マイナー・史跡巡り: 2016 -->

日曜日

善光寺と戦国武将について ~歩き廻る御本尊~

私は、このブログ調査のために行った場所で、他の史跡等にもついつい寄り道をします。

甲斐善光寺にて
寄り道した場所の話はショートなものなので、もう一つの拙著ブログ「Tsure-Tsure」の方に「外小話」として掲載するのですが、今回の話は、ショートではなくある程度ちゃんとお話ししたいので、こちらのブログに掲載し直しました。

さて、何の話かと言うと

「牛にひかれて善光寺参り」

と言っても、本元の信濃善光寺ではなく、甲斐善光寺です。

【※写真・地図・絵はクリックすると拡大します。】

1.甲斐善光寺

ご存じのように、「牛にひかれて善光寺参り」とは、ことわざで、
信濃善光寺御開帳

「思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ。」

なので、今回「三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~」のブログ関係で訪問した東光寺の帰りに、この甲斐善光寺にお参り出来たことは、偶然とは言え、きっと良い方面へ導かれていると信じます。(笑)

善光寺が、何故このことわざになる位、全国的に有名なのかについては、諸説ありますが、私が思うに

「宗派を問わない」ことと、「一生に一度お参りすれば、極楽浄土へ行ける」と言う簡素ながら分かりやすい教えが広まったお陰だと思います。

遠くとも 一度は詣れ善光寺
救い給うぞ 弥陀の誓願

甲斐善光寺の前立仏
本家本元の信濃善光寺は、去年5月に、最大の行事である7年に1度の御開帳の最中に、15歳の少年がドローンを飛ばし、墜落させたことでも、ニュースになりましたね。

ドローンというIoT時代のエッジ的な技術と、善光寺や姫路城(白亜に塗り替えられた姫路城にもぶつかって墜落しました。)等の日本のレガシーとの共存が話題性を持っていたように感じます。

彼も上空からの御開帳の中継に熱心の余りの墜落行為だったようです。

このように、どの時代の日本人をも惹き付けて止まない善光寺ですが、御本尊(如来像)は秘仏で、誰も見たことがありません。

代理の如来像を前立仏と言います。

これは全国に複数あります。

信濃善光寺の御開帳時でも、前立仏を御開帳し、あくまで御本尊は出て来ません。(これについては後程またお話します。)

また、現在の甲斐善光寺にも、この前立仏が、この寺の本尊として祀られているという訳です。

2.実はアクティブな善光寺御本尊

このように、丁寧に、信濃善光寺の奥の奥にしまってある感の御本尊・秘仏如来像ですが、実はかなりアクティブな仏像様なのです。

歴史のメインストリームに自ら積極的に係わりに行っています。

(1)欽明天皇、蘇我氏、物部氏

御本尊は、天竺(インド)で作られ、百済(韓国)へ渡り、そして日本の欽明天皇のところにやって来ます。

甲斐善光寺本堂
欽明天皇は、この仏像を拝むべきか、蘇我氏物部氏に相談しました。

そもそも蘇我氏は仏教擁護派、物部氏は反対派であることは有名です。

後の聖徳太子は、蘇我氏側で、物部氏を蘇我氏と一緒に滅ぼしたからこそ、法隆寺を始め、伝来仏教の普及を行うことができたのです。

話を戻しますが、欽明天皇の問いかけに蘇我稲目(そがのいなめ)が拝むべきということで、蘇我の屋敷に持ち帰り、お堂を建てました。

ところが、この後、全国に疫病が流行しました。

それみたことかと八百万の神信仰の物部尾輿(もののべのおこし)が、蘇我氏の屋敷を焼討にし、この御本尊を難波の堀へ投げ込んでしまうそうです。かなり過激な行為に思えます。

数年後に、本田善光という信濃(飯田市)の人が、この堀を通りかかると、「善光、善光・・・」と言って、御本尊がこの人の前に堀の水から飛び出してきました。

そして本田氏が、信濃にご本尊を持ち帰り彼の名前「善光」を取って、今の善光寺の基となった訳です。


(2)上杉謙信、武田信玄(川中島の戦い)
信濃善光寺と川中島は8km程度しか離れていない

その後、源頼朝が詣でたりしましたが、著名人が神社・仏閣に詣でるのは、ある意味珍しくはありません。

この御本尊の凄いところは、自分から移動するのです。

縁起にあるように、天竺から信濃まで移動してこられたのが最初だとすると、次の移動は戦国時代なのです。

戦乱の世が大丈夫かどうか、御本尊自ら歩き回って確かめたようです。

当時、信濃善光寺のすぐ近くでは、あの有名な川中島の戦いで、上杉謙信と武田信玄が国境紛争を繰り返していました。

当然、紛争地域のこの善光寺が戦火にまみれて、御本尊が燃えてしまわないかと、両武将とも心配します。一応、両者とも坊主ですからね。とてもそうは見えませんが。特に信玄(笑)。

右上の写真を見ると分かるように、川中島古戦場と善光寺は2里(約8km)しか離れていません。

まず謙信から、御本尊を新潟は直江津に持ち帰る行動に出ます。

第4次川中島合戦
但し、この時は実は偽物を掴まされていたそうです。

既に善光寺には信玄派の人間が入り込んでいたのです。

そして、1558年、あの有名な謙信と信玄の一騎打ちが行われる第4次川中島合戦の3年前に、信玄は甲斐に御本尊を含め、信濃善光寺組織ごと甲斐善光寺へ移行したのです。

甲斐の人々は狂喜乱舞しました。逆に長野の人々はがっかりします。

その恨みもあってか、あの第4次川中島合戦は世に残る大戦(おおいくさ)になったのかも知れません。(写真右上)

(3)織田信長・徳川家康

1582年に武田勝頼は、田野にて滅びます。

この時、甲斐善光寺の御本尊は、甲州征伐の総大将である織田信忠の弟である信雄(のぶかつ)によって、尾張清州城下に持ち去られます。

そして、ここでもまた御本尊は、滅びゆく織田家を見る訳です。本能寺の変の後、この善光寺御本尊を引き継ぐのは徳川家康です。

彼は、御本尊を甲斐善光寺へ戻しました。

武田家が1582年の3月に滅び、織田家が3か月後の6月に本能寺の変と短期間に大物武将が亡くなるを見て、世間では少しづつ、「善光寺の御本尊は、持ち出すと滅びる」とか「武田家の怨念だ」と言う噂が出始めました。
方広寺の大仏頭部
(頭部の木像のみは近年まで残っていたそうです)

