マイナー・史跡巡り: #花山天皇 -->
ラベル #花山天皇 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #花山天皇 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

金曜日

北斗七星を追え④ ~ハレー彗星と紫式部 現る~

 前回までのあらすじ

安倍晴明が常陸国(現・茨城県)の出身であることが簠簋内伝に書かれている伝承をご紹介しました。出身は諸説あるようですが、京の大学で天文学を学び、陰陽師として高名となった晴明。式神等、かなり怪しい技を使う伝承が生まれると同時に、当時の若き天皇・花山天皇を介した藤原北家の陰謀の渦中にも、エピソードを残しています。

①山科の元慶寺

藤原道長の父・兼家は、自分の外孫(娘の孫)である一条天皇を即位させ、権力を掌握したいと強く願っていました。そのためには若干19歳の花山天皇をどう退位させるか。これが課題です。しかしチャンス到来。花山天皇は愛する忯子が亡くなると、失望のあまり出家すると言い出すのです。これは一時の感情でしかないと兼家含め、周囲の貴族は皆分かりますが、出家頂ければ、一条天皇の即位が可能です。そこで兼家は息子たちも総動員し、なんとしても花山天皇のこの一時の気の迷いに付け込んで出家させてしまおうとします。

息子・道兼を花山天皇の愚痴聞き役に付け、道兼自ら「自分も出家するから、これから山科の元慶寺で一緒に出家しましょう!」と誘い、三種の神器を一条天皇の邸宅に移し、2人で山科へ向かうのです。世にいう「寛和の変」です。(写真①)

丁度、安倍晴明の屋敷前を通りかかると、邸内から晴明の声が聞こえます。

「帝が退位すべきとの兆候が天体活動に見られた。これを奏上して来なさい。式神!」

今回は、この続きからです。

1.安倍晴明が観察していた天体活動とは?

②歳星(木星)
安倍晴明が見ていた事象は、歳星(木星)と氐宿(ていしゅく)の距星(てんびん座アルファ星)が 0.5度まで接近していたことだそうです。古来中国では、木星はその天空上の位置によりその年(歳)の名前が決められたことから、歳星と言われたようです。またその方位によっては大きな災いが地上に起こると陰陽道では考えられていたため、陰陽師たちは、この歳星の動静を常に意識して観測していたようです。(写真②)

特に、この歳星の0.7度以内に他の星が接近することを「犯」と言い、凶事とされました。ことに宿星(中国の星座)の距星(その星座の中の代表する星)が接近することは、すなわち天皇は逃げなければならない(退位しなければならない)と判じたようです。

2.晴明クーデター加担説

実は、この「犯」は陰陽師ならかなり以前から天体の動きで予測できることから、「安倍晴明は、この花山天皇の退位(出家)クーデターに加担していたのではないか?」との考察をする人もいます。

ちょっと話が横道に逸れますが、安倍晴明は、藤原道長とは仲が良く、後に道長が、甥の伊周と、権力闘争となった時に、こんなエピソードもあるくらいです。

◆ ◇ ◆ ◇

③道満の呪物を見破る安倍晴明
(晴明神社パネルより)
藤原伊周が、晴明の陰陽師としてのライバル、芦屋道満(どうまん)に命じて、路に呪物を埋め、呪詛を藤原道長にかけようとしました。ところが、それを道長が飼っていた白犬が見つけて吠え、道長の裾を咥えて引き留めようとしました。

「何かある!」と思った道長は、早速使いをやって安倍晴明を呼んでくると

「この先の路に呪物が埋めてあります。」と晴明。

その道を掘ると、素焼きの土器を十文字にからげた呪物が出てきました。(絵③)

