マイナー・史跡巡り

日曜日

いなげや① ~稲毛三郎と升形城~

いきなりですが、東京近郊の方でしたら、ファミリアな方が多いと思うのですが、スーパーの「いなげや」(写真①

①いなげや
この店舗の名称「いなげや」が川崎の多摩川南岸に所領を持っていた稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)にちなんで付けられたのをご存知でしょうか?

今回から鎌倉時代初期の、この武将の話を取り上げたいと思います。少し大きな話ですので、複数のシリーズにまたがり、お話させてください。
こちらも、私個人の想定も多分に含まれておりますので、あくまで1つの説としてお楽しみ頂ければと存じます。

1.東国の平氏

私の近所に「平」という土地があります。(写真②

②近所にある「平」という地名(稲毛総社前)

ご存じのように、平氏は「桓武平氏」という流れから来ているのですが、どうやら「平」という姓は、平氏の始祖である桓武天皇が平安京に遷都したことにより、この平安京の頭文字「平」から来ているという説が有力です。

多分そうなのでしょうが、私は平氏の源流に近い平将門(たいらのまさかど)を調査した時に、その拠点にある國王神社拙著Blogはこちら)等のあたり、上総地方(茨城県)の土地の、それはそれは平らなことに驚きました。

北海道にも負けない平らな雄大さを現場で感じ、このような馬が走り回れる環境が、坂東武者が騎馬に長けているという基礎を作ったのだろうと想像しました。(写真③

なので、関東平野の悠大な平さを象徴して「」と付けたような気がしてなりません。

③平将門らの拠点となった茨城県坂東市は本当に「平」
で悠大な土地(出典:@yb_woodstock)
良く「東国の源氏、西国の平氏」のように言われることがあります。


これは、源平合戦の頃の源氏が鎌倉という東国を拠点とし、平氏が厳島神社を守り神とし、福原(兵庫県)のような西国に拠点を築き、最後は山口県下関の壇ノ浦で滅びるためにそう言われるようです。

ただ、それぞれの出自となると、実は全く反対なのです。
つまり「東国の平氏、西国の源氏」なのです。

平氏は、先に述べたように平将門の乱の時の根拠地は、
上総地方(茨城県坂東市)の辺りですし、これを鎮圧した従兄弟の平貞盛(さだもり:清盛の先祖)もその周辺と、坂東武者は大方、平氏出身が多いのです。(詳細は拙著Blog「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」参照

逆に、源氏は河内源氏近江源氏等の呼び方に代表されるように、西国出身なのです。源氏にゆかりの深い石清水八幡宮も京都ですね。(写真④

④石清水八幡宮
※トリップアドバイザー提供

2.秩父平氏と北条時政

さて、今回の稲毛三郎重成、彼は神奈川県横浜市に住む私の近所に拠点を持つのですが、写真②の土地名に代表されるように「平氏」なのです。

そして、これから、この稲毛三郎重成を語るにあたり、出て来る主な人物は1名を除き、全て平氏出身なのです。ちなみに除いた1名とは源頼朝(みなもとのよりとも)、源家そのものです。

稲毛三郎重成は、武蔵野国(埼玉県)に居を構える畠山重忠(はたけやましげただ)とは従兄弟であり、重忠も重成も「秩父平氏」と呼ばれています。

そして、この2人の従兄弟に姉妹を嫁がせた男がいます。

北条時政(ほうじょうときまさ)

そう、彼は自分の娘、政子を頼朝へ嫁がせたことは非常に有名ですね。
つまり、時政は、「源頼朝」「畠山重忠」「稲毛三郎重成」の3人の義父になるのです。

北条時政も平氏の出自であることは有名です。
これで1名の源氏と、3名の平氏のキャスティングは揃いました(笑)。(絵⑤
⑤左上:源頼朝 右上:北条時政
左下:畠山重忠 右下:稲毛三郎重成
前振りが長くなりましたが、これからこのキャスティングで演出される、愛と陰謀の物語(?)を描いて行きたいと思います。

3.升形城

この物語の主人公、稲毛三郎重成(以後、三郎)の居城は、多摩川の南側の河岸段丘の上にある升形城と言います。(写真⑥
⑥升形城本丸跡
頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたり、西の平家と並んで意識した仮想敵国が、北は平泉を拠点に20万もの軍を有するとされていた奥州藤原氏であることは、このBlogでも何度も取り上げた通りです。
四方を山に囲まれた鎌倉の土地の構造自体が防衛線となるのですが、これはあくまで第2防衛線です。
第1防衛線は、平家に対しては西の箱根、奥州藤原氏に対しては、ここ多摩川の南側の河岸段丘にある升形城小沢城等の城々なのです。(写真⑦
⑦北側から鎌倉を攻めて来る奥州王国に対する第1防衛線として
多摩川の南岸丘陵地帯に升形城を始め、多くの城を構築
この城に、三郎は北条時政の娘・綾子(仮名)を迎え入れます。同時期に畠山重忠も時政の娘・時子(仮名)を迎え入れます。あの北条政子の妹たちです。

そもそも秩父平氏である畠山重忠や稲毛三郎らは、頼朝挙兵当初は、平家側として、頼朝達と敵対しました。頼朝挙兵に功の大きい三浦義明(みうらよしあき)を討ち滅ぼしたりしたのです。(詳細は拙著Blog「三浦一族③ ~衣笠城落城~」ご参照ください。こちら

この時、平家軍に負けた頼朝が安房(千葉県房総半島館山)へ逃れ、そこから再起を果たします。東京湾を海岸線沿いにぐるーっと廻り、鎌倉入りを目指すのです。すると徐々に頼朝への参陣が増えていき、今の東京都隅田川の辺りに陣を敷いた時には、頼朝に従う武者の数2万に膨れ上がります。


その勢いに圧されたのでしょうか、畠山重忠・稲毛三郎の秩父平氏は、隅田川の頼朝の元へと参陣し、恭順の意を顕すのです。この時、頼朝も「よか、よか」と妻政子の妹2人を、この2人の妻として渡すのです。

わずか数か月前まで、鎌倉小坪海岸や、三浦半島の衣笠城で激しく頼朝支援軍を討ち滅ぼしていた畠山重忠らが、いとも簡単に投降するだけでも不思議なのに、頼朝も簡単に赦すだけでなく、妻まで与える・・・。不思議過ぎませんか?