家康も当初は、浜松の鴨江寺に移したのですが、この祟りの噂を聴いたのか、直ぐに甲斐善光寺に戻しています。

(4)豊臣秀吉

さて、最後に御本尊が出向いて会うのは、豊臣秀吉です。

1596年の慶長元年に、近畿を中心とした大地震(推定マグニチュード7.5)が起きます。

夜中に起きたこの大地震、当時伏見城に居た豊臣秀吉は、かなり慌てふためいた事でも有名ですが、この地震により、当時建設中であった方広寺の大仏殿が崩れ落ちます。

奈良東大寺の大仏より大きくしようと、秀吉は自分の権力の一つの象徴にしたかったので、この崩壊は痛いところです。
方広寺の鐘

そこで、大仏に劣らぬ権威と思い、甲斐善光寺より、また御本尊を方広寺にお連れし、方広寺の御本尊とする訳です。

ところが、これをした頃から秀吉の体調が崩れ始めます。

もしかすると、甲斐善光寺の御本尊を方広寺へと勧めたのは、豊臣家を退け、天下を狙う家康ではないか?と私は邪推します。

ただ、世間でも当時盛んに「善光寺御本尊の祟りでは?」と噂されたようです。

そして、ある日この御本尊は秀吉の夢枕に立ちます。

「秀吉や。そろそろ、信濃の国へ帰しておくれ。」

慶長3年(1598年)、秀吉は急いで信州長野の現在の善光寺へ御本尊を送り返しましたが、御本尊が出発した翌日、秀吉は亡くなりました。

そして、御本尊が居た方広寺は、彼の有名な「国家安康」で「家康」の2文字を切り離したという言いがかりを付けられ、豊臣家が滅びるきっかけとなったことは、「善光寺の御本尊は、持ち出すと滅びる」の法則に則ったものでした。

雲海の下にある甲斐善光寺
ざっと40年間、善光寺御本尊は信濃善光寺を出て、戦国時代の時の有力者たちを見回して、信濃へ戻ってきました。

3.おわりに

如何ですか?

このように有名武将の間を時代の流れとともに、全国を回ってきた仏像は珍しいと思います。

ところが、意外な事に、この御本尊、誰も見たことが無いのです。

これは、我々のような一般庶民が ということではありません。信濃善光寺に運ばれてから10年ほど経つ頃に自身のお告げにより、御隠れになったと、縁起に書かれています。

「聖☆おにいさん」のブッダ
なので、現在に至るまで参拝者のみでなく、善光寺の僧侶ですら見たことが無いのだそうです。

一応、善光寺本堂の厨子の中に安置されているということですが、Web等では「本当にあるの?」「誰も見たことないってどういうこと?」等の疑問が結構出ています。

もしかしたら、御本尊を見たら・・・

等、考えてしまいます。

また、このようにアクティブに出回る御本尊は、生身(しょうじん)すなわち本当に生命が宿っている霊像として信じられています。


もしかしたら、結構、身近にお友達感覚で、我々と一緒に生活しているかも・・・
雲海で湖のような甲斐の国

と最近流行った漫画で、聖人2人が若者の姿で、東京の下宿生活を、「バカンス」と言って過ごすという「聖☆おにいさん」というのがありますが、その中の主人公の1人がブッダ。(右上絵)

不謹慎で申し訳ありませんが、御本尊がこの漫画のようなキャラクタだったらと、勝手に想像してしまい、1人で吹き出しながら、雲海で湖のようになった甲斐の国を後に、東京に車を走らせていました。

ご精読頂き、ありがとうございます。

三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~

①三増峠合戦場
前回まで3回に渡り、三増峠の戦いについて、その歴史的背景から戦本番まで解説しました。(写真①

今回は、戦のその後ということで、北条軍を中心に、ヤビツ峠の話と、この戦に関係する北条方の人物を取り上げたいと思います。

三増峠の戦いの拙著ブログを読んでいらっしゃらない方は是非シリーズ①をご笑覧頂けると幸いです。

1.ヤビツ峠の餓鬼伝説

さて、三増峠の戦いでは、武田・北条合わせて4000人以上の死者が出たことは、前回のブログで書いた通りです。

また、戦当日の夕刻辺りに、赤備えの山県昌景隊が、北条軍の裏側に廻りこみ、北条軍に大混乱を引き起こしました。

②妖怪「餓鬼」 いつも腹を空かしている
北条軍が散り散りになって、近くの山々へ逃げ込んだということも書いた通りです。

さて、この散り散りになった北条軍の中には、丹沢山中を彷徨い、餓死した兵士がいました。

丹沢にはヤビツ峠という、有名な峠があります。

私も子供の頃から、秦野駅から出る神奈中バスの表示板に「ヤビツ峠」とカタカナ表記されているのが、日本の地名なのに漢字表記でないのは珍しいなと思っていました。

このヤビツ峠、「矢櫃峠」という説があります。三増峠の時に、彷徨った北条の兵士が背負っていた「矢櫃」を投げ捨てて登ったのだとか。

で、この峠で餓死した兵士は、妖怪「餓鬼」となり、この峠を越える人に乗り移るのだそうです。(絵②
③ヤビツ峠を通って小田原へ

なので、この峠を越える時、旅人は異様な空腹感に悩まされ、歩行困難に陥るという伝承が、三増峠の戦い以来、江戸時代を通じて約400年間まことしやかに伝えられ続けています。

そこで、三増峠合戦場に行った帰り道、このヤビツ峠を越えてみることにしました。

自分の体に「餓鬼」が乗り移るか!?伝承に対する捨て身の実験です(笑)。

さて、ヤビツ峠は、三増峠の合戦場から約30km南西の方向にあり、ちょうど小田原への撤退ルートの途中にあります。

現在は途中に宮ケ瀬湖がありますが、当時はこの人造湖はありませんから、三増峠を出るともう直ぐ丹沢山系の中を彷徨うことになります。(地図③

私も、この峠に向かう道路に驚いたのですが、かなり狭いです。昔、紀伊半島を一人で車で廻った時にも、かなり狭い林道を30km以上走り続けたのを覚えていますが、あの時のような道が神奈川県にもあるとは思いませんでした。

時刻も16時を回っていたので、周囲は薄暗くなり、途中何度か車のすれ違いが在るたびに、どちらかが、すれ違えることが可能な場所までバックし、やり過ごすというような走り方をしました。

