マイナー・史跡巡り

日曜日

中尊寺金色堂④ ~後三年合戦 その2~

①源義家
前回からはじまりました後三年合戦。長男の清原真衡(さねひら)が叔父秀武(ひでたけ)討伐の留守に、彼の屋敷を襲った清原清衡(きよひら)・家衡(家衡)の前に立ちはだかったのは、レジェンド源義家(よしいえ)。(絵①)

流石に軍神の異名を取るだけあって義家は滅法強いです。
清衡・家衡兄弟、馬1頭に2人で乗り、ほうほうの体で戦場から脱出するのでした。

この話の続きです。相変わらず登場人物が色々と出てきますので、図②に前回作成しました人物相関図を、今回の話の展開に合わせ更新しました。(図②)

前回のblogの図との違いが分かりますか?同じに見えるかも知れませんが、その違いが今回のお話の核となるところです。(前回の図はここをクリック

是非、話の途中で人物が良く分からなくなった時に図②をご参照ください。
②後三年合戦人物相関図(更新)
※絵は 胡原おみ氏「漫画後三年合戦物語」から

1.金売り吉次


この時秀武討伐で遠征中の真衡、自陣で急死します。
それまで、すこぶる元気で病一つ冒したことのない真衡が、「急な病死」とのこと。

清衡と家衡は、戦の対象が急死したので、戦う必要が無くなったことに、ほっと安堵します。しかし清衡は考えます。

あやしい!

清衡は、奥州の忍者のようなもの「金売り吉次」を調査に真衡陣に潜入させます。
②金売り吉次(イメージ)

また脱線しますが、「金売り吉次」と言うと、義経を京の鞍馬山から連れ出し、奥州藤原氏3代目の秀衡(ひでひら)に仕えさせた大商人のイメージが定着してきましたが、実は「金売り吉次」は固有名詞ではなく、既に清衡の時代から何人も居た隠密行動をする連中の事を指すとの説があります。(絵②)

彼らは、戦国時代の忍者のような術こそ使いませんが、最大の武器があります。

「金」です。

当時の奥州は玉山金山(たまやまきんざん)などの大規模な金鉱がありました。

ここから産出される金は、後に中尊寺金色堂を造るくらい豊かなものでしたが、この金を上手く使うことによって蝦夷(えみし)の地は力を持ったと同時に、朝廷からは危険視された訳です。

金を制すものは奥州を制す。

これを制した清衡が奥州を制した訳です。

2.真衡暗殺

さて、話を戻しましょう。真衡は公式には「病死」となっていましたが、「金売り吉次」が、真衡軍が秀武討伐から帰陣する中に潜入し、関係者に「金」を掴ませて話を聞いたところ、どうやら義家の刺客が真衡を暗殺したことが分かってきました。

「金売り吉次」からその報告を受けた清衡は全てを悟りました。

義家は、清原一族を恨んでおり、根絶やしにしたいのだ」と。
つまり、今回の戦で義家は、秀武を成敗に行った真衡と組んだように見せかけて、自分は真衡の留守を襲った清衡・家衡を戦で潰し、真衡は秀武討伐中の陣中で病死に見せかけ殺害。一気に清原一族の中核を殲滅しようとしたのです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

21年前の前九年の時、義家は18歳の若武者で、安倍一族との戦いで大敗を喫した「黄海川の戦い」では、たった7騎でのみ逃走し、その活路を切り開いた活躍は、後に軍神と呼ばれる程の武勇を発揮しました。

③「義家、てめえ清原家の臣下になるって
言ったじゃねえか!」叫ぶ清原軍
※詳細は次回以降
そのような英雄的経歴を持つ彼が一番恥辱を感じたのは、父・頼義が、安倍氏討伐のために、清原一族の支援を求め、「一緒に戦ってくれるのであれば、私たち源氏は清原一族の臣下となって構わない。」とまで、自分達を卑下する必要があったことなのです。(絵③)

また、安倍一族を破った後の所領(奥6郡)も、本来頼義らが受領して良い筈なのですが、清原一族の臣下となり、支援して貰った立場上、実質的には清原一族が治めることになったのです。

源頼義・義家親子が苦労して戦った前九年の役は、結果的に彼ら親子にとってなんら益になることは生じず、役が終わった翌年、頼義は朝廷へ他国の国守へ転勤願いを出している程です。

これくらいの事で、清原一族を根絶やしにするなんて・・・と思うのは現代の感覚で、この証左は、後、この合戦中に出てくる史実が語ってくれます。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

④多賀城跡にある多賀神社
ということは、義家の屈折した野望と、清衡の野望はある意味一致します。事態は上手く使えば、清衡の野望を遂げることに大きく寄与することになるかも知れません。

彼は筆を執り、義家と秀武叔父に文を書きます。それを吉次に持たせ、夫々の館に向かわせます。

義家は、その書面を読み終えるとニヤリとします。

3.家衡との所領分配

それから1週間程経つと、清衡のところに、義家から使いが来ます。「至急、義家の館に来て欲しい」とのことでした。

そこで、清衡・家衡は、多賀城の義家の館に向かいます。(写真④)
家衡は敗北後の呼び出しですので、陸奥国守としての裁きを言い渡されるのだろうとビクビクしています。

⑤清衡と家衡の土地割譲
※水色が家衡、ピンクが清衡
予想通り、裁きの言い渡しでした。ただし、真衡が家長として治めていた奥6郡を清衡と家衡に半分ずつ分け与えるというものです。(地図⑤)

地図⑤の北3郡(点線内水色部分)が家衡、南3郡(ピンク部分)が清衡の土地として割譲すると義家は言います。

義家に敗れた清衡・家衡なのですから、斬首や領地召し上げ等の沙汰であってもおかしくないのに、領地までくれるとは・・・。ちょっと疑問に思う家衡に義家は云います。

「今回の兄弟ケンカの原因は自身の短慮にあったと、秀武殿から詫びを入れて来た。そして自分はどうなっても良いので、清衡・家衡2人には寛大な措置を!という嘆願があった。予は秀武殿の心意気に感心し、2人を許し、真衡の土地を割譲したいという訳じゃ。」

家衡は感激してその場を辞します。

この後、清原一族と義家は、束の間ですが平和な日々が続きます。
清衡は割譲された土地が義家の居る多賀城に近いこともあり、また以前お話した魂胆もあるので、義家に急接近します。

ところが、土地割譲当初感激していた家衡は、徐々に不満を募らせて行きます。
それは、この土地割譲が清衡にとって非常に有利であることに気が付くからです。

まず、多少土地が広くても、南3郡に比べると米の取れ高が小さいのです。まあ、それだけであれば兄弟の差なので我慢も出来ますが、最大の差は良い金鉱の有無です。

⑥玉山金山
以前お話しました玉山金山をはじめとする金は、この清衡側の土地で採掘可能なのです。

この採掘される金を使い、清衡はありとあらゆる周旋を行っているのです。(写真⑥)

実は、清衡はここから産出される金を使い、義家に土地割譲について自分が優位になるよう周旋したのです。

清原一族を殲滅したいと考える義家の考えを察知した清衡は、なんとか自分が殲滅候補の最後になるように工夫・調整するのにも金を使ったのだと思います。そして、それに成功します。

義家は清衡・家衡が連合する清原一族には、先の戦などから自分だけでは勝てないと正確に認識しました。なので、順番に1人づつ始末します。
その場合の次のターゲットは、清衡ではなく、家衡になったのです。