「この呪術を使うのは道満に違いありません。」と晴明。

道長は、これにより道満を播磨国(兵庫県)に流したという話です。

伊周までに類は及ばなかったようですが、呪詛までしようという伊周と道長の確執は延々と続きます。いずれにせよ、晴明は道長とはかなり懇意だったようです。

◆ ◇ ◆ ◇

話を元に戻します。既に数週間前からこの「犯」が起きることが分かっていた安倍晴明は、藤原道長にこの事を話します。道長は

「晴明殿、その件は、実際に「犯」が起こるまで、誰にも黙っていて頂けないか。」

ということで、道長は早速、父・兼家と兄・道兼にこの話をします。

④元慶寺にある花山天皇
の御落飾(ご剃髪)記念碑
「それは使えるな。」と父・兼家。兼家は道兼に

「道兼、花山天皇に、「犯」が起きる当日、出家するように勧めよ。出家しないと民の安寧を崩す事態が起きるという陰陽道の話もせよ。」

「はっ、ただ私は陰陽師ではないので、どこがどう「犯」が起きているのかと帝に問われても、答えられる自信がありませぬ。帝と出家に向かう途中、晴明の屋敷の前を通るので、晴明から一言『帝が退位すべき兆候が天体に見える』と叫んでいただけまいか。さすれば花山天皇も、都第一の陰陽師・安倍晴明が言うのであるから間違いないと決意を固くされるでしょう。道長、晴明殿に頼んでおいて頂けぬか。」

「分かりました。」

ということで、前回のブログにも書きました通り、当日、晴明は道兼と花山天皇が屋敷の前を通りかかると

「帝が退位すべきとの兆候が天体活動に見られた。これを奏上して来なさい。式神!」

と言うのです。これにより花山天皇の出家の決意が固まったということも前回描いた通りです。

なので、安倍晴明は仲の良い道長の依頼により、このクーデターの片棒を担いだのではないかという説です。

2.兼家の謀略成功!

さて、この晴明の一言で、出家の決心ができた花山天皇。山科の元慶寺で髪を剃り落とし出家します。(写真④、⑤)

⑤花山天皇の剃髪を埋めたところに
目印として大岩を置いた?(元慶寺)

「道兼!どうした?お前も一緒に出家してくれるとさっき清涼殿で申したろう?」

と剃髪した頭を撫でながら、道兼に催促します。

「すみません。流石に出家して、もう家族とも縁を切るとなると、最後に父・兼家には最後の別れの言葉を述べて参ります。」

「えっ?・・・ちょっと待て!」

⑥藤原北家系図
※前回のものに道隆の息子・伊周や娘・定子を追記

と花山帝から花山院となったばかりの院の制止も振り切って、元慶寺を飛び出す道兼。その足でスタコラサッサと父・兼家の屋敷に飛び込むと

「父上!大成功でございます!」

「なに!よし、兼ねての手筈通りに進めよ。道長は関白・頼忠のところへ走り、花山帝が出家なさったことを伝えよ。」

「道綱は、既に懐仁親王の舎へ運び込んである三種の神器をもって、直ぐに践祚の儀(懐仁親王の天皇即位の前段)に移れ!」

と手際良く指示を出します。

懐仁親王は一条天皇として即位。また道長が頼忠へ花山天皇の出家を伝えると、これを止めることが出来なかった頼忠も責任を感じ関白の職を辞し、新たな摂関政治の主体は兼家に移るのです。そしてこの後に起きる長徳の変と併せ、この寛和の変の2つで藤原道長が「望月の欠けたることもなし」と詠む全盛がきます。

このクーデター話の最後に書きました道兼の出家の件ですが、彼は花山天皇と約束した「連れ出家」、毛頭する気はありません。最初から騙しですよ。花山天皇(院)は後に、騙されたことを知って大変悔しがるのですが、まだまだ花山院は、この後も「長徳の変」という藤原北家の権力闘争に翻弄される運命が待っていることを知りません。

3.当時の天文的事実の政治に与える影響

安倍晴明が天文観察という観点で「犯」についての事実を基に、道長等が動き、このクーデターを成功させ、ついには藤原道長の全盛期に辿り着くとなると、この天体観測による歴史的影響力は計り知れないものがありますね。

今の科学技術からすれば、天体の動きが政治的な施策に具体的な影響を与えるということは少々滑稽に感じるかもしれませんが、当時は本気で吉兆が動く兆しとして大変重要視されていました。