④道は細く山は険しい(奥に見える山がヤビツ峠)
かなり寂しい場所です。(写真④

こんな寂しい山奥を、手負い状態で、逃げる北条軍の兵士達はさぞ大変だったのでしょう。

今でこそ、寂しいと言っても道路がある状況ですが、当時はきっと獣道のような道だったでしょうし、なんとか太陽の方向で方角だけは分かったとしても、この険しい山道が一体いつ終わるのか、空腹感と不安で一杯だったのでしょう。

と思うと、急に寂寥感が襲ってきました。

俺は、こんな処で何をしているのだろう。ブログを書くため?どうせ暇人の娯楽だろう。

手負いで、彷徨しながら、餓死して行った北条軍の気持ちを、本当に考えられる訳でもないし・・・

運転しながら、だんだんと、ブラックな気分に・・・

こ、これはヤバい!もしかしてそろそろ来たか!!
⑤通行止めでした

確かに、空腹も感じ始めました。この伝承は、かなり信ぴょう性が高いかもしれない・・・

と、その時、何と写真⑤のようにヤビツ峠6km手前で通行止の看板が・・・

看板の前で、車を降りると、看板の奥で、何やら、ゴソゴソと動く物音が、看板の裏の林の中からします。

餓鬼かっ!

殆ど暗くて見えなかったので、かなり慌てましたが、餓鬼ではなくて、鹿でした。(写真⑥

時計を見ると、既に18時を廻っていました。昼飯オニギリ2つのみでしたので、お腹が空く訳です。

⑥ガキではなくてシカ
ということで、幸か不幸か、今回のこのわが身を挺した伝承の検証については、通行止めで分からずじまいでした。

また12月16日以降チャレンジしたいと思いますが、どなたかヤビツ峠を越えた時に強い空腹感を感じられた方いらっしゃいましたら、玉木までご連絡をお願いします!

2.その後の早川殿

さて、話変わりますが、最近の戦国バサラもののゲームソフトは、意外と日本史の人物を幅広く調べ、その特徴を上手くビジュアル化してあるなあと感心します。

例えば、シリーズ①で出てきた、駿河攻めで信玄と意見が合わず東光寺に幽閉された武田義信は、右の絵のように、幽閉されている雰囲気が上手く描かれています。(絵⑦

⑦東光寺の義信
また、武田・今川・北条の三国同盟で交換しあった政略結婚の姫の中で、早川殿という今川氏真に嫁いだ北条氏康の娘についても、同じシリーズの①で、ちょっと触れました。

この人についてのゲームの中での描かれ方も、右下図左のように、父親である氏康との2ショット、なかなか美人に描かれています。(絵⑧

早川殿は、信玄の甲相駿三国同盟破棄の結果として、3カップルの中で、唯一最後まで破局しなかったことや、武将として無能と言われ続けた今川氏真を、陰ながら支えたという、優秀でありながら、一途な女性であったことから、気立ての良い、美人として描かれることが多いです。

今川氏真が、信玄に駿河を追われて、掛川城に逃げた後、結局、氏真は掛川城を開城します。

早川殿の父親、北条氏康が婿である氏真を客分として、小田原城下へ迎え入れるのですが、その屋敷を小田原城の西側を流れる早川沿いに建て、そこに住んだので、早川殿呼ばれるようになったのです。

⑧左:「戦国無双」の早川殿
  右:「信長の野望」の早川殿
ちなみに、「信長の野望」の早川殿は、まるで今風の可愛い女性として描かれています。(絵⑧右)

しかし、この方、単なる可愛い女性だけはないことが、次のエピソードから分かります。

氏康が無くなった1571年に、再び甲相同盟が北条氏政と信玄の間に結ばれ、小田原に居る今川氏真追討のために武田信玄が兵を廻します。
⑨今川氏真

屋敷に兵が到着し、氏真を捉えようとした時、早川殿は激怒します。

そして、小田原から譜代の水軍に、早川の河口から船を仕立て、白昼堂々と、氏真と一緒に小田原城下を脱出したという話です。

その後、氏真との間には4男1女を設け、江戸で氏真に看取られながら亡くなります。ちなみに氏真も77歳まで徳川の高家としての知遇を受けながら、こんなに素晴らしい女性と一緒に、一生を全うしているところを見ると、武将としては残念だった彼も、この時代の人間としては幸せな一生だったのかも知れません。しかし、大体ゲームに描かれる氏真は、こんな感じになってしまいます(笑)。(絵⑨


3.間宮氏について

結構最近なのですが、平成10年にこの古戦場の辺りで、人骨と六道銭が発見されました。(写真⑩
⑩間宮善十郎遺骨発見の看板

どうやら、間宮善十郎という北条の家臣の骨のようなのですが、この善十郎を含む、間宮氏というのは、私事で恐縮ですが、私の実家の直ぐ近くの笹下城という城の城主でした。(写真⑪
⑪幻の笹下城※左上の住宅街の辺りが本丸跡
間宮氏は、横浜を本拠とする北条の大水軍だったのです。
先に早川殿が譜代の水軍を使ってとあるのは、この間宮水軍かもしれません。

間宮氏の子孫に、間宮林蔵が居ます。

ご存じのように、彼は江戸の後期に、樺太が半島ではなく、島であることを発見したこと等、有名な冒険家として、またロジアからの海防に非常に役に立つ人物として名をはせました。

また、間宮林蔵と同時期に杉田玄白という人物がいます。

ドイツの解剖医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を書き上げ、日本の医学の開拓者となった人です。

笹下城から、横浜の磯子の浜に向けての土地が「杉田」となっていますが、彼は、ここ杉田の出身で、実は間宮氏の子孫なのです。

間宮林蔵と杉田玄白、両者とも分野は違えど、江戸時代には珍しいパイオニア精神に富んでいる人物であることは確かですね。

きっと大水軍であった間宮水軍の血を受け継いでいるからなのでしょう。

そう考えると、この三増峠で戦死した間宮善十郎という人物も、きっと気骨のある勇敢な漢だったと想像します。

ただ、水軍の頭らしく、海で死にたかったでしょうが、不運にも、多分一番苦手である山岳戦で若くして命を落とすとは、無念だったと思います。

大丈夫。一族のご子孫が大活躍されてますよ。と、三増峠合戦場の墓前で手を合わせておきました。

以上、
雑多ですが、三増峠の戦いに関係した北条軍について、シリーズで書き残したことをここにブログとして残すことができました。

お読みいただき、ありがとうございました。

三増峠の戦い③ ~信玄の山岳戦~

絵①をご覧ください。これが三増峠古戦場にある看板に描かれた両軍の配置図です。黒が武田軍、赤が北条軍です。
①三増峠の戦いの両軍配置図


 「あれ?」と前回のこのシリーズを読まれた方は疑問に思うでしょう。

前回のシリーズでは、北条軍が武田軍を迎え撃つために、山岳戦に有利である高台を占拠して待ち構えた、と書いたからです。
ところが、この看板の配置図は、どう見ても、武田軍が高台を占拠しています。
②上図北条軍の最前線(北条氏照軍のあたり)
から武田信玄の本陣方向を臨む

