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土曜日

北斗七星を追え③ ~安倍晴明・花山天皇・藤原北家~

前回までのあらすじ

前回、安倍晴明に常陸の国(茨城県)出身説があることをお話しました。そこから派生して平将門の息子・将国は安倍晴明となって、生き延びた等の伝承もご紹介しました。また陰陽道の秘伝書「簠簋内伝金烏玉兎集」や、その注釈書である「簠簋抄」に、安倍晴明の様々な伝承が書かれていることもお話しましたね。晴明の母親が白狐であった伝承もこの史料から来ています。また、この史料にも出生の地が常陸国であると記載されているようです。写真①)

①常陸国(茨城県)にある安倍晴明誕生の地
※右手奥にみえるのが筑波山

今回、この「簠簋抄」に書かれている安倍晴明の伝承や、晴明が中央政権とどのような係わりがあったのか等も少しずつ入れていきたいと思います。来年の大河ドラマ「光る君へ」にも出てきそうな話もしますので、お楽しみに。

1.「簠簋抄」に記載されている安倍晴明出生の伝承

勿論、前回描きましたように、安倍晴明出生地は、和泉国から近い天王寺付近(現・安倍晴明神社)説が有力です。

それに対して、晴明常陸国出身説はどのように解釈されているのでしょうか。筑波山麓にある安倍晴明展示館(写真②)では、簠簋抄を研究された折口信夫氏(柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた有識者)の由来説を次のように紹介しております。

②安倍晴明展示館(茨城県筑西市)

③安倍晴明の母親は白狐
(晴明神社パネルより)
晴明の母は和泉国信太の森(大阪府)の白狐であることは、前回の説と同じです。(絵③)

ある日、遊女姿で旅に出た白狐は、常陸国筑波山麓に三年程滞在しました。この地で安倍(阿倍)仲麻呂の子孫と出逢い、恋に落ちたのです。

やがて童子(晴明)が生まれたのですが、ある時、童子に狐の寝姿を見られてしまった母は

「恋しくば 訪ねて来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

の歌を残してこの地を去りました。

神童と呼ばれた童子は都に上り、「晴明」と名乗り陰陽道を学んでいました。ですが、母恋しさのあまり、残された歌を思い出し、信太の森を尋ね行きます。

すると歳をとった狐に出会うのです。それが晴明の母であり、信太大明神の化身であった事を知るのでした。(写真④)

④信太森神社 御神木の祠にも白狐

前回お話をした近松門左衛門の話では、晴明の出生地は、大阪の阿倍野区にある晴明神社あたり、この話は茨城県(常陸国)。こちらにも晴明(稲荷)神社は、しっかりあります。(写真⑤)

⑤常陸国にある晴明稲荷大明神

それ以外にも生誕地の有力候補として、讃岐国香川郡由佐(現在の香川県)という説もあります。ただ、この土地の有力者であった由佐氏は、元々常陸国から流れてきた経緯があり、やはり由佐氏が常陸国時代に交流のあった安倍一族の一派が一緒に讃岐に流れて来たのではないかという説もあるようです。
⑥阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂の子孫が安倍晴明であり、仲麻呂が唐から常陸の国に帰国して代々住んでいたとか、前九年の役における盛岡の厨川(くりやがわ)柵で、源頼義により殲滅させられた安倍貞任等と同じ源流である安倍一族の一派なのではないか等、諸説ありますが、何ら確定的な話はありません。(絵⑥)
ただ、私はやはり、何某かの天文に通じた人物がこの常陸の国に居たのではないか、その方と同時代の有名な陰陽師である安倍晴明の話と、オーバーラップされて伝承されたのかもしれないとは考えています。

火の無いところに煙は立たないですよね。安倍晴明を含む陰陽師の世界は、学問の力、実力指向なので、貴族と言えども、割と位の低めなところから始まります。なので、安倍晴明が有名になったのも50代後半位の話ですから、はっきりしない幼少期が常陸の国であったとしても、大阪阿倍野区や、讃岐説よりとんでもない伝承であるとは言い難いと思います。

また平将門の息子・将国が実は安倍晴明だった説は、それこそ安倍晴明と同じ常陸国という生誕地一致や、詳細次回以降に書きますが、京で流布した将門の子に関する噂の時期が、晴明が有名になった時と一致するからではないかと考えられます。

いずれにせよ、確証的な話はありませんが、もう少し、安倍晴明に本ブログのテーマである北斗七星を追ってもらう話を続けたいと思います。

2.式神(しきがみ)