何かありますね。絶対。

私の邪推ですが、やはり北条時政?。同じ平氏出身の時政が裏で、重忠や三郎を説き伏せ、また頼朝にも耳打ちし、更には自分の娘2人を彼らに渡す。

何やら策謀の匂いがします。

4.綾子

さて、三郎の升形城に輿入れて来た綾子。彼女は、姉である政子が男勝りだったことの反動でしょうか、常に「三郎殿、三郎殿」と稲毛三郎重成に寄り添い、何をするにも一緒に居ようとするのです。

そんな彼女を愛おしいと思う三郎。2人は本当に非常に仲睦まじい夫婦になり、廻りからも揶揄される程でした。

ところが、三郎は直ぐに義経に従い、畠山重忠と一緒に、平家討伐へと西国へ駆り出されます。上の写真⑤で馬を担いでいる重忠の銅像は、一の谷の戦いで、他の武将が、自分の愛馬に無理を課して急斜面を降りるのに対して、「馬が可哀想だ。負ぶっておりよう。」という重忠の豪傑振りを現したものですが、この時稲毛三郎も一の谷の戦いに重忠と一緒に参戦していたようです。

この平家討伐の稲毛三郎不在期間中、綾子は三郎が心配で心配で溜まりません。綾子はかなり甘えん坊なのです。そのような性格が三郎にも可愛く映ったのでしょう。

壇ノ浦で勝利し、升形城へ帰参した三郎の胸元へ、周囲の目も憚らずに、綾子は飛び込んできます。

そして涙目になりながら言います。

⑧升形城の見事な紅葉
「もし三郎殿が戦死でもしようものなら、私も死んでしまいます。どうかもう2度とこのお城から離れないでください。」
「よしよし、分かった。もう2度と升形城から出まい。平家が滅亡した今、鎌倉殿(頼朝のこと)にとって一番心配なのは、強い強い奥州の藤原秀衡だ。この城はその奥州藤原軍20万が攻めてきた時に、鎌倉殿を守らなければならない重要な城。わしが離れてはならない城だからな。安心せい。」


◆ ◇ ◆ ◇

ところが、その頼朝自身が、平家殲滅の時には動かなかった鎌倉を、奥州藤原氏を攻め滅ぼす時には動くのです。

そして稲毛三郎にも奥州合戦への参戦を促す書状が届きます。

「綾子、すまぬが行ってくるぞ」
「はい・・・、かならずやご生還を果たしてください。」
という綾子の目には、また涙が一杯溜まっています。

三郎が出陣してからの綾子は、また精神的に不安定な日々を送り続けました。そして幼少から病弱な彼女は、三郎が奥州に出発した日が経つにつれて、徐々に精神的に追いやられ、伏せこむ日が出てきました。

ある朝、彼女は升形城から、朝靄が立ち込める多摩川方面を見ると、なんとそこには20万の奥州藤原軍が遠望されたのです。(写真⑨
⑨升形城から多摩川方面を臨む
地平線左に新宿TOCビル、右側に
スカイツリーが分かりますか?
まさに上記写真⑨の升形城からみた北側方面は、左から新宿のビル軍(群)から右側の東京スカイツリーにかけ、奥州軍20万が展開し、升形城へと押し掛けてくるようてに、綾子には見えるのです。

今のように何もない時代ですから、大軍が来れば、この「」な関東平野、直ぐに目につくのでしょう。

長くなりましたので、続きは次回にしたいと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

権現山合戦② ~早雲vs扇谷上杉~

①太田道灌
前回早雲は扇谷上杉の有能な執事、太田道灌の脅威を排除するために、裏から扇谷上杉の当主定正(さだまさ)に手を廻したという仮説を書きました。

これにより、早雲から見て、上杉家中にあった最大の脅威は去りました。哀れ道灌は定正の部下に暗殺されてしまったのです。(絵①

今回は、この続きからです。

1.長尾景春、再び・・・(長享の乱)

この道灌排除の活動を通じ、早雲と扇谷上杉当主とは奇妙な連帯感が発生しました。

また、そこまで早雲が予期して行動していたかどうか分かりませんが、両上杉家の力関係にも変化が生じていたのです。(図②参照

山内上杉家は、元々本家なので、強大なパワーを持っていました。しかし、今回の長尾景春の乱以降、この家のNo.2の景春が離反し、各地の豪族もこぞって景春を支援したことから、勢力はガタ落ちです。

一方の扇谷上杉家は、No.2の太田道灌が景春の反乱軍鎮圧に活躍したことで、豪族等の信頼度が高まり、勢力は拡大します。

その結果、両家ほぼ対等なレベルとなったのです。

②上杉両家の構造(再掲)
こうなると面白くないのは本家山内上杉家です。

山内上杉家と扇谷上杉家は、これが原因で対立します。これを長享(ちょうきょう)の乱と言います。

それまでは、本家と分家は格の差が大きすぎたので、表立った対立は避けて来たのですが、対等となれば話は別です。

両家は泥沼の戦いである長享の乱を1487年~1505年の18年間にかけて行うのです。
詳細は色々とあり過ぎるので、ここでは描きません(笑)。

ただ、山内上杉家は前回も出て来た長尾景春が築城した「鉢形城」、扇谷上杉家は「河越城」を本拠として、今の埼玉県の北西周辺を中心に戦い続けるのです。(写真③

③扇谷上杉家の河越城(川越城)
勿論、早雲にも扇谷上杉家より援軍要請が何度もあり、参戦しています。

また長尾景春も、景春の乱失敗による失踪後も、秩父の山に隠れ生き長らえ、早雲とは連絡を取り続けます。

そしてこの長享の乱でも、多分、早雲からの支援要請もあったのでしょう。北関東から参戦して、山内上杉家を攪乱します。

2.早雲の小田原城乗っ取りの真相

ただ、扇谷上杉家も早雲や長尾景春の支援があるからと言って、この乱の期間中、ずっと優勢に立っていた訳では無く、人望が篤かった太田道灌を排除したことから、離反する武将も多く、山内上杉家より劣勢に立たされる場面もありました。

逆に、山内上杉家は、鉢形城から北側、特に上野国(群馬県)や、更にその北側になる越後(新潟)の国人の支援もあって、徐々に盛り返して来るのです。

そして、1496年には、なんと埼玉県以北でばかりの戦いをしていた山内上杉軍が、扇谷上杉家が強い相模国(神奈川)へ侵出しており、扇谷上杉側の武将、大森氏が守る小田原城をも落としています。(写真④
④小田原城

更に相模国の諸城を山内上杉家が落としていくのです。

扇谷上杉家はかなりの劣勢に立たされました。

一方、このピンチに見える事態を、早雲は、自身のチャンスにも変えてしまいます。

扇谷上杉家に彼は言います。

相模国の諸城を山内上杉家から奪還するために、まず、最初の一歩として小田原城を奪還します。

そして、奪還した小田原城を他の諸城攻略の足掛かりにしたいので、これを早雲の管理する城として下さい。

扇谷上杉家は、これを承諾します。

そしてここで、本当に小田原城を山内上杉側から奪還し、ここを足掛かりに、相模国の諸城を山内上杉家から奪還して廻るのです。

これは今までの通説、扇谷上杉側の大森氏から小田原城を奪う話と随分違います。

今迄の通説では、小田原城の背後の箱根山に、早雲の領地である伊豆方面から逃げた鹿を追いかける形で勢子を入れておき、夜中に牛の角に松明を付けて箱根山から大軍が押し寄せるように見せかけて、小田原城に居る大森氏を慌てふためかせて、城を乗っ取るという話が有名です。しかし、近年これは創作なのではないかとされています。(写真⑤