実は、この地図は、武田方の古文書「甲陽軍鑑」を基に作成されています。間違っているのでは無いと思います。
前回の話では、待ち構える氏照・氏邦と追いかける氏康・氏政に挟撃される筈だった信玄が、このような逆転現象を起こした事こそ、信玄がこのような戦を、最初に碓氷峠を越えて、関東に入った時から構想し練っていた証拠だと思っていますし、またそこが信玄の恐ろしくも偉大な戦上手、戦の神様と言われた証左なのです。

結論から言いますと、この配置はこの戦いの中盤から終盤を表しており、信玄は、北条氏照・氏邦らが待ち構えている三増峠に、彼らの作戦を上手く利用しつつ、裏をかいて行き、気が付くと看板のような、完全有利な配置になっていたという訳です。

流石は武田信玄。老練なのも勿論ですが、山岳戦は武田のお家芸、信玄より6つ年上の氏康でも、このお家芸には絶対敵わないというのに、それらの息子ごとき、何者ぞ!という感じの戦い方をしたのだと思います。

では、戦の経過を見て行きましょう。

1.待ち伏せする北条軍の配置

さて、先程の看板の絵を、現在の地図の上に展開すると地図③のようになります。
③看板を地図に落とした図

看板同様、黒が武田軍、赤が北条軍を表します。先程の看板のように、武田軍が山の上、北条軍は山の裾となっています。この状態になるまでをこれから説明します。

④築井城から三増峠と志田峠を臨む
(左が三増峠、右が志田峠)
説明の前に一つ、この地図で意識して頂きたいのは、築井城(津久井城)です。

合戦の前日10月6日の夜中に、信玄は乱波(らっぱ:忍者集団)等を使い、三増峠ではなく、志田峠から密かに築井城下のトウモロコシに火を付け、松明が燃えているように見せかけます。また案山子のような藁人形60体を作り、軍勢が城下直近に滞在しているように見せかけたのです。

これだけで、もう築井城は、北条軍得意のカメ戦法に入りました。翌日の合戦には全く援軍も送らず、甲羅である城に籠ってしまいます。信玄の築井城沈黙作戦大成功です。

さて、日が変わって10月7日早朝です。
この日の北条軍の配置は、右図の通りです。ちゃんと山岳戦の基本、「高いところを取った方が有利」を抑え、三増峠に差し掛かる武田軍を東側山麓で、整然と待ち構えています。

ここで北条軍の中に氏照・氏邦以外で北条綱成という武将が居ることにご注目ください。
⑤武田軍を待ち構える北条軍と小荷駄隊を先頭に進軍する武田軍

この時、待ち伏せする北条軍は1万2千~2万と言われています。勿論、氏照の滝山城や、氏邦の鉢形城の兵だけでなく、江戸城、小机城、玉縄城等、北条氏の名だたる城からも兵を集めています。

北条綱成は、玉縄城の城主であり、北条氏康と同い年です。

また勇猛果敢で若い時から有名であり、大将でありながら、一番に突撃していく無茶ぶり。しかも「勝った!勝った!」と叫びながら突っ込んで行き必ず勝つ、なんとも剛毅で頼もしい常勝の武将なのです。

今回、この待ち構える北条軍の中での総大将というのは決めていないようです。ただ、一番信玄に煮え湯を飲まされた氏照が、その思いと信玄との戦いの経験で、なんとなく総大将的な位置付けになっていたようですが、この綱成のように勇猛かつ親父の氏康と同い年の将が居たのでは、氏照も統一の取れた軍事行動を取ることは難しかったと思います。

⑥右側の山々が北条軍の陣を敷いた場所
と小荷駄隊の通過道
そんな状態を知ってか知らずか、信玄は、この方面に、まず小荷駄隊を、武田24将の1人である浅利信豊護衛の元、三増峠方面へ進めます。

これには訳があります。

武田が小田原攻めをした9年前、北条氏は上杉謙信の小田原攻めの際に、小荷駄隊を襲い、上杉軍がボロボロになると言う成功体験を持って居ます。北条軍は小荷駄隊襲撃は得意なのです。襲いたくなるだろうと。

つまり小荷駄隊は「餌」です。信玄得意の「自軍を餌にする作戦」です。

2.三増峠の合戦①(戦闘開始)
⑦武田軍の合戦における軍展開

さて、この罠に、北条氏照・氏邦は乗りません。乗らないというか、彼らは信玄に痛い目に合わされているので、こんな見え透いた手薄の小荷駄隊が最初に出てくるのを叩いていたら、親父殿である氏康・氏政軍との挟撃作戦が上手く行かなくなる可能性を怖れたのではないかと思います。また小荷駄位が通過しても、武田軍本隊が来ない限り、挟撃まで高所の陣構えは確保しておきたいでしょう。

しかし、ここで、今回信玄に痛い目にはあっていない、氏康と同い年、かつ常勝軍の勇将として知られる北条綱成が黙っていられませんでした。

彼は、小荷駄隊を守備しながら進んで行く浅利信豊に対して、一斉射撃を開始し、攻撃を仕掛けてしまいます。

この一斉射撃により、浅利信豊は見事戦死。

しかし、次の瞬間、武田軍から御諏訪太鼓(武田軍の陣太鼓)が鳴り響きます。

⑧銃弾により戦」死した浅利信豊を祀った浅利神社
それを合図に、厚木方面より一列で北上してきた武田軍が西側の山裾平原に向けて、猛烈な勢いで、展開して行くのです。

「すわっ、やられた!追え、追え!」と、孫子の紺に金字の風林火山の大旗が西に疾走していくのを見て、氏照は、叫びます。

「疾(はや)きこと風の如く」です。

西側の高所を取られてしまったら、山岳戦における北条の優位が保てません。取られる前に、武田軍に一撃を与えたい。

しかし、長く伸びた小荷駄隊とその守備兵たちが行く手を阻みます。彼らの防御力は貧弱ですから、破るのは容易いのですが、ここで足止めを食らう時間が致命傷です。

北条軍がやっと追撃して山裾の平原に出てきた頃には、武田軍は西側の丘の上に、軍の展開を完了していました。

「其の徐(しず)かなること林の如く」だったことでしょう。

その時の軍配置を書いたのが、上記看板になります。
⑨展開後の武田軍と追いかけて来た北条軍の配置
「三増峠合戦場」にある看板の軍配置

上にも再掲しておきますが、看板でも、北条軍の一番先頭に氏照の軍が書かれています。(看板では「北条陸奥守」と書かれていますが氏照のことです)