家衡も、この不公平な土地割譲をした義家や、それに急接近する清衡が気に入りません。

このような対立が熟したところで、清衡が兄弟紛争を仕掛けます。

ただ、この紛争は単に戦を清衡と家衡ですれば良いというものではありません。
清衡は義家を味方につける大義名分が必要なのです。
それには家衡側から、清衡を最初に攻撃させる必要があるのです。

家衡から攻撃された清衡は、その正当防衛に、役人(国守)である義家に陳情し、味方についてもらう。そして家衡を滅ぼす大儀名分と義家を味方に付けた清衡は易々と家衡を滅ぼす。

清衡はその役を、かつて真衡の庭にお祝いの品を投げつけることで後三年合戦を引き起こした秀武叔父に、担ってもらうのです。

⑦「平安の風わたる公園」にある
平安当時の館再現
4.清衡館への夜襲

秀武叔父も、既に清衡に調略されています。秀武叔父は滅ぼした安倍一族から清衡を連れて来た時から、彼に同情的でした。

秀武叔父は清衡が生き残り、清原家がまとまれば良いと考えていたのでしょう。

よくよく清衡とも相談し、先に描きました義家への取成しの対応や、今回の家衡との衝突の発火役も担ったのだと想像します。

秀武叔父は、家衡の屋敷に行き、彼に言います。(写真⑦)

「兄・清衡は、家衡さまをないがしろにしています。清原武則の直系である家衡さまこそが、清原家の家長であって良い立場であるのに!」

「秀武どうすれば良い?」と家衡は秀武に問いかけます。

「清衡の館に夜襲をかけるべきです。焼き払えば良い。」
「しかし、清衡の館には母が居る。」
「お母上は、この秀武が事前にお逃がしいたしましょう。」

家衡は清衡の館を夜襲することを決心します。

⑧清衡館襲撃
実は、この母上を逃すことは、当然清衡の母上でもあることから、空約束ではなく、清衡からも固く言われていることです。他にも清衡の妻子も皆、夜襲と同時に避難させる計画でした。

ところが、家衡が清衡館を襲う夜、何者かが家衡軍の襲来の少し前に、館に火を掛けるのです。(絵⑧)

清衡は慌てて消火し、母・妻子を避難させようとしますが、そこに家衡軍が攻め寄せ、わやくちゃになり、結果母、妻子全員焼死させてしまうのです。

清衡は、これは家衡のものがやったに違いない。家衡は、清衡が自分を陥れるために自作自演でやったことに違いないと確信しあい、本当にこの2人は憎み合い始めるのです。

5.おわりに

この清衡の作戦の想定外の失敗についても諸説ありますが、やはりこれも義家が画策したとの説が強いです。

清衡は義家を甘く見ていますね。義家は、清衡に気を許しているように見せかけますが、実は、清衡と家衡が心の底から憎み合い、加速して互いに力を奪い合うよう仕向けているのです。そして清衡と家衡がお互い死力を尽くして闘った後に、漁夫の利を狙うかのような形で、義家が清原家を易々と殲滅することを考えているのですから・・・。

先に描きました義家が清衡から貰った書面を読んでニヤリとしたのは、清衡が義家の計画が見通せたように、義家もまた清衡の計画が見通せてしまったからなのです。
⑨金沢柵から沼柵方面を臨む
(両柵とも合戦のクライマックス)

この時点で、この後三年合戦は、清衡と義家の「たぬきときつねの化し合い」の様相を呈して来るのです。

ただ、外面的には、清衡&義家軍 v.s.家衡軍の戦いがこの合戦のクライマックスとして続きます。
次回描きたいと思います。(写真⑧)

最後までご精読ありがとうございました。
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【玉山金山】岩手県陸前高田市竹駒町
【多賀城跡】宮城県多賀城市市川城前
【平安の風わたる公園】秋田県横手市金沢中野三貫堰
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館

中尊寺金色堂③ ~後三年合戦 その1~

このシリーズ、3作品目に入りますが、前の2つは、「前九年の役」についてお話しました。
①前九年の役概念図

結局、前九年の役は、図①の東北の雄、陸奥国(岩手県)の安倍氏と出羽国(秋田県)の清原氏の2大有力者のうち、安倍氏が清原氏&源頼義(みなもとのよりよし)連合軍に滅ぼされた戦いということになります。(図①)

そして、この後に続く、後三年合戦(後三年の役とも言う)は、この安倍氏を滅ぼした清原氏の中の一族紛争に、先の源頼義の息子、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が介入して大乱戦になるというお話です。

では順に見て行きましょう。

1.前九年後の清衡

まず、前回のblogで、安倍氏に味方した藤原経清(つねきよ)について思い出して頂けますか?
あの首をなまくら刀で切られた経清です。(忘れた方はここをクリック

その経清の息子が、清衡(きよひら)です。後の奥州藤原家三代の基(もとい)を築く漢(おとこ)になります。

脱線しますが、この藤原一族の先祖は、平将門と戦った藤原秀郷(ひでさと)となります。
藤原秀郷については、平将門を描いた拙著blog(ここをクリック)と、ゆかりの深い新橋の烏森神社等を描いたblog(ここをクリック)がありますので、時間がある時に別途、ご笑覧ください。

さて、安倍氏が滅び、前九年の役が終わった時に、清衡は7才。まだ幼子でした。
②清原一族系図と後三年合戦など

藤原経清に嫁いできた母親は、元々清原氏の出身でした。前九年で安倍氏を滅ぼした清原武則(たけのり)の息子、武貞(たけさだ)と再婚します。(図②参照)
実は、この武貞が清衡の父経清の首を、わざとなまくら刀で苦しみが続くように切った本人なのです。

つまり清衡は、父親の仇を継父として持ったことになります。

前のblogで取り上げた前九年の役の中、黄海川(きみがわ)の戦いで、源頼義率いる朝廷軍に大勝利を収めた安倍氏の蝦夷(えみし)軍は、再び朝廷軍が清原氏と連合を組んで戦いに来るまでの5年間は、「蝦夷国再建!」とばかりに、朝廷支配の及ばない理想郷の建設を夢見ていたのです。
③藤原(当時は清原)清衡

清衡の父・経清も、蝦夷の地における朝廷への貢租を全て安倍氏側で徴収する制度を設ける等、この理想郷の構築を着々と進めていたのです。

そして、その父の構想にかける情熱は、まだ幼子であった清衡にも感覚的に伝わったのでしょう。

前九年の役が終わり、21年が過ぎた1083年。

清衡は28歳となりました。(絵③)

清衡の父の構想への回帰のための戦略が花開きます。

後三年合戦です。

2.後三年合戦の捉え方

さて、後三年合戦は、極端に単純化すると清原一族の抗争に、陸奥鎮守府の源義家(みなもとのよしいえ)らが絡んで、最後は清原氏の3兄弟の中で、清衡だけが生き残るという抗争話です。

図②の肌色でハッチングしてある箇所の人物、特に清原武貞と清衡の母との間の息子3人の間の抗争劇です。兄弟3人仲良く暮らせばいいのにとも思いますが、やはり父親違い、母親違いのこの3人、仲良くできなかったのでしょうか。勿論、取り捲き連中が乗せたということもありますが・・・。

