マイナー・史跡巡り: 頼朝と愉快でもない(?)仲間たち ~三浦一族番外編~

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頼朝と愉快でもない(?)仲間たち ~三浦一族番外編~

源平合戦というと、つい義経の華々しい活躍に目が行きがちなので、今回は頼朝の挙兵と、それを助けるのに功績の大きかった三浦一族等に焦点を当ててシリーズを描きました。

今回は、このシリーズの中で出て来た人物等について、私の生活圏内にも沢山の、マイナー史跡があることが分かりましたので、番外編という形でお送りしたいと思います。

1.二枚橋
①二枚橋

最初は義経です。挙兵した兄、頼朝がその後石橋山合戦で敗れたとの報を聞き、奥州藤原秀衡の元に居た義経は心を痛めます。

ところが、頼朝が安房国に舟で脱出し、また再起の旗を挙げたと聞いて、居ても立っても居られなくなった義経は、藤原秀衡の許可も得ずに、さっさと弁慶と一緒に頼朝のところに駆けつけ、少しでも役に立ちたい、兄を助けたいと、東北から関東へ南下します。

前のシリーズまでに書いた通り、頼朝の動きは迅速で、旗揚げから1か月半で5万騎に膨れ上がった頼朝軍は鎌倉入りを果たします。

義経も、南下途中で、頼朝の鎌倉入りの話を聞いたのでしょうね。急遽鎌倉に向ったのだと思います。そこで、私の近所に残っている、鎌倉へ向かう道の途中にあるのが、写真②の「二枚橋」です。

小さな橋ですが、当時、ボロボロだった木橋では、義経が騎馬で渡れないため、弁慶らが強化工事を施したようです。橋板を二重化し強度を上げることで、騎馬での通行を可能にしたので、二枚橋と言われたようです。現在の橋には、写真のようにわざわざレリーフまで彫ってあります。(写真①)

しかし、こんな小さな橋に、そんな大層な工事をしていたからでしょうか?(笑)
義経らが鎌倉入りすんでのところで、頼朝は、富士川の戦いに繰り出してしまうのです。

なので義経主従は、前回のblogに描いたように富士川近くの対面石まで頼朝軍を追いかけることとなるのです。

しかし、この工事をした当時の私の家の周り(小田急百合ヶ丘駅付近)の住民は喜び、義経主従に感謝したことでしょう。
やはり、義経は頼朝程、冷徹に成れなくても、住民にまで情に篤い良い奴ですね。

2.馬頭観世音と佐々木高綱(たかつな)
②近所(新横浜)にある馬頭観世音

その対面石で義経と再会した頼朝は、この後の戦には出ず、源範頼と義経に任せてしまいます。富士川の戦いの次の戦は、平家との対決ではなく、実は平家を都から追い払った木曽義仲との戦、宇治川合戦になります。

この宇治川合戦に関する佐々木高綱のエピソードを1つ描きます。

これも奇遇なのですが、我が家から私の実家に行く途中の抜け道に、写真②のような馬頭観世音があります。(写真②)

馬頭観世音なんて、大体石碑一つみたいなものが多い中、この立派な馬頭観世音はなんだろう?と常日頃思いながら、通過していました。

今回の調査で、実はこれが、頼朝の山木判官屋敷襲撃で大活躍した佐々木兄弟の3番目佐々木高綱、及び宇治川合戦と関係が深いことが分かりました。(写真③)

石橋山合戦で、頼朝らを大椙の洞で発見した梶原景時は、これを見逃すことで、後日、頼朝が鎌倉入りしたタイミングで味方に付き、軍監として範頼・義経軍に従軍します。
③佐々木高綱の屋敷跡(現 鳥山八幡宮)
綾瀬市の渋谷氏の早川城から高綱は 
現在の新横浜近辺に移住したらしい 