一番分かりやすい例が、このクーデターの3年後、989年に起こります。

⑦939年(永祚元年)のハレー彗星接近想像図
ハレ―彗星の出現です。しかも、この年のハレー彗星は太陽と地球との間に入り、なんと彗星の尾は地球にかかったのではないかと、現代の天文学者は分析しています。

ドラえもんの漫画でも取り上げられたので、皆さんもご存じと思いますが、1910年(明治43年)にもハレー彗星が地球に接近しました。この時も、地球に彗星の尾が掛かるということで、大騒ぎになりました。(のび太のご先祖が亡くなるかもしれないと慌ててタイムマシーンでドラえもんとのび太が救出に向かいます。)

「ハレー彗星の尾が地球の空気を汚染する」と。ただ、流石に1910年は科学技術が進んでいるので、もう少し話はまともになり、「彗星の尾に含まれるシアン等の有毒ガスによって、彗星の尾が地球にさしかかる5分間だけ大気が汚染される」という学説がまことしやかに噂されるようになり、当時、5分間呼吸をしない練習や、浮き輪が売れて中に入れた空気を吸うことで難を逃れようとした等、やはり色々な流言があったようです。実際は何も起きませんでしたが。。。(絵⑧)

⑧当時は浮き輪やチューブで5分間の
難を逃れようという噂もあった

1910年当時でもこの有様ですから、989年に同じような状況であると当時の日本人が認識できたら、それこそ日本中の神社仏閣を上げて、元寇来襲時以上の加持祈祷がなされたかもしれません(笑)。

実際に、そこまでせずに済んだのは、彗星の尾が地球に当たるという予測ができるほどに科学が進んでなかったこと(そもそも地球という概念がきちんと認識されていたかどうかも怪しい)が大きかったと思います。

ただ、「この彗星接近は、通常の接近と違い大きな忌事になる」と当時の陰陽師たちは予測したのでしょう。彗星が現れた翌月、元号を「永祚」(天からくだされる幸福という意味)に改変しています。現代では考えられませんね。

逆に、当時は自然災害から身を護るには「祈り」しかなかったのでしょう。なので、災難が来そうな予感を抑え、「天から幸福が来る!」と逆説的な元号に変えることが最大の防衛手段だったのかもしれません。浮き輪とどちらが有用でしょうか。

残念ながら、この件に関する史料等は殆ど無く、伝承としても安倍晴明ら陰陽師の活動等は残っていないようです。ただ、天文観測を基本とする陰陽師を束ねる68歳の彼が、この改元の検討に係わっていると考える方が自然でしょう。

勿論、現代に比べて科学的論拠の少ない時代、「物忌み」や「憑依」等と同じように超自然現象的に扱われた事は多かったでしょう。ただ、天文観測という1点において、解釈が科学的でなくても、動きを見る観察能力は科学的であった陰陽道だったと思います。式神とか、呪術のような「あやかし」のように見たのは、逆にこれらの学問を理解できない当時の人たちが作り上げた虚構であり、陰陽道を勉強し、世間の役に立てたいとした人たち自体は、誠実に真理探究に取り組んでいたものと思いたいですね。

4.競べ弓(弓争い)

989年の彗星大接近、これが忌事かどうかは置いておいて、ここから我々が良く知る平安時代のビックウェイブがやってくるトリガーになっているように感じます。

藤原北家内の権力闘争が大いに盛り上がり、皇后宮・定子、中宮・彰子や、それらの女官につく清少納言や紫式部。「枕草子」や「源氏物語」等、1018年に道長が「望月の欠けたることも無し」と詠むまでの20年弱は、平安時代の文化・政治の溢れ出る時期ですね。流石改元するほどの彗星接近は、人間の精神にも作用するようです。

まず995年までの6年間にあった有名な話を2つ程致します。

その1つが、高校の古文の教科書にも載っている「競べ弓(弓争い)」です。

気付くと、藤原北家は道長とその兄・道隆の権力闘争となっていました。系図⑨をご覧ください。兄・道隆の家は「中関白家(なかのかんぱくけ)」として関白の位を頂き、その栄華は絶頂を極めたのです。

