マイナー・史跡巡り

日曜日

いなげや⑦ ~綾子~

①現在の多摩川の橋の上から枡形城を見る
※中央左の三角屋根が枡形城本丸跡
《これまでのあらすじ》

1189年、稲毛三郎重成(しげなり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にある枡形城で、病に伏せるようになります。(写真①

この原因を江の島の弁財天が何かを知っているとの今若(義経の兄)からの情報に基づき、綾子の父である北条時政(ときまさ:以下、時政)は江の島を訪れました。

そして、源氏が滅ぼした平家と奥州藤原氏の亡者たちが原因であると弁財天から聞き出します。更に綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要とも。これを聞いた時政は、策謀を練り始めます。

1192年の頼朝の上洛時に、時政は三郎と、三郎の従兄弟・畠山重忠(しげただ:以下、重忠)に胸の内を打ち明けます。時政の策謀に戸惑いながらも同調した二人、翌1193年の「富士の巻狩り」の中で頼朝暗殺計画に加担します。

この計画は、有名な曾我兄弟の仇討ちを利用し、頼朝もこの兄弟に暗殺させるというものでした。
仇討ちは成功するものの、頼朝暗殺は失敗に終わります。

しかし、時政は失敗で転んでもタダでは立ち上がりません。三郎を使い、この仇討ちの直後、鎌倉に「頼朝殿が巻狩りで暗殺された!」との噂を流します。

この噂に心配をする頼朝の妻・政子、その政子の不安を払拭しようと、頼朝の異母兄弟である範頼(のりより)が御所に駆けつけ

「義姉上、ご安心ください。鎌倉にはこの範頼がおります。」と励ますのです。

この思いやりのある一言が、まんまと時政の餌食になるのです。
範頼は、頼朝に謀反の心ありとされ、伊豆へ流刑となり、その地で誅殺されてしまいました。
頼朝こそ亡き者に出来なかった時政ですが、大きな政敵となりそうな、源家の1人を抹殺することに成功するのでした。

【今迄の話 リンク集】
いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~
いなげや② ~弁財天~
いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~
いなげや④ ~富士の巻狩り㊥~
いなげや⑤ ~富士の巻狩り㊦~
いなげや⑥ ~源範頼(のりより)~

1.綾子の病状

話を枡形城に戻します。富士の巻狩りから枡形城へ戻ってきた三郎は、帰着すると直ぐに、城の麓にある妙楽寺(みょうらくじ)に向かいます。

「おお、三郎殿、久方ぶりじゃのう。」
と出迎えた住職の今若は、6月の梅雨の季節、霧雨の中、馬から下りる三郎に傘を差しかけ出迎えます。傘を受け取ると、三郎はこの憂鬱な天気の中の境内をぐるっと見回しました。

②妙楽寺の紫陽花
前回ここに来たときには、紅葉が美しかったこの境内も、季節が一変していました。

ともすれば三郎の綾子を心配する灰色の心と同調する霧雨の陰鬱な景色の中に、そこだけ明かりがパッと灯ったような沢山の紫陽花が咲き乱れています。(写真②

この紫陽花の明るさに救われた気持ちになりながら、三郎は、今若の案内で、綾子の臥所へと急ぎました。

縁側を通り、綾子の部屋の前で、今若が一言声を掛けます。

「綾子殿、三郎殿がお帰りなされました。入ってよろしいですか?」

どうぞの返事が返る間もなく、障子をするっと開けると、かなり痩せた綾子が、臥所から起き上がっています。

「今日は調子が良さそうですな。ではいつものお脈を。」

と言って綾子の脈を手に取る今若。三郎は、痩せた綾子をじっと見つめました。
綾子も脈を見せながら、痩せても眼光は衰えない大きな目で、三郎を見つめています。

そして
「三郎殿、お帰りなさいまし。お忙しいでしょうに、このような病身の私のところに来て頂けるとは・・・。」

三郎は、「しっー」と、綾子を見つめたまま、口頭に人差し指を立てます。

「無理してしゃべらずとも好い。早く良くなって枡形城に戻っておくれ。」

「はい。」と素直な綾子。
③衾とは、この時代は掛布団のことを指します

今若の脈取が終ると、三郎は今若と一緒に、綾子をしずかに床に仰向かせ、上に衾(ふすま)を掛けてあげます。(写真③

今若は綾子に静かに話しかけます。

「今日は不整脈も診られず、熱もいつもよりは幾分収まっておられます。意識もしっかりしていらっしゃいますし、恢復も近いですよ。お義妹さま。」

「・・・」

綾子は少し悲しそうな顔をします。

「三郎殿、私はもうあの人たちが可哀想で可哀想で仕方が無いのです。助けたいのですが、私にはどうすることもできない。きっと私は彼らの元に行きます。」

「あの人たち?何のことだ?綾子。」

と更問をしようとする三郎を今若が手ぶりで制します。そして

「お義妹さま。大丈夫ですよ。三郎さまがお帰りになったのですから、何も按ずることはございません。ゆっくりお休みになって、早くお元気になってください。」

綾子は天井を見上げながら、なにやらぶつぶつと呟いていましたが、直ぐに目を瞑るとまた小さな寝息を立て始めました。

今若に促されて、三郎も綾子の臥所を退去すると、別室で今若と綾子について話をします。

「綾子殿は、ずっと以前から変わりなく、多摩川を渡ろうとする亡者の夢を何度も見るようです。以前は、ずっとその夢を怖がっていましたが、最近は先程の会話にもありましたように、その亡者たちを可哀想がるのです。意識がハッキリしているときに聞いた亡者の話からするとどうやらその中に、奥州藤原氏四代目の秀衡(ひでひら)を始め、我が弟・義経らしき人物もおるようなのです。」