真相は、扇谷上杉家の窮状に付け込み、早雲に相模国の一部を割譲する形にしてしまったという事が、近年分かって来たようです。(大森氏が山内上杉家側に寝返ったため、これを早雲が打ち破ったという説もあります。)
⑤小田原駅前の早雲像も松明を角に付けた
牛たちと一緒の小田原城攻め説を表している

3.権現山城

このように、山内上杉家も扇谷上杉家も、小田原城の攻防の後も、取った取られたの一進一退が続いたようですが、最後、2家は同盟を結びます。ある意味、彼らにとっては、内紛であった今回の乱。実は、これを利用して、もっと両上杉家の力を削ぎたかったのは、早雲なのです。

なので、上杉家に争乱が無くなると、早雲は関東攻略の次なる手として、相模国から武蔵国へ影響力のある扇谷上杉家へ仕掛けざるを得ないと考えます。

ただ、太田道灌の排除を企図した頃から、今回の乱終結の今まで、非常に仲良くやって来たように早雲が見せかけた扇谷上杉家。それにより小田原城も割譲して貰ったのですから、短兵急に、波風を立てるより、もう少し扇谷上杉を利用したいと早雲は考えます。また、下手をすると伊勢原から三浦半島一帯という相模国の有力者、三浦道寸らが扇谷上杉を支援する可能性があり、その場合早雲は扇谷上杉と三浦氏に挟撃されてしまうという具体的なリスクもあります。

そこで策士早雲は、太田道灌亡き後の扇谷上杉家のNo.2である上田正忠(まさただ)をなんとか調略し、扇谷上杉に対し離反させる方策を考えます。

先の山内上杉家のNo.2である長尾景春を味方に付ける時もそうですが、早雲は、流石戦国武将のはしりと言われるだけの知力がありますね。

⑥権現山城址と東海道線等の線路
そして、上田正忠が城主をしている権現山城にて、反上杉の狼煙(のろし)を上げるのです。(写真⑥

早雲が何故上田正忠を調略したのか。上杉家のNo.2なら誰でも良いという訳ではありません。

写真⑥を見て分かるように、現在でも権現山城の直ぐ横を東海道線等の主要大動脈である鉄道が沢山走っています。これらの線路の上りの行きつく先は東京駅、つまり江戸城です。この当時江戸城を牛耳っているのは扇谷上杉家です。

では、地図⑦を見て下さい。

この権現山城を早雲側が奪取することが出来れば、主力部隊を江戸城に置いている扇谷上杉軍と、鎌倉にある司令塔・扇谷上杉屋敷との連携を断つことができます。
⑦早雲の相模攻略時における主要城配置

また、三浦半島に居城を置く三浦一族と江戸城の上杉軍との連携も阻害することが出来るのです。

つまり、先に述べた上杉軍と三浦一族の挟撃に会うことを防ぐ役割を、この城に担ってもらうのです。

言い換えれば、対江戸城(その後ろの河越城も)の抑えの城として、この権現山城は使えるのです。

更に、拙著Blog「神奈川台場 ~横浜港の誕生秘話~」(ここをクリック)でも書きましたが、この頃からこの権現山城は良港として名高い「神奈川湊」を城下に持ちますので、当時伊豆半島に勢力を持っていた早雲の水軍による物資補給や兵の補充、または敗戦時の伊豆への脱出等、神奈川湊の利用も含め、価値の高い城なのです。

ここまで早雲は読んだので、この城主である上田正忠を調略したという訳です。

余談ですが、写真⑥の権現山城、この当時はもっと高い山で、また城郭もかなり大きかったようです。Blogにも書きましたが、幕末に神奈川台場を造るために、この城址を削ったので、かなり低く、小さな城址になってしまったのです。

4.権現山合戦

⑧権現山合戦図
さて、上田正忠の反乱を知った扇谷上杉家、「またか!」と言ったかどうかは分かりませんが、権現山城が上杉家の相模支配にとって、非常に重要な位置を占めること、今回の反乱の裏で糸を引いているのが、小田原に侵出してきた早雲らということに大変な危機感を覚えます。

前回のBlogで、太田道灌によって小机城を取られた矢野兵庫助(ひょうごのすけ)を覚えていらっしゃいますか?

小机城と権現山城は6㎞程度しか離れておらず、当時この城間を「飯田道」(現県道12号線)というほぼ直線の道で結んでいたため、太田道灌に小机城を攻められると、矢野兵庫助らはこの権現山城に退避していたのです。

勿論、長尾景春の乱が終わると扇谷上杉氏の赦しを得て、矢野兵庫助は、また小机城主に返り咲いていました。

扇谷上杉氏は、この矢野兵庫助に至急権現山城を囲むよう下知すると同時に、この緊急事態打開のために、和睦したばかりの山内上杉家に対して、共通の敵として早雲と戦って欲しいと依頼します。

⑨突撃して暴れる間宮氏
山内上杉家も、この扇谷上杉家の申し出を諾とし、両上杉2万の軍勢を持って、1510年7月、先の矢野兵庫助の速攻に続き、権現山城を攻めたて続けます。(絵⑧

予想よりも早い上杉側の行動により、権現山合戦、わずか9日間で両上杉軍に鎮圧されてしまいます

鎮圧直前に、城主上田氏の活路を開けるためか、一人の勇将が城から飛び出し、「神奈川の住人、間宮の何某」と叫びながら攻め手の陣中に突撃してきました。(絵⑨

彼は、以前Blog「三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~」(ここをクリック)で取り上げた後の北条一族の重臣間宮の先祖であり、更には江戸時代の間宮林蔵の先祖なのです。この間宮氏については、次回以降別途調査結果をご報告します。

この間宮氏ら勇将の落城直前の敵突破のお蔭で、城主の上田氏らはなんとか生き延びたようです。消息は不明となりますが、子孫は、後に北条氏康により武蔵国松山城主(埼玉県吉見町)とされていますから、間宮氏ら共々生き延びたのではないでしょうか?