その次の代、藤原伊周(これちか)、藤原隆家(たかいえ)、藤原定子(ていし)らも道隆というしっかりとした後ろ盾により、将来を約束されていたのです。(系図⑨)

⑨道長は長兄である道隆の息子・伊周らと対立

この頃の様子は定子に仕えていた清少納言によって書かれています。

と書けば、5男坊の道長なんて長男・道隆の闘争相手になれたの?と思われる方多いでしょう。

そんな道隆圧倒的優位の頃に起こったのが、この競べ弓の話です。

◆ ◇ ◆ ◇

「大鏡」に記されているこの話を簡単にまとめると以下のようになります。

ある時、中関白家では、弓の引き競べ会がありました。年若い藤原伊周が、圧倒的な強さ。関白・道隆も息子・伊周の活躍に面目躍如といったところです。

そこに何故か藤原道長がやってきます。関白・道隆の弟なので、「おもてなし」ということで、「まずは弓をお引きあそばせ。」と半分お遊びですよー、とのノリで伊周と弓の的当て競技をするのです。当然、年若い伊周が、集中力と技により余裕で道長に勝つだろうとの周囲の予測を裏切り、道長は伊周より2つ程数多く、的を射ぬきます。(絵⑩)

これは悔しい!と道隆も主家として心穏やかではありません。ここは中関白家の庭、道隆・伊周の家人ばかりです。

「道長殿、あと2回、あと2回延長なさいませ!」

⑩伊周と道長の競べ弓(弓争い)」
と道隆が叫ぶと、周囲の家人たちも声を揃えて「あと2回!あと2回」とやんややんや言います(笑)。

「くそ~、こやつら!何としても伊周の負けを認めたくないのだな!」

と少し腹が立つ道長は、弓矢を取って立ち上がるも、腹立ちまぎれに以下の掛け声と同時に射矢するのです。

「もし道長の家に帝や后が立つことあらば、この矢当たれ!!」

ドン!

と当たった矢は、的のど真ん中。

お~お~

流石の家人たちも吃驚します。
次に打つ伊周は戦意喪失。矢は当たるどころかヘロヘロと的外れな場所に飛んでいきます。当の伊周も、その父・道隆も茫然。

さて、これで勢いづいた道長。次の矢を番えて、また大音声で

「もし道長が、摂政、関白するなら、この矢当たれ!!」

ドン!

と当たった矢は、またもや的のど真ん中。

道隆は、完全に「しらけて」しまいました。やっとこの頃になって戦意を取り戻してきた伊周。ところが、矢を射ようとする伊周に対して、道隆は

「やめよ!競べ矢は終わりだ!」

と競技を中止し、伊周を、この場から引きずり下ろすという、気まずい、雰囲気の悪い状況になったようです。

この一事で分かるのは、道長の胆力の凄さです。1発ならいざ知らず、将来を宣言してそれを殆ど起こらないこと(的のど真ん中に当てること)に賭ける、偶然のようですが、2回もその宣言通りにしてしまうというのは、相当心臓に毛が生えた図太さがないと出来ない芸当ですよね。

5.紫式部登場!

さて、今年の大河ドラマの主役・紫式部がこの辺りで登場します。(系図⑪)

⑪紫式部が仕えた彰子こそ、道長栄華への切り札

実は、先に述べた寛和の変で花山天皇が出家したことにより、花山天皇の読書役だった紫式部の父・藤原為時の出世が凍結されたのです。その時、為時は式部大丞(しきぶのだいじょう、式部は式部省の略で、今で言う文部科学省のような部署、大丞は省内の第四位)という役職だったことから、後に、紫式部も「式部」と呼ばれるようになったようです。ちなみに「紫」は、源氏物語のヒロイン「紫の上」から来ているようですね。
⑫源氏物語の構想を練った石山寺にある紫式部像

その紫式部が寛和の変で父を追い落とすこととなった藤原道長の娘・彰子に仕えたのです。当時中宮という天皇の奥さんとなった彰子の退屈しのぎのために作成し始めたのが「源氏物語」という訳です。(写真⑫)