前九年に比べると、この合戦、史料等が乏しく、不明なポイントが多いのです。

その要因として、実はこの合戦は、朝廷からの勅命で行った前九年と違い、清原氏内の内部抗争とされ、源義家らの参戦も、朝廷からの公式な指示ではないとされたのです。

なので、前九年は朝廷公認の公式な戦、これを「役」と言いますが、後三年は朝廷非公認、非公式・私戦、これは「合戦」と言います。

最近までは後三年も「役」と言っていましたが、色々と調査の結果「合戦」であることが明らかになってきました。
④後三年合戦 最後の激戦地だった金沢柵に建つ金沢八幡宮

話を戻します。不明なポイントが多いからという訳ではありませんが、私はこの合戦を自分が勝ち抜くように仕向けたのは、この清衡なのではないかと考えています。

そこで、その観点から、この合戦について史実を紐解いていきたいと思います。

3.戦の発端

まず、この歴史上に残る合戦をする前の21年間のあいだに、清衡は清原一族の重鎮、吉彦秀武(きみこのひでたけ)と何度も深く語り合っています。(秀武は図②参照)

秀武は、前九年でも清原軍として参戦し、清衡の母と清衡を保護、出羽(秋田県)に連れ帰った人物で、清衡も幼少の頃より頼りにしていた叔父です。

また、清衡は、父親の酷い仕打ちの最期の話も、この秀武叔父から沢山聞かされ、彼の中にはいつしか潜在的に滅ぼされた安倍一族への深い憐れみと、朝廷軍である清原氏と源家に対する復讐の気持ちを持つようになっていたのかも知れません。

さて、秀武は清衡がそんな裏腹な心を持つとは知らず、清原氏の棟梁である真衡が、自分一人の権力増長に力を入れ、あまりに一族をないがしろにしつつあることに深い憂慮をしていることを話します。

秀武はこの時既に70歳、私利より清原一族の先行きを本当に心配していたのでしょう。
この老人、純粋なだけ逆に喜怒哀楽が激しく、気が短いところがあります。
⑤真衡にお祝いの品を献上する秀武

その性格を熟知した清衡は、秀武に言います。

「一度、叔父上は兄・真衡に対して徹底的にへりくだってみてください。もし、叔父上程の重鎮がへりくだっているにも係わらず、兄が横柄な態度を取った場合には、私や弟・家衡は兄・真衡を家長とは認めません。」

◆ ◇ ◆ ◇

さて、上記清衡の言を実行する機会がやってきました。

真衡は息子が出来ず、養子入りをさせています。そしてその養子の妻を迎える結婚式でのことです。

70歳以上である秀武は、40歳そこそこの真衡に、祝いの品として金等を献上します。(絵⑤)
しかも、清衡に言われた通り、へりくだって、庭先で自ら献上の姿勢を取り、真衡からのねぎらいの言葉を待ちます。

しかし、真衡はねぎらいの言葉どころか、坊主と囲碁に耽り、献上の姿勢を取り続ける叔父秀武を無視するのです。

⑥怒る秀武
半刻も経ったでしょうか?秀武は、顔を真っ赤にして、祝いの品を庭に投げつけ、肩を怒らせ、叫びます。(絵⑥)

「なんたる侮辱!!」

そして、秀武は出羽の国に戻ると軍備を整えます。真衡と戦う気満々です。

「想定通り!」

と言ったのは、事の次第を聞いた清衡です。早速、秀武の所に赴き、

「秀武叔父、やはり兄・真衡は、叔父上が家長として仰ぎへりくだっても、徹底して見下した態度を取りましたね。もはや、彼に清原家一族の家長としての器量はございません。ついては、清衡・家衡兄弟は、兄を倒すために叔父上への支援を惜しみません。」

そして、清衡・家衡兄弟は、秀武征伐のために出兵した真衡の留守中、陸奥にある真衡の館(岩手県胆沢郡)と付近の村400戸を焼討にするのです。(絵⑦)
⑦真衡館の焼討

4.真衡の逆襲

流石に、弟達に留守中の虚を衝かれた真衡は動揺します。

秀武討伐は中止。慌てて出羽から陸奥へ軍を引き揚げます。

そして再度、秀武や弟達を討伐するために再軍備をしているところに、源義家(よしいえ)が陸奥の国守として赴任してきます。

先の前九年の時にも、数々の武勇伝を築き、父・源頼義を助けた義家。後に八幡太郎義家と源氏の守り神として神格化される程の彼が戻ってきたのですから、真衡は当然彼に取り入ろうとします。
「三日厨」(みっかくりや)という3日間にも及ぶ盛大な歓迎会を開き、このヒーローを味方に付けます。(絵⑧)

この義家の登場を、出羽の国に居た清衡・家衡は知りませんでした。
そしてまた、秀武叔父の討伐に出陣した真衡の館を、前回同様手薄になったとばかりに、襲撃・焼討に向います。

⑧着任前から既にヒーローである源義家
襲撃当初、真衡の館は前回と同様の守備兵しか居ません。しかし源義家の軍略で、襲撃されたら、真衡の妻の一報により、義家の軍が直ぐに駆けつけるように手配していたのです。

義家の軍が現れたのは清衡にとって想定外でした。

流石はヒーロー義家の軍団。軍の数も、戦略も戦闘能力も義家軍の方がはるかに清衡・家衡軍を上回っています。

「くそっ!抜かった!」

と計画の失敗により、自滅を覚悟した清衡ですが、弟・家衡が乱闘中でピンチだった清衡を自分の馬上へ引き揚げ、一頭の馬で清衡・家衡が逃げるという形でこの危機をなんとかやり過ごしました。

5.おわりに

いかがでしょうか? 
後三年合戦はまだまだ続きます。

この後、清衡は、強い強い義家と敵対するのではなく、味方に付いて、父の仇、父の野望だった蝦夷の国復権を追求するための廻り道をするのです。

話は単純ではなく、かなり複雑です。
⑨シャア・アズナブル

この話を描いていて、何かに似ているなと思いました。
1st ガンダムの中のシャア・アズナブルです。「赤い彗星のシャア」として人気の高いキャラですね。(絵⑨)

ご存知の方多いと思いますが、簡単に解説しますと、彼はジオン公国の創始家ダイクン家の跡取り息子だったのですが、このダイクン家がサビ家に滅ぼされたので、親の仇を討つ計画を建てます。

しかし、その復讐のために彼が取ったのは、親の仇のサビ家に取り入り、ジオン公国の有能な将官となって活躍し、次々にサビ家の同族支配者を狡猾な方法で葬り去っていくという手法です。

まさに清衡は、このシャアのようです。

ダイクン家は前九年で滅ぼされた安倍家または自分の父だった藤原家。
サビ家は、同役で安倍家を滅ぼした清原家として考えるとピタッとはまります。

ファンの皆さんも同じだと思いますが、シャアのキャラって、ストレートじゃなくて、このようにちょっと曲がっているからこそ、カッコいいのですよね。

ただ、現実の歴史の中にもこれに近いキャラはやはり居るのだろうと思います。

勿論、色々な歴史書物の中では、清衡は非常に中立的で、心が寛(ひろ)く、良心的な人物として描かれていることが多いです。
⑩秋田県の沼柵付近(後三年史跡)

しかし、後三年の舞台となった秋田県横手市等の史跡を巡りながら、私なりにこの後三年の数少ない史実を基に色々と考えると、清衡がわざと仕掛けない限り、清原氏内の同族の争いがここまでエスカレートする理由を説明することが出来ないとの結論に至りました。

なので、史実は曲げずに、清衡らの心の動きには、私の解釈を加えて、このまま続きを描いていきたいと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
【沼柵】田県横手市雄物川町沼館沼館