いずれにせよ、権現山合戦は両上杉軍の大勝利。早雲の戦略は失敗となったように見えます。

5.玉縄城の構築
⑩早雲の相模国侵攻戦略変更

これは私の推測ですが、早雲はこの権現山合戦の敗北を想定内と考えていたのではないかという気がします。

というのは、そもそも早雲は先のBlogに描きましたように、駿河に居るころから上杉氏を倒し関東に覇を立てるつもりだったと思うのです。

山内・扇谷2家の上杉当主のつまらないプライドを上手く刺激するのです。

最初は長尾景春に乱を起こさせ、これの鎮圧で重要な役割を果たした忠臣の太田道灌を扇谷上杉氏を刺激して排除。
この乱と道灌暗殺により、2家の実力が落ちながらも伯仲してきたところで、両家のつまらない意地の張り合いをしていることを上手く利用し、長享の乱を起させる。

そして、長享の乱では、成り行き上扇谷上杉家の支援に廻り、山内上杉家と戦い、その力を削いでいく。

早雲は、別に上杉であれば山内も扇谷も無いのです。両家とも力を弱め、早雲らが関東に覇を立てられれば良いのですから。

それが端的に現れたのが、この権現山合戦です。長享の乱が終り、両家が和睦した後、この上杉家の力を弱めるには、目の前の扇谷上杉にも牙を剥くしかないという状況だったのでしょう。あわよくばバックに早雲が居ると気付かれずに、また単なるNo.2の反乱と思って欲しいと考え、上田氏をけしかけたのでしょう。

⑪玉縄城址付近にある龍宝寺玉縄北条氏の菩提寺
しかし、今回はバレました。まあ、早雲も小田原まで出て来ていたので、自分達が相模国・武蔵国へ侵出しようとする企図がバレるのは仕方が無いと思っていたのではないでしょうか。

また、上杉家がどれ程弱体化しているのかを、この権現山合戦で推し量ろうとしたのではないかと思います。彼は長享の乱が長引き、両家が消耗し続けるのが理想だったのですが、終わってしまった以上、どれ位の実力になっているかを測定しておく必要があったのです。

その結果、この敗北によって、やはり早雲が正面切って戦いを挑むには、まだ時期尚早という結論を得たのです。

負けることも予測していた。ということは、負けたらどういう筋書きで相模国・武蔵国へ侵出しようと考えていたのでしょうか?

地図⑩を見て下さい。やはり腐っても鯛の上杉家にはまだまだ歯が立ちそうにないことが、この戦でハッキリしたので、早雲は次善策として用意してあった三浦一族を先に攻めることとします。

⑫玉縄城ジオラマ(龍宝寺蔵)
ただ、どちらの策の場合にも、上杉家と三浦一族が連携しないように分断のための防衛線は必要です。

権現山等、現在の横浜市範疇は上杉家の力が強いことが判明したので、この勢力から多少逃れられる場所、玉縄(たまなわ:現 大船駅)に城を築く(新築ではなく改築)ことにしたのです。(写真⑪

そして、ターゲットを上杉氏から三浦一族に切換え、現在の三浦半島は油壷(あぶらつぼ)にある新井城にて三浦一族を殲滅させるのです。(写真⑬

6.おわりに

いかがでしたでしょうか?

早雲と三浦一族の長・三浦道寸との死闘については、また別途三浦一族シリーズ第2弾 戦国編として、調査し描いて行きたいと考えています。
※既に同名の鎌倉編はあります(笑)。
⑬新井城

既に有識者の方々からはお叱り(?)を受けておりますが、戦国時代に入る直前の関東・東海地域における政治・勢力模様は、ここに描かれたものより何十倍も複雑です。

あえて足利公方やら堀越公方、茶々丸等を登場させず、長享の乱に出て来る太田道灌の親戚筋や子孫、更には両上杉家の関係者、それらをバッサバッサと切って、ストーリーにのみ集中しやすいように描いたつもりです。

それはこのBlogが、お読みになられた方に歴史知識の習得を企図したものではなく、少しでも史跡にまつわる過去にあった出来事が印象に残るようにしたいと思うからです。

⑭新井城の一角は現在油壷マリンパークとなっている
また、どんなに複雑な歴史を持つ時代でも、その時代を牽引している人物には、パラレルに沢山の事件が降りかかってくる受け身の状況ではなく、シーケンシャルに自ら物事を考え、進めているに違いありません。

まさに早雲はそのような人物だと想い、彼の思考を私なりに想像しながら、このシリーズを、史跡調査を基にしつつ描きました。

この後の、上杉家と北条家の死闘の続きは、是非拙著Blog「北条五代記① ~高縄原の戦い~」(ここをクリック)に引き継がれますので、ご笑覧頂ければ幸いです。

長文お付き合い頂き、どうもありがとうございました。

【河越城】 埼玉県川越市郭町2丁目27
【小田原城】神奈川県小田原市城内
【権現山城】神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷5
【玉縄城】神奈川県鎌倉市植木48−3
【新井城】神奈川県三浦市三崎町小網代1024

権現山合戦① ~早雲の大戦略~

①権現山合戦
以前私は拙著Blog記事「小机城② ~硯松~」(詳細はここをクリック)で、太田道灌を暗殺した黒幕は北条早雲かもしれないと書きました。勿論、証拠はありません。考えすぎかもしれません。

今回、神奈川にある権現山合戦を調べていると、この考えが更に確信に近くなりましたので、史実を基に順に述べることでご紹介したいと思います。(絵①

ただ、本Blogは歴史書ではありませんので、歴史小説等と同様に、史実と史実の間は私の考察として描いておりますので、予めご了承下さい。

1.早雲の関東侵攻戦略

さて、伊勢宗瑞(いせ そうずい)こと北条早雲。(絵②

北条姓を名乗ったのは、2代目氏綱(うじつな)からなので、北条早雲は完全に俗称なのですが、このブログでは早雲で通したいと思います。

彼は室町幕府の政所(まんどころ)執事を務めた伊勢氏の出身なので、結構な名家の出なのです。

②北条早雲(伊勢宗瑞)
どういう事情か、彼は奥州陸奥へ下向する途中、100年後に今川氏真と武田信玄が戦うこととなった駿河の薩埵(さった)峠詳細はこちらをご参照)にて賊に身ぐるみはがされ、途方にくれていました。(写真③

偶然そこで早雲を助けてくれるのが、当時今川家に嫁いでいた妹の北川殿です。早雲はそのまま駿河に居候します。

詳細は省きますが、早雲は、北川殿の息子(氏親:うじちか)の今川家後継者問題に介入し、これを踏み台に、駿河東部、更には伊豆へ進出するのです。

彼は、既にこの伊豆を統治するかなり以前から、関東進出をも構想していたと思われます。

まあ、関東は古くから坂東武者と呼ばれる土地だけあって、少しでも土地を切り取るのは、想像を絶するほど難しかったのでしょう。

相当な深慮遠謀策が無い限り、攻略の取っ掛かりがつかめないのです。

彼は小田原へ進出するはるか以前から、関東攻略の戦略を建ていたのです。その第1ターゲットは関東管領の上杉氏です。

そして第2ターゲットは、早雲生涯で最大の障害と後世に言われた三浦道寸等の三浦一族です。

更に早雲にまたたく間に小田原城を掠め取られた大森氏なぞは、早雲にとっては戦術レベルで、上杉家、三浦一族の戦略に比べると大したことはなかったと想像されます。
③薩埵峠(下は東海道)