また、この時、景時の嫡男、景季(かげすえ)が張り切って義経らに同行し、木曽義仲・平家討伐軍に参加します。

そこで、景季は頼朝の第1の名馬、生唼(池月)(いけづき)を、今回の討伐に貸して欲しいと頼朝に懇願します。

武士は命を懸けて戦うので、特に最大の兵器である馬に関して無心することは恥とされなかった時代です。

しかし、頼朝は「あれは、いよいよ私が平家討伐の出馬となるまで厩で取り置く」と言って拒否します。しかし、そんな優秀な馬を厩に繋いでおくのは勿体ないと食い下がる景季に根負けし、「では第2の名馬、磨墨(するすみ)を貸そう」ということになりました。

磨墨もかなりの名馬です。(拙著「驚神社」にも出てきます。リンクはこちら
④佐々木高綱屋敷跡(鳥山八幡宮)から
新横浜の日産スタジアムを臨む  

景季は喜び、磨墨を連れて西に向かいます。

ところが、名古屋辺りで、途中休んでいると、佐々木兄弟の高綱が、この第1の名馬、生唼を曳いて歩いてくるのを目撃します。

景季はショック大です。あれだけ頼んだのに頼朝は自分にはくれなかった生唼を、高綱には与えた!なんたる恥辱。

景季は、高綱を殺して、自分も自害して果てようと考えます。

高綱の所にやってきて、景季は言います。

「おい、高綱、それは生唼だな?どうしたその馬。頼朝殿に下賜頂いたか?」

「景季か、この馬か?この馬はな・・・。実は、頼朝殿に頼んでも貸してもらえないと思い、厩から盗み出してきた!」

景季は、目を丸くします。そして

「あははははは。そうか、盗み出したか!その手があったか!」

と高らかに笑うと、上には上が居るものだと、磨墨を曳いて、また京を目指して元気に歩き出すのです。

実は、高綱のこの盗み出したという話は、全くの嘘。真実は高綱も頼朝に欲しいと食い下がり、頼朝も「またか!」と面倒になり、「では絶対誰にも借りたと漏らすなよ。」と念を押して高綱に貸したのです。

⑤宇治川合戦で一番乗りで競う高綱と景季
奥で馬の腹帯を直しているのが景季
手前急ぎ渡河中の佐々木高綱と生唼
なので、高綱は磨墨を曳く景季を見て、咄嗟にこの嘘をつくことを思いついたと言います。

この話と写真②~④を見れば、皆さんはもうお判りでしょう。そう、この近所(新横浜)にある馬頭観世音は、佐々木高綱が頼朝より借り受けた生唼を祀ったものです。

彼の屋敷の近くに生唼の墓があるということは、この名馬、結局頼朝に返さなかったのですね(笑)。

3.宇治川合戦

さて、平家を京都から追い払った木曽源氏の木曽義仲ではありましたが、京における木曽軍の態度は横柄で、義仲自身も宮中の堅苦しい雰囲気に馴染めず、時の権力者である後白河法王と対立します。頼朝を頼りとする後白河法皇が呼んだ範頼・義経軍は、木曽義仲と宇治川を挟んで対峙します。

この時、この合戦の一番乗りをしようと2騎の武者が競い合います。

そう、頼朝から馬を借りた例の2人です。2人とも頼朝から借りたからには、自分こそ一番乗りを果たさなければならないと懸命になっていました。

最初にざんぶと川に乗り入れたのは景季、磨墨は泳ぎが得意なのです。
高綱も、急ぎ生唼の尻に鞭を当てますが、生唼は水が嫌なのか、なかなか川に入ろうとしません。

⑥馬頭観世音の左側にある説明看板
下半分が剥がれ落ちています。
「ヤバい、これでは第1の名馬の名折れ!」

とばかりに高綱は、嫌がる生唼を何とか川に入れ、磨墨の後を追わせますが、もう磨墨は対岸に乗り上げかけ、一番乗りを達成しかけています。(絵⑤)

そこで高綱は、磨墨の馬上の景季に向けて叫びます。

「おうい、景季!馬の腹帯が落ちかけているぞ!」

慌てて、腹帯のチェックをしている梶原景季を横目に、大至急対岸に渡り終えた佐々木高綱は、大音声で「やあやあ、我こそは近江源氏佐々木家~云々」と一番乗りの名乗りを挙げてしまうのです。