そこに小さく「orz」(がくっ)と書かれているように見えたのは私だけですね。笑

しかし、畏るべし武田信玄、山岳戦を知り尽くし、あっという間に敵と高所の入れ替わり技を披露してくれました。

信玄は、敵が三増峠で待ち構えているだろうことをかなり前から察知し、築井城への牽制だけでなく、乱波等を使い、この場所の地勢等も詳細に調べた上で、この合戦に臨んだようです。

⑩武田信玄本陣「旗立の松」あたり
なので、武田軍は、三増峠よりも志田峠を抜けるルートを詳細に調べ、ここに陣を張ることを意識したのです。

この戦が無ければ、三増峠を進軍して、築井城を包囲し、落として帰ったかもしれませんが、ここで大戦となると、甲府への撤退ルートは、築井城を避けて通れる志田峠からと考えていたのでしょう。

単に北条とは反対側の高所を取れば良いと考えていた訳では無いのです。

一方、武田軍は築井城へ進軍するであろう、よって、この三増峠の街道を行くに違いないと考えて布陣をした北条軍は完全に裏をかかれました。

3.三増峠の合戦②(勝敗の行方)

さて、皆さん、この合戦、武田軍の最前線で、あの真田昌幸が果敢に戦っています。

武田四天王の1人である馬場美濃守の補佐的な立場ですが、山岳戦に長けた真田昌幸が、それこそ山岳戦の神である信玄の元で、「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」戦っていたのではないでしょうか?
後で武田家滅亡となってしまう、武田勝頼も、この頃は素晴らしく勇猛果敢な働きをしていますね。
武田軍は、それこそ孫子の旗を立てた「旗立の松」の信玄が「動かざること山の如し」で采配する元で、生き生きと戦っています。

⑪信玄の本陣「旗立の松」からは
戦場も厚木方面も良く見渡せる
大河ドラマでは、昌幸も勝頼も、最後死ぬ時に「御屋形様ぁ!」と信玄の亡霊(?)に会って死にますが、奇しくも二人が一緒に信玄の元で大活躍した大山岳戦は、この三増峠しかありません。彼らと信玄が一番輝いていた時と言えるでしょう。

さて、戦も終盤に入ります。日も暮れかけて来た頃、ただでさえ、不利な北条軍に、当時の武田の赤備え隊で有名な山県昌景が、北条軍へトドメの一撃を食らわします。

彼は、その煌びやかな赤備え隊を率い、志田街道を南下、北条軍の背後から襲いかかります。

日も暮れかけて、薄暗い中、北条軍はこの隊に気が付くのが遅れたこともあり、大混乱です。

⑫赤備えの山県隊が北条の背後から襲いかかる
近くの山林へバラバラに敗走します。

この時、氏康・氏政親子は、1万の軍勢を引き連れ、まだ厚木に居ます。そして北条破れるの報を聞くと、さっさと小田原へ引き返します。

この戦で、北条の戦死者は3200人と言われております。武田軍も900人余りは戦死者が出たということで、武田軍の圧勝なのですが、合計で4000人以上の死者を出したというのは、山岳戦では最大規模の戦でした。

あの20万の軍が戦った関ヶ原の戦いでも、死者が3000~8000人と言うことですから、この戦がいかに大きかったことが分かると思います。

4.三増峠の合戦後

⑬雲峰寺にある孫子の旗と諏訪大明神の旗
※どちらも三増峠合戦の「旗立の松」で翻っていたはず
ところで、どうして氏康は、氏照・氏邦を見殺しにするような行動をしたのでしょうか?
そもそも、挟撃を氏照・氏邦から具申されているのであれば、この戦始まる頃には、合戦場に現れて良いはず。

実は氏康は夜を待っていたのです。

彼は勿論カメ戦法だけで、関東を上杉から切り取ってきた訳ではありません。拙著のブログの「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で詳しく書いていますが、彼のもう一つの必殺技というか戦術は

「夜襲」

なのです。デビュー戦の小沢原の戦いは、それで上杉朝興を破り、また河越城を落とした「河越夜戦」は、旧日本陸軍に研究し尽されるほどの腕前。

籠城と夜襲、これが氏康の得意技ですが、山岳戦で信玄に勝てる訳が無いと踏んでいたのです。

なので、彼としては、氏照・氏邦らが、信玄の挑発には乗らずに、たとえ、西側の高所を武田軍に取られたとしても、東側の高所で、対峙して、氏康の到着を待ってほしかったのだと思います。
⑭北条氏康の馬標

多分、綱成が挑発に乗らず、じっと待って居たら、氏康は10月7日の夜半に得意の夜襲で、信玄に鉄槌を下したかも知れません。

まあ、力量のある人程、自分の得意・不得意を明確にして、勝てない戦はしないということでしょうね。

これこそ、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の孫子の言葉は、信玄だけでなく、氏康などの名将も意識されていたのでしょう。

兎に角この戦で、信玄は当初の計画通り、北条にガツンと一発食らわすことが出来ました。

氏康は、2年後の1571年に急速に衰え病死します。臨終に際し、子・氏政に「武田との同盟を復活するように」と遺言したと伝えられ、北条は武田と同年12月、再度甲相同盟を締結するに至るのです。

そして、翌年1572年、武田信玄は、ようやく念願の上洛を開始するのでした。

5.このシリーズの終わりに

3回に渡る長いシリーズを読んで頂き、ありがとうございました。

⑮築井城では遭難しかかりました(笑)
三増峠の戦いは、ある意味、その後の武田家の上洛に対しても、北条氏の関東固めにとっても、そして日本の山岳戦にとっても、この戦の意味は大変大きいと思います。決してマイナーな戦ではありません。

その割には、その戦い自体も不明な点が多く、また歴史的背景も含め複雑であり、諸説紛々なのです。その中で多くの説などを基に、事実で分かっているところは抑えるも、そこから次の明確な事実の間の話は、私の推測で展開されていますので、ご容赦ください。

