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月曜日

大楠公⑦ ~千早城~


①赤坂城登城道

時は1333年2月、楠木正成の本拠、赤坂・千早城を中心とする金剛山麓の城塞群で、鎌倉幕府軍との戦いが始まりました。(写真①)
これまでお話した正成の戦(いくさ)は、全てこの戦の前哨戦。この赤坂・千早城籠城作戦こそが、正成の反幕府活動・レジスタンス活動の本命なのです。

ここまでの楠木正成の戦の経緯は、是非拙著Blog大楠公①~⑥をご笑覧ください。

では早速、この千早城籠城戦の経緯を一緒に見ていきましょう。

1.強化された籠城戦

この話の1年半前(1331年9月)に笠置山で後醍醐天皇に謁見した正成。(大楠公②)その後、急ぎ赤坂城に戻り、城の補強をするも兵糧の調達が間に合わず、寡兵により鎌倉幕府の大軍と互角に戦いながらも、約1か月半で正成自ら「長期戦は無理!」とばかりに城に火を掛けているのです。(大楠公③

今回はその時の反省から、兵糧は四天王寺に進出して大量に確保しました。(大楠公⑤)また金剛山や吉野城方面との連絡がしやすいように、後詰めの城として千早城を造り、正成はまるでそれが旗城と言わんばかりに、そこに入城します。(大楠公⑥
赤坂城は弟の正季(まさすえ)に任せます。(写真②)
②赤坂城本丸(上赤坂城)
2.断水の計

③赤坂城落城までの段取り
ところが2月に始まったこの戦、なんと赤坂城は1か月弱で、また落ちてしまうのです。

鎌倉幕府軍の中に、冷静に赤坂城を落すための分析をする人がいました。

「赤坂城も千早城も、前回の時のように幕府の大軍で囲んで兵糧攻めにしても、難波に進出して大量の兵糧を調達したのだから、そう簡単には落ちないだろう。それよりも城への水の手を切る方法を考えた方が早い。」

という一武将の案が採用され、地図③で示される南側からの水の手が幕府軍によって切られます。

すると、幕府軍が企図した通り、赤坂城は途端に渇き、楠木正季らは千早城へ脱出。もう1人の後醍醐天皇の勇将・平野将監(しょうげん)らの将兵282人は幕府軍に降伏しました。

めずらしく幕府軍が成功を収めた「断水の計」。赤坂城は前回よりも早く2月下旬には落城します。(写真④)

平野将監以下、降伏した282人の将兵は六波羅へ連行された後、六条河原にて全員斬首、それらのおびただしい首級は獄門に架けられたと太平記には伝えられています。

これでレジスタンスは戦意を失うだろうとの意図が六波羅探題(幕府側)にはあったのですが、完全に逆効果でした。
千早城などに立てこもるレジスタンスは獅子の如く怒るのです。
と同時に、幕府軍に降伏しても決して生き延びることは無い、ならば死してもこの千早城を守り抜こうと、楠木軍らのレジスタンスは決意を新たにするのです。

④赤坂城付近の水の手
かえるやおたまがいます
見せしめにと考えた幕府軍の浅知恵が、却ってこの後かたくなに抵抗するレジスタンスの強靭な精神構造を作り出してしまったのです。

3.護良(もりよし)親王参陣

この赤坂城が落城し、弟・正季は千早城に避難しますが、もう一方、強いレジスタンスの同志が、この千早城に避難してきます。

「大塔(おおとう)の宮」こと護良親王です。

六波羅探題へ一度は終結した幕府軍は、楠木正成の千早・赤坂城を攻めるのと並行して、護良親王が立て籠る吉野方面へも兵を出していることは前回のBlogの最後の方でお話しました。

吉野の護良親王たちも激しく抵抗します。しかし、幾ら護良親王が宮方にしては珍しく武勇に長けたと人物であっても、楠木正成程のゲリラ戦等、戦術に長けていた訳ではなかったようです。

「もはやここまで!」と護良親王も一時は、吉野に散る自分の運命を受け入れようとしました。

ところが、笠置山から十津川へ逃げてきた当初から一緒に戦ってきた村上彦四郎義光という武将が、護良親王を逃がすため、自ら代わりとなったのです。(絵⑤、写真⑥
⑤吉野で護良親王の代わりとなる村上彦四郎
※「キミノ名ヲ。(4)」より
⑥左:吉野での護良親王(大塔宮)陣所
右:護良親王の身代わりになった村上彦四郎の墓所