結果的に大森氏、三浦一族は、早雲自身が落としましたが、上杉氏は北条五代掛かっても落とせませんでしたから(笑)。幕末まで上杉家は残りましたね。

2.2つの上杉家

15世紀後半、信長や秀吉等が活躍する100年前、当時、関東管領である上杉家の権勢はかなり高く、足利公方等は形骸化してきたので、関東に敵対する勢力がいないのです。こういう場合、最高権勢が分立することが良くあります。

上杉家も関東管領の本家山内上杉家と分家・扇谷上杉家の2家に別れていました。(図④

早雲は、今川家の北川殿に厄介になっているころから、親しくこの上杉2家を訪ね、当主を観察すると同時に、2家の家臣たちも物色します。

己を知り、敵を知れば百戦危うからず と孫子の兵法を言ったかどうか分かりませんが、幕府の執事まで務めた早雲が、そもそも奥州へ下向しようとしていた時点で何かキナ臭いです。彼が下剋上を始めた最初の戦国大名と良く言われますが、何か彼は、体制をひっくり返してやろうという気概を多分に持つ人物だったからこそ、戦国大名北条氏を打立てられたのでしょう。

今川家に居候している名も無き早雲の頃から、関東管領上杉家をひっくり返そうという構想を描いており、まずは両上杉家のウィークポイントの徹底調査をしたというわけです。

早雲が、両上杉家で気になった人物は、2つの家のNo.2、家老と執事です。

図④のように、この当時、山内上杉の家老は長尾景春(ながお かげはる)、扇谷上杉の執事はあの有名な太田道灌です。

④2つの上杉家とNo.2
ちなみに太田道灌と早雲は同い年、自分も幕府の執事だったからか、この2人が気になる早雲。これも良くあることですが、上杉家当主が慢心して山内上杉と扇谷上杉の2つに割れて権勢争いをし出すのは、あまり良い事ではありません。大体こういう良くない当主の、家老や執事等のNo.2は優秀な人物が多いですよね。

早雲は、上杉家を取り巻く環境を冷静に分析します。

そして、この優秀な2人のNo.2に、早雲は仕掛けるのです。

早雲が「下剋上」を2人に推奨したかどうかは分かりませんが、長尾景春と太田道灌は従兄弟であることから、兎に角3人で仲良く胸襟を開いて話をしたかも知れません。

3.長尾景春の乱
⑤長尾景春
出典:萌える戦国本
「敗者の日本史8 享徳の乱と太田道灌」

この早雲の「下剋上」の概念に感化されたのは長尾景春です。(絵⑤

早雲は景春が、上杉家に不満を持っていることを見抜き、また景春同様に、上杉家に不満を持つ関東豪族が多々居ることも把握した上で、景春に下剋上を進めます。

景春も決心したのでしょう。彼は関東豪族たちの人望もあり、豪族たちは、彼の決起に期待するところがあったようです。

まだ一介の居候浪人である早雲でしたが、1476年、彼は景春の反乱を起こすトリガーを引きます。勿論、彼の頭の中には、トリガーを引くだけでなく、自分が駿河で成りあがる計算も出来ています。

早雲の妹・北川殿の息子を使い、今川家の家督争いを起すのです。早雲の想定通り、関東管領上杉家の介入として太田道灌が上杉軍を引き連れて、駿河に介入してきます。

⑥上:鉢形城から上杉軍方角を見る
下:鉢形城の土塁跡     
道灌が駿河に出発すると、これを機に、長尾景春は自分が築城した鉢形城(埼玉県)にて反乱を起こします。(写真⑥

早雲は道灌と敵対はせず、道灌と今川家の仲裁に入り、頭角を現すのですが、実は裏で長尾景春と呼応して、上杉家に対する反乱を起こさせているのです。

両上杉家当主は、長尾景春の反乱軍を鎮圧するため、2万の軍にて、鉢形城付近に陣を敷きます。
長尾景春は、これを2500の少数精鋭の騎馬隊を持って急襲し、撃破します。

これにより、道灌も主家がピンチなのですから、今川家の内紛にかまけている場合ではなくなりました。慌てて関東の彼の居城江戸城に戻ります。

道灌が江戸に戻った時のこの反乱の状況を図示したのが地図⑦です。

関東一円、よくぞここまで景春の反乱に加勢するという程、どこの城も反上杉ですね。太田道灌の江戸城周辺なんて、今の東京・神奈川 全部景春側の城ばかり(笑)。

ここまで人望が無い両上杉氏。

しかし、太田道灌は決して上杉家を見捨てません。

教養高い彼は、主家を見捨てる下剋上、人間として如何なものかと、忠義一本の漢なのです。

⑦乱時の関東諸城の様子
出典:Wikipedia
そして道灌は、景春の反乱軍に囲まれる江戸城にあって、単独で反乱軍の切り崩しに出ます。

鉢形城付近で長尾景春の急襲に会い、撃破された両上杉氏は河越城へ逃げ帰っています。

まず、道灌は主家との連絡を江戸城から河越城に対して行おうとするのですが、ここで邪魔をするのが練馬城。(地図⑦参照)

この練馬城、現在、あの「としまえん」となっています。(写真⑧

なぜ「としまえん」と言うかご存知でしょうか?豊島区にあるから?いえ、「としまえん」は、豊島区からはかなり離れていて、練馬区にあります。

答えは、ここが有力豪族豊島氏の城だったからです。(勿論、豊島区も豊島氏の領有地の一部が名前として残ったものです。)

豊島氏も長尾景春の反乱軍側です。

太田道灌は、まずこの豊島氏を討つこととします。

詳細は紙面の都合上、省きますが、長尾景春が少数精鋭の騎馬の機動力で上杉軍を破るのに対し、道灌は、まだ当時は重視されていなかった足軽の集団機動力を使います。

「としまえん」こと練馬城に矢を放ち、周辺に放火して廻ると、この練馬城に居た豊島泰明(やすあき)は、石神井(しゃくじい)城の兄・泰経(やすつね)と連絡を取り合い、道灌を挟撃しようとします。(地図⑦参照
⑧練馬城址(現「としまえん」)

道灌は、江古田・沼袋に足軽集団を潜ませておいて、豊島氏挟撃軍を自らこの場所へ誘導し、甚大な被害を与えたのです。

兄・泰経は石神井城に逃げ帰りましたが、道灌にまた攻められたため、夜陰に紛れ足立の方へ脱出し、以後消息不明。

弟の豊島泰明は、横浜の小机(こづくえ)城に居た景春反乱軍である矢野兵庫助(ひょうごのすけ)のところに落ち延びました。(写真⑨上地図⑦も参照

太田道灌は、この小机城の矢野・豊島氏を撃破するために出兵します。戦の最中、「硯松」と呼ばれる場所で、足軽たちの景気づけのために、歌を詠みます。(写真⑨下

⑨上:小机城址 下:史跡「硯松」
小机は、まず手習いの初めにて いろはにほへと ちりぢりになる

子供が、まず「いろはにほへと」と文字の読み書きを最初に学習する時に使う小さな机「小机」と、小机城を掛けて、「こんな城を落すのは子供が文字の手習いを始めるのと同じくらい易しいぜ!」と足軽たちを鼓舞したのです。教養人らしい道灌です。