「なんで秀衡や義経まで、綾子は会ったことが無い人物なのに分かるのか?」

「はい、綾子殿が枡形城に臥せっている時には、枡形城本丸の御所から、多摩川対岸が良く見える状態であることは、三郎殿も良くご存知だと思います。(写真①参照

今も、そこに多摩川を渡れずに屯っている亡者どもが沢山居ると、綾子殿は言っています。どうやら彼女は発熱し、意識が無くなると幽体離脱が出来るようで、何度も枡形城を自分一人で出て、多摩川のこちら側でその亡者たちと対面しているようです。
その中に貴人のような亡者も見えるようで、綾子殿の彼らの姿・いでたちの話からすると、私には秀衡や義経のような人物と推測できるのです。
彼らの沈痛な表情・雰囲気は、決して襲ってくるというようなものではなく、多摩川を渡り、鎌倉側と和解したいと願っているように見えると綾子殿は言うのですよ。」

「それで時々うわ言で、『橋を!橋を!』と言うのか。」と三郎。

「はい、彼女は特に秀衡や義経の雰囲気を遠望するだけでも、深い同情心が発生するようです。何があったのでしょう?是非この多摩川に橋を架け、彼らと話をしたいと言い出した時がありました。ただ、どんな事情があろうと、亡者に魅入られた者に与えられるのは死だけなのです。そこで私は綾子殿を枡形城から、麓のこの妙楽寺に床を動かし、なるべく亡者たちが見えないようにしました。」

「して、良くなっているのか?」

「はい、以前よりは意識がはっきりしている頻度・期間も増えましたし、発熱する時間等も短くなったようです。幽体離脱の頻度もかなり抑えられているのでしょう。」

ふー、と三郎は大きく息を吐き、少し安堵した様子を今若に見せながら、
「実は、御所殿(頼朝公)から、2回目の上洛へのお供を仰せつかっている。綾子が危ないのであれば、お断りしようと考えていたのだが・・・。」

今若が応えます。
「私の方で綾子の病状は面倒を見ますので、三郎殿はお役目をしっかり務めて下さい。」

2.2度目の上洛

1195年、前回の上洛から5年後、頼朝は2度目の上洛を行うこととなりました。

前回の上洛が後白河法皇との和解と、鎌倉幕府の威光を喧伝するための上洛だったのに対し、今回の上洛は、頼朝の長女・大姫(おおひめ)の入内(じゅだい:正式に天皇家へ輿入れすること)の周旋等が主な目的でした。

④大姫長野県木曽町HPから
大姫は、7歳の時に木曽義仲の11歳の息子・義高(よしたか)と大悲恋を経験したことで有名です。(絵④

木曽義仲は、京都から平家を西へ追い払う等、源平合戦が本格化する前に、信濃木曽から京都へ出て大活躍をするのですが、源氏として影響力の大きい鎌倉の頼朝と、この時同盟を組みます。

そして同盟の証として、頼朝の娘・大姫の婚約者として、義仲の嫡男・義高を鎌倉に送ります。勿論、これは体(てい)の良い人質として義高が鎌倉側に取られたようなものなのです。(絵⑤

当時7歳と11歳のカップル。大姫は幼いながらも、盛んに「よしたかさま、よしたかさま。」と仲良く遊び、自分も一端(いっぱし)の婚約者であるように振る舞います。

まだ思春期前の2人、大人の恋愛とはわけが違う と頼朝は考えたようですが、これが甘かったですね。
⑤木曽義高(清水冠者義高)

そして頼朝と義仲が敵対し、義仲が討たれると、頼朝は聡明な義高が、将来仇討ちをしてくることを怖れ、信濃へ逃亡中の彼を殺害します。

大姫はこの件を知ると、食べ物も食べず、日に日に衰弱し、寝込むようになりました。政子を始め、皆関係者は心配するも、幼子のことなので、いつか時間が解決すると思っていた節があります。

しかし、大姫は結局それから10年間、ひたすら亡くなった義高を想い続けました。

作家の永井路子さんに言わせると、女性の恋愛感情は、稀にその生殖的な要素が無い幼児の頃に確立することもあり、そこが男性とは違うのではないか、この大姫の青春はたった7,8歳で終わってしまったとしています。(永井路子著「炎環」より)