さて、安倍晴明の伝承を語る時に「式神」は欠かせません。安倍晴明は式神をコントロールする術を身に着けていたと言われています。

そもそも式神とは、式鬼神と書いたように、鬼なのです。

絵⑦は、圓城寺(三井寺)で、疫病に冒された高僧から、その病因である物の怪を祈祷によってあぶり出し、身代わりになる他の僧に移そうとして祈祷している安倍晴明を描いています。既に絵左上に物の怪たちが現れています。

⑦不動利益縁起絵巻

この絵の、右下に小さいのが2ついますが、これが式神です。小さな鬼ですね。

京都にある晴明神社は、元々安倍晴明の屋敷があった場所に建てられた神社なのですが、晴明はここにある「一条戻橋」という橋の下にこの式神を住まわせていたのだそうです。(写真⑧⑨)

⑧晴明神社(京都)

⑨式神が住んでいたと言われる一条戻橋
※一条戻橋は別のところにもあります

この「戻橋」付近には写真⑩のような式神の石像が置いてあります。勿論、上記のような式神伝承によって作られた最近の石像です。(写真⑩)
⑩式神石像

1つ大事なことを言い忘れていました。この式神、普通の人には見えなかったとの言い伝えがあります。一方で、晴明の奥さんがこの式神を怖がったという伝承もあるので混乱しますが、この後お話する政治的に重要な場面等で、式神は見えない説が有力なようですよ。

3.寛和の変(かんなのへん)前編

式神等の伝承性を持ちながらも、この変は歴史上非常に重要な事件です。

まず前回、東京都葛飾区にある五方山熊野神社のところで話題に上げました花山天皇。この天皇は17歳という若さで即位され、優秀な帝として立ち回るのですが、やはり若いこともあってか、感情の弱点を藤原北家に上手く突かれ利用されてしまいます。

後に藤原道長が「望月の欠けたることもなし」と言わしめた藤原北家の栄華へと導くトリガーとなった花山天皇出家させ事件が、この「寛和の変」です。

花山天皇は、この10年後にまた道長の地位が確たるものとなる更なる事件と深く関係します。なんか道長引き立て役のようですね。これも次回以降お話します。

この当時の平安貴族たちの対応は、おっとりしているように見えて、それこそ「生き馬の目を抜く」方々ばかりであることに驚かされます。寛和の変の話に入る前に、その背景となる藤原北家のしょうもない権力争いを見てみましょう。

◆ ◇ ◆ ◇

藤原氏の果ての無い出世競争がこの時代続きますので、この変に関連する部分だけ少しお話します。下記系譜⑪をご参照ください。ここのブログで出てくる人物だけ赤字にしてあります。

⑪10世紀末~11世紀初頭の藤原北家系図

藤原道長の父・兼家(かねいえ)なぞは、当時関白となっていた兄・兼道(かねみち)と、出世争いに明け暮れ、兄が死にそうな病気の時でさえ、「兄が死んだら関白は私に」というお願いを帝にしに、牛車で参内する次第。

しかも、兄・兼道の屋敷の前をこれ見よがしに通過してですよ。兄・兼道は弟の牛車が近づいてくるとの報告を聞いて、「ああ、流石に弟も死の間際には肉親の情で見舞いに来てくれたのか。」と期待しただけに、通過する弟・兼家に憤慨することしきりなのは当然ですね。却ってこれが刺激になり、兄・兼道は一時的に元気になります(笑)。

慌てて自分も参内し、弟・兼家の前で「最後の徐目(任命)を行う。私の関白職は、従兄(小野宮流)の頼忠(よりただ)に譲る!」と宣言。

弟・兼家の思い通りにはさせん!とし、困った顔の弟・兼家の顔を見ると安心したのでしょうか、翌月兼道は亡くなります。

◆ ◇ ◆ ◇

⑫来年の大河ドラマで忯子役は
井上咲楽
兄の執念に辟易した兼家ですが、いつかは宮中での権力掌握を虎視眈々と狙っていました。そのチャンスが花山天皇によってもたらされるのです。

即位から2年後、花山天皇は、愛する女性・藤原忯子(よしこ)が17歳という若さで、しかも懐妊したまま、亡くなるという事態にショックを受け、自分も出家して供養をしたい、と周囲に言い出します。(写真⑫)