中尊寺金色堂② ~前九年の役~

①安倍氏v.s源頼義 家系図等(再掲)
「前九年の役」については、朝廷並びに陸奥国守源頼義(よりよし)に、恭順していた陸奥の国の安倍頼時(よりとき)が、頼義らの策謀に遭い、殺されるところまで、前回お話しました。

今回はそのお話の続きです。

この策謀に憤慨したのが、安倍頼時の息子、安倍貞任(さだとう)です。(図①)

貞任は、衣川柵にある安倍屋敷目掛けて攻めてくる源頼義ら朝廷軍を、父・頼時の弔い合戦であると気炎を上げ、蝦夷の兵4000を揃え、迎撃の準備をするのです。

1.黄海川の戦い(源頼義の大敗北)

②安倍貞任・宗任の軍を描いた絵巻
多賀城で1800の朝廷軍を整え、安倍氏の蝦夷軍を討伐に出発した源頼義。

しかし、彼ら朝廷軍に待っていたのは、東北地方特有の極寒です。寒さに馴れていない朝廷軍は疲れ切ってしまうと同時に、補給路もかなり伸び、食料が兵士全体に上手く行き渡りません

それに対して、衣川柵の安倍屋敷を出発し、南下した蝦夷軍は河崎柵という場所で朝廷軍を待ちかまえます。(場所は、図④参照)

軍勢数も4000対1800、更に蝦夷軍は、前回書きましたように、殺された安倍頼時(貞任の父)の弔い合戦の勢いですからモチベーションも違います。
蝦夷軍は、吹雪きの中、河崎柵内に止まらず、出て、黄海川(きみかわ)で朝廷軍を迎え撃ちます。(写真③)

③黄海川
極寒の吹雪きが激しい中、黄海川を挟んで、蝦夷軍と対峙していたつもりの朝廷軍は、吹雪きで視界が悪いため、土地を知り抜いている蝦夷軍に、包囲されていることに全く気が付きませんでした。

戦が開始され、黄海川正面の敵にばかり気を取られていた朝廷軍は、四方から押し掛ける蝦夷軍に完全に囲まれた形となりました。その上、寒さと飢えの朝廷軍、何から何まで不利である彼らに勝因はありません。結果はやはり、ボロ負けに負けて撤退します。

この負け戦中、源頼義の息子の義家(よしいえ)の大活躍で、何とか活路を開き、頼義らは命辛々何とか落ち延びることが出来たのですが、多賀城まで落ち延びたのは、たった6,7騎だったと云います。朝廷軍大敗北です。


④前九年の役 源頼義軍進軍状況(再掲)
2.清原氏の参戦

蝦夷は強い!

と敵に感心している源頼義に対し、折角、戦上手であろうと彼に期待をした朝廷はがっかりです。

ただ、何故か彼は多賀城では周囲の国人等からも信頼が厚く、朝廷が頼義の代わりに送ってきた陸奥国守にはなかなか従わないので、結局、源頼義がまた引き続き国守に返り咲きます。

それから数年は、源頼義は軍編成をすることが出来ず、復活に専念しなければなりませんでした。

逆に、朝廷軍に勝利した安倍貞任や藤原経清(つねきよ)らは勢いが付き、従来図④のピンクの部分のみが安倍氏所領内でしたが、衣川柵より南側にも勢力を拡大しました。

特に、藤原経清は、この地域での朝廷への貢租に使った赤札の代わりに、自分達の白札を使い、この貢租を全て安倍氏側で徴収するという朝廷への対抗措置を取りました。(写真⑤)

⑤藤原経清を演じる渡辺謙さん
(大河ドラマ)
朝廷としての面目丸潰れです。

「何をしている!!早く安倍一族を討て!!」

朝廷から陸奥国守源頼義へのプレッシャーは日に日に大きくなります。

頼義は早く兵力を増強するために、関東や東海、近畿等の源氏一族に働きかけて徴兵を加速すると同時に、もう一工夫考えます。

それは、寒冷地に強い安倍一族とその軍に対抗するには、やはり寒冷地仕様の軍が必要であり、それらは前述地域での徴兵ではなんともなりません。

そこで前回お話しました東北地方の安倍氏以外の一大勢力、仙北三郡を所領する出羽(秋田県)の清原氏を頼ることにしました。

この軍なら安倍氏と同じ寒冷地仕様ですし、勢力も十分に大きく、かつ大体隣国同士はライバル意識が強いので、源頼義ら朝廷軍の力強い味方になると考えたのです。(図⑥)
⑥源頼義は出羽の清原氏と連合を組む

当初、清原氏の当主は拒否したとのことですが、何か「珍妙」な贈り物を源頼義がしたところ、1万の兵を弟の清原武則(きよはらたけのり)につけて源頼義軍に合流させました。

清原軍との連合により、朝廷連合軍は1万3千となったのです。先の戦が1800だったことを考えると、かなりの大軍です。

3.安倍氏領内への侵攻

安倍氏率いる蝦夷軍も、この清原軍が源頼義軍と合流した直後、衣川柵(平泉)の一歩手前、現在の一関市辺りで朝廷軍を迎撃します。

朝廷軍はこの時も、長雨で進軍を中止し、補給物資が欠乏しかけていました。
また、更に既に2回蝦夷軍に負け、「蝦夷軍強し!」いうトラウマが朝廷軍の中に蔓延していました。

しかし、今回の遠征では、源頼義のリーダーシップが今までより遥かに発揮されたのです。この時の源頼義は、あえて前向きな事ばかり言うことで、「また負けるかもしれない」という意識を改革します。

敵が攻めて来た事に対し、源頼義は「好機到来!」「今の朝廷軍の勢いは侵略する水火の如く!」等々
⑦中尊寺月見坂にある八幡堂(上)
※下は八幡堂向かって右手にある月見坂
全軍を盛んに鼓舞し、ネガティブシンキングを除去します。

これが上手く働き、今まで負け続きだった朝廷軍は蝦夷軍に緒戦で勝利を収めることに成功するのです。勿論、軍勢が増えたことや清原軍の援軍要因も大きいとは思いますが・・・。

また、源頼義は、この進軍中にも戦勝祈願もあちこちで行っています。(写真⑦)

平泉中尊寺にある月見坂の脇に八幡堂という源頼義が緒戦の勝利と安部氏討伐祈願をしたお堂があります。金色堂に比べると地味で訪れる人も殆ど居ませんが、ここを訪れた頼義は、やっと幸先が良くなりかけて来た時だけに、かなり熱心に祈願をしたと想像できます。この祈願を行った経緯と、藤原清衡がここに中尊寺を建立したことに何か関係があれば面白いのですが、今回の調査の中では残念ながら、それは分かりませんでした。

4.厨川柵の戦い
⑧衣川柵跡

八幡堂で祈念したことが効いたのかどうかは分かりませんが、この後、朝廷軍は図④のように安倍屋敷のあった衣川柵を落とし、安倍氏の所領奥六郡に侵攻することが出来ました。(写真⑧)

そして、北へ落ちていく安倍一族の蝦夷軍を鳥海柵等でも破り、厨川(くりやがわ)柵へと追い込んでいきます。(写真⑨)

この厨川柵は、安倍一族の本拠であることから、安倍貞任らも、ここをとられたら終わりと考えます。なので、蝦夷軍は決戦覚悟なので、流石の朝廷連合軍も歯が立ちません。

そこで、源頼義らは、厨川柵の対面に薪を積み上げ火を付けようとします。

勿論、蝦夷軍も、それに火を付けること位は分かっています。しかし、朝廷軍は柵に薪を立てかける等ではなく、あくまで蝦夷軍の矢雨の中、矢立を柵近くまで前進させ、そこに薪を積んでいるのです。