一条天皇ご自身は、最初の皇后である定子を深く愛しておられたのですが、道長の妹・詮子が道長を高く買っていたため、道長の助言を受け入れるよう息子・一条天皇に進言します。つまり道長の娘・彰子を定子と同格の后として迎えるようにと。そこで一条天皇はしぶしぶ、定子を皇后宮、彰子を中宮という后としては同格の地位にし、道長の面目を立てたのです。(写真⑬)

先の第1の矢、「もし道長の家に帝や后が立つことあらば、この矢当たれ!!」
はここに成就します。
⑬一条院跡 紫式部が日記に書いた「内裏」がここ。
当時の文化サロンの舞台となっていたようです。

6.長徳の変

道長の圧力は分かるが、どうして道隆・伊周ら中関白家が一条天皇に圧力を掛けないのかと思われるかもしれません。この時すでに、中関白家は「長徳の変」によって道長に駆逐されてしまっているのです。花山法皇も関係するこの事件、長くなりましたので、次回描きたいと存じます。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

土曜日

北斗七星を追え③ ~安倍晴明・花山天皇・藤原北家~

前回までのあらすじ

前回、安倍晴明に常陸の国(茨城県)出身説があることをお話しました。そこから派生して平将門の息子・将国は安倍晴明となって、生き延びた等の伝承もご紹介しました。また陰陽道の秘伝書「簠簋内伝金烏玉兎集」や、その注釈書である「簠簋抄」に、安倍晴明の様々な伝承が書かれていることもお話しましたね。晴明の母親が白狐であった伝承もこの史料から来ています。また、この史料にも出生の地が常陸国であると記載されているようです。写真①)

①常陸国(茨城県)にある安倍晴明誕生の地
※右手奥にみえるのが筑波山

今回、この「簠簋抄」に書かれている安倍晴明の伝承や、晴明が中央政権とどのような係わりがあったのか等も少しずつ入れていきたいと思います。来年の大河ドラマ「光る君へ」にも出てきそうな話もしますので、お楽しみに。

1.「簠簋抄」に記載されている安倍晴明出生の伝承

勿論、前回描きましたように、安倍晴明出生地は、和泉国から近い天王寺付近(現・安倍晴明神社)説が有力です。

それに対して、晴明常陸国出身説はどのように解釈されているのでしょうか。筑波山麓にある安倍晴明展示館(写真②)では、簠簋抄を研究された折口信夫氏(柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた有識者)の由来説を次のように紹介しております。

②安倍晴明展示館(茨城県筑西市)

③安倍晴明の母親は白狐
(晴明神社パネルより)
晴明の母は和泉国信太の森(大阪府)の白狐であることは、前回の説と同じです。(絵③)

ある日、遊女姿で旅に出た白狐は、常陸国筑波山麓に三年程滞在しました。この地で安倍(阿倍)仲麻呂の子孫と出逢い、恋に落ちたのです。

やがて童子(晴明)が生まれたのですが、ある時、童子に狐の寝姿を見られてしまった母は

「恋しくば 訪ねて来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

の歌を残してこの地を去りました。

神童と呼ばれた童子は都に上り、「晴明」と名乗り陰陽道を学んでいました。ですが、母恋しさのあまり、残された歌を思い出し、信太の森を尋ね行きます。

すると歳をとった狐に出会うのです。それが晴明の母であり、信太大明神の化身であった事を知るのでした。(写真④)

④信太森神社 御神木の祠にも白狐

前回お話をした近松門左衛門の話では、晴明の出生地は、大阪の阿倍野区にある晴明神社あたり、この話は茨城県(常陸国)。こちらにも晴明(稲荷)神社は、しっかりあります。(写真⑤)