村上彦四郎の身代わりにより、吉野を脱出することができた護良親王は、楠木正成が立て籠る千早城へと落ち延びていくのです。

4.幕府軍の失敗・二度目の断水の計

吉野を落した幕府軍は、赤坂城を攻める軍と合流し増々大軍となりました。また赤坂城も先程述べました「断水の計」で早々に落ちたので、俄然幕府軍は勢いづいていくのです。

⑦鎌倉・鶴岡八幡宮の源平池に架かる「赤橋」
彼らは赤坂城と同様に「断水の計」をもってして千早城を落そうとします。ここに名越時見(なごえ ときみ)という北条一族の一人の武将が登場します。

◆ ◇ ◆ ◇
脱線しますが、太平記で有名な赤橋守時は北条守時、この名越時見も北条時見なのです。北条家では、一番偉い得宗家に次ぐ家格なのですが、では赤橋や名越などの姓は何か?というと鎌倉の住んでいる地名にあやかっています。ご存知だと思いますが、「赤橋」は鶴岡八幡宮の源平池に掛かる「橋が赤い」ので赤橋(写真⑦)

名越は、鶴岡八幡宮から由比ガ浜方面へ南に段葛(だんかずら)に沿って歩いて行く途中で横須賀線の線路とクロスしますが、その辺りから線路沿いにそって逗子方向の数百mの地域が「名越」であり、そこに北条一族の一部が住んでいたからなのです。
◆ ◇ ◆ ◇

さて、話を戻しますが、その名越時見は、千早城兵が下りてきて水を汲んでいくという千早城北側の北谷川に3000の兵で待ち伏せます。ところが、いつまで経っても千早城から人が降りてきて水を汲む気配がありません。(360°写真⑧)

⑧千早城北側の北谷川
 登っていく人の右側の急斜面の上が千早城

「何故だ?夜陰に紛れて汲みにきているのかもしれない」

と夜間は緊張しながら水辺の見張りを続ける名越軍でしたが、待ちぼうけが長引いて来ると段々気が緩んできます。もしかしたら楠木軍が汲みにくる場所が違うのでは?等とも名越軍の見張り等は考え始めます。

⑨急斜面に付けられた階段を登って千早城へ登城します
「よし、今夜だ!」

と言ったのは楠木正成。夜間見張っている名越軍の見張り兵を夜陰に紛れて楠木軍は襲うのです。名越軍は気が緩んで殆ど居眠り状態だったので、この楠木軍の夜襲に慌てふためき、旗指物や大幕をその場に残したまま、慌てて幕府軍本陣まで逃げるのです。

翌日、楠木軍は、城の櫓(やぐら)上に名越軍の旗指物や家紋入りの大幕を並べ、大きな声で

「流石、名越は北条一族、平家の末裔やな。平家は富士川の合戦で、夜中水鳥が飛び立っただけで夜襲と勘違いし、旗指物や大幕等全部残して逃げ出した聞くが、昨日の北谷川の合戦も同じやで!」

と詰りました。これを聞いた名越時見は

⑩逆茂木(さかもぎ)
「うぬぬ、楠木軍め!つけあがりおって!北条の名家・名越家をコケにするとは許せん!名越軍だけでも突撃を行う!」

と決死の思いで、千早城への突撃を敢行しました。楠木軍が作った逆茂木(写真⑩参照)を破壊し、破竹の勢いで千早城の崖に張り付き登り始めたのです。(絵⑪

読者の方々はお分かりだと思いますが、崖に貼り付いた名越軍も嫌な予感はしたでしょうね。

そう、この嫌な予感を裏切ることなく、楠木軍は千早城の壁に落下用に横向きに縄で止めてあった大木10本の縄を次々と切っていったのです。

この大木落下により名越軍400~500の兵が圧死。また大木を避けようとする名越軍にも楠木軍は城の四方八方から矢を射掛けます。
⑪千早城は常に大木と岩が降る(笑)
(湊川神社所蔵絵)
今までの籠城戦の経験から楠木軍が学んだことがあります。

