ですが、この時正季が「しかし」と反論したかったことを正成は重々理解しておりました。

◆ ◇ ◆ ◇

正季が言いたかったのは楠木軍の士気の問題です。勝てると思っている敵に背中を見せて逃げるのは、せっかく昂揚した士気を、激しく低下させ、この後の戦での戦力ダウンにつながるのです。分かっている正成は、翌朝全軍を四天王寺の敷地に集めます。(写真④)

そして四天王寺の座主から貰ったという奉書を全軍の前で読むのです。

「この四天王寺を創建した聖徳太子が、未来の日本を予言したという秘封文書に、後醍醐天皇側が必ず勝利し、太平の世を取り戻すと書いてある。
奇しくもわが軍が駐屯した四天王寺に、そのような今を予言した聖徳太子の文書があったということは、我々に使命を全うせよとの天命であろう。
いたずらに六波羅軍との交戦に時間を費やしている場合ではない。兵糧ならびに兵の補充の目途は立った。全軍やるべきことを直ぐにやろう。そのためには急いで赤坂城に兵糧を持って戻るのじゃ!」

おおーっ!と高らかに鬨(とき)の声を上げる楠木軍に、撤退という士気低下は見られません。
ここからの撤退を含む、今後の全ての行動が、天からの命令という四天王寺の奉書を使った正成の一計により、正季が恐れていたことも全て解消したわけです。

3.正成の心理戦

「なに?楠木軍が撤退しただと?」
渡辺橋を渡る700の兵の中で宇都宮公綱は斥候からの情報に呆れました。

「先日の高橋・隅田の敗戦の例もあります。また楠木正成の詭計(きけい)かも知れません。」
「楠木の小細工なぞ、公綱に何するものぞ。」

と豪語する宇都宮公綱ですが、高橋・隅田の前回の敗戦原因であるゲリラ戦法となっては大変とばかりに、渡辺橋から四天王寺のあたりまで大量の斥候を立て、綿密な偵察をしながら南へと進みました。

四天王寺の元々楠木軍が駐留していたという広場に700の兵を待機させ、読経を上げている大勢の僧の一人に、楠木軍の動静を聞いてみました。

⑤四天王寺近くのあべのハルカス
から赤坂城方面を臨む
「我々に先の渡辺橋の戦で戦死した敵味方のための供養の布施を頂きましたので、7日間の大般若経転読に営んでいること以外、楠木軍については退却したとしか知りません。」

とのこと。とりあえず公綱は700の兵をここ四天王寺に駐留させ、四方にまたぞろ斥候を沢山立て、撤退する楠木軍の情報を集めるよう指示を出すのでした。

 ◆ ◇ ◆ ◇

ところが夜中になると怪聞(かいぶん)が斥候から多く寄せられます。住吉の沖に、深夜何百艘もの舟団が見えるとか、生駒山中から、天狗のような声や、鬨の声がこだました等です。


いずれにせよ公綱にも、楠木軍がまだ遠くに退いていない感じがするのです。公綱は鎧の紐を解くことが出来ません。


そんな緊張した夜が何日か続いたある夜のこと。


「ややっ!」


なんと生駒山の遠くから浜は堺の方まで、無数の赤い蛍火(ほたるび)のような遠篝(とおがかり)が見えるのです。そして風に乗ってその広い範囲から鬨の声が聞こえます。


◆ ◇ ◆ ◇


私もこの話を聞いて、四天王寺から直ぐ近くにある「あべのハルカス」から望遠を効かせ、生駒山や赤坂城方向を写真で撮りました。(写真⑤高さ300mあるハルカスからでも、かなり生駒山は距離があるように感じます。


ただ、この当時の大阪は何も無くそれは寂しい平野部だったからこそ、遠くの篝火も、風に乗った天狗(?)や鬨の声も聞こえたのでしょうか?

⑥今ものどかな雰囲気の河内平野
南方向の山々は赤坂城と金剛山

これを表現したのが絵①なのです。四天王寺にいる宇都宮公綱が右上に見える遠篝を見ているのです。


◆ ◇ ◆ ◇

こんな夜が3日も続きました。
そして昼は、ばったり異状は見られず、河内平野には牛と農夫と高く白い雲を見るだけののどかな景色が広がっているだけなのです。(写真⑥

「出てこない敵には是非もない。宇都宮の面目は立ったも同然じゃ。ひとまず京へ引き上げよう。」

公綱は独り相撲のバカらしさに疲れを感じてきました。確かに彼はこの戦で歴史に名を遺す程有名になり、面目は京・六波羅探題でも認められました。

しかし、公綱はこれが楠木正成の心理的圧迫作戦だとは最後まで気が付きませんでした。

宇都宮公綱が経験したことを私なりに客観的に見て、正成がやったことを推測すると、赤坂城への兵糧の運搬なのではないかと考えています。それを鬨の声等、不気味に演出することで、荷駄を運ぶ楠木軍がいたずらに宇都宮公綱に襲われないようにしたのだと思います。

考察の具体的な意味を地図⑦を使って説明します。
⑦正成の四天王寺撤退・兵糧運搬想定経路

⑧楠木正成の千早城と赤坂城
確かに住吉沖の正成の舟団は、四天王寺で調達した兵糧を住吉あたりから沢山の舟に載せます。


当時の大和川は現在のそれとは流れるルートが違います。

現在の大和川は江戸期につくられたものであり、当時はそれこそ、現在の大阪の中心地を地図⑦のように複雑なルートで流れていたのです。

楠木家は、この大和川の水運を、河内の水源からコントロールしていたことから勢力を拡大した悪党集団でした。楠木正成が後醍醐天皇から下賜された紋・「菊水」の下半分の水の紋様は、この大和川の水運も表現しています。