一時的な感情の縺れと見抜いた当時の関白・頼忠は、花山天皇に翻意を促すのですが、これをチャンス!と捉えたのが兼家。

今一度、系図⑪を見てください。兼家の娘・詮子(あきこ)の息子・懐仁(やすひと)は、後の一条天皇です。兼家は前の天皇(円融天皇)が花山天皇に譲位された時、その次の天皇はこの懐仁との約束を取り付けているのです。そして兼家は自分が天皇の外祖父(母方のお爺ちゃん)になることを夢見ていたので、娘・詮子の息子に花山天皇が譲位するチャンスが早く到来しないかと心待ちにしていたのです。そこに花山天皇か出家すると言い出し、チャンス到来。

弱冠19歳、かつ気まぐれな花山天皇です。やはり出家をやめるとも言いだしかねません。そうなる前に出家させねば!と兼家とその息子らは共謀してこのチャンス到来をモノにしようと企みます。

まずは息子・道兼(これも図⑪ご参照)、早速落ち込んでいる花山天皇にアプローチ!

「今宵は月綺麗どすなぁ。あないな綺麗なお月さまを見ると、色白おして可憐やった忯子様思い起こされますなぁ。」

清涼殿の欄干にもたれ、月見酒の杯を乾す花山天皇と藤原道兼。(写真⑬)

⑬清涼殿の欄干(手前)
※奥は昼御座(日中天皇が謁見した場所)

忯子(よしこ)と聞いて、勿論花山天皇はピクリと反応します。

「月、明るう照らしたら照らす程、忯子のおらへん寂しさが増してまう。やっぱし出家してまおか。」

と花山天皇。(※以後、不謹慎な京都弁風を装うのを止めます(笑))

「帝も忯子様もこの世から消えてしまったら、私にとって、この月照らす美しい世も美しく感じられなくなってしまいます。私も未練はありません。帝と共に出家致します。」

「おお、道兼共に出家してくれるか。」

「はい、思い立った今が仏のお導き、すぐに山科へ落飾に向かいましょう。」

「えっ?今すぐにか?こんなに月が明るい中での剃髪は恥ずかしい。」

⑭山科へ向かう花山天皇と藤原道兼
月岡 芳年画
「いえ、月があかるいからこそ、帝の落飾のお覚悟が、亡き忯子様に届きやすいのです。三種の神器も私の部下に命じて、安全なところへ移しますので。」

と道兼は言うやいなや、控えている部下に目で指示をします。花山天皇と道兼は内裏を脱出し、山科の元慶寺(がんけいじ)へと向かいます。(絵⑭)

部下は、兼ねて道兼から指示あったとおり、道兼の父・兼家のところに走ります。

「おお、予定通り三種の神器を移せとな。道兼良くやった!」

これら全てのプロセスは、前々から兼家と道兼で決めておいた手筈なのです。兼家は

「内裏の門という門を閉ざせ!神器は懐仁(やすひと、後の一条天皇)親王の舎へ運び込め!」

と指示し、一条天皇が即位できる万全の状況を作ります。(花山天皇が剃髪し、出家が完了するまでは即位はできないので)

内裏を脱出した花山天皇、不安気であまり気が進まない歩みを見せます。内裏の東南を過ぎ、これから山科街道へ入ろうとする寸前、

「道兼、忯子と交わしていた文を内裏に置いてきた。あれが人に見られると恥ずかしい。取りに戻りたい。」

取りに戻るには、ここから内裏に一番近い建礼門に戻るのが一番早いですが、このタイミングでは、内裏の門は父・兼家が全部閉鎖している可能性があります。ただでさえ出家に気弱になった花山天皇が、内裏に戻るための口実とも思える状況で、内裏の門が閉鎖されていると知ったら、この出家話は水泡に帰すこととなるでしょう。万事休すです。(写真⑮)

⑮現在の建礼門

「えーん、えーん。(つд⊂)エーン」

「道兼?何故泣く?」

「この道兼も、世に憚る様々な醜態・痴態を残したまま、それでも帝が出家されるのであれば、それらがどんなに世間の晒しもの、笑いものになろうと、私も出家してあえてそれらの不名誉への未練を断ち切ろうと決心しました。ところが帝は未練が全然断ち切れておりません。私はどうすれば良いか分からなくなってしまい、子供のように泣くしかないのです。」

「分かった、道兼。先を急ごう!」

⑯安倍晴明屋敷前を通る
花山天皇ら
(晴明神社パネルより)
4.安倍晴明の予言

この事件当日、安倍晴明は、いつもより月明かりがあまりに明るく、何かの前兆のように感じたので、天文観測による占いをし、花山天皇の退位を予言したと史料『大鏡』にはあります。(絵⑯)