そんなものに火を付けたところで、柵まで火は廻らず、精々煙による突撃陣の目くらましくらいだろうと、蝦夷軍は高を括ります。

さて、この作戦、実は最後は神頼み戦法です。
総大将源頼時は、前線に出てきて祈ります。

⑨厨川柵跡(盛岡市)
※現在は天昌寺が建っている
「今迄戦勝祈願をしてきた八幡の神々よ。どうか皇国をお守するために、これらの薪にくべる火をもって逆賊安倍一族を葬り去り給え!」

そして柵近くに設置した薪に火矢で火を付けます。単にそこで燃え広がる薪を見て、蝦夷軍は笑います。

「やはり、そこで燃えているだけじゃないか!(笑)」

と言った次の瞬間、大風が吹いてきて薪の火は一気に大きく燃え広がり、柵にまで飛び火します。そして柵はどんどん延焼して燃えるのです。

蝦夷軍は大混乱、そこにすかさず源頼義・義家をはじめとする朝廷軍は踏み込み、見事蝦夷軍を撃滅。安倍貞任をはじめとする一族や、藤原経清を捕縛・斬首することに成功。

ここで蝦夷の王者、安倍氏は滅ぶことになり、これが世に云う前九年の役のあらまわしです。

5.源頼義・義家の戦勝祈願について

前九年の役、如何だったでしょうか?

源頼義が神頼みで祈る中に出て来た「今迄戦勝祈願をしてきた八幡の神々よ。」について、補足説明を最後にさせて下さい。

⑩杉並区にある大宮八幡宮
源頼義は、この戦に臨み、既にお話しました月見坂の八幡堂以外にも、2か所で八幡様に戦勝祈願をしているのです。

それは、陸奥国守に任命され、安部氏討伐を朝廷から拝命された時、源頼義は相模国守だったので、陸奥国行きの前に、相模国内・鎌倉の鶴岡八幡宮の前身である鶴岡若宮に戦勝祈願をしています。

また、鎮圧軍を進め、現在の東京杉並区の辺りに差し掛かると、空に白雲が八条にたなびき(イメージは写真⑫参照)、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となったため、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜び、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈ったのです。(写真⑩)

戦後、鶴岡八幡宮の前身である鶴岡若宮ならびに、杉並区には大宮八幡宮という大きな神社を建立し、戦勝祝いの印としたのです。両八幡宮とも京都の岩清水八幡宮の八幡大神を勧請して創立されています。
⑪鈍刀で藤原経清の首を斬る頼義
「後三年合戦物語」より

ということは、もしもの話で恐縮ですが、源頼朝が、関東の何処を首府とするのが一番良いかの結論を、鎌倉ではなくて、後の徳川家康のように江戸とチョイスしていたのであれば、この杉並区の大宮八幡宮も、鶴岡八幡宮のような機能を担っていたのかも知れません。つまり江戸の守り神ですね!

勿論、大宮八幡宮は、現在も写真⑩のように大きな神社ですし、鶴岡八幡宮と大きな差があるとは思いませんが、ここが鎌倉の鶴岡八幡宮と同様、江戸という都市の中枢的な役割になっていて、多少、江戸の町の機能も変わっていたらと想像すると面白くありませんか?

6.おわりに

前九年の役で、捕らえられた安倍一族もさることながら、源頼義が一番憎んで余りあったのが、藤原経清です。

それは、かれの離反によって戦役を泥沼化させ、さらに国守としての頼義の面目を大いに潰されたことにあります。頼義は、引き出された経清を罵倒し、わざと切れない鈍刀を使って、苦しみが長続きするように、経清の首を刻み落とし、積年の鬱憤を晴らすのです。(絵⑪)

ただ、経清の妻は清原氏の長男に再婚させるのです。この妻は、連れ子がありました。それが、このシリーズの中心人物、後に藤原清衡となる清衡なのです。

⑫東北の雲・空
さて、この清衡が、次の後三年の役(後三年合戦とも云う)の中心的人物になって行きます。また陸奥国守の源頼義の息子たち、義家(八幡太郎義家)や義光(新羅三郎義光)らも後三年では清衡らとともに大乱闘をしますので、続きを楽しみにお待ちください。

最後の最後に一言だけ、現首相の安倍晋三氏は、この安倍頼時(ちなみに図①の安倍宗任)のご子孫にあたります。

やはり蝦夷は現代まで強いです。

今回私が蝦夷地へ向かう東北自動車道からも、写真⑫のように、雲が綺麗に見えました。源頼義が東北に向かう途中、杉並区でみた雲もこんな感じで、印象的だったのでしょうか。(写真⑫)

長文お読み頂きありがとうございました!!
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【黄海の合戦】岩手県一関市藤沢町黄海町裏63
【八幡堂(月見坂)】岩手 県 西磐井 郡 平泉 町 平泉 衣 関 46
【衣川柵】岩手県奥州市衣川区並木前
【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目
【大宮八幡宮】東京都杉並区大宮2丁目3−1

木曜日

中尊寺金色堂① ~蝦夷を恐れる朝廷~

世界遺産である平泉中尊寺金色堂に行ってきました。(写真①)

①中尊寺金色堂
ご存知のように、全て金箔を貼った金色堂は、マルコ・ポーロが「東方見聞録」の中で、日本を「黄金の宮殿」がある国、ジパング(Zipangu)として13世紀末にヨーロッパに紹介したその宮殿のモデルと言われています。

Japanの語源にもなっている、このZipanguで、日本が「金の国」という幻想は、この時に確立しました。

後の15世紀における大航海時代、コロンブスは「金の国」日本へ行く近道は、コペルニクスが言うように本当に地球が丸いのであれば、マルコポーロのようにアジア大陸の陸路を行くより、海を西周りに行く方が早いと想定。大航海に出かけ、結果アメリカ大陸を発見することとなったのも、この金色堂建立のお蔭と言えるかも知れません。

②写真の中の金色堂の孔雀のあしらわれた
須弥檀に奥州藤原初代の清衡は眠っている
このようにJapanという語源やアメリカ大陸発見等々、世界的視点での色々なきっかけを作った金色堂。この視点からも世界遺産に登録されてしかるべき遺産だと思います。

ただ、これ程世界に影響を与えた金色堂、どうして奥州藤原三代の礎を築いた藤原清衡(きよひら)がこれを建立しようと考えたのか等は、割と知られていないような気がします。
(写真②)

そこで、今回この金色堂建立の経緯を、幾つかのシリーズに渡り描いていきたいと思います。

1.蝦夷(えみし)の国

まずは、有史以後の東北地方を俯瞰してみます。

③8世紀の東北地方状況
現在の岩手県から青森県一帯は蝦夷の国
というのは、初期の東北地方の中央政権に対する反骨精神的なものは、その後の中世の間、一貫した彼らのDNAとなっているように感じますので、そこを見て行きます。

8世紀、桓武天皇の時代。

京の中央政府は、東北地方のまつろわぬ(順わぬ、服わぬ)人々を、蝦夷(えみし)と、未開地の野蛮人を指すような言葉で呼びました。(地図③)