それは、開府以来、馬上での武器活用に勤しんできた鎌倉武士に対抗するには、馬の使えない山岳戦で、徒歩で弓矢を大いに活用すべきだということです。

楠木正成軍はこの弓矢を最重要視し、近隣農家から集めたにわか兵士に至るまで、弓を持たせ、大量の矢も河内の農民も動員し製作。攻めて来た幕府軍の精錬された鏃(やじり)は付いていない矢とは云え、先は充分尖らせたため、殺傷能力は当たれば左程変わらない矢を大量に作ることで、雨あられのように幕府軍に矢を降らせたことが、一番の勝因だったのではないかと推測します。

いずれにせよ、大木落下による圧死と、大量の矢の餌食となった千早城崖下の名越軍。

実は楠木正成は赤坂城が水の手を切られて落城の話を聞く前後から、大木をくり抜き300もの木船に水を蓄えていたのでした。これらは雨が降るとまた溜まるものなので、水辺に出て行かなくても城内の水は不足しなかったのです。それを知らずに水辺で待ち構えていた名越軍はまんまと正成の奇策に乗ってしまったという訳です。

5.わら人形作戦

⑫左:水分にある藁人形
右:千早城にある藁人形
以後幕府軍は、千早城を包囲し兵糧攻めにすることにしました。するとこの数万の兵は時間を持てあまし、連歌の会や碁、双六、茶会等思い思いをして過ごすようになったのです。

これに対し、また楠木正成は妙案を考えつきました。

私は水分(みくまり)の正成の生誕地や千早城を見て廻った時、写真⑫のような案山子のようなものが、沢山置いてあるのを不思議に思ったものです。(写真⑫

実は、この案山子のようなものこそが、千早城で正成が思いついた妙案だったのです。

というのは、幕府軍が緩み始めると、籠城する楠木軍も退屈しはじめました。少しでも時間があると敵に一泡吹かせる戦術を思いつくのが正成の良い癖ですから、退屈は正成の味方です(笑)。

⑬千早城内で藁人形を作る楠木軍
(楠妣庵観音寺蔵軍、土佐光成筆
「おいっ、おまえら、暇だろう?藁(わら)人形でも作っておけ!」

と、正成は城兵たちに命令します。

まあ当時籠城兵のかなりの割合が半農の郷士です。藁人形や案山子の製作は得意な訳です。たちまち数十体程の藁人形を作り上げます。(絵⑬

出来た藁人形に、千早城崖下で大木落下により圧死した武者や他戦死した兵の鎧兜を着せるのです。

そしてそれを夜の間に千早城の崖下に持って行き、整然と数十体を設置しました。

朝方、まだ靄が千早城を覆っている時に、正成は500の兵を千早城の崖下、藁人形が設置してある場所に出動させます。

わぁーーーー!
と500の兵に鬨(とき)の声を上げさせます。

ノンビリと寝ていた幕府軍は、

「敵襲だ!敵襲だ!楠木軍が決死の覚悟で攻めて来た!」

と慌て逆襲体制を敷きます。早暁の靄で、良くは見えませんが、崖下に武装した兵士達が弓を構えて立っています。

「やはり楠木軍、数は少ない!城を出てくれればこちらのもの。全軍かかれーっ!」

⑭「なんじゃ?わら人形じゃないか!」
と幕府軍の気分の私(笑)
と幕府軍側は数千の圧倒的な兵数で、その楠木軍へ襲い掛かるのです。
楠木軍500は矢を幕府軍へ射掛けながら、徐々に千早城へ引いて行きます。押せ押せの幕府軍が、崖下に辿り着き、兵士らしき姿のものに近づいてみると

「なんじゃあ?!こりゃ。人形じゃないか!」(写真⑭

と叫び終わるやいなや、崖から雨あられのように大木と岩が降って来たのです。(絵⑪参照

あっという間に300の幕府軍は即死、慌てる幕府軍へ今度は千早城から矢が雨のように降りそそぎます。結局、幕府軍は千人近い死傷者を出しました。

対して楠木軍は藁人形30体以外の死傷者がほとんど居ないという完全勝利でした

6.「長梯子の計」vs「火計」
⑮京の大工に作らせた梯子?(橋?)で千早城へ攻め入る幕府軍
(湊川神社蔵、歌川芳員画)

もう1つ千早城の奇策の話があります。

「楠木軍が暇に任せて藁人形なぞを作っていたのだから、我々は本格的な兵器を作ろう!」
と幕府軍は連歌ばかりやっている上層部以外の現場兵士たちは考えていました。

「そうだ、橋を作ろう。楠木軍は素人が作る藁人形だったが、我々は京から本職の橋職人を呼んで、しっかりとした橋を作って千早城の北側の深い谷の上を渡せば、難なく城内に突撃できるのではないか?」