そして、その勢いで小机城を囲むこと2か月、鮮やかに足軽隊を用い、攻め落とします。

実は、小机城陥落時の、詳細な戦況はどの史料にも残っていないようなので推測するしかないのですが、私は以下のように妄想しています。

合成写真⑩をご参照ください。この太田道灌が歌を詠んで足軽たちを鼓舞したという硯松と、道灌が布陣したと言われる亀之甲山陣小机城を挟んで180度反対側にあります。(写真⑪も参照

これは何故でしょうか?江戸城から小机城と対峙する場所は、この亀之甲山陣となります。ですので一部硯松まで、小机城兵に気付かれぬよう秘かに移動した足軽部隊が居ると考えました。(写真⑩

この亀之甲山陣から道灌軍が小机城を力押しに押すと、小机城の搦め手側である南側から横浜の権現山方面に、矢野兵庫助らは逃走するのです。(矢野兵庫助の所領は権現山のある神奈川湊でした)

それら逃走兵を、先の豊島氏との戦いである「江古田・沼袋の戦い」と同様、硯松に待ち伏せていた足軽部隊による掃討軍によって、甚大な被害を与えます。

後の信玄vs.謙信の第4次川中島の戦いで、武田軍が採用した「啄木鳥(きつつき)戦法」という戦手法(実際は謙信に裏をかかれて失敗)が、この時既に採られていたのではないかと邪推します(笑)。

いずれにせよ、この2つの大きな戦いで太田道灌が勝利したことで、長尾景春の乱は収束に向かいます。鉢形城も道灌に攻められ落城。景春は秩父の山に逃げ込みます。
⑩小机城 攻撃状況鳥観図 ※一部編集
出典:http://www.geocities.jp/shinyokokun/kassen2.html
4.早雲による道灌暗殺

⑪太田道灌の本陣(亀之甲山陣)跡
この長尾景春の乱を、駿河で見ていた早雲は、下剋上を理解できずに上杉家を守る道灌に驚愕します。早雲は、有能なNo.2であり、かつ従兄弟同士の景春と道灌が一緒になって上杉家に下剋上すれば、上杉家が内部から弱体化し、将来早雲が関東に出る時には、既に弱体化した上杉家を滅ぼすことが可能ではないかと踏んでいたのです。

ところが、道灌は従兄弟と言えども、鮮やかに形成不利から大逆転までして、上杉家を守ってしまいました。

道灌畏るべし!

そう読んだ早雲は、道灌の排除を企図します。

一方、道灌が仕える扇谷上杉の当主、上杉定正(さだまさ)も、関東武士の人心が、今回の件で上杉家に対する恭順というより、太田道灌に対する尊敬へと移っていることを痛感しています。そうなると発生するのは道灌に対する妬みです。
⑫道灌本陣(亀之甲山陣)から小机城を臨む

早雲はここを突きます。

上杉定正に、道灌が上杉家にとって、将来非常に大きな脅威であることを強烈に教え込みます。それこそ下剋上の雄・早雲ですから、道灌が下剋上をすればどうなるのかという早雲の話を聞かされた上杉定正は震えあがるのです。

あとは、放って置いても、上杉家が道灌を排除すると早雲は踏みます。そして哀れ道灌は、神奈川県伊勢原市にあった定正の屋敷に招待された時の入浴中に切り殺されます。「当方滅亡!」と、この殺害を予期していたようなことを言ったのが最期の言葉でした。

4.おわりに

前章の太田道灌暗殺に、早雲が道灌の主である上杉定正に口を効いたというのは私の想像です。(江戸時代に同じ様な説が「岩槻巷談」という書物にあるようですが。)

ただ、一気に描けなくて残念なのですが、この後、まるでそれを裏付けるかのように、また下剋上コンビの長尾景春と早雲で、上杉に対する2度目の反乱を起こすのです。
⑬権現山合戦の舞台(神奈川駅脇)

そして、更に道灌と景春、2人のNo.2の後継者である次のNo.2に魔の手を伸ばす早雲。

それがこのシリーズの表題にもなっている権現山合戦です。(写真⑬

次回はその辺りや、最後に、大船にある玉縄城も上杉家を意識して築城したことまで話を進めたいと思いますので、是非引き続きお付き合いを頂ければ幸いです。

長文お読み頂き、誠にありがとうございました。

【薩埵峠】 静岡県静岡市清水区由比西倉澤937−13(薩埵峠展望台)
【鉢形城】埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2
【練馬城(としまえん)】東京都練馬区向山3丁目25−1
【小机城】神奈川県横浜市港北区小机町 789
【亀之甲山陣(道灌布陣場所) 】神奈川県横浜市港北区新羽町1039
【硯松】神奈川県横浜市神奈川区羽沢町993
【権現山城】神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷5

神奈川台場 ~横浜港の誕生秘話~

①神奈川台場
今回、調査しました神奈川台場、東京のお台場に比べると、かなりマイナーな史跡となっております。

ただ、神奈川台場が出来た経緯について調べてみると、幕末に今の横浜の地が開港に至る経緯が見えてきましたので、ご報告させて頂きます。(絵①

1.欧米でも名のあった「神奈川湊(みなと)」

神奈川台場のあった土地(現在の横浜市神奈川区神奈川)は、江戸時代、東海道の宿として発展した街でした。(絵②

この有名な歌川広重『東海道五十三次』の「神奈川宿」の浮世絵。

絵中、船が係留されているのが神奈川湊です。またこの絵が描かれた頃は、開港されていませんが、画面中央に2つの岩山みたいなのがあるのが分かりますか?これが現在の横浜「みなとみらい」の辺りです。(山は、手前が野毛山、奥が山手の丘「港の見える丘公園」。)

この神奈川湊、鎌倉時代は鎌倉の鶴岡八幡宮が治めていました。やはり東京湾に面した良港として、鎌倉の中枢である八幡宮に献上される程だったのでしょう。
②歌川広重「東海道五十三次」に出て来る神奈川宿

更に脱線しますが、鎌倉から戦国時代に掛けて、この湊のすぐ脇にあった権現山城(ごんげんやまじょう)は、横浜市内の城郭としてはかなり大きく、また堅固でした。(写真③

北条早雲の時に、ここ神奈川の豪族上田氏が、早雲側に付き、北条側として初めて関東管領の上杉氏に叛旗を翻し、籠城したのです。この後、北条氏と上杉の関東における泥沼の戦いが繰り広げられ、最後はあの上杉謙信を生み出す結果となるきっかけの地でもあります。