この言葉とは裏腹に、この蝦夷の国の実態は、物産が豊かで、金をはじめとし、名馬・鷹の羽・アザラシの皮など都で珍重されている特産品の産地だったのです。

また、基盤が稲作社会である中央政権とは違い、まだまだ狩猟民族の傾向を残した蝦夷でした。したがって、日常的に弓馬を使い、狩りの生活をしていたので、かなり強い兵士ばかりでした。

このような中、朝廷はこの蝦夷の土地に「城柵」を作り、少しづつ版図を拡げる政策を取ったのです。桓武天皇の頃には地図③にあるように、現在の仙台市の北東に「多賀城」という大きな鎮守府を置き、5万、10万の大軍を送り込んで、蝦夷を制圧しようとしました。(写真④)

しかし、蝦夷の大将 阿弖流為(アテルイ)等の反抗で、なかなか上手く行かず、最後は征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)がこの地を平定するまでに20年以上の時間が掛かるのです。

④東北の鎮守府が置かれた多賀城(仙台)
その後の時代も、中央政権になかなか「まつろわぬ」東北を、「道奥(みちのおく)」と文化が遅れていると見下そうとする傾向が続きます。

ですが、東北地方は、中央政権の喧伝とは裏腹に、かなりの富と優れた人材を蓄えていったことこそが、中尊寺金色堂が世界的に有名なる程の発展につながるのです。

2.安倍氏と清原氏

時は移り、11世紀の平安時代、藤原道長が「望月の欠けたることもなしと思えば」とのたまったピーク時から時既に30年も経つと、少々世は荒れ始め、仏教でいう末法の世となってきました。

宇治の平等院の建立が始まったのもこの頃の京の世相を反映したものです。

これら京の廃退を尻目に、この頃の東北地方は、金や豊富な物産等による力を蓄えてきておりました。ただ、蝦夷は坂上田村麻呂の平定後、陸奥の拡大国となっております。

⑤陸奥の国の安倍氏
 出羽の国の清原氏
また、特にこの頃、貴族のボディガード役であった武士団が、中央政権でこそ、貴族には頭が上がらないでいるものの、貴族の居ない地方では、勢力を増長し、東北地方でもその傾向は顕著でした。

この時、東北地方では、陸奥の安倍氏と出羽の清原氏が勢力を拡大していました。(絵⑤)

しかし、朝廷は、このような東北の秘かなエネルギー蓄積を、その情報網で敏感に嗅ぎ取っていたのでしょう。
特に安倍氏の陸奥の国は、8世紀から煮え湯を飲まされ続けた元蝦夷の地。

下手な反骨精神を持たぬよう適度に叩いておく必要を本能的に感じたのだと思います。

3.前九年の役の開始

そこで、朝廷は、貢租を怠っていたことを理由に、1051年に朝廷軍が安倍氏討伐を開始します。ところが、朝廷軍は安倍軍に散々打ち負かされ退却。(鬼切部の戦い)

朝廷は、この討伐軍の将軍を解任。源氏の武将を将軍に任じます。(絵⑥)
その名は 源頼義(よりよし)

⑥源頼義(よりよし)
頼義の息子たち、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)や、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の方が、神格化された源氏の開祖として有名なのですが、実は頼義もかなり出来た人らしく、桓武平氏系の、平将門を滅ぼした平貞盛の嫡流、平直方(たいらのなおかた)という人から武勇を見込まれます。
直方は、自分の娘を貰って欲しいと、嫁がせるだけでなく、鎌倉にあった屋敷や郎党まで付けて渡した程です。

しかし、この話良く考えると、上記源氏の神として神格化された義家や義光は、平家方の母から生まれているのですね。清和源氏・桓武平氏とは云うものの、実態は結構血のつながりが源平入り乱れていると思いませんか?

話を戻します。源頼義は、その優れた武勇を朝廷に見込まれ、陸奥守&鎮守府将軍として、多賀城に赴任してきました。
そして、陸奥国の安倍氏討伐の準備に取り掛かります。

ところが、安部氏の首領であった安倍頼良(あべよりよし)は、平身低頭で頼義に恭順の意を示します。
なんと、自分の名と頼義の名の音が同じ「よりよし」では恐れ多いとして、「頼時(よりとき)」に改名してしまうのです。
⑧藤原経清(つねきよ)
※抱いているのが清衡
「後三年合戦物語」より
また中央政権の京でも国母の病気平癒祈願による恩赦で、安倍氏討伐は、停戦状態となりました。

それから5年間平和に過ぎ、陸奥国守の任期が終わる源頼義の送別会を安倍頼時が開いてくれたのですが、送別会後の頼義の陣中が安倍頼時の息子によって荒らされたという事件が起こり、頼義は頼時に息子を差し出せと言ってきます。安倍頼時は事実無根と言ってこれを拒否。

すかさず源頼義挙兵、朝廷からも速攻頼時追討の宣旨が下され、停戦解除となりました。

私見ですが、これって言掛りだったのではないでしょうか?朝廷は8世紀の頃より、自分達に従わない蝦夷(安倍頼時)が嫌いなのです。しかもパワーがありますから。

安倍頼時は勿論、そんな中央政権側の事情を良く知っているので源頼義の任期5年間、耐えに耐え、なんとか中央政権の毒牙から逃れようとしたのだと思います。

ところが、逆に安倍頼時を討たずして、武勇に優れた源頼義の任期が終わってしまう、これは大変ということで、朝廷から隠れたミッションを持って誰かが、この言掛り的な頼時追討・停戦解除の名目作りを、頼義の任期完了目前で行ったのではないかと邪推します。

そう考える1つの根拠は、藤原経清(つねきよ)という源頼義陸奥国守の片腕的な存在が居ますが、頼義を寝返り、安倍頼時側に付いたことです。(絵⑧)
⑨前九年の役における安倍一族と源頼義一族の関係図
※赤字は源頼義側 (クリックで拡大)

文献等では、藤原経清は義理の兄である平永衡(えいひら)が、頼義に裏切りの嫌疑を掛けられ、誅殺されたことから、自分も頼義に嫌疑を掛けられる可能性があるので、安倍氏側に逃げたとあります。(図⑨)
ただ、その誅殺された義理の兄弟が本当に裏切っていたかどうか怪しいのです。

経清は、蝦夷の迫害を汚いやり方で推進しようとする朝廷や頼義に嫌気が差したのではないでしょうか?

ちなみに経清は、この「前九年の役」後の「後三年の役」等で主役的役割を果たし、かつ奥州藤原三代の礎を築いた初代藤原清衡(きよひら)の父親です。(図⑨参照)

清衡は、この前九年・後三年の動乱を生き抜き、平泉を開いて、最後は悟って仏の道を進んだ人であり、そのような立派な人物の父親が、簡単に寝返ったりするとは思えません。余程腹に据えかねる事態があったとすれば、根本はやはり朝廷の蝦夷迫害にあるような気がします。

⑩前九年の役(クリックで拡大)
gregorius.jpより
1057年、「前九年の役」の戦端が再び開かれました。(図⑩)
勿論、源頼義の陸奥国守は重用です。

4.安倍頼時討死

平永衡と藤原経清という二大臣を失った源頼義でしたが、経清の裏切りには腹が立ちます。そこで、津軽地方の安倍頼時の従兄弟を味方に引き入れようと画策し成功します。

⑪安倍貞任(さだとう)
これを知った頼時は焦ります。

自ら従兄弟を説得しようと津軽に向かうのですが、逆に従兄弟の伏兵に遭い、重傷を負い撤退。そして図⑩の中にある鳥海柵にて死亡。

この頼時の討死に、安倍陣営は意気消沈するどころか、頼時の息子貞任(さだとう)が弔い合戦の勢いで、頼義殲滅の気炎を上げます。ちなみに貞任は、先にお話しをした頼義の送別会時に頼義陣営を荒らしたとして、頼義に引き渡しを言われたその本人です。(絵⑪)

朝廷の横暴に耐えに耐えてきた父・頼時が、自分に嫌疑が掛けられた時には、流石にこれに耐えることはせず、自分を守ることを優先してくれたのです。
そしてその事により、自分の命を落とすこととなってしまった父・頼時。

彼は父親の愛情を強く感じると同時に、朝廷及び源頼義によって殺された父親が不憫でなりません。

おのれ!源頼義!蝦夷の実力を思い知らせてやる!