と話し合っていました。写真⑧の谷のことです。この北側の金剛山への登山道は谷が深く、その一方の峰が千早城の本丸です。(写真⑧)

これが現実になるのです。
1333年3月初旬、千早城を兵糧攻めとして、遠巻きにして手を出しあぐねている幕府軍に対して、鎌倉から厳しい下知が届きます。

「それだけの軍勢を持ってして、戦(いくさ)もせずに、只、無為に時間を過ごしているとは何事か?直ぐに攻撃を開始せよ!」

本部と現場が乖離するのは良くあること。現場指揮官の将士たちは「鎌倉はこの千早城攻城の難しさが分かっていない」と不満を言いますが、かねてより、考えていた武士たちがこちらの峰から千早城本丸付近へ長梯子による橋を架けて攻め入る案を献策します。

「よし!それで行こう!」

早速、京から大工500人が呼び寄せられ、付近の木材を伐採して長梯子の製作が始まりました。

そしてとうとう長さ約70m、幅約5mの立派な長梯子が出来上がるのです

⑯長梯子を架けた場所の推定
(Googleマップ加工)
出来上がった立派な長梯子を、自陣の峰から、千早城本丸へと架け、幕府軍6000は「それ行け!」とばかりに殺到します。(絵⑮

ところが楠木軍は、付近の竹を大量に伐採して製作した水鉄砲を使い、この長梯子に勢いよく油を掛けるのです。

そして、薪のような燃えやすいものと一緒に松明を長梯子に投げ込みます。

城へ突撃を開始した最初の兵士は、この状況を見て引き返そうとしますが、何せ6000の軍ですので、押すな押すなの状況で後から後から長梯子へ繰り出してきます。鎧に火が付いた最前列の兵士が橋から飛び降りましたが、高さがあるので即死。他、後ろに逃げようとした火のついた兵士らは火まみれ・油まみれなので、後続の兵士らに火を移しまくる事態となるのです。

そうこうするうちに、火は燃え広がり、長梯子は真ん中から折れ、橋の上の千以上の兵士が猛火の中転落して死亡という痛ましい結果となったのです。

実はこの話、長梯子を架けた場所等はまだ特定されていないようです。私も現場に行って実際に見てみましたが、どうやら地図⑯に示した辺りが一番それらしく感じられました

⑰楠木正儀の墓
木立で分かりづらいですが、後に
千早城本丸の峰が見えています
千早城の本丸に対抗する峰には、現在、楠木正儀(まさのり:正成の三男)のお墓があるのですが、そこから千早城の本丸のある峰まで直線で約70m弱程度です。(写真⑰

なぜここに正成の三男の墓があるのかも良く分かりませんが、土地的にはこの場所辺り以外は100m以上の梯子を渡さないと無理な場所ばかりです。

かなり誇張された部分のある「長梯子の計」vs「火計」の話でしたが、実行はされたのだと思います。そして、またもや正成の「火計」の勝ちですね。

7.新田義貞

さて、数々の「計」を幕府軍、楠木軍ともに仕掛けますが、戦は長引きます。しかし、難波にまで進出して兵糧を確保していた楠木軍は長引く戦に強い体質を作り上げているのです。そして、この長引く戦の中で、幕府軍には足並みの乱れが見られ始めます。

その乱れの初端、病気を理由に千早城包囲網から離脱した武将・新田義貞がいます。

そして病気の理由で今の栃木県の自領に戻った義貞が、鎌倉に向けて挙兵をするのは有名な話で、その転身については色々な説があります。

安部龍太郎氏の小説では、吉野から千早城に落ちて来た護良親王と義貞が、楠木正成を介在して運命的な謁見を千早城本丸でする説が書かれています。(360°写真⑯)
⑯千早城本丸 意外と狭い

この時期以降の、足利尊氏に対抗する、護良親王と新田義貞、楠木正成らの連帯の強さを考えると、この千早城でその3人が会って話をしても決しておかしくは無いように思えます。

長くなりましたので、新田義貞のその後の行動等については、次回詳しく描いていきたいと思います。ご精読ありがとうございました。


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土曜日

首洗井戸① ~護良親王の逃亡劇~

【鎌倉宮 新嘗祭に合わせて読みたい記事】

彼是40年以上昔のことになりますが、当時私は入学したばかりの小学校に2~3km歩いて通っていました。

その途中に、鬱蒼とした森の脇を小川が流れている場所がありました。日中もジメジメとした暗い場所に石碑と井形に石が組まれた枯れ井戸があり、石碑には「首洗井戸」と書いてありました。