この中世武士時代の横浜市内の詳細は、また別途Blogを分けてお話しようと考えています。

話を戻します。この浮世絵(絵②)だけですと、江戸時代の神奈川宿は、他の五十三次の宿の1つくらいにしか見えませんが、この神奈川が江戸時代、鎖国中でありながら、欧米人の間では有名だったのです。
③権現山城

それは何故か?
こちらの絵なのです。(絵④

有名な葛飾北斎富嶽三十六景の絵ですね。絵の名前は「神奈川沖浪裏」。つまりこの神奈川湊の沖での一現象を表したものなのです。

優美な富士山とは対照的に、凶暴な波濤が襲いかかり、翻弄される舟となす術もなく舟にしがみついている人を表すさまを、波一つ一つの緻密な対数螺旋の技法を使い表現されています。TVや映画等の動画は言うに及ばず、日本には写真も無い時代ですから、北斎の実体験の記憶だけで、ここまでリアルにその瞬間を描けるというのは、19世紀前半、欧米でも驚異の目で見られ、最も有名な日本美術作品の一つとなりました。

当時のゴッホや、作曲家ドビュッシーが絶賛し、自作品に取り入れるなど、欧州の芸術家達に影響を与えたこの作品は、まだ開国前の欧米人にも、日本の中の1地名であるKanagawaを印象付けたものなのです。

④神奈川沖浪裏 葛飾北斎画
2.本当の開港予定箇所は神奈川湊だった?

さて、地図⑤を見てください。

アメリカ領事館、イギリス領事館、フランス領事館など、多くの欧米領事館が、この神奈川地区に集中しています。

これは何を意味しているのでしょうか?

実は、幕末の欧米列強国は、開港を現在の横浜港の場所ではなく、この神奈川湊にして欲しいと強く希望していたのです。

2つ理由があります。

【理由1】この場所が、神奈川湊として長期に渡り良港として運用されてきた実績があること
【理由2】神奈川宿として、当時の交通の大動脈である東海道に面しており、江戸等の日本の主要都市への往来や物資輸送に利便性が高いこと
⑤神奈川湊にある欧米の領事館跡
ですので、領事館を開港に先立ち、この神奈川湊の辺りに沢山建てたのです。
と言ってもどの領事館もお寺を代行所として活用しています。(写真⑥
⑥欧米各国の領事館跡(全てお寺を利用)
また、話が飛びますが、幕末の有名な生麦事件地図⑤の上部に書かれた「生麦」で、薩摩藩の大名行列中に、国法で定められた土下座をせずに馬上にいたイギリス人・リチャードソンを、藩士が斬りつけました。
⑦領事館近くにあるヘボン医師診療所跡(宗興寺)
その後、殺されたリチャードソンの検死を行った場所が、地図⑤にもありますアメリカ領事館なのです。

更に脱線しますが、この検死時に立ち会ったヘボン医師は、あの「ヘボン式ローマ字」の開祖です。

この人が居なければ、今頃私たちはPCやスマホで「日本語ローマ字変換」も打てないところでしたね(笑)。(写真⑦

写真⑥の中にもありますが、今回、このアメリカ領事館があった本覚寺も訪問しました。(写真⑧

するとそのお寺の山門前に、笹薮に埋もれかけていましたが、1つ見慣れない人物の石碑を発見しました。(写真⑨

3.岩瀬肥後守

岩瀬肥後守忠震いわせ ひごのかみ ただなり)。私はこの人を知りませんでしたが、幕末に、小栗上野介、水野忠徳と併せ、「幕末三俊」と呼ばれた優秀な外交官だったのです。

⑧アメリカ領事館のあった本覚寺
以前私は、ロシアのプチャーチンが日本に通商条約を締結しに来た時に、日本側は「米国とも通商条約は結んでいない。和親条約止まりにして欲しい」と交渉したと、別記事「幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~」にて記述しました。(詳細はこちら

この主張を行い、後に日露和親条約締結(1855年)にまで漕ぎつけた外国奉行が、彼なのです。

一方、1854年に既に締結した日米和親条約で、伊豆の下田に来日していた米国のハリスは、更なる通商貿易のための条約、日米修好通商条約締結を目指します。

ハリスは、幕府に対して「米国は日本に対する領土的野心は少しも抱いていない。日本が警戒しなければならないのは、アヘン戦争の例にあるようにイギリスである。米国と穏当な通商条約を結べば、他の西洋諸国もこれに倣い、自然に日本は西洋諸国との戦争を回避することが出来る。」
との説明をし、洋学知識に詳しい老中首座堀田正睦(ほった まさよし)をはじめ、ロシアからの希求も聞いていた川路聖謨(かわじ としあきら)も含めた幕閣の多くがこの説に傾倒しはじめていました。

その後、水戸の徳川斉昭(なりあき)ら、通商条約締結反対派への強硬な締結押し切りを井伊直弼(いい なおすけ)が行い、1858年に朝廷の裁可無く締結する日米修好通商条約となるのですが、この時に、また米国との交渉の中心的な役割を果たすのが、岩瀬肥後守なのです。

4.日米修好通商条約

⑨笹やぶに埋もれかけた石碑(本覚寺内)
皆さんも、仕事で交渉の経験上、交渉の結果を記す契約書等の条文、交渉相手と自分達どちらで書きますか?基本、自分達で書かせて欲しいと最初は要求するのではないでしょうか?相手に書いてもらうと思わぬところに相手有利となってしまう文章が入り込んでいたりするリスクを避けるためにも、自分達で書いておいた方が良いと。

なにか相手を性悪説で見ているようで嫌な気もしますが、契約などの条約は、性善説ではなく、性悪説で見るのが普通です。

ところが、岩瀬肥後守は、ハリスに言います。

「今迄鎖国していた我々日本人は、通商とか貿易といったことについて全く知らない。ただ貴殿は、(先に述べたように)日本の未来を案じてこの条約を締結したいと言ってくれた。なので私、岩瀬は全面的に貴殿を信用し、条約草案の起稿を一切お任せする。」

驚きです。
まあ仕事でも、もうツウ・カーになった親しい者同士でしたら、相手に草案を一切お任せするみたいな発言はあるかも知れませんが、全く知らない世界で、しかも一国の命運を左右する条約を相手国の代表に任せるとは!やはり相手を全面的に信用するということは、自分もかなり誠実でなければ出来ない事ですね。

ただ岩瀬肥後守は、上記の言はあるものの、そこは「幕末三俊」の漢(おとこ)だけあって、ハリスから提出された草案を詳細に検討し、おかしいと思った箇所は徹底的に指摘・追求することで、ハリスを驚愕させました。ハリス自身、「どうせ鎖国してきた日本人は通商貿易を知らない。米国が不利に傾かないよう、どちらかと言えば日本が不利となるような条項に上手くしよう」と考えたようです。