なるべく時代のメインストリームとどう絡むのかを、分析を基に私なりに分かりやすく描いたつもりですが、ちょっと強引なところも多いのは私も認識しておりますので、この場をお借りして陳謝します。

さて、このシリーズは一応、この回で終わりですが、
次のブログあたりでは、この戦に直接、間接的に絡む人物や、いくさ後の江戸時代から今に至るまで長きに渡る都市伝説のような伝承が本当かどうかを現場で私自身が検証してきた事などを外伝として、軽く(?)ご報告したいなと思っていますので、宜しくお願いします。

三増峠の戦い② ~武田信玄の小田原攻め~

前回は、三増峠の戦いの背景について書きました。

三増峠の戦いで信玄が風林火山の
旗を立てた「旗立の松」
三国同盟破棄を楯に、駿河侵攻の邪魔をする北条氏康に、一発ガツンと食らわせないといけないと思った武田信玄は、駿河侵攻の翌年1569年8月に2万の軍を率い、小田原攻めを開始します。

今回は、この戦いを含む、武田信玄の小田原攻めの一連について書きたいと思います。

1.武田軍の関東平野南下

以前、私は北条氏康の初陣を取り上げたブログ「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で、氏康をカメだ!と言いました。それは彼の幼少期の過ごし方が、実は現代のひきこもりに近かったからです。しかし、彼の欠点に見えたこの性格が、逆に北条五代の中で、一番強い北条軍を「籠城作戦」という、カメが甲羅にひきこもるような戦い方で形成していきます。

氏康は、弱みを強みに転換できた成功者だと思います。

氏康以来、北条家の戦い方はカメ、つまり自分と同格以上の敵に攻められると、小田原城という甲羅にひきこもる というDNAが受け継がれたのですね。

自身の城を作らず、「攻撃は最大の防御」と、戦は必ず出て行ってしていた武田信玄とは、180度違う訳です。

勿論、武田信玄は、そんな氏康の戦い方等、とうにお見通しです。

武田軍の小田原攻めルート図
武田軍2万の小田原攻めのルートを見て下さい。(右図)

信玄は、わざわざ領内を北上して、佐久から今の軽井沢を通り、碓氷峠を超えて、北条の領地に関東の北側から入ります。

そして、長々と南下する進軍ルートを取っています。

これは、北条が直ぐに城に籠って戦おうとする癖を武田軍は良く分かっているため、北条領内をなるべく長い距離進軍することによって、北条氏康本体を小田原から引っ張り出し、どこか城外にて決定的な打撃を与えられるような戦がしたかったのだろうと私は想像しています。

このような自分達を「餌」にした誘き出し作戦は信玄の得意なところであり、最大の成功例は、徳川家康を浜松城から引き出し、三方原で大勝した「三方原の戦い」ですね。

これをこの小田原攻めの進軍中にやりたかったのだと思います。


鉢形城の空堀
さて、北条氏康には沢山息子が居ましたが、今回は上から3人の息子が大活躍し、北条が三増峠の戦いで、大敗北を喫する要因をせっせ(?)と作ります。

1番上の子が氏政、次が氏照、3番目が氏邦です。この3人の息子+氏康が今回の信玄の戦相手です。

まず、信玄は、氏邦から嚙みつきます。

2.鉢形城包囲(小田原攻め①)

氏邦は、北条の北関東最大の拠点、鉢形城の城主です。この城、兎に角、断崖上の天然の要害に立地しているため、非常に堅固ですし、歩き回るのに疲れ切る位、大きい城郭です。

鉢形城本丸から荒川越しに寄居方面の臨む
(こちら方面はかなり堅固)
そもそも、武田軍は北条のカメ戦法には嫌気が差していますので、鉢形城を囲んで、お父さんの氏康が援軍を率いて、どこかで決戦が出来る事を半分期待して包囲しましたが、残念ながら、お父さんは小田原から動く気配は無し。ちょっと冷たいですが氏康もこの信玄の考え位は見通していたでしょう。

鉢形城へ攻撃を仕掛けるも、固いカメの甲羅のように、びくともしません。鉢形城も北条軍第1級の城です。

武田軍は、ゆるゆると囲みを解き、この城をけん制しつつも、主力軍は、また関東を南下して行きます。

3.滝山城攻撃(小田原攻め②)

次のターゲットは、八王子にある滝山城です。

また脱線しますが、この滝山城侵攻については、以前拙著のブログ「滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~」にも詳細書きましたので、参考にしていただければ幸いです。

この城は、2番目の息子、北条氏照が守る城であり、鉢形城程の規模はありませんが、中はギュッと密度の高い防御力を持つ平城です。

滝山城から信玄が陣を敷いていた拝島方面を臨む
(滝山城から北東側)
しかし、信玄、流石にこの城に対し、鉢形城と同じ轍は踏まないのです。

何としても氏康を小田原から引っ張り出したいのですから、同じ戦法では見くびられます。

ちゃんと滝山城の長所・短所は調べてあります。「敵を知り、己を知れば、百戦百勝」とは信玄も良く言ったものです。

この平城、北側ならびに東側に対しては、非常に堅固に作られた城です。ところが、南側、西側については、意外と脆いです。これは、信玄でなくても、皆さん実際に城跡に行かれると良くわかります。

右上の写真は滝山城址から北側を臨んだところです。高さがあって強固な感じが分かります。

城の西側は八王子の高尾山や小仏峠、陣馬山等の山々が連なっており、これらの山々を超えて、この城に攻め入ることはあり得ないという想定なのでしょう。

ちなみに信玄は、右上の写真の上の方、拝島というところに陣を張り、滝山城とにらみ合います。これは滝山城側としては想定内の布陣です。
滝山城攻防戦

信玄は、両軍多摩川を挟んでにらみ合っている最中、今の、大月市に拠点を置く部下である小山田信茂に下知して、1千人の軍に小仏峠を越えさせ、滝山城を南西側から急襲させます。(右図)

これは滝山城にとっては、想定外です。何せ小仏峠から大軍は攻めてこないとの前提なのですから。

滝山城の守備兵は2千人ですが、得意のカメ戦法が崩されそうです。そこで慌てて一部を迎撃に出して、今の高尾駅の辺りで、小山田隊と戦をしますが、あえなく敗退(廿里の戦い)。小山田隊の進撃を食い止めることが出来ません。

小山田氏の領地は、滝山城と隣り合わせなので、この城について調べ尽くしているでしょう。そのまま滝山城の弱点である西南から押し寄せ、一気呵成に攻めます。
信玄の小田原攻めの反省から北条氏が
造った八王子城

正面に武田軍2万が構えていますし、滝山城は、甲羅を叩き割られました。

落城寸前まで来ます。北条氏照切腹か?それとも2千の兵力で、正面の10倍の武田軍に向かって討死するか?