一部では「いや、そんな幼少期に大恋愛に発展する訳が無い。これは室町時代以降脚色された和製ロミオとジュリエットだ。」とおっしゃる方もいますが、私は永井路子さんの見解が正しいように思えます。

脱線しましたが、この2度目の上洛に、三郎と重忠も同伴します。

重忠は、前回の上洛同様、張り切って先陣・露払いの役を仰せつかり、京の人々も「あれが勇猛果敢で鳴る重忠か!」とその雄姿を一目拝まんとの衆目を集めますが、三郎は至って地味な周辺務め。体調が優れない大姫のお世話や、その他雑多な裏方の仕事に従事しています。

この上洛中、一度だけ、政子と大姫の大喧嘩を立聞いたことがありました。

「お母さま、私はつい最近、一条高能(いちじょう たかよし)さまとの縁談を持ちかけられた時にも、申し上げた通り、義高様以外の方とは決して結ばれない身でございます。いくら入内し、女として最高の地位についたとしても、死んだも同然で却って帝(みかど)に御迷惑をお掛けするばかりではございませんか?」

「まあまあ、そうは言っても帝から気に入られてしまったんですもの。今更お断り出来るものでは無いでしょう。何も考えずに入内すれば良いのですよ。10年も経てばあなたもお父様や私がした今回の仕儀に感謝することになると思うわ。」

「お母さま、いや、お父様も、あれから10年も経つのに何もお分かりになっていないのですね!」

三郎は10年経っても義高を想い続ける大姫に、妙楽寺にて病魔と闘う綾子を重ね合わせます。もしや、綾子が見ているという亡者の中に義高殿もおられるのでは・・・。

政子も、入内して女性としての最高位に付けば、流石に義高の事を忘れるのではないかと考えたのでしょう。いくら大姫が気が乗らないと言っても相手は天皇ですから、断る訳にもいかず、大姫も京までなんとか付いて来た次第なのです。

しかし、それから2年後、この入内が実現する直前に、まるで断ることも出来ない入内を拒否するにはこれしかないと言わんばかりに、大姫は病死するのです。

御歳二十歳(はたち)でした。

3.綾子の急変

さて、上洛も終わり、また鎌倉へ下向するのは、梅雨も終盤に入ろうとする季節でした。

途中、美濃(現在の岐阜県)の青墓(あおはか、大垣市付近)まで来ると、馬蹄の泥を振り撒きながらぬかるんだ街道を、一人の武者が頼朝一行の行列へ向かってきました。

武者は、頼朝・政子・三郎の3人に注進します。

「綾子の病が重い?」
頼朝の表情が硬くなります。

三郎も
「妙楽寺へ移してから、容体が良くなってきたと聞いておりましたが・・・」

と動揺を隠すことが出来ません。同行していた政子も、綾子は妹ですから、気が気ではなかったでしょう。

「三郎、直ぐにたて!」
頼朝は行列に連れている馬の中でも、一番の駿馬を三郎に与えました。

「かたじけのうございまする!」
「おう、くれぐれもいたわってやれよ。」

ぬかるんだ街道の泥を捲き上げながら、三郎を乗せた黒い駿馬が視界から消えるまで、頼朝と政子は見送りました。

岐阜から枡形城まで、三郎は3日で到着しました。以前、三郎は富士の巻狩りの現場から鎌倉までの往復を7時間で行うという馬使いの技を披露したことがありましたが、今回はその距離の5倍はあるでしょうか?

いずれにせよ、ぬかるんだ街道を3日で戻れたことは驚異的であり、その駿馬は「三日黒」(みっかぐろ)と名付けられました。

枡形城の麓の妙楽寺に飛び込んだ三郎。綾子の臥所に飛び込むと、そこには今若とその妻・徳子が、真っ赤に発熱している綾子の汗を拭いております。

三郎が入ってくる姿を見るなり、徳子が「綾子、三郎様が戻られたよ。」と涙声で妹の耳元で大聲で言います。三郎も綾子の枕元に膝をつくと、直ぐに綾子の手を取り、「おいっ!綾子、今戻った。しっかりしろ!」と声を掛けます。

呼吸も絶え絶えの綾子、しかしその目はギュっとつぶったままです。

しばらく、手を握ったまま三郎は綾子の意識が戻ることを祈り続けました。
数刻経った頃でしょうか。今若が三郎に静かに話しかけます。

「三郎殿、綾子殿は10日程前から、高熱を発し、意識が戻りません。時々「三郎様、三郎様!」とか、「あなた、橋を!橋を架けて下さい。」等とうわ言を発しておりましたので、多分また幽体離脱し、多摩川へ行かれたのかも知れません。意識が戻らないことから、綾子の幽体は、多摩川対岸の亡者たちに取り込まれてしまったのかもしれません。」

「なに!では至急狛江人(こまえびと:高麗からの渡来人たちで高い治水技術を持つ)を使い、多摩川に橋を架けよ。急げ!船を数珠繋ぎにした即席の橋でも良い。綾子の幽体が戻ってこれるようにせよ!」
と三郎は怒鳴ります。
⑥多摩川を渡ろうとする綾子に襲いかかる大蛇
(イメージ) ※画:河鍋暁斎