⑤常陸国にある晴明稲荷大明神

それ以外にも生誕地の有力候補として、讃岐国香川郡由佐(現在の香川県)という説もあります。ただ、この土地の有力者であった由佐氏は、元々常陸国から流れてきた経緯があり、やはり由佐氏が常陸国時代に交流のあった安倍一族の一派が一緒に讃岐に流れて来たのではないかという説もあるようです。
⑥阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂の子孫が安倍晴明であり、仲麻呂が唐から常陸の国に帰国して代々住んでいたとか、前九年の役における盛岡の厨川(くりやがわ)柵で、源頼義により殲滅させられた安倍貞任等と同じ源流である安倍一族の一派なのではないか等、諸説ありますが、何ら確定的な話はありません。(絵⑥)
ただ、私はやはり、何某かの天文に通じた人物がこの常陸の国に居たのではないか、その方と同時代の有名な陰陽師である安倍晴明の話と、オーバーラップされて伝承されたのかもしれないとは考えています。

火の無いところに煙は立たないですよね。安倍晴明を含む陰陽師の世界は、学問の力、実力指向なので、貴族と言えども、割と位の低めなところから始まります。なので、安倍晴明が有名になったのも50代後半位の話ですから、はっきりしない幼少期が常陸の国であったとしても、大阪阿倍野区や、讃岐説よりとんでもない伝承であるとは言い難いと思います。

また平将門の息子・将国が実は安倍晴明だった説は、それこそ安倍晴明と同じ常陸国という生誕地一致や、詳細次回以降に書きますが、京で流布した将門の子に関する噂の時期が、晴明が有名になった時と一致するからではないかと考えられます。

いずれにせよ、確証的な話はありませんが、もう少し、安倍晴明に本ブログのテーマである北斗七星を追ってもらう話を続けたいと思います。

2.式神(しきがみ)

さて、安倍晴明の伝承を語る時に「式神」は欠かせません。安倍晴明は式神をコントロールする術を身に着けていたと言われています。

そもそも式神とは、式鬼神と書いたように、鬼なのです。

絵⑦は、圓城寺(三井寺)で、疫病に冒された高僧から、その病因である物の怪を祈祷によってあぶり出し、身代わりになる他の僧に移そうとして祈祷している安倍晴明を描いています。既に絵左上に物の怪たちが現れています。

⑦不動利益縁起絵巻

この絵の、右下に小さいのが2ついますが、これが式神です。小さな鬼ですね。

京都にある晴明神社は、元々安倍晴明の屋敷があった場所に建てられた神社なのですが、晴明はここにある「一条戻橋」という橋の下にこの式神を住まわせていたのだそうです。(写真⑧⑨)

⑧晴明神社(京都)

⑨式神が住んでいたと言われる一条戻橋
※一条戻橋は別のところにもあります

この「戻橋」付近には写真⑩のような式神の石像が置いてあります。勿論、上記のような式神伝承によって作られた最近の石像です。(写真⑩)
⑩式神石像

1つ大事なことを言い忘れていました。この式神、普通の人には見えなかったとの言い伝えがあります。一方で、晴明の奥さんがこの式神を怖がったという伝承もあるので混乱しますが、この後お話する政治的に重要な場面等で、式神は見えない説が有力なようですよ。

3.寛和の変(かんなのへん)前編

式神等の伝承性を持ちながらも、この変は歴史上非常に重要な事件です。

まず前回、東京都葛飾区にある五方山熊野神社のところで話題に上げました花山天皇。この天皇は17歳という若さで即位され、優秀な帝として立ち回るのですが、やはり若いこともあってか、感情の弱点を藤原北家に上手く突かれ利用されてしまいます。

後に藤原道長が「望月の欠けたることもなし」と言わしめた藤原北家の栄華へと導くトリガーとなった花山天皇出家させ事件が、この「寛和の変」です。

花山天皇は、この10年後にまた道長の地位が確たるものとなる更なる事件と深く関係します。なんか道長引き立て役のようですね。これも次回以降お話します。

この当時の平安貴族たちの対応は、おっとりしているように見えて、それこそ「生き馬の目を抜く」方々ばかりであることに驚かされます。寛和の変の話に入る前に、その背景となる藤原北家のしょうもない権力争いを見てみましょう。