ところが、信玄は、急に攻撃を止め、兵を纏めてまた南下を始めます。

彼の今回の目的が、北条氏康の息子の誰かを討ち取ることでも、滝山城を奪取することでも無く、圧倒的軍の強さの違いが示せれば目的達成なのですから。

氏照を窮地に追い込めば、氏康が小田原を出てくるかと思いきや、やはり出てこないこと、また滝山城を取ってしまっても、その後、この城を北条から守り、武田が維持していくには、小田原からの距離が近すぎること等が、最後まで攻め切らない理由なのでしょう。

流石、武田信玄ですね。大人の余裕を感じます。

小田原城
北条軍は、この時の信玄の滝山城攻撃の反省から、西側からの関東侵入に備えて、北条軍最大の山城、八王子城を築くのです。(写真右上)

4.小田原城包囲(小田原攻め③)

さて、滝山城攻城以降、小田原までは武田軍を2つに分けます。

1つは相模川沿いを真っ直ぐ南下して、小田原城へ入る本隊と、もう1つは、世田谷方面経由で、新横浜の小机城、大船の玉縄城にちょっかいを出しつつ、鎌倉経由で相模湾沿いに小田原に来る隊です。

信玄も、滝山城が落ちそうになっても出てこない氏康が、決戦に出てくることは、そろそろ諦めかけていたのかも知れません。

しかし、もしかしたら兵力を2つに分けて、小机城や玉縄城等、北条屈指の名城を攻撃すれば、武田軍分散による弱体化を見込んで、氏康が出て来るかも。と思ったのですかね。

しかし、最強のカメである氏康は頑として出て来ません。氏政と小田原城に籠ります。

彼らは彼らで、上杉謙信が、武田軍の5倍の兵力(10万)で、この小田原城を、9年前に包囲した戦を経験しており、10か月にも及ぶ攻撃にも耐えたという自信もあるのでしょう。

信玄もその時には、例の三国同盟の誼で、援軍を氏康に送ったくらいですから、小田原城籠城がどれ位強固なものなのか充分分かっています。

黄色い部分が小田原城総構えの内部
したがって、信玄からすれば、小田原城包囲は、とりあえず北条氏への攻撃力誇示遠征ツアーの最終到着地位にしか思っていなかったでしょう。
上杉軍のように何か月も包囲せず、たった3日で城下に火を放ち、引き揚げています。

ただ小田原城も、この時の包囲での城下町防御の必要性を改めて感じたことから、城の総構え(城下町も含めて、空堀や、盛り土等の障壁で守る構築物)を9kmにもします。これは大阪城の総構えよりも大きく、日本で一番の大きさです。(右写真)


5.小田原攻め最後の信玄の読み

さて、信玄は、今回の小田原攻めで、空しく小田原城を後にして、自国甲斐へ引き揚げるのでしょうか?

いえいえ、それは違うと私は思います。
今も残る総構えの遺構の一部

信玄は、ちゃんと小田原攻めへの往路に、仕掛けを作っておいたのです。

彼としては、氏康がカメ戦法で来ることは、上杉軍の9年前の戦等から想定内のことだったと思います。

しかし、信玄は、その時の戦を分析し、今回の小田原攻めでは、氏康の息子の氏照、氏邦の性格を使うことを考えていたのではないでしょうか。彼は、そういう人間性を上手く使うことにも非常に長けていますから。

息子たちは氏康程の堪え性は在りません。若いですから。

氏照は落城寸前までの辛酸をなめさせられていますし、氏邦だって、包囲されて手も出せなかったのですから、悔しいには違いありません。

「信玄、小田原から撤退!」

これを聞いた氏康の息子2人は、「すわっ!小田原城を攻めあぐねた信玄は、兵糧も尽きかけて、冬になる前に慌てて甲斐の国へ逃げていく!これはチャンス!」と思ったことでしょう。

そして、甲斐の本国に引き上げる前に、一矢報いたいと2人は、思う訳です。

しかし、こう思うように信玄は、彼らを往路にて叩いておいたのです。
武田軍の撤退ルート図

氏照・氏邦は、武田軍を迎え撃つために、帰路の途中にある三増峠に布陣して待ちます。
彼らのバックヤードには、やはり武田領との国境にある津久井城(この当時は築井城)があります。(右図)

峠があるような戦は、山岳戦と言います。標高が高いところを取った方が有利なのです。
なので、北条軍は武田軍が来る前に、三増峠に布陣し、高いところを取って待っているのです。

はじめて北条軍がカメ戦法のような籠城戦から切り替え、野戦に出てきた訳です。

そして、父親の氏康にも小田原城からの出撃を要請します。撤退する武田軍を自分達と追撃する氏康・氏政軍で挟み撃ちにしようと提案する訳です。

氏康は、「馬鹿息子め!なんで、信玄坊主の罠にまんまと乗るのだ!」と、叫んだかもしれません。
しかし、放っておけば、今度こそ、氏照・氏邦は危ないです。ですので、とうとう氏康も出陣します。

この北条親子が次々に城という甲羅を脱ぎ捨て野戦に出てくる状況を見て、信玄はニヤッとします。

「フフ、思った通り、やっと出て来おったわ。」

すみません。また長くなりすぎましたので、三増峠の戦い自体は次のシリーズにて書かさせてください。それでは。

三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~

さて、久しぶりに戦国大名対決と行きましょう。

三増峠の戦いをレポートしたいと思います。

武田信玄や、北条氏康の大ファンであれば、良くご存じの大変有名な大戦(おおいくさ)ですね。

戦死者の数が、4000人も出た戦は、山岳戦では、トップクラスに大きいと思われます。

それと、この戦(いくさ)を取り上げたかったのは、実は武田信玄は、この戦をしたくて、わざわざ軽井沢方面から関東を南下縦断して、小田原攻めをしたのではないかと私は思っているからです。

50歳の老練な信玄公の、関東の雄である北条氏へ見せつけた知略と山岳戦の上手さ!