ちょうど山科へ向かう道兼と花山天皇が安倍晴明の屋敷前に差し掛かった時、花山天皇は晴明の声を聴きます。

「帝がご退位するという印が天に現れた。式神!ここに書をしたためたので、急ぎ参内して奏上して来なさい。」

これを聞いた花山天皇、出家に迷いがあったとは言え、また覚悟を決めざるを得ない心境となります。

そして、晴明の屋敷の戸が、誰もいないのにひとりでに開き、しばらくすると、また締まるのです。

不思議に思っていると、屋敷の中から晴明の声が聞こえます。

「何、今ここをお通りになったとな!」

◆ ◇ ◆ ◇

長くなりましたので、晴明は天文の何をもって占ったのか、この事件の結末、更にはもう1つの花山院絡みの事件が如何に藤原道長の「望月の欠けたることもなし」という繁栄につながったのかについては、次回またお話を続けます。

長文・乱文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 《つづく》

【安倍晴明生誕の地】〒300-4501 茨城県筑西市猫島762
【安倍晴明神社】〒545-0034 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5−16
【安倍晴明展示館】〒300-4504 茨城県筑西市宮山504
【信太森神社】〒594-0081 大阪府和泉市葛の葉町1丁目11−47
【晴明稲荷大明神】〒315-0156 茨城県石岡市吉生723−1
【晴明神社(京都)】〒602-8222 京都府京都市上京区晴明町806
【清涼殿(京都御所)】〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑
【建礼門(京都御所)】〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑
【元慶寺(がんけいじ)】〒607-8476 京都府京都市山科区北花山河原町13

火曜日

北斗七星を追え② ~将門と安倍晴明~

前回までのあらすじ

 前回、平 将門と平 良文(よしふみ)の前に現れた妙見(北極星・北斗七星の神)が、この二人を支援して、坂東8か国を束ねるまでに発展させてくれたことを書きました。将門はこの坂東における栄華に、自らを「新皇」とし、中央政権に対抗しようとする姿勢を見せます。妙見はこれを驕慢とし、将門を離れ、平 良文の元へ。そこから8代後が、千葉常胤となり、名家・千葉一族は妙見を一族の神として深く信仰していくのです。

ここまでが前回のお話でした。

今回は、将門と、希代の陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)との関係についての伝承話をさせてください。

その前に、前回の最後に少し頭出しをさせて頂きました平 良文は平姓ですが、8代後の常胤は千葉姓に変わっていることについて考証してみましょう。

1.「羽衣の松」伝承

この伝承、千葉県庁前の松の木に由来があるようです。(写真①)

①千葉県庁前にある「羽衣の松」

手前の看板に以下のようなことが書かれております。

「当時、亥鼻(いのはな)城下であるこの地に『池田の池』という美しい池がありました。
池には千葉(せんよう)の蓮の花が咲き誇り、花盛りの頃には沢山の人が見物に来るほどでした。
何時の頃からか、静かな夜に、ここに美しい天女が舞い降り、この松に羽衣をかけて、しばし蓮の花に魅入っているという噂が立ちます。
 これを聞いた当時の亥鼻城主・平 常将(たいらのつねまさ)。その美しい天女を自分の妻にしたいと思い、家来にこの松に掛けられている羽衣を隠すように命じます。天女は天に帰ることができず、常将の妻となり、やがて立派な男子を生んだといいます。
 『妙見実録千葉記』には、この事情を聴いた天皇が深く感銘し、前代未聞、常将は今後、千葉の蓮の花にあやかり 千葉 常将と名乗れと言ったとあります。」

千葉県の千葉が、まさか池の蓮の葉千枚とは知りませんでした。(写真②)
②蓮の葉千枚

まあ、この伝承、三保の松原にある羽衣伝説と良く似ていますし、大体、蓮の花は夜は閉じていますよね。朝7時~9時頃に開花して、夕方には閉じてしまうはず・・・。そういう意地の悪いツッコミは夢が無いので置いておきます(笑)。

天女が生んだ男の子が千葉常長です。千葉一族創生の頃の大物です。常長は前九年の役・後三年合戦で源頼義・義家父子に従って戦功を立て、大いに繁栄し、常長の子が千葉氏、原氏、相馬氏、上総氏の祖となって、後の頼朝旗挙げ時の千葉常胤や上総広常の大貢献につながるのです。