◆ ◇ ◆ ◇

藤原氏の果ての無い出世競争がこの時代続きますので、この変に関連する部分だけ少しお話します。下記系譜⑪をご参照ください。ここのブログで出てくる人物だけ赤字にしてあります。

⑪10世紀末~11世紀初頭の藤原北家系図

藤原道長の父・兼家(かねいえ)なぞは、当時関白となっていた兄・兼道(かねみち)と、出世争いに明け暮れ、兄が死にそうな病気の時でさえ、「兄が死んだら関白は私に」というお願いを帝にしに、牛車で参内する次第。

しかも、兄・兼道の屋敷の前をこれ見よがしに通過してですよ。兄・兼道は弟の牛車が近づいてくるとの報告を聞いて、「ああ、流石に弟も死の間際には肉親の情で見舞いに来てくれたのか。」と期待しただけに、通過する弟・兼家に憤慨することしきりなのは当然ですね。却ってこれが刺激になり、兄・兼道は一時的に元気になります(笑)。

慌てて自分も参内し、弟・兼家の前で「最後の徐目(任命)を行う。私の関白職は、従兄(小野宮流)の頼忠(よりただ)に譲る!」と宣言。

弟・兼家の思い通りにはさせん!とし、困った顔の弟・兼家の顔を見ると安心したのでしょうか、翌月兼道は亡くなります。

◆ ◇ ◆ ◇

⑫来年の大河ドラマで忯子役は
井上咲楽
兄の執念に辟易した兼家ですが、いつかは宮中での権力掌握を虎視眈々と狙っていました。そのチャンスが花山天皇によってもたらされるのです。

即位から2年後、花山天皇は、愛する女性・藤原忯子(よしこ)が17歳という若さで、しかも懐妊したまま、亡くなるという事態にショックを受け、自分も出家して供養をしたい、と周囲に言い出します。(写真⑫)

一時的な感情の縺れと見抜いた当時の関白・頼忠は、花山天皇に翻意を促すのですが、これをチャンス!と捉えたのが兼家。

今一度、系図⑪を見てください。兼家の娘・詮子(あきこ)の息子・懐仁(やすひと)は、後の一条天皇です。兼家は前の天皇(円融天皇)が花山天皇に譲位された時、その次の天皇はこの懐仁との約束を取り付けているのです。そして兼家は自分が天皇の外祖父(母方のお爺ちゃん)になることを夢見ていたので、娘・詮子の息子に花山天皇が譲位するチャンスが早く到来しないかと心待ちにしていたのです。そこに花山天皇か出家すると言い出し、チャンス到来。

弱冠19歳、かつ気まぐれな花山天皇です。やはり出家をやめるとも言いだしかねません。そうなる前に出家させねば!と兼家とその息子らは共謀してこのチャンス到来をモノにしようと企みます。

まずは息子・道兼(これも図⑪ご参照)、早速落ち込んでいる花山天皇にアプローチ!

「今宵は月綺麗どすなぁ。あないな綺麗なお月さまを見ると、色白おして可憐やった忯子様思い起こされますなぁ。」

清涼殿の欄干にもたれ、月見酒の杯を乾す花山天皇と藤原道兼。(写真⑬)

⑬清涼殿の欄干(手前)
※奥は昼御座(日中天皇が謁見した場所)

忯子(よしこ)と聞いて、勿論花山天皇はピクリと反応します。

「月、明るう照らしたら照らす程、忯子のおらへん寂しさが増してまう。やっぱし出家してまおか。」

と花山天皇。(※以後、不謹慎な京都弁風を装うのを止めます(笑))

「帝も忯子様もこの世から消えてしまったら、私にとって、この月照らす美しい世も美しく感じられなくなってしまいます。私も未練はありません。帝と共に出家致します。」

「おお、道兼共に出家してくれるか。」

「はい、思い立った今が仏のお導き、すぐに山科へ落飾に向かいましょう。」

「えっ?今すぐにか?こんなに月が明るい中での剃髪は恥ずかしい。」

⑭山科へ向かう花山天皇と藤原道兼
月岡 芳年画
「いえ、月があかるいからこそ、帝の落飾のお覚悟が、亡き忯子様に届きやすいのです。三種の神器も私の部下に命じて、安全なところへ移しますので。」