まず、この戦にいたる背景を説明します。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.甲相駿三国同盟

右の図を見て下さい。上段の勢力図にあって、下段に無いのが「今川家」です。そう、今川義元が桶狭間の戦い(1560年)で信長に殺されてから10年後の勢力図には、今川領である静岡県は、武田家と徳川家の版図に塗り替えられているのです。

実は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、駿河の今川義元との間で、桶狭間の6年前である1554年に甲相駿三国同盟を結んでいました。当時、武田は隣国信濃(長野県)が気掛かり、北条は隣国武蔵(東京・埼玉)、安房(千葉)が気がかり、今川は織田等の西側が気がかりという隣国が気になる三国が固く結んだ同盟がありました。この同盟のお蔭で今川義元は後方の憂い無く、上洛を開始した訳ですが、桶狭間で討ち取られてしまうという失態を犯した訳です。

単なる約定の交換だけでなく、右下の図のように、自分達の嫡子の処に、娘を嫁がせるという政略結婚付です。このように単なる紙切れの約束にしておかないことで、強固な約定となる訳ですが、信玄も氏康も自分の息子や娘が、この同盟が破られるとき、こんなになってしまう、代償の大きさがここまでとは思っていなかったでしょうね。後で詳細をお話します。

今川義元の息子は氏真ですが、これは暗愚で、蹴鞠だけ、やたらと上手いがそれ以外はダメという人物だったらしく、人心は離れます。

一方、「敵に塩を送る」(上杉謙信が武田信玄に塩を送った)の話で、海が無い武田領は有名で、信玄は海がある土地に版図を拡大するのが夢でした。

桶狭間での今川の失態は、信玄が駿河を手中にして、海に出る千載一遇の好機です。早速彼は、駿河侵攻の計画を進めようとします。

2.駿河侵攻

当然、そうなると信玄は、三国同盟を破棄することになるのですが、これに大反対するのは、長男の武田義信です。そう、右図にあるように、この同盟で、彼は今川義元の娘を妻として迎え入れているのです。当然彼は駿河侵攻による今川撃滅に大反対します。同盟破棄の障壁第1弾です。

この義信、名前にも「義」があるように、義に篤く、かなり優秀かつ人望のある人物だったらしく、彼が駿河侵攻反対を強く主張すればするほど、信玄は慌てます。それは信玄がかつて、自分の父親である信虎を国外追放したように、下手をすれば自分も義信により国外追放となる、そこまで行かなくても、強固な武田軍団が2つに割れてしまう。

義信が幽閉されていた東光寺(甲府市)
困った信玄は、結局義信を幽閉します。そして2年後に義信は幽閉先で死ぬのです。

父親を追放してでも、優秀な嫡男を殺してでも、やりたいことをやる。極悪非道の信玄と、謙信は揶揄します。「人は石垣、人は城」と家臣、人民に情が厚い信玄は、その代わりというか、肉親には厳しかったようですね。

そして、信玄は徳川家康と共謀し、駿河侵攻に着手します。

予想通り、今川氏真は、ほぼ総崩れです。駿府(静岡市)からほうほうの体で、掛川へ逃げていきます。

ここで同盟破棄の障壁第2弾が発生します。

「戦国無双」で描かれる早川殿
(後ろは父親の北条氏康)
氏真の妻は北条氏康の娘で、早川殿と言われました。かなり美人で気立てが良い娘らしく、現代のゲームのキャラクターにも大体美人に描かれております。(右下写真)

彼女は、この時今川氏真に従い、掛川へ逃げたのですが、乗り物も用意できず、徒歩で、ボロボロになって逃れたと言います。

これを聞いて怒ったのは、北条氏康です。そりゃそうです、大事な可愛い娘が大変なことになったのですから。同じ娘を持つ父親として共感出来ます。(`A´)

当然、怒りの矛先は信玄に向かう訳です。

さてその後、色々と北条は武田軍の駿河侵攻が上手く行かないよう妨害をします。長くなるので詳細は、後日別シリーズのブログに譲りますが、それらの妨害に会いながらも、結果的には戦国大名としての今川家を滅ぼし、信玄の思ったようになっていくのです。
武田水軍
(信松院蔵)

3.信玄の小田原攻め

さて、今川家は崩壊しましたが、この駿河侵攻において、北条の数々の妨害策に煮え湯を飲まされた信玄も、このまま黙って北条を野放しには出来ません。特に北条はこの三国同盟が無くなってから、上杉謙信と約定を結び、連携して武田の国境を脅かす危険性が高まってきました。

そこで信玄は、北条軍に釘を刺しに行くことを決意します。



信玄としては、駿河を手中に収めることは、単に海に出たかったということもありますが、西上し、上洛を果たすためにも、東海道上にあるこの駿河を押えておきたかったのでしょう。海上輸送による上洛軍援護のための水軍を編成させたことからも、このことは明らかです。

ということは、信玄が上洛する最中に、北条軍が自分の領土の東側から攻めてこられては困るのです。背中から襲われる形になりますので。

したがって、一度、北条軍には武田軍の底力を知って、武田軍を畏れて貰う必要があると考えたのでしょう。

そこで、北条氏の版図内にて、武田軍の示威軍事行動を起こすのです。

この行動の詳細と、三増峠の戦いにおける両軍の勝敗については、長くなりますので次のシリーズにて書きたいと思います。

4.東光寺の紅葉

余談ですが、武田信玄の嫡男、義信が廃嫡された後、幽閉され亡くなった東光寺に行ってきました。

前にも書きましたが、義信は義に篤く、勇に優れた男だったらしく、この駿河侵攻についても、義を通しただけと考えているのでしょう。「もしも」は歴史の禁句ではありますが、武田家が武田勝頼では無くて義信が継いでいたら、また違う大きな歴史の流れの変化があったかもしれません。

しかし、時代はこのような重要な人物であっても、メインストリームから外れると忘れてしまうものなのですね。彼が幽閉された東光寺に行ってつくづく感じました。

紅葉の綺麗なこの季節、東光寺の前の昇仙峡に向かう国道は大渋滞でしたが、義信のこの東光寺には、私以外誰一人居ませんでした。

しかし、義信は、来訪してきた小生ごときにも、写真のように、京都の寺院にも勝るとも劣らない美しい紅葉の庭園を見せてくれました。(写真はクリックすると拡大します。)

それはまさに来訪に対する返礼をしてくれる「義に篤い」男にふさわしい美しい紅葉だと感心しました。

【三増峠古戦場碑】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631
【東光寺】山梨県甲府市東光寺3-7-37