今若は、悲しい表情で三郎を見つめました。

「三郎殿、多摩川は今、梅雨終りのため水位が高すぎます。幾ら狛江人が高い技術を持っていても、まだ半月は多摩川に橋を架けるのは無理です。」

その冷静な今若の言葉を聞くと、三郎は固く握った綾子の手の甲に、大粒の涙をボタボタと落し、「綾子!綾子!」と叫び続けるのでした。

4.稲毛入道

それから2日後、綾子は三郎に手を握られたまま、息を引き取りました。

綾子の手を握っている間中、自分の無力を痛感した三郎は、即日出家をし、稲毛入道(または小沢入道)と法体名を付けています。

これからは綾子の供養・追善にのみ生きる!覚悟を三郎はするのです。

◆ ◇ ◆ ◇

息を引き取る数刻前、手を握り続ける三郎は、その状態で夢を見ます。(絵⑥

綾子は、梅雨の水嵩を増した多摩川を泳いで戻ろうとするのですが、弁財天の化身である大蛇がまた行く手を阻みます(「いなげや②」の大蛇も参照)。

大蛇にさらわれる瞬間、綾子を助けた亡者が居たように見えたのですが、その瞬間に三郎は目を覚まし、冷たくなっていく綾子をなす術もなく看取りました。


◆ ◇ ◆ ◇ 
⑦あじさい寺(妙楽寺)の手水場(ちょうずば)

最後に見た綾子のメッセージは何なのだろう。三郎のこの話を聞いた今若は、時政に話しをした時と同様に、「弁財天なら、綾子の幽体の最期について何か知っているかもしれない」と三郎に話します。(「いなげや②」参照

三郎より1週間遅れの7月8日に鎌倉に戻った頼朝・政子ですが、政子は妹の喪に服して、家臣の家に移っています。綾子の死は、三郎だけでなく、時政を含めた北条一族の深い悲しみとなったのです。

紫陽花は死者への花と良く言われますが、綾子の亡くなった妙楽寺は、現代では「あじさい寺」として有名です。(写真⑦

きっと沢山の紫陽花を、三郎は綾子の墓前に供えたのでしょう。(写真⑧
⑧廣福寺にある綾子の墓(右側) ※左は稲毛三郎の墓

《つづく》

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。



東北史跡巡り⑦ ~九戸城 その1~

盛岡の厨川柵を後にした私は、ここから北へ70km程移動を開始します。

今回、中尊寺から始まった東北史跡巡りの第1の目的は、前九年の役後三年の役、その100年後の奥州合戦等、武士の地位が高まり武家政治が始まる関連史跡をめぐることです。

それ以外にもう1つ、戦国時代が終わる中世武士の終焉の地である九戸(くのへ)城を見たいと考えていました。

ただ、この場合、第1の目的から500年もの差があるので、頭の切り替えができるのだろうか?と考えていましたが、この東北・蝦夷(えみし)の国は、500年経っても一つの信念で貫かれていることを知り、感動しました。

では、厨川柵から70km移動した先に何があるのかを一緒に見ていきましょう。

《前回までの東北紀行文リンク集》
東北史跡巡り① ~中尊寺金色堂鐘堂~
東北史跡巡り② ~弁慶之墓と義経高館~
東北史跡巡り③ ~柳之御所~
東北史跡巡り④ ~衣川柵~
東北史跡巡り⑤ ~じゃじゃ麺~
東北史跡巡り⑥ ~厨川柵~

1.イーハトーブの世界

厨川柵から九戸城のある二戸市まで、国道4号線を使います。この国道、IGRいわて銀河鉄道と、もろに宮沢賢治に関係しそうなネーミングの鉄道の直ぐ横を並走しています。(写真①

ネーミングだけでなく、この沿線はまさに宮沢賢治の世界、山と雲が東京とは違うことに感動しました!
①国道4号線(横をIGRいわて銀河鉄道が走る)
牧歌的というのも、田舎的というのも、ちょっとニュアンスが違うのです。

②山と雲が織りなす景色が美しい
イーハトーブ
どの表現もピタッとは来ず、強いていうならこの地域独特の創作童話のような何ともいえない世界が拡がっているのです。

逆に宮沢賢治も、どの一般的な表現もピタッとこの景色に填(は)まらないので、この地域をイーハトーブという仮想的なおとぎの国とする造語を作ったのではないかとまで、想像してしまいます(笑)。(写真②

そんなことを考えながら、のんびりと車を走らせると・・・。

2.弓弭(ゆはず)の泉

国道4号を40㎞位北上したあたりでしょうか?