⑩アメリカ公使館跡にあるハリスの碑(麻布善福寺)
それらを全て看破し、ハリスを黙させた岩瀬肥後守は、畏怖されると同時に、尊敬されました。

そのため岩瀬肥後守の石碑は当時のアメリカ領事館のあった本覚寺境内に、写真⑨のようにあるという訳です。

以下のポイントで岩瀬肥後守は日米修好通商条約上で優位に立つことが出来たのです。

【ポイント1】当初11港を開国するよう要請があったものを4港に抑えることに成功
【ポイント2】輸出入品に関する価格決定権を日本側が持つことができた

以後、彼は米国も加えたオランダ、ロシア、イギリス、フランス、5か国との修好通商条約すべてに立会い、調印しました。全部に立ち会ったのは岩瀬肥後守ただひとりです。

5.岩瀬肥後守の苦悩と横浜開港

岩瀬肥後守が、これ程の国家の大役を果たせたのは、やはり誠実な彼の人格にあると思われます。しかし、彼は横浜開港に当たって苦悩します。

というのは、修好通商条約で開港予定地1つは「神奈川湊」と明記されているのです。横浜ではありません。地図⑤のまさに欧米が開港を希望した神奈川湊、神奈川宿の辺りです。そこで欧米は、どやどやと神奈川宿の辺りに領事館を設ける訳ですが、これに幕閣からストップを掛かるよう、岩瀬肥後守に圧力がかかります。

「神奈川宿は江戸への直結ルート、交通の大動脈である場所にあるため、開港後、東海道伝いに江戸が攻められては大変!よって何としても東海道沿いの神奈川湊の開港は止めさせよ!」

⑪「御開港横浜正景」1863年
※左下に神奈川台場を配置
中央の開港場を支えるように描かれている
ハリスに対しても筋が通らない事は遠慮せずに交渉を進める岩瀬肥後守です。幕閣の高官だからと言って、変な忖度等する訳がありません。

「いや、私たちははっきりと神奈川湊を開港すると決め、条文化しているのです。ここはきっぱり神奈川湊を開港しなければ、武士の面目が立ちません!」

別記事「幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~」でも記述しました(詳細はこちら)が、この当時の幕府は、東海道等の幹線沿いに欧米人が入り込むことを極度に恐れます。

プチャーチンが津波で大破したディアナ号の修復を江戸から近いために物資が豊富に供給できる浦賀(三浦半島)港に回航したいと申し出ても、「江戸に近いからダメ!」と。

欧米列強が、江戸城に攻めて来る可能性は低いと思われますが、当時は兎に角異様に恐れます。そのお蔭であの東京のお台場11基を、ペリーが再来航する期間1年以内に造り上げる等、江戸城防衛ということになると、過剰なまでに防衛環境構築能力を発揮するのです。
⑫明治初期の頃の神奈川台場
※権現山辺りから臨む

なので、折角の岩瀬肥後守の主張も、空しく掻き消され、彼は左遷されます。安政の大獄時期だったこともあり、彼はそのまま失意のもと、44歳という若さで亡くなるのです。

勿論、米国は怒ります。「条約通り神奈川湊を開港しなさい!」

幕府の役人は言います。「いえ、この場所(現在の横浜港:地図⑤参照)も神奈川湊の一部でございまして。ほれ、この有名な富嶽三十六景の神奈川沖の浮世絵(絵④参照)のように、関東は冬場空っ風のような北風が強く、波濤が高くなります。そこで北側の船着き場より、西側の横浜村の方が舟がつけやすいのですよ。横浜村は野毛山山手の丘に挟まれて風を避けられる構造になっていますから。実際神奈川宿の舟は、海が荒れた時はしょっちゅう横浜村に舟を付けます。欧米皆さまの大きな船ならどちらに付けても宜しいのでしょうが、カッター(上陸用小舟)等での上陸を考慮された場合は、横浜村の方が利便性が高いですよ。条約通り、そこは神奈川湊の一部ですし。」

と条約に書かれている神奈川湊とは横浜村が含まれていることを想定して書かれたものなので、居留地はそっちにしてくれと、口八丁で米国を丸め込むのです。

それなりに理に適っているということで、結局欧米列強は、今の横浜港の関内に居留地を持つことになるのです。(絵⑪

更に幕府は、本来の神奈川湊に砲台を築いてしまうのです。(絵⑪写真⑫写真①も参照)

⑬今も残る神奈川台場の石垣
東海道へ外国兵が上陸して陸路江戸へ向かうことを避けるためです。これらの砲台は、品川砲台やお台場等、東海道が海岸線に寄る処にはほぼ造っています。

この事実から考えても、東海道の宿のある神奈川湊を開港場にするなんて、当時の幕府にとってはとんでもないことだったのでしょう。

6.おわりに

この神奈川台場、欧米諸国に対する建前としては、来航する外国船の治安を守るためという大義名分で造ったのではないかと絵⑪等を見て思います。いずれにせよ、この台場は大正時代まで礼砲を打つ平和利用にしか使われなかったようです。

ただ、この台場を造るために、写真③にある権現山城址からは、大量の土砂が掘り出されたために、権現山は低くなり、城郭跡はかなり失われたようです。

台場自体も、殆ど埋めたてられ、ほんの一部だけ住宅街の中に残っています。(写真⑬

もし、岩瀬肥後守が左遷されることなく、彼の主張が通っていたら、開港場も今の横浜でなく、写真⑬の神奈川台場の辺りだったかも知れないと思うと、感慨深いものがありました。

今回の調査の後、ベイブリッジの麓、大黒PA(地図⑤参照)から今の横浜港と神奈川湊を一望できる景色をフィルムに収めました。(写真⑭
⑭大黒ふ頭から見る横浜港(中央付近)と神奈川湊(右風車付近)
この写真を見ると、なるほど幕府が修好通商条約締結後に主張したように、横浜も神奈川湊も同じ港であるという主張も何となく分かる気もします。

しかし、相手をちゃんとリスペクトしつつも、主張するところはきちんと主張し、誠実に物事は進めると言った日本武士らしい岩瀬肥後守。

彼が、米国等へ策を弄せず「神奈川湊は神奈川湊、横浜村とは違いまする!」と幕閣側へ主張するその誠実な姿は、やはりどこか日本人としてのプライドとして大事にしたい生き様だなと思いながら、150年後の横浜の象徴であるベイブリッジを渡り、帰路に着いたのでした。

最後までご精読頂き、ありがとうございました。

【神奈川台場】神奈川県横浜市神奈川区神奈川1丁目
【権現山城】神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷5
【アメリカ領事館跡(本覚寺)】神奈川県横浜市神奈川区台町3-1
【ヘボン医師診療所跡(宗興寺)】神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷10−6