貞任は、源頼義を返り討ちにするため、兵4000を衣川の屋敷に集結させるのでした。(写真⑫)

5.おわりに

⑫衣川柵にある安倍氏屋敷跡
「屋敷跡」の木碑は根腐れしており
手で支えないと倒れてしまう(笑)
安倍氏を討伐する理由が、税を納めるのが滞っているでは、何か本当に言掛りっぽいですね。

ちょっと思い出したのですが、ずーっと後の時代、豊臣家大阪城を滅ぼすときの、徳川家康の言掛り的理由「国家安康」。
この時、屁理屈付けてでも滅ぼさなければならない真の理由は、大阪城に眠る大量の金。これを徳川家が恐れたのでしょう。

結局、これと同じで、朝廷軍によるこの討伐や、遡って8世紀の蝦夷征伐、もっと言えば、12世紀の源頼朝による奥州征伐、16世紀の秀吉軍による奥州仕置等、東北地方に対する国家権力の態度の裏には、金の産出、毛皮、海産物等の物産で潤う蝦夷の力に対する恐れがあったのかも知れません。

製作のはげみになりますので、お手数ですが記事末にある「人気ブログランキング」をクリック頂きますようお願い申し上げます。

長文お読み頂き、ありがとうございました。

【平泉中尊寺】岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
【多賀城廃寺跡】宮城県多賀城市高崎1丁目15
【衣川柵の安倍氏屋敷跡】 岩手県奥州市衣川区並木前

日曜日

為朝の矢② ~伊豆大島~

①為朝から天然痘の
疱瘡神が逃げるの絵
為朝の話から、話がいきなり逸れ失礼します。

江戸時代、天然痘が爆発的に流行り病として登場し、種痘によるワクチン製作を西洋医学から学び、大阪や江戸の民の治療にあたった緒方洪庵の活躍等は、皆さまご存じの通りです。

しかし、種痘を施すようになる前の時代、これらの流行り病は、罹ってからでは手の施しようがないため、罹患しないための予防に腐心していました。

その1つの手段として、家の門に「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼るというものがあります。

何故なのでしょうか。(絵①)

為朝の生涯の後半を描くこのBlogでは、その辺りの経緯も含めてお話したいと思います。

1.伊豆大島での流刑生活

前回、為朝が保元の乱で敗れた後、捕縛され、弓が射れないように肘の健を切断され、伊豆大島に流されたところまでを描きました。(詳細はここをクリック

②伊豆大島にある為朝の館跡
罪人とは言え、源氏の血統、かつ有名人の為朝の事、写真②のような立派な赤い門の屋敷に住んでいました。(写真②)

私が伊豆大島に訪問した時も、流石にこの赤い門は良く目立ちました。勿論、現在はここを所有するホテルが何度も塗り直しているのですが、当時も為朝を貴人扱いして朱塗りの屋敷に住まわせたと伝わっています。

また、一説には、昔は有力者の怨霊封じ込めは必須の事でしたので、為朝亡き後、その怨霊を慰撫するための赤という説もあります。

話を戻しますが、この伊豆大島に流された為朝は、腕の肘の健の治療に励みます。
そして、かなり治ったと思われる頃に、為朝は弓の試射を行って、その恢復度合いを測るのです。

「兄・義朝のやろう!鎌倉でのうのうと過ごしているのかあ!」

③伊豆大島の為朝館
から鎌倉へは64.6㎞
ついつい伊豆大島で無為に過ごす為朝の脳裏に、保元の乱で、矢を威嚇射撃した時の兄・義朝の姿が目に浮かびます。

「まあ、ここから撃っても、流石に兄者には当たらないだろう。」

と、為朝は、義朝の起居する鎌倉へ向けて思いっきり弓を番え、ヒョーと射るのです。(地図③)

ところがこの矢はなんと、弾道ミサイル宜しく、鎌倉まで届いてしまうのです。地図③でもお判りのように、距離は64.6km離れています。

畏るべし為朝!!

前回のBlogの冒頭に述べた知人が算出した為朝の矢の初速度は時速3000㎞以上、プロ野球の剛速球ピッチャーの球速の20倍、新幹線速度の10倍以上という値は、この事実を基に空気抵抗が殆ど無いとして計算したものです。この初速度で射ても、実際の空気抵抗等を考慮すると絶対届かない、自律的に推進力を持つミサイルのような矢でない限り、64.6㎞矢が飛ぶことは無理という結果に達しています(笑)。
ただ、万が一届いたら、恐ろしい勢いということになりますね。

ですが、その時放った矢が、恐ろしい勢いで地面に刺さり、深く穴を開け、そこから水が湧いたという井戸が鎌倉の材木座に残っています。(写真④)

④六角の井
※右の石碑は左の建物の裏にある
写真でも分かります様に、住宅街の一角に何気なくあります。

井戸を覗いてみると、確かに水が湧き出しています。その時の矢じりが井戸の水の中にあるということですが、深くて確認することはできませんでした。(写真⑤)

本当か嘘か怪しい井戸ではありますが、一つ素晴らしいと感じたのは、この史跡もやはり、付近の方々から愛されているのですね。

暑い中、茫々に生えた井戸の夏草を一生懸命刈り込む方がいらっしゃいました。(写真⑥)

こういう、さり気ない活動が、古(いにしえ)の日本を大切にする心に繋がっているようで、とても嬉しくなりました。

2.伊豆七島の征服と破滅

さて、肘も治り、また元の剛弓を番(つが)えることができるようになった為朝は、また暴れ出します。

まず、島の代官の娘と結婚し婿になり、伊豆大島は本国から独立すると言って年貢を納めなくなります。

⑤井戸は水が湧いています
矢じりは見えません
次に、伊豆七島の制圧に乗り出します。大体九州に放逐された時も、九州を制圧し、「鎮西」と名乗った位ですから、為朝は行った先を制圧するのが好きなのですね。

しかし、この鎮圧話は保元の乱のように公式文書が残っている訳ではないので、多分に伝説的です。

例えば、鬼の子孫が暮らす島に渡り、鬼の子孫である大男達を相手に大立ち回り、島を平定して、一人の大男を従者として伊豆大島に連れて戻ってきました。まあ、たまたま島の大男を従えて帰った時に、そのような作り話をしたのだと想像されます。

別の話の例で恐縮ですが、昔北欧のバイキングが「この大海原の先に、このアイスランドよりはるかに豊かな緑の大きな島がある。」と云って人々を移住させた島がグリーンランドだったように、その島に実際に行ってない人には嘘か本当か分かりません。グリーンランドはご存じの通り、実際には寒冷地でアイスランドより緑が少なく、現在その作り話の名称が正式な島名になってしまいました(笑)。