と道兼は言うやいなや、控えている部下に目で指示をします。花山天皇と道兼は内裏を脱出し、山科の元慶寺(がんけいじ)へと向かいます。(絵⑭)

部下は、兼ねて道兼から指示あったとおり、道兼の父・兼家のところに走ります。

「おお、予定通り三種の神器を移せとな。道兼良くやった!」

これら全てのプロセスは、前々から兼家と道兼で決めておいた手筈なのです。兼家は

「内裏の門という門を閉ざせ!神器は懐仁(やすひと、後の一条天皇)親王の舎へ運び込め!」

と指示し、一条天皇が即位できる万全の状況を作ります。(花山天皇が剃髪し、出家が完了するまでは即位はできないので)

内裏を脱出した花山天皇、不安気であまり気が進まない歩みを見せます。内裏の東南を過ぎ、これから山科街道へ入ろうとする寸前、

「道兼、忯子と交わしていた文を内裏に置いてきた。あれが人に見られると恥ずかしい。取りに戻りたい。」

取りに戻るには、ここから内裏に一番近い建礼門に戻るのが一番早いですが、このタイミングでは、内裏の門は父・兼家が全部閉鎖している可能性があります。ただでさえ出家に気弱になった花山天皇が、内裏に戻るための口実とも思える状況で、内裏の門が閉鎖されていると知ったら、この出家話は水泡に帰すこととなるでしょう。万事休すです。(写真⑮)

⑮現在の建礼門

「えーん、えーん。(つд⊂)エーン」

「道兼?何故泣く?」

「この道兼も、世に憚る様々な醜態・痴態を残したまま、それでも帝が出家されるのであれば、それらがどんなに世間の晒しもの、笑いものになろうと、私も出家してあえてそれらの不名誉への未練を断ち切ろうと決心しました。ところが帝は未練が全然断ち切れておりません。私はどうすれば良いか分からなくなってしまい、子供のように泣くしかないのです。」

「分かった、道兼。先を急ごう!」

⑯安倍晴明屋敷前を通る
花山天皇ら
(晴明神社パネルより)
4.安倍晴明の予言

この事件当日、安倍晴明は、いつもより月明かりがあまりに明るく、何かの前兆のように感じたので、天文観測による占いをし、花山天皇の退位を予言したと史料『大鏡』にはあります。(絵⑯)

ちょうど山科へ向かう道兼と花山天皇が安倍晴明の屋敷前に差し掛かった時、花山天皇は晴明の声を聴きます。

「帝がご退位するという印が天に現れた。式神!ここに書をしたためたので、急ぎ参内して奏上して来なさい。」

これを聞いた花山天皇、出家に迷いがあったとは言え、また覚悟を決めざるを得ない心境となります。

そして、晴明の屋敷の戸が、誰もいないのにひとりでに開き、しばらくすると、また締まるのです。

不思議に思っていると、屋敷の中から晴明の声が聞こえます。

「何、今ここをお通りになったとな!」

◆ ◇ ◆ ◇

長くなりましたので、晴明は天文の何をもって占ったのか、この事件の結末、更にはもう1つの花山院絡みの事件が如何に藤原道長の「望月の欠けたることもなし」という繁栄につながったのかについては、次回またお話を続けます。

長文・乱文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 《つづく》

【安倍晴明生誕の地】〒300-4501 茨城県筑西市猫島762
【安倍晴明神社】〒545-0034 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5−16
【安倍晴明展示館】〒300-4504 茨城県筑西市宮山504
【信太森神社】〒594-0081 大阪府和泉市葛の葉町1丁目11−47
【晴明稲荷大明神】〒315-0156 茨城県石岡市吉生723−1
【晴明神社(京都)】〒602-8222 京都府京都市上京区晴明町806
【清涼殿(京都御所)】〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑
【建礼門(京都御所)】〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑
【元慶寺(がんけいじ)】〒607-8476 京都府京都市山科区北花山河原町13