急に道路右側に「源義家(よしいえ)公ゆかりの地」のような看板が出てきました。

前九年の役の厨川柵を見たばかりの私は、
えっ、ここにも義家関連史跡があるの?でも確か前九年の役で、北進した頼義・義家の軍は厨川柵が終着点だったのだから、それより北のこの地点に何かゆかりの地があるとは考えづらいなあと思い、時間の関係もあるので、パスしてしまいました(笑)。

後で調べるとどうやら、以下のような伝説の地だそうです。

北上川の源泉のようです。なんでも義家が前九年の役の時に、弓のはし(弓弭(ゆはず))で杉の根本を掘ると清水が出て、それが、あの北上川の源流になっているとのこと。(写真③

③弓弭(ゆはず)の泉
でもどうなんでしょう?あの悠久の北上川は今から1000年前から流れ出したものではないですし、また八幡太郎義家(源義家)伝説は、日本全国にありますから、やはりこれは伝説なのでしょう。

ただ、宮沢賢治のイーハトーブの概念によって、つい別世界のように感じるこの辺りにもしっかりと武士勃興期の伝説があり、やはりここは日本だなぁと感じながら車を北上させます。

3.九戸城

さて、一戸町を経て、二戸市に入ります。一戸~九戸など「〇戸」は昔の牧場番地を現します。この辺りは奥州名馬の産地なのです。

なので八戸市ですら、現在では工業と物流(港)として有名ですが、命名された頃はやはり名馬飼育のための牧場番地だった訳です。

二戸市なのですが、ここに九戸城があります。(写真④
④九戸城 大手門
⑤④の右側は大きな堀
 当時は水濠だったようです
城が近いと思い車を走らせていると、いきなり大きな堀のような跡が出てきました。(写真⑤

堀の横に立派な上り坂があったので、これを登ると駐車場があるのかなと思い、車で駆け上がると行き止まりでした。

車を降りて、坂を上った先には、本丸っぽい、平な芝生が広がっています。ところどころまだ発掘が進められているらしく、綺麗に採掘された土の跡が露出していました。(写真⑦左

すると「こんなところに車止めちゃ、ダメだよ。」と、ちょうどそれまで昼休みだったらしく、午後の発掘に来られた地元(?)の方々から、声を掛けられました。

「あの~、九戸城見たいんですけど、どこに駐車すれば宜しいでしょうか?」
と聞くと、

⑥九戸城俯瞰図
※三の丸は左上、今いる大手門は中央右下
「三の丸の方に駐車場あるから、そっち廻って。」(俯瞰図⑥

三の丸?三の丸ってどこにあるのだろう(笑)。という私の表情を読み取って頂けたのか、次のように言ってくれました。

「ここは大手門だよ。三の丸は、この坂くだって右折して、城山沿いに行けば『九戸城エントランス広場』って案内出て来るから」

「ありがとうございます!」

と挨拶し、バックで大手門への坂から車を出すと、すぐ横に立つ「史跡 九戸城跡」の石柱をパチリ。(写真⑦右

九戸城は、九戸政実(くのへまさじつ)という南部氏の一有力武将が、豊臣秀吉の軍6万5千に対してたったの5千の兵で反乱を起こした城として有名なのです。
⑦九戸城発掘現場と史跡石柱
さて、三の丸の駐車場を見つけ、車を止めると、駐車場前に写真⑧のようなプレハブが建っています。


どうやら、この建物が九戸城エントランスの案内所のようです。
⑧駐車場前のプレハブ(九戸城案内所)
窓に貼ってある城縄張りの絵や、九戸城攻めの時の豊臣軍の配置図等を、暑い中外側から眺めていると、中から初老の方が出て来られました。

「今、中でビデオを流してあげるから、是非中へお入んなさい。エアコンもつけてあげるよ。」

とご親切に誘導してくださいます。

4.九戸政実の人気ぶり

⑨九戸政実物語
※クリックするとダウンロードページへ飛びます
中で見たビデオは、やはり中世武士(とりわけ戦国時代)の終焉となった最後の豊臣秀吉軍との戦(いくさ)が、ここ九戸城で起きた「九戸政実の乱」であることを懇切丁寧に解説してくれていました。

詳細は拙著Blog「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」および「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」をお読み頂ければ、嬉しいです。

このお城で起こった「九戸政実の乱」が
想像していたより奥が深いものであることが分かりました。

ここに来る前は、戦国の世情に疎い一武将である九戸政実が、中央政権から遠いこの地で地元の民を焚き付け、反乱を起こした 程度にしか、想像していませんでした。

しかし、決して九戸政実が世情に疎かったのではなく、彼は強い信念を持ってこの乱を起こしたことを知りました。そして、その信念に基づいた彼の生き様・死に様に地元を中心に多くの人が感動したということが良く分かりました。

その生き方がカッコよく、地元の人が「自分達だけが知っていれば良い話でなく、全国に是非九戸政実について広めたい」という活動が盛んな訳なのです。

案内人の方がくださったパンフレットの中に絵⑨のような漫画の小冊子がありました。漫画で短くまとめてあり、非常に分かりやすく描かれていますので、是非ダウンロードしてお読み頂ければと思います。(地域振興センターが展開しているもので違法ではありませんのでご安心ください。絵⑨をクリックするとダウンロードページに飛びます。ちなみにダウンロードはPDFファイルです。)