ですので、天王寺辺りからの水運は、楠木正成らにとっては日常茶飯事のことなのです。
当時あった依羅(よきみ)池の辺りや、住吉大社の西側の浜に沢山の舟を持ってきて大量の兵糧を乗せ込んだのでしょう。そして、ぐるぐるっと大阪城北側の現在の大川の辺りから、比較的川幅の広い久宝寺川、菱江川経由で舟橋村まで運び、後は陸路で生駒山系麓を赤坂城まで運搬したものと想定されます。
これらは日中の行動は避け、なるべく夜間行動で、わざと松明(たいまつ)を煌々と点け、鬨の声をあげることで不気味さと緊張感を演出するのです。まるで四天王寺にいる宇都宮軍を中心に、ぐるっと周りを楠木軍が取り囲んでいるようにも見える配置です。

地図で見ると分かる通り、宇都宮公綱の四天王寺から兵糧運搬河川までは数kmも離れていません。
それでも現代の喧騒の中の大阪であれば、そんな肉声の鬨の声等は掻き消されますでしょうが、当時はかなり静かな夜だったのでしょうね。時々風に乗っては聞こえてくるのでしょう。

まあ、良く考えられた撤退・兵糧運搬ゲリラ戦法です。

⑨千早城模型
(千早赤阪村立郷土資料館蔵)
大きな兵糧を運搬するのは、敵に狙われやすく、狙われたら荷物がある分非常に不利です。なので、あえて日中は潜伏・夜中に兵糧運搬という得意のゲリラ的な活動を実施。ついでに松明を燃やしたり、鬨の声を上げたりして、公綱らには「何か変だぞ!」と緊張感を与え、疲れさせ、おいそれと手出しできない精神的緊張状況を持続させたのです。

これにより正成は、「大量の兵糧と兵を敵に襲われ失うということなく赤坂へ運搬する」ことと「宇都宮公綱らを精神的に降参させる」という二兎を得るのです。しかも宇都宮公綱の面子も立ててですよ。凄い軍略家だと思いませんか?

4.千早城

六波羅探題の鎌倉幕府軍を大阪の平地で散々に破った楠木正成ですが、これらは全て鎌倉幕府軍との前哨戦のようなものでした。

ただ、これらの戦での楠木正成の活躍により、当時の幕府の執権北条高時(たかとき)は改めて、敵・楠木正成の名前を認識し、西国の反幕府勢力の大きさに危機感を抱きました。

⑩登り切ったところにある千早城址碑
高時は、宇都宮公綱との心理戦の一か月後1332年9月には関東8ヶ国の大名からなる30万余騎の追討軍を京・六波羅探題へ派遣するのです。

一方、楠木正成も、当然、大阪は四天王寺でレジスタンス(反幕府軍)の狼煙(のろし)を上げたのですから、これら幕府の大軍が押し寄せてくるのは想定内です。

彼は、防衛力強化を主眼とした千早城を、下・上赤坂城の後詰めの城として築きます。(地図⑧)

千早城は後詰めというだけでなく、レジスタンスの他の拠点である金剛山、吉野城(護良親王が立てこもる)とも連絡がとりやすい位置にあります。(地図⑪も参照)

また千早城は、赤坂城以上に急峻な山の峰(みね)に建てられており、城の廻りはほぼ崖のような状態となっているため、鎌倉時代末期の城の造りとしては、第一級の堅固なものとなっているのです。(写真⑨)

筆者も登城してみましたが、階段を登ること1時間近く、峰にある城址まで辿り着くのにかなり急峻な坂を体験できます。当時は勿論、現在のような階段も無かったでしょうから、相当登りにくく堅固な城の守りだったのでしょう。(写真⑩)

5.幕府軍の赤坂・千早城攻め

幕府軍も楠木正成らレジスタンスも、ある意味ぶつかりあうには十分な準備ができました(?)

⑪幕府軍30万は3方に分けて
レジスタンス鎮圧に向かう
少なくとも、楠木正成は、前回の笠置山から後醍醐天皇側へ付いてくれと頼まれ、それから1か月以内に急ごしらえの赤坂城で戦を開始し、開始後1か月で落城したのとは準備の度合いが違います。


しかし幕府も30万の討伐軍、前回の笠置山・赤坂城攻めの4倍です。

これを3方に分けて進軍させます。(図⑪)
守る楠木軍が2千程度、護良親王の吉野城も千程度です。

この圧倒的な幕府軍の兵力に対し、正成は言います。

「勝つ必要はない。負けなければいいのだ。」


この言葉は、前回の渡辺橋の戦の前に正成が弟・正季に言っていた言葉そのものです。いつも「勝つ必要はない」と言う正成ですが、これは彼の戦術の話を言っているのではなくて、深謀遠慮(しんぼうえんりょ)の戦略を彼が持っているからなのです。

では、この千早城での戦いぶりを次回お話したいと思います。

長文ご精読ありがとうございました。


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【四天王寺】〒543-0051 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目1−11−18
【千早城】〒585-0051 大阪府南河内郡千早赤阪村千早
【金剛山】〒639-2336 奈良県御所市高天
【吉野城(金峯山寺 蔵王堂周辺)】〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山
【六波羅探題址】〒605-0842 京都府京都市東山区三盛町162