①首洗い井戸石碑
学校の行き帰り、皆で「あそこで昔、武士の切った首が血で汚れているから洗ったんだって。怖いね。」と話をしながら、通学したのを覚えております。

同時に、当時会社員だった親父が、帰宅すると「もう首を切られる!」と(冗談で)言うので、昔も今も大人は間違いを犯すと首を切られるのだ、自分は大人でなくて良かった。間違いなら毎日沢山犯すから。とも思ったものです。
それから40年後の自分の方が毎日犯す間違いの量は多いのではないかと...^_^;

さて、閑話休題。

今回、その首洗い井戸に行ってみましたので、報告します。(写真①)

1.首洗井戸

この井戸は護良親王の首を洗ったと言い伝えられる井戸です。流石に通学していた小学校1,2年生の頃は、名前までは知りませんでしたが。

護良親王は、建武の新政で活躍した皇子です。
建武の新政と言えば、後醍醐天皇ですが、護良親王はその皇子に当ります。

楠正成や足利尊氏、新田義貞らと、当時の鎌倉幕府を倒した功労者の一人です。これから、このシリーズで少しづつ、この皇子についてお話していきたいと思います。
この井戸の周囲の環境は40年前と劇的に変わってしまいました。冒頭書いた鬱蒼とした森は全て開拓され、新しく綺麗な住宅街に変わっていました。
②首洗い井戸本体

山を切り崩したのでしょうか。横を流れていた小川も消失して、明るい住宅街の三叉路にある石碑のようになっていました。(写真①参照)

ただ、石碑は裏に廻ってみると昭和45年建立とあるので、私が通学していた頃に目にしていた石碑はこれなのでしょう。また確かに井戸もこのようなものだったと記憶しております。(写真②)

周囲には大変綺麗なバラを沢山庭に咲かせているお宅もあり、私が小学生の頃の原風景は、この場所にはありませんでした。

2.護良親王の首

高々、40年程度前の環境の違いで驚いている私ですが、ここで首を洗ったのは700年前です。ところが、なんとその時洗った首があるのです。

③洗った首
右の写真です。(写真③)
700年前とは思えない生々しさですね。

小学生の頃、この写真を見ていたら、怖くて首洗井戸の脇を通っての通学なんて出来ませんでしたよ。

では、どうしてこの親王の首は、ここで洗われたのか、またどうしてそんな形となって現存するのか、その辺りを想像も交えながら、調査を進めました。

3.護良親王とは

先程も申し上げたように、護良親王は、建武の新政で、大活躍した皇子です。

日本の有史以来の皇室で、これほどアクティブに時の権力に挑んで行った皇子も珍しいです。

日本の皇室は、西洋の王様が軍を引き連れて勇猛に戦うのに比べると、どちらかというと御簾の奥から顔も出さずに、裏から人事を動かし、政権維持をするというイメージが強いと思います。

ただ、この護良親王は、西洋の王子、スターウォーズで言えば、ルークスカイウォーカー的なキャラクターでした。

彼としては、武士の世の中ということで、権威失墜した皇室を復興するという歴史的な偉業を、自分達皇族が引っ張っていくという意識が強かったのでしょう。
④護良親王と雛鶴姫

兎に角、八面六臂の活躍で、鎌倉幕府を倒し、天皇主権の理想を一時的ではありますが、打ち建てたヒーローなのです。(絵④)

そんなヒーローが、何故マイナーな、横浜市戸塚区の首洗井戸と関係したのでしょうか。

4.護良親王の活躍

さて、鎌倉幕府を倒して武士の世を終わらせ、平安時代のような天皇家に主権を奪回しようとする建武の新政の立役者、後醍醐天皇も、当初の倒幕計画は順風満帆どころか、失敗の連続でした。

京都の笠置山で挙兵するも、あっという間に落城、同時に天皇の支援要請で、挙兵していた楠正成も、大阪の千早城が落城して行方不明と、反乱軍は鎮圧の一途を辿っていました。