流石天女の子ですね。しかし、常将の妻は「中原師直の娘」という記録があります。「鎌倉殿の13人」に中原 親能(なかはら の ちかよし)という貴族が出てきたのを覚えていらっしゃいますでしょうか。

③鳥取県東郷池にある羽衣天女
と北斗七星
また、当時、京の貴族を「天人(あまびと)」と呼んだそうです。

つまり、想像すると、妻は「
中原師直の娘」という貴族の娘で「天人」。「天人」の女性は「天女」なので、いつしか中原師直の娘=京から来た女性=天女」ということで、この話を作った常将が帝に奏上したところ、「上手い!では千葉(せんよう)を下賜しよう。」とこれまた上手い返しを帝もしたのではないでしょうか。

そう思うと、天女の羽衣伝説から付いた「千葉」の伝承も、現実味があって面白いですよね。あと、実はこの羽衣伝承の話、平将門、良文から連綿と千葉一族まで続く、妙見信仰と無関係ではありません。

この話を作った常将が帝に奏上」と言いましたが、日本全国にある「天女の羽衣」伝承で、最後、天女が空に帰っていくという場面がありますが、この天女は北斗七星から来たという伝承が殆どです。(写真③)

もしかしたら、平 将門の子々孫々は妙見信仰を固持していくという信念が作り出した伝承を常将は帝に伝えたかったのかもしれませんし、帝も、その裏にある一族の信仰を認めたればこそ、伝承とは分かっていながら、蓮の「千葉」を姓として下賜したのだとすれば、何と雅な大人の対応が千葉県の名前の由来にあったことになるのでしょう!

2.安倍晴明は平 将門の息子だった?

さて、平 将門の話に戻します。将門が北斗七星の化身・妙見から見放されて、滅んでしまうお話をしました。(写真④)
④神田山にある将門の胴塚
(後ろのイヌマキが立派)

⑤安倍晴明と信太森の白狐
(安倍晴明神社)
また、先に述べました通り、将門を見限った妙見菩薩は、最初に出会った将門以外の人物・平 良文の基へ走ります。

この良文、将門の嫡子・将国(まさくに)を護り、常陸国信太(しのだ)に落ち延びさせたという伝承があります。


一方、関西の方は良くご存じだと思うのですが、陰陽師で有名な安倍晴明の誕生には「信太の森の白狐」という伝承があります。(写真⑤)

この伝承を、簡単にご説明します。

◆ ◇ ◆ ◇

陰陽師の師匠が急病で亡くなります。となると、高弟の誰が陰陽師の奥義を継ぐのかの問題に巻き込まれる安倍保名(あべのやすな)。安倍晴明の父となる人です。

ところが、その奥義書が盗まれ、その失態の責を負った
師匠の娘・「榊之前」という保名の恋人が自害してしまいます。悲観に暮れて和泉国信太森を彷徨していた保名。この森で狩人に追われていた白狐を庇い、自分は重傷を負いながらも、白狐を逃がすのです。

誰ぞに介抱されて目覚めると、そこにいたのは榊之前
「葛之葉姫」。彼女は姉にそっくりだったこともあり、保名はこの葛之葉姫と結婚し、息子が生まれます。これが後の安倍晴明。
⑥葛の葉姫(安倍晴明神社)

幸せな日々を保名と葛之葉姫が過ごしていたある日、一人の女性が保名を訪ねてきます。その名は葛之葉姫。

「これはどうしたことか」と妻、つまり晴明の母親の方を保名が見ると、つい今しがたまでは若い女性の姿だったのが、そこには信太の森で助けた白狐の姿が・・・。

正体がバレてしまった白狐は、晴明を保名に託し、断腸の思いで信太の森へ帰って行ったというお話です。(写真⑥)

その際に、息子・晴明に書き残したという有名な歌があります。

「恋しくば 訪ねて来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

意訳:母を恋しいとい思うのであれば、訪ねて来て欲しい。和泉国の信太の森にいる侘しい葛の葉である私を。

◆ ◇ ◆ ◇

これが「信太の森の白狐」の正統な伝承であり、江戸時代には近松門左衛門が浄瑠璃等にして、有名になりました。

実際私もこの森に足を運び、その雰囲気を感じてきました。(写真⑦)
⑦信太森神社(関西三大稲荷)

ところが、信太という土地は、常陸の国(茨城県)にもあります。(写真⑧)

⑧茨城県美浦村信太
しかも、先に述べた平 将門の息子・将国を良文が逃がした場所が信太。後に将国は、信太(田)姓を名乗り、将門の子であることを隠して生き延びたという記録が残っているようです。