この漫画に出て来る政実、20代でしょうか?若くてカッコいいですよね。ところが史実では50代も後半の円熟した御爺さんなのです(笑)。決して若気の至りで、血気盛んに乱を起した訳では無いのです。

この絵に象徴されるかのように、日本史というと我々のような中高年のファンが多い中にあって、九戸政実のファンは、比較的20~30代の若い人が多いように感じます。

この漫画も岩手大学の学生さんが描かれたようです。

私もBlogに九戸政実の話を掲載してから、Twitterなどに、多くの若い日本の歴史を描く漫画家さんとの交流が生まれました。

絵⑩は、私と懇意にしてくださるザネリさんという方の九戸政実のイラストです。
⑩九戸政実(作画:ザネリさん)
どうですか?私はCool Japanの1つと言われる「日本のアニメ」と日本史が融合し、一つの日本美的なものが表現されているこれらのイラストを高く評価しています。

ちなみにこの九戸政実の友であり、最後は、この城で敵対することとなった南部信直(なんぶのぶなお)についても、
ザネリさんは以下のイラストを描いています。(絵⑪
⑪南部信直(作画:ザネリさん)
勿論、こちら南部信直も実際にはかなりの高齢です。


どうして、九戸政実や南部信直等、東北武将らは若い人たちにも人気があり、このように若く描かれることが多いのでしょうか?

⑫九戸政実と南部信直の生き方の違い
を表現した樹があります(次回解説)
次回以降、この課題についても、検証したいと思います。


この城や、ここから離れた九戸村にある政実の首塚、更には南部氏の盛岡城を訪問する中で、段々と分かってきましたので。(写真⑫はご参考

ご精読ありがとうございました。

<つづく>

ザネリさんのリンクをもっと見たい方

【ザネリさんのPixivリンクへ】


【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目4
【弓弭(ゆはず)の泉】岩手県岩手郡岩手町御堂
【九戸城】岩手県二戸市福岡城ノ内3−3


いなげや⑥ ~源範頼(のりより)~


①稲毛三郎重成像(右)と稲毛惣社(白幡八幡)(左)
《これまでのあらすじ》

1189年、稲毛三郎重成(しげなり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にある枡形城で、病に伏せるようになります。(写真①

この原因を江の島の弁財天が何かを知っているとの今若(義経の兄)からの情報に基づき、綾子の父である北条時政(ときまさ:以下、時政)は江の島を訪れ、源氏が滅ぼした平家と奥州藤原氏の亡者たちが原因であると弁財天から聞き出します。更に綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要とも。これを聞いた時政は、策謀を練り始めます。


1192年の頼朝の上洛時に、時政は三郎と、三郎の従兄弟・畠山重忠(しげただ:以下、重忠)に胸の内を打ち明けます。時政の策謀に戸惑いながらも同調した二人、翌1193年の「富士の巻狩り」の中で頼朝暗殺計画に加担します。

②早馬のイメージ(道寸祭りより)
この計画は時政が烏帽子親も勤めた曾我兄弟工藤祐経(くどうすけつね)に対する仇討ちを上手く使い、頼朝もこの兄弟に暗殺させるというものでした。

結果は、工藤祐経こそ討ち果たせたものの、頼朝暗殺は寸でのところで失敗。兄は斬殺され、弟も捕らえられ斬首となります。

曾我兄弟の弟が捕らえられたタイミングで、時政はこの計画に自分たちが加担していることの情報漏えい対策の一環として、三郎を巻狩りの現場から鎌倉の間を7時間以内の早馬で往復させます。(写真②)

鎌倉に到着した三郎は「頼朝殿が暗殺されかけた」と時政に指示された通り、関係者に話し、鎌倉に居る工藤祐経の幼児(犬房丸)を抱きかかえ、また直ぐに巻狩りの現場に引き返すのです。


時政はわざと三郎に「頼朝殿が暗殺されかけた」と鎌倉で言わしめ、鎌倉に居る幕府関係者を不安に陥れることで、今回の曾我兄弟による頼朝暗殺失敗のフォローをしようと仕掛けたのです。その結果は・・・・。では、はじめましょう。

【今迄の話 リンク集】
いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~
いなげや② ~弁財天~
いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~
いなげや④ ~富士の巻狩り㊥~
いなげや⑤ ~富士の巻狩り㊦~

1.鎌倉

さて、稲毛三郎が犬房丸を真夜中の3時頃に連れ去ってから5時間後、鎌倉では大騒ぎが始まっていました。

頼朝殿が暗殺された!