護良親王は、当時20代前半で比叡山の天台座主、今で言うと一流企業経営者というようなポジションでした。マーク・ザッカーバーグも顔負けな若手です。

ところが経文を勉強するよりは、比叡山にて武芸を磨いていたというのだから、相当の変わり者と周囲は見ていたでしょう。

というかそういう我儘が許されたのも、落ちぶれていたとは言え、流石は天皇家という感じがします。

⑤後醍醐天皇
彼は、父、後醍醐天皇が捉えられたと知り、一計を持って救出作戦を展開します。

後醍醐天皇の寵臣を、影武者として、移動可能な御簾の中に入れ、「ほれ、天皇健在!討幕軍は決起せよ!」とばかりに旗揚げしますと、また反幕府軍が集結してきます。このドサクサに紛れて、後醍醐天皇は京都を脱出する計画です。(絵⑤)

6千にまで増えたこの反乱軍、一時は幕府軍を撃退しました。流石親王!

ところが大失態を犯しました。移動式御簾が風に煽られ、御簾の中の人物が後醍醐天皇ではないことがバレてしまいました。

「ウソつき!」と罵倒されたかどうかは分かりませんが、反乱軍は大混乱、幕府軍も再起して、あっという間に護良親王は幕府軍に追われる運命になりました。

5.般若寺での逃避行

さて、護良親王は、奈良のコスモスで有名な般若寺という場所まで逃げて来ました。(写真⑥

幕府軍も、今回の首謀者であり、かつ今後の倒幕の主力となるであろう、護良親王を捕まえようと懸命に追いかけて来ます。
⑥般若寺

ここで護良親王は、巧みな心理作戦で、ピンチを切り抜ける有名な話がありますので、ご存じの方多いでしょうが、改めてご紹介します。戦前の尋常小学校の教科書に載っていた話です。私も小3で読みました。

寺に逃げ込んて、辺りを見回した護良親王は、隠れるものがあまり無い伽藍等にがっかりします。

「これまでか!」と言ったかどうかは定かではありませんが、その時、伽藍の隅っこにある3つの経櫃が目に入りました。(写真⑦)

2つの経櫃は、しっかりと蓋がしてありましたが、1つだけ蓋が開け放してあり、中の経文が見えています。

「よし!」

と言って、親王は、わざと蓋がしていない経櫃の中に飛び込み、経文を頭から被り、隠れます。

直ぐに追手数人が、この伽藍に飛び込み、仏像の隙間やら仏具入れ等に、親王が居ないか探し回り始めました。

案の定、3つの経櫃も見つかります。

追手は、当然蓋のしてある2つの経櫃を開け、中を調査します。

「見えないなあ!」

と言って、経櫃を元に戻すと、伽藍を出て行って寺の他の場所を探し回り始めました。

逃げる側の心理として、蓋の空いた経櫃に潜むとは考えづらく、経文をかき分け捜査するのは時間の無駄と考えたようです。

さすが親王頭良いです!

⑦経櫃
親王はそれで有頂天になるような軽薄な人物ではなく、彼らが他の場所を探している間に、既に捜査済みの蓋のしてある経櫃に入りなおします。

これも予期した通り、暫くすると追手の一部は、この伽藍に戻ってきて、先ほどの蓋の空いていた方の経櫃も、中の経文を取り出して調べ始めました。

「やっぱり、見えないなあ」 
「やはり、この寺に逃げ込んだのでは無かったのかもしれない。先を急ごう!」

ということで、親王のこの所作が、追手をこの寺を諦めさせる締めの一手となりました。

ただ、この逸話、実は元々経櫃3つとも蓋がされていて、その中の一つに身を潜まそうとしたようです。

親王が、体を櫃の中に入れ、余った経文を自分の上に掛けていたら、自分の体の分だけ経文の嵩が高くなり、蓋が閉まらない。

「うーん、うん」と蓋を閉めようと頑張っていたのですが、追手が来て時間切れになったので、仕方無く蓋を開いたままにした と考えるのが自然のようです。

それが後にこのような言い伝えになったのでしょう。

さて、この後、後醍醐天皇は、幕府によって隠岐の島に流されますが、大脱出します。

反乱軍を組織し、鎌倉幕府から天皇の追討に向かった足利高氏(後、尊氏)を寝返らせ、鎌倉幕府の京都派出所である六波羅探題の攻略に成功します。

さらに、東国で挙兵した新田義貞が、鎌倉幕府を陥落させるという、スターウォーズ張りの、大スペクタクルが展開されるのです。

この後、護良親王がどうなるのか、シリーズ②で書きたいと思います。

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