そこで、異なる伝承が唱えられます。

「安倍晴明は和泉国ではなく常陸信太の出身で、実は平 将門の息子・将国であった。」

そして、晴明となった将国は、京に上り、花山天皇の信頼を得て、父・将門の夢であった東国に独立国を作ろうとしたというものです。花山天皇が17歳で即位し、19歳という短期間で退位するのも、晴明(将国)が東国にて花山天皇を立てようとしたという伝承です。

うーん、これはまた異な!と皆さまお思いでしょうが、この伝承の裏っぽい史跡があるのですよ。ご紹介します。

3.五方山熊野神社

東京は葛飾区にあるこの神社、一見普通の神社のように見えるかもしれません。(写真⑨)
⑨五方山熊野神社(東京都葛飾区)

ところが、この神社の境内をマップで見ると、見事な正五角形。(写真⑩)
⑩境内は綺麗な五角形

そう、ここは、安倍晴明が造った唯一関東にある神社なのです。
どうやら、花山天皇退位後、熊野大社、那智の滝経由で、一緒にここに立ち寄り、熊野大神を勧請したとのこと。やはり花山天皇と、ここ坂東に将門の遺志を継いだ新国家を作ろうとしたのですかね。
伝承として、1つの状況証拠になるかもしれない五方山熊野神社です。

4.安倍晴明生誕の地

安倍晴明が生まれた場所として、一番有名なのは、勿論、大阪は阿倍野区にある安倍晴明神社ですね。(写真⑪)
⑪安倍晴明生誕の地として有名な安倍晴明神社
(大阪市阿倍野区)

ところが、常陸の国(茨城県)にも、晴明の生誕地はあるのです。(写真⑫)
⑫常陸の国(茨城県)明野町猫島にある安倍晴明生誕の地

大阪天王寺あたりのにぎやかな界隈に比べると、常陸の国の生誕地はかなり静かなルーラルエリアになりますが、確かに、この広大な平地と筑波山、天文学や暦の知識を駆使する陰陽道の素養を養うには、ピッタリの場所に感じました。

5.金烏玉兎集

では、この東国に根強く伝承される安倍晴明、常陸国出身説は何処から来るのでしょうか。これは史料が残っています。(写真⑬)
⑬三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝
金烏玉兎集
(略称「簠簋内伝」)

「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」という陰陽道の秘伝書です。

めちゃめちゃ長い名前の資料ですね。ロングネームは、陰陽道という難しそうな学問に合う荘重さがありますが、金烏玉兎集とか簠簋内伝(ほきないでん)等の略称で皆呼んでいます。

この陰陽道の秘伝書に対して、後世注釈書として「簠簋抄(ほきしょう)」というものが書かれました。こちらに安倍晴明の様々な伝承などの記述があります。
先に述べた「信太の森の白狐」伝承も、この本に書かれたことを題材に近松門左衛門が脚色したもののようです。

ちょっと長くなりましたので、この書に書かれている伝承を次回お話させて頂きたいと思います。ご精読ありがとうございました。

《つづく》


土曜日

北斗七星を追え① ~妙見と将門~

今回、趣向を少し変えたお話をさせてください。

妙見信仰についてです。この信仰対象は北極星または北斗七星等の天体なのです。普通の神仏信仰とは少し変わっています。

この妙見信仰を強く持っていたのが、上総から下総、いわば今の千葉県を中心とする地域を支配していた千葉一族です。(写真①)

①千葉氏の居城とされている猪鼻城と脇に立つ千葉常胤像

何故、千葉一族が妙見信仰なのか。

この辺りをこのシリーズでは描くと同時に、その流れでかかわりの深い安倍晴明(あべのせいめい)、花山天皇、紫式部や、更に話は飛んで伊能忠敬(いのうただたか)についても調査しましたので、描いていきたいと思います。

来年の大河ドラマは「光る君へ」で、紫式部が中心となり描かれていく予定ですので、その蘊蓄も含めて、お付き合いをお願いします。

1.古代から既に天文的なセンスに優れた坂東の人たち

当初、私はこの妙見信仰の基となる北極星・北斗七星信仰が、関東に根付いた理由は、関東平野という広大な平地を形成した大きな河川(利根川や江戸川等)にあるのでは?と推論しました。古代エジプトのナイル川がカイロのデルタ地帯を肥沃にしてエジプト文明ができたように、関東平野の河川も氾濫を起こし、広大な平野を形成してきたのであれば、当然、ナイル川の氾濫時期を正確に予測したエジプトの天文学のように、関東平野でも古代の人たちは、天文学的なセンスを養ったのではないか。また氾濫後の土地割等の実施も、北極星という不動点を基準とする測量技術を使うのが一番簡易かつ正確にできることから、これらの河川の季節的な氾濫がナイル川の氾濫と同様に天文学的な素養を人々に与え、ついでに北極星・北斗七星信仰である妙見信仰が根付いたのではないかと考えました。