という情報が飛び交うのです。三郎が言ったのは「暗殺されかけた」ですが、良くある喧伝間違い「暗殺されかけた⇒暗殺された」となった訳です。

③鎌倉(大蔵)幕府跡(御所) ※右は幕府屋敷の東御門跡
「直ぐに、狩宿へ使いを出しなさい!」

と情報統制の指揮を執るのは政子

しかし使いを出してから、鎌倉への戻りは、先に述べた通り、往復早馬でも、7時間以上は掛かります。つまり、この日の夕方にならないと、頼朝公が本当に暗殺されたかどうかは分からないのです。

緊急事態発生の御所では、使いの早馬を2,3出した後は、頼朝公の無事を祈るのみで、皆焦れるのです。(写真③

そんな中、緋糸縅之鎧(ひいとおどしのよろい)の立派ないでたちで、この沈痛な雰囲気の御所に颯爽と入ってきた人物が居ます。

頼朝の異母弟・範頼(のりより)です。(絵④

甲冑も脱がずに、つかつかと兄嫁である政子のところに来ると

「姉上、ご安心めされい!鎌倉には、この範頼がおります!!」

と威勢よく言うのです。

政子は、「範頼殿、かたじけなく存じます。」と感謝の口上を述べますが、ちょっと違和感を感じるのでした。

④源範頼
というのは、この範頼、平家討伐の西国遠征の時は、義経が常に搦め手側の機動部隊だったのに対し、正面側からの総大将を務めた人物です。義経が戦術の天才であるが故の自判断による行動が多かったのに対して、この範頼が頼朝に重用されたのは、戦況等について逐一頼朝に報告し、その判断を仰いだからに他なりません。

兵糧が無い、馬が無い、御家人間の争いに絶えない等、頼朝から突き放されることを怖がっているかのように、常に文を送ってきて、戦略判断を仰ぐ従順な範頼が「私に任せろ!」的な今回の態度というのは、実に似つかわしくないのです。

そうこうするうちに、早馬で戻って来た使者たちの報告を受けた政子らは、暗殺者嫌疑の曾我五郎が頼朝公の寝所の寸前で取り押さえられたことを聞いて、ホッと胸を撫でおろしました。

2.源(みなもとの)範頼

この鎌倉での空騒ぎ、勿論これだけで終わった訳ではありません。前回のBlogで描きましたように、「頼朝殿が暗殺されかけた」と夜中に鎌倉に駆けつけた三郎にワザと言わせたのは時政です。

⑤政子の所に来て話す父・時政
富士の巻狩りの一大イベントが完了し、頼朝公、御家人らと、鎌倉へ引き揚げて来た時政は、イベントの成功の報告と、自分の娘たちの近況を聞くために、政子の所にやってきます。(絵⑤

「政子、巻狩り最終日には要らぬ心配をかけたな。」

「三郎殿が真夜中に急に駆けつけ犬房丸をさらうように連れ出して、頼朝公が死にかけている、などと言われれば、それはもう皆心配で、心配で。」

「死にかけているとは言っておらんじゃろう?殺されかけたと言ったと聞いておるぞ。三郎本人は。」

「どちらでもかまいません。あの状況で、そのような紛らわしい状況を話されるのは、ちゃんと使いでも立てて、鎌倉へご報告いただかないと、却って混乱するばかりです!」

時政は、「その混乱をねらったのじゃがな。」とは言いません。時政は会話を続けます。

「で、鎌倉ではその噂で変な動きをするものはおらんかったか?」

⑥時政の娘たちの系図
※永井路子「続・悪霊列伝」から抜粋・加工
「ええ、皆一致団結して、この緊急事態に当たろうとして下さいました。範頼殿などは、頼朝の妻である私が気丈に振る舞っていることを涙ぐましく感じたのか、『姉上、安心してください。私が居ます』って優しく言ってくださった位ですから。」


「おおっ、範頼殿はやさしいのう!」

と言った時政の目の奥が一瞬光ったように、政子は感じました。

「妹たちはどうじゃ?」(図⑥

千万(せんまん、後の3代将軍源実朝)の乳母と、お父様がお決めになった徳子は、当初は枡形城の病床にある綾子の面倒を近くで見たいからということで、妙楽寺を出ることに乗り気ではなかったのです。そこで薬師の心得もある今若殿が代わりに綾子を診ることにしました。それで今、徳子は鎌倉にて乳母に専心できています。」(写真⑦

「やはり綾子は治らないのか?巻狩りの最中も随分と三郎も気を揉んでおった。枡形城に帰ったら、もうずーっと綾子を診ていたいと嘆息しておった。」
⑦妙楽寺の紫陽花
※現在は紫陽花寺として有名

「はい、今若殿のご報告によりますと、最近は『橋を、橋を!』と時々熱にうなされる中で叫び、何かに憑かれているような感じに悪化してきているようです。今若殿も盛んに護摩(ごま)を焚いて祈っているようですが、中々良い方向に向かわないようです。私たちも綾子のために鎌倉で護摩供養の準備をはじめたところです。」

「そうか、『橋を!』か・・・」

なにやら思いつくところのありそうな時政を、政子は何も言わずに見つめるのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

政子と会ってから約2か月弱、何かの宴会の席で時政は御所の頼朝公に政子から聞いた範頼の行動を報告します。

御所(頼朝のこと)殿、範頼殿が、御所殿が討たれたかも知れないと不安な我が娘に、『ご安心めされい、御所殿が万が一亡くなっても、その跡は私が征夷大将軍として、立派に幕府を存続させますから。』と伝えておったことはご存知ですな!」