このように宇治川の合戦で、一番乗りを果たした名馬生唼のお墓である馬頭観世音も、写真⑥のように、説明看板の下半分が剥がれ落ち、「生唼」という文字も1つも見えない状態が放置されている無関心さが残念でなりません。
今度この記事の打出しをクリアフォルダに入れて、この看板に貼ってこようと思います(笑)。

4.太刀洗の水
⑦梶原景時

さて、梶原景季と佐々木高綱では、上記2つの事例より、何となく佐々木高綱の方が一枚上手のような気がします。

では、景季の父親である梶原景時は如何でしょうか?(絵⑦)

義経ら平家討伐軍に軍監として従軍した景時は、かなりうるさかったようで、何かにつけ頼朝の威を嵩に「下知だ!下知だ!」と叫ぶので「げち、げち⇒ゲジゲジ」と呼ばれ、義経ら現場の武者からは嫌われました。

義経の判官びいきな物語では、頼朝に義経の悪口を伝え続けた景時を、頼朝に見捨てられた義経が「誰かが兄上に讒言を入れている!」と云ったのは有名です。

しかし、そんな嫌われ役の景時も、やはり頼朝に信頼されているだけあって、色々な汚れ役を自ら買っていたのです。
確かに、多分に官僚的なところはありますが、実直で勇気ある武将でもありました。

その代表的な話として、上総広常成敗に関する彼の話をさせてください。

⑧逆落し中の佐原十郎義連
上総広常は、やはり2万騎を引き連れて、頼朝軍の挙兵初期に重要な役割をなしただけに、前回のblogで描いた参陣時に頼朝に怒られた時こそ、しおらしかったのですが、その後はダメでした。

頼朝が鎌倉入りの後、三浦一族が頼朝を自分達の本拠三浦半島に招いた時、以下のような横柄な態度は有名になりました。

まず、三浦一族の館に頼朝が到着時、全員下馬して頼朝への礼を取ったのに対し、先に三浦一族のところに郎党らと一緒に来ていた広常は、「義朝、義平、頼朝と源家三代に渡り、そのような礼は取ったことが無い」と主張して、下馬の礼を取りません。

次に、頼朝歓待の酒宴の席で、岡崎義実が、息子佐奈田与一の石橋山合戦での落命に落ち込んでいるのを見かねて、頼朝が自分の水干(すいかん)を義実に与えました。ところが、その水干を広常は強引に横取りし、「このような老いぼれ(義実のこと)に与えてもしょうがないだろう。むしろ俺のような役に立つ者にこそ与えるべき。」と自分も高齢なのに吐いた暴言で義実と大喧嘩に成りそうになったということです。

前々回のblogに出て来た三浦一族の佐原十郎が仲裁に入り、何とか押し止まりました。(絵⑧)
⑨上総広常の屋敷があった朝比奈切通しの滝

この一連のやり取りを黙って見ていた頼朝は、後日佐原十郎を褒め、かつ寵臣に取り立てるのです。

多分、これだけではないのでしょう。
広常の尊大な態度が、頼朝を困らせていたのだと思います。

そこで、立ち上がったのが梶原景時です。

現在の朝比奈切通しの滝(写真⑨)近くにあった広常の屋敷に、あるモノを持参して訪問します。

「京の雅(みやび)な遊びで、今大流行している双六という遊戯ですぞ。」(写真⑩)

この頃に近い白河法王が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心に叶わぬもの」と語ったというのは有名ですが、それ程、この当時流行っていたようです。

⑩平安末期の双六(すごろく)
後の時代の、紙上で、コマをサイコロの目の分だけ進ませるという双六とは違い、現代で言うbackgammonのようなルールでした。

当然、賭ける訳です。

広常は直ぐに、この景時の持って来た双六にハマります。激しやすい感情型の広常ならきっとハマるだろうというのは景時の計画内です。

ゲーム当初、景時は広常を勝たせ続けます。

気を良くした広常に対し、途中から景時は本気で行きます。そのうち広常は負け始め、急激に機嫌が悪くなってきます。まるで高いところから急に突き落とすような感情の変動を故意に起こすのです。