ところが、千葉神社に見られるような、中世以前の妙見信仰は、群馬の高崎市等、川の下流より上流に分布しています。また信濃や東北にも妙見信仰は古代から根ざしているような妙見神社の分布が見られます。

どうやら、基本は牧場のようですね。田畑を中心に考えていた私の発想も、関東平野においては間違いとは言い切れない部分はあるのですが、もっとプリミティブに、牧場等、だだっ広いところで、方角を知るのに北極星をいつも意識していた古代人がいました。方位磁石が発見されたのは、丁度平将門が生まれた頃の中国での話で、日本で普及したのはもっとずっと後世の話です。関東の民は、北極星で北を認識したのでしょう。

それがいつしか妙見信仰に変化していったと考える筋が一番素直なようです。古代は関東平野こそ牧場が多い土地だったようで、野生馬が結構走り回っていたのでしょう。それを手名付けた坂東武者たち、坂東は良馬の産地だったのです。

②北斗七星の柄杓のふちの5倍延長先が北極星
また北斗七星はご存じのように、北極星を見つけるために有用な星座です。(図②)

なので、古くから、北極星、北斗七星が天文的な有用性と相まって、信仰になっていったようですね。

映画「のぼうの城」で忍城水攻めのための本陣を石田三成が敷いた場所は、「さきたま古墳群」の中の大きな円墳・丸墓山古墳です。そしてその周りに前方後円墳が並び、これらの古墳を結ぶと北斗七星の形になります。そしてこの大きな円墳・丸墓山古墳は北極星を現しているのであろうという説もあります。(図③

③「さきたま古墳群」の北斗七星説
「さきたま古墳群に隠された北斗七星と
「異国の大神様」の謎/西風隆介」から


④そんなことは全く気にしないで
丸墓山古墳に登る筆者たち(笑)

さらに、武蔵府中熊野神社古墳という府中市付近の史跡からは、七曜紋の鞘尻金具が出土しており、
七曜紋は北斗七星を顕すということで、やはりこの辺りにも北斗七星信仰があったのではないかという推論がなされているようです。(写真⑤、⑥)

⑤武蔵府中熊野神社古墳(珍しい上円下方墳です。)

⑥出土した七曜紋の鞘尻金具

また東京・秋葉原近くにある鳥越神社の紋も七曜紋です。(写真⑦)

⑦東京・鳥越神社の社紋も七曜紋

このように、関東には古くから北極星・北斗七星信仰があったようです。

2.九曜紋を家紋として持つ千葉一族

さて、七曜紋が飛鳥時代の史跡で見つかった話から、今度は、千葉一族の家紋が九曜紋である話を検証してみたいと思います。

千葉一族の家紋は以下の2つですね。(図⑧、図⑨)

⑧九曜紋
※十曜紋とも言うようです。千葉宗家は十曜紋を使い
分家筋には、中央1、周囲8の九曜紋を使わせました。

⑨三光紋
※これは、2つの●、1つの〇が書かれています。
大きな●は太陽、白抜きの〇は月、小さな●は星
を現し、これら3つで宇宙全体を現しています。

実は、これらの紋は千葉神社(妙見本宮)の社紋にあたります。つまり、冒頭に述べた通り、千葉一族は妙見信仰である証左なのです。(写真⑩)

⑩妙見本宮(千葉神社)本殿の額周辺には上記
九曜紋や三光紋が沢山描かれています。

⑪三光紋の屋根瓦
ちなみに、写真①の猪鼻城周辺の建物は三光紋の屋根瓦が使われていました。(写真⑪)

千葉一族のルーツを遡ると、平将門に行き当たるのですが、妙見信仰は、この平将門の頃に発生したようです。

3.平将門と妙見信仰

妙見とは妙見菩薩という仏教における菩薩の一人で、北極星または北斗七星を神格化したものです。北斗七星の中の破軍星(はぐんしょう)伝承から、軍神とされたのです。(図⑫)