更に、少々下品ですが、美女ばかりとの噂の島があり、そこに行った野郎は誰一人として戻ってこないという伝説がありました。為朝らは、この島に調査に出かけます。すると出てくる女性は本当に美人ばかりで、到着した野郎の理性を完全に痺れさせ、事に至らせようとします。

⑥為朝の井戸の雑草刈りをする住民の方
ところが至ろうとすると、女性器には隠れた「歯」が付いていて、男性器を切り落としてしまうため、男性が絶命するというカラクリだったのです。道理で誰も帰ってこない訳です。それを見破った為朝は、そうなる前に海岸で手ごろな石を拾い、「ガリっ」と噛ませて、その歯を折ってしまう方法で、この島を制圧(?)するのです。

島の間に伝わる御伽噺と為朝伝説が完全に融合していますね(笑)。

3.疱瘡の神様

伝説ついでに、もう一つ。

冒頭にお話ししました、天然痘が流行った時に、江戸時代の人々が家の門に「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼った理由も、この伊豆七島を制圧した時の話に由来します。

⑦疱瘡神が為朝に手形を渡す絵
(国芳画)
絵⑦を見て下さい。この絵は、為朝が八丈島を制圧した後の事を描いた絵です。(絵⑦)
八丈島には疱瘡神(ほうそうしん)という疱瘡(水疱瘡、はしか、天然痘等)の神様が、他の獣霊等と一緒に暮らしていました。

絵の中の黄色い服を着た老人が疱瘡神です。

天然痘等の医学的知識が乏しかった当時は、天然痘等がどうやら海外からもたらされる、特に南国から来るとの認識から、どこぞの南国の島に疱瘡の神様が住んでいるに違いないとの迷信が盛んでした。

なので、南国で、当時は良く分からない島である八丈島(?)辺りが疱瘡神の居る島と思われたのではないかと推測します。

さて絵の中で、他の獣霊らと一緒に制圧された疱瘡神が手にもっているのは、為朝に提出を求められた手形です。

「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」と為朝は書かせたと言われています。

この話が基で、繰り返しになりますが、江戸時代の人々は家の門に、天然痘除けとして「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼ったのです。

4.破滅&逃亡伝説

このように、九州に行けば九州を、伊豆大島に行けば、伊豆七島を制圧してしまう為朝。

彼が豪傑なのは、彼が住んでいた当時の社会システムに全く興味が無く、まるでガキ大将のように、喧嘩勝ちし、相手を服従させていく という単純さにあると思います。

しかし、子供じゃないのですから、社会システム側は、こういう大人のガキ大将を抑制しに来るのが道理です。九州で暴れている時も、朝廷が為朝の父親の官位剥奪という手段で、為朝を抑制しました。(前回のブログ参照

⑧左側の為朝が矢を放ち右側の軍船を沈める
今回は、伊豆七島を領有する伊豆国の伊東・北条氏らが朝廷に陳情し、為朝討伐の院宣を取り付けます。

そして軍勢500で、伊豆大島へ船で繰り出します。
この船が島に近づくのを見て、為朝は観念します。

しかし、彼は「一矢(いっし)報いたい!」と云ったかどうかは定かではありませんが、その弾道ミサイルさながらの一矢(ひとや)を300の兵を乗せた船にヒョーと射かけるのです。見事命中、為朝の弾道ミサイル並の矢を受けた船はあっという間に沈没。(絵⑧)

しかし、残りの200が到着する前に、彼は9歳になる息子の首を刎ね、自分も倒れぬよう柱に体をもたせたまま、割腹して果てるのです。

武士で初めて切腹したのが為朝という説もあります。

◆ ◇ ◆ ◇

⑨大島を脱出した為朝とその息子を救出するの絵
(国芳画)
しかし実は、この割腹自殺したのは為朝の替え玉であり、為朝は息子らと一緒に大島を抜け出し、海上を琉球(沖縄)に向け逃げたという説があります。

右の絵は、有名な歌川国芳の画ですが、逃げる為朝らが大嵐に遭い、船が難破しかけた時、為朝が保元の乱で味方した祟徳上皇配下の烏天狗(絵中白抜き)が現れて為朝を救い、海に投げ出された為朝の息子は、海底から現れた大怪魚に助けられるという場面が描かれています。(絵⑨)

そして、為朝の息子は、後に琉球王国の初代琉球王「舜天(しゅんてん)」になったとしています。この手の話を聞くと、皆さまの中には「まあ、義経も北海道経由で満州に渡り、チンギスハーンになったという伝説もあるし・・・」と思われるかも知れません。

⑩沖縄にある為朝上陸の碑
しかし、これは琉球王国の正史『中山世鑑』に記載されている事なのです。

この時為朝が沖縄に上陸した場所に、今も祈念碑が建っています。(写真⑩)

5.おわりに

為朝の生涯、如何でしたでしょうか?

実は、為朝に関係する伝説は、まだまだここにご紹介させて頂いたもの以外、山ほどあります。

また、為朝を扱った浮世絵等のコンテンツ、これもWeb上にわんさかあります。

勿論、為朝の豪傑としての資質や、豪傑故のレジェンド話等、皆が為朝に対する尊敬と愛情の念を抱いているからではあるのですが、江戸時代にこの為朝ブームに火を付けた立役者がいます。

先程、疱瘡神除けに為朝のお札を家の門に貼る風習についてお話しましたが、これは江戸時代だけです。その前の鎌倉・室町・戦国時代には、このような風習は無かったのです。

なぜでしょうか?
これも、その立役者のお蔭なのです。

滝沢馬琴(たきざわばきん)

⑪九段下にある馬琴史跡
ここで彼は読本を執筆
そう、「南総里見八犬伝」で有名な江戸時代の読本作家です。

当時(19世紀初頭)は、まず為朝伝説を扱ったデビュー作「椿説弓張月」の評価が高く、売れに売れ、読本家としての地位を確立した馬琴が、ライフワークとして手掛けたのが「南総里見八犬伝」。(写真⑪)

なので、この為朝の「椿説弓張月」が馬琴を読本世界のスターダムにのし上げ、歌舞伎での上演や、浮世絵で第一級の歌川国芳らにも盛んに取り上げられる等、それはそれは大変な人気でした。

それで、この小説に出てくる疱瘡神との話を元に、「為朝公のお宿」の札を貼る風習が生まれたのです。なので江戸時代だけという訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

馬琴も取り上げ、江戸時代当時もベストセラーになった為朝物語。

為朝は、頼朝が「蛭が小島」に流されいる1160年当時も、伊豆大島に居ました。伊豆大島で自決または脱出するのは、頼朝が挙兵する3年前の1177年です。

本来、源氏の血統を汲むのですから、近くの伊豆半島に居る頼朝らと連絡を取り合い、頼朝挙兵に、その英雄振りを発揮すれば良いのに!と思うのは、下衆の発想なのでしょうね。

なんと言っても鎮西八郎為朝の魅力は、ノンポリ(Non-Political)で権力に依らず、子供のような単純無垢な強さとやさしさを兼ね備えたヒーロー性にあるのでしょう。

私も色々と調べるうちにすっかり為朝に魅了されてしまいました(笑)。
皆さまは為朝についてどう思われますか?

長いお話にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
それではまた次回!

【伊豆大島為朝館跡】 東京都大島町元町1丁目16−7
【源為朝上陸記念碑(沖縄)】沖縄県国頭郡 今帰仁村運天47
【滝沢馬琴硯の井戸】東京都千代田区九段北1丁目5