ついに、「景時、てめえいかさま使ってるな!」といつもの暴言。

「使える訳ないじゃないか!貴様こそ、いつもそうやって人を罵倒し、我々の輪を乱す馬鹿者だ!」と景時が叫ぶと、「なぬっ!」と広常は、刀の柄に手を掛けます。

⑪梶原景時が上総広常を斬った
刀を洗った「太刀洗の水」
次の瞬間、景時の刀が一瞬光ったかと思うと、広常の首が双六盤の上にドシャと落ちます。そのまま、景時は庭から広常の屋敷を優雅に出、近くの清水で広常の血に塗られた刀を綺麗に洗い、鞘に納めます。(写真⑪)

そして何事も無かったかのように立ち去るのです。

現在でも、この朝比奈切通しの横を流れる綺麗な小川は「太刀洗川」という名前が付いています。(写真⑫)

双六に興じた上での事故、しかも正当防衛であるかに見せかけた梶原景時の計画、見事だと思います。

しかし、こんな梶原一族も、頼朝が落馬して死去すると、汚れ役だっただけに、急に立場が悪くなります。

結局、また三浦一族ですが、三浦義村、和田義盛らをはじめとする諸将に鎌倉の政所を追放され、相模の自領に引っ込みます。

⑫朝比奈切通しの川は、広常を斬って
以降太刀洗川
そして、景時・景季親子を含む一族は、上洛し生きて行こうとします。

ところが、上洛途上、駿府の国の山中にて在地の武士に襲われ、奮戦するも敵わず、景時・景季親子は自害、一族33人も討ち取られてしまいました。

頼朝を助けた箱根の山に近い駿河国の山中で、梶原一族が滅びたことは、何らかの因果を感じずにはいられません。

彼は頼朝を箱根山で助けた事は、梶原一族にとって本当にラッキーだったのでしょうか?

5.おわりに

さて、この番外編を「〇〇と愉快な仲間たち」を文字って「頼朝と愉快でもない(?)仲間たち」とさせて頂いたのは、ここに出てくる人物(源義経、弁慶、佐々木高綱、梶原景季、梶原景時、上総広常)という頼朝の旗揚げ時から絡む取り巻きの中で、唯一最期までまともに生き抜いたのは佐々木高綱だけだからです。他は大体嫌疑を掛けられ殺されるという悲劇の中の人です。それはやはり「愉快でもない」人たちだったと思うのです。

⑬宇治川合戦の一番乗りの佐々木高綱
こんなに矢が飛んでくるのによく
生還できますね。       
一応、「(?)」を付けたのは高綱が居ますので・・・。

余談ですが、佐々木高綱の末裔は、明治の大将 乃木希典(のぎまれのすけ)や吉田松陰の師匠玉木文之進(たまきぶんのしん)等なのです。この辺り実は私の遠戚らしいので、高綱が生き抜いてくれなかったら、私がこうやって呑気にblogを書いていることが出来なかったかも知れません(笑)。

話戻りますが、このように鎌倉時代に、人から誤解を受け、人に依って簡単に殺されてしまった時代に比べれば、多少、会社から、近所から、妻・子供から(?)誤解を受けたところで、これらの「愉快でもない」彼らよりは、余程毎日を感謝して過ごさなければならないと思いませんか?

長文ご精読ありがとうございました。またこの頼朝時代の三浦一族シリーズも、最後までお読み頂き、ありがとうございました。

また他の時代の三浦氏の話をいつか再開します!引き続き宜しくお願いします。

【二枚橋】神奈川県川崎市麻生区高石3丁目32
【馬頭観世音】神奈川県横浜市港北区鳥山町
【佐々木高綱屋敷跡(現 鳥山八幡宮)】神奈川県横浜市港北区鳥山町281−3
【朝比奈切通し太刀洗の水】神奈川県鎌倉市十二所