破軍星とは北斗七星の柄の先端にあるアルカイド(おおぐま座η星)のことで、この星を背にすると必ず戦に勝つと信じられていました。そのため妙見が軍神とみなされた訳です。

⑫破軍星は北斗七星の柄の先端
※自分が該当する干支に該当する星が自分の
守り星だそうです。皆さんどれでしょうか?
(八幡大師 大日寺HPから)

将門が、京から常陸の国元に帰り、叔父の平良文(よしふみ)と一緒に常陸の南側にある下総の敵・伯父の平国香(くにか)と戦った時は、敵に対して北側に陣を張ることになりました。

まさに破軍星を背にして戦ったのですが、この時は大勝利どころか、たった七騎にまで手勢が減るという大ピンチとなります。

するとそこに童が現れ、川を渡って南側の敵・国香軍に切り込めと将門と良文に言うのです。

川を挟んだ弓合戦で、ほぼすべての矢を射ってしまった将門軍。渡ったところで、たった七騎で矢も無ければ、白兵戦で勝利できるだけの兵数もありません。

「私を信じなさい」

⑬童(妙見)に導かれ、渡河する平将門と平良文

「よし、信じてみよう!」

と将門は童について渡河することにします。(絵⑬)

この童、渡河できる浅瀬の位置を知っているのか、川の中をどんどんと進んでいきます。渡り切った童は、今度は敵陣前に落ちている矢をあっという間に大量に集めて将門らに手渡し、それを敵に射よと言うばかりでなく、自ら一度に10本の矢を番え、敵を射続けると、なんと不意打ちを食らった敵は退散するのです。

⑭妙見像(鎌倉時代)
※確かに童に見える
しかもVサイン(笑)
逆転勝利を掴んだ将門は、童の前にひざまずき

「あなたはどなたですか」と問うと

「私は妙見です。あなたは正直武剛な人なので味方しました。」

と言い、忽然と姿を消すのです。(写真⑭)

妙見菩薩は、経典でリーダーについてこうのたまっています。

「正法を以て臣下を任用せず、心に慚愧なく、暴虐濁乱を恣(ほしい)ままにして、諸の群臣・百姓を酷虐すれば、我能く之を退け、賢能を徴召して其の王位に代らしめん」

つまり、現リーダーが驕慢に陥れば、他の人に変えたる!と言っているのです。

この時期の関東は、見方によっては、京の中央政権から離れた国司・受領等が、荘園制度の矛盾点を上手く活用し、私利私欲を肥し、勢力を拡大するという状況に見えなくもありません。つまり、妙見が将門の前に現れたのは、従来の国司・受領等の代わりのリーダーとして、お前に変えたる!という意思表示だったという訳です。以後、妙見は将門を支援し、関東各所での戦で次々と勝利させる訳です。

将門も、妙見を自分の後ろ盾の軍神として崇め、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)へと突き進みます。

4.千葉一族が妙見信仰となった経緯

そして遂には、妙見の後ろ盾のおかげで、将門は坂東8か国を束ねるまでの勢いとなりました。ところがこの時、将門は自分を「新皇」と、天皇以外の統治者的な呼び方までしてしまいます。日本史の中で、後にも先にも「自分は天皇以上だ!」とのたまう程の革命的な実力者は居ないのではないでしょうか。

妙見は、ここで将門の中に、驕慢を見出すのです。伝承では、妙見は将門を見限り、最初に出会った将門以外の人物・平良文の基へ走ります。

妙見に見放されたその後の将門の運命は、滅びへと向かうのです。

(詳細は拙著マイナー・史跡巡りブログ「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」をご笑覧頂ければ嬉しいです。)

そして、妙見を迎えた平良文、将門の失敗を教訓に決して驕りに走らず、また子々孫々にもその旨伝え、妙見信仰を保っていきます。

そのように妙見信仰を守り続けた坂東平氏の8代目が平(千葉)常胤となるのです。

⑮千葉県庁前にある「羽衣の松」
長くなりましたので、今回はここまでとさせてください。

長文・乱文失礼しました。

ご精読ありがとうございました!

◆ ◇ ◆ ◇

さて、この北斗七星伝承と関係を調査中ではありますが、平将門からの流れで、次回は陰陽師の安倍晴明へと話を移していきたいと思います。

蛇足ですが、平姓であった千葉氏が、何故千葉と名乗るようにな)ったのか、その伝承が千葉県庁前の看板にありましたので、次回ご紹介しますね。千葉の言葉の由来も分かりますよ。

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