「範頼が・・・・」

と言って眉間にうっすら皺を寄せる頼朝の表情を時政は見逃しません。

◆ ◇ ◆ ◇

それから3日後の8月に入ったばかりの暑い最中、時政は頼朝に呼び出されます。
蝉の声が喧しい御所の門を潜り、頼朝謁見の間に着座し、平伏して頼朝を待ちます。

しばらくすると、平伏している時政の前に、パサっと一枚の書状が落とされます。

「時政、範頼が起請文を持って来た。読んでみよ。」
夏用の直垂姿(ひたたれすがた)、扇で仰ぎながら、時政の横に立つ頼朝が言います。(図⑧

「はっ」
⑧直垂姿
「時政、余はやはり疑い深いのが短所よの。政子からも範頼のあの日の行動を聞いた。そこで人を範頼の所へやって、余の後釜は頼家(よりいえ、嫡男)ではなく、範頼のつもりであるか?と詰問したところ。ほれこの通り、全く他意は無く、巻狩り当時は頼家殿も狩りに同伴していたことから、政子の不安を取り除くための発言だったと書いておる。」

「赤心、御所殿に忠誠を尽くすと書いてございますな。」

「そうだ。」

時政は少し考えます。そしてもう一度書状に目を落し、しばらくじっと見入っていました。

風は無く、蝉の声だけが御所の中を吹き抜けます。頼朝はせわしなく扇で、自分の顔を仰ぎ、

「時政、何か気になる事でもあるのか。」

「はっ、私の思い違いなら良いのですが、この書状の最後、範頼殿の花押(かおう)の前の名称でございます。」

「源範頼と記してあるが?」

「征夷大将軍に任命された源家嫡流以外の方が源(みなもと)姓を名乗るというのは、この起請文を書くという事の重大性においては、あってはならぬこと。そもそも起請文を書いて寄越すこと自体、怪しく、このような小さなところで、御所殿をないがしろにする範頼殿の意識が出てしまうのではないでしょうか?御所殿の用心は決して疑い深いのではなく、今までもその御用心こそが、上手く新しい武家の時代を築くことができた肝だと、時政感心しておりまする。範頼殿が黒とは言いませんが、この起請文だけで白と断定されるのは御所殿らしくございません。」

「むむ・・・。」

頼朝はしばらくじっと考えていました。御所は強い西日に晒され、蝉の声は日中の油蝉から、ヒグラシへと変わりはじめました。四半刻が過ぎたでしょうか?

「時政、どうすれば良いか?」

頼朝のいつも長い熟考時間は、拝謁している臣下の者の考えをまとめて貰うための時間でもあるのです。

頭領たる頼朝は、熟考後の自分の考えを軽々しく述べるのではなく、配下の考えを自分の考えに照らし合わせるのが仕事です。時政はまとめた自分の考えを上奏します。

「御所殿、範頼に対し何も音沙汰せず放って置くのが上策かと。」

3.伊豆への流刑

頼朝との面会を済まし、放って置けと提案した時政は、その言葉とは裏腹に、自分は範頼の屋敷を訪れます。

そして、範頼に会うと、御所殿からの伝言と称し、起請文の源姓の活用問題に触れ、頼朝の逆鱗に触れている旨伝えます。

範頼は、かなり狼狽します。

「と、時政殿、どうすれば宜しいか?」

「範頼殿、御所殿は2,3日以内には沙汰を下すと言っておられました。大人しく蟄居し、それを待てばよろしいかと。」

ところが、それから4,5日経っても、頼朝公からは何の音沙汰もありません。
とうとう1週間、なんら沙汰は無いのですが、この時蟄居している範頼の屋敷に矢文が射こまれます。

明日夜半、御所殿、結城殿とご会合

とだけ記してあります。これを最初に見つけた範頼の家人は、文を渡しながら、範頼に言います。

「殿、私が明日御所に忍び込み、それとなく結城殿との会話を聞いて参ります。結城殿とは、結城朝光(ゆうきともみつ)殿ですね。彼は、平家打倒で義経と一緒に戦いながらも、戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝えた冷徹な漢(おとこ)として知られています。この時同様に、頼朝殿のご兄弟である殿に、結城殿が何らかの沙汰を伝えに来る可能性もありますし、そうでないにしても、この状況で矢文が投げ入れられたのは、殿の話がなんらか出るに違いありません。」(絵⑨

⑨結城朝光
憔悴した顔の範頼は、うつろな目をその家人に向け、「そうか」とだけ言うのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

翌日の夕刻、鶴岡八幡宮の御剣役として、近日開催予定の神事について頼朝と相談に来た結城朝光ですが、御所に入る時に、執事仕事をしていた時政に呼び止められます。

「結城殿、また今年も八幡宮での戦勝祈願、御剣役宜しく頼みますぞ!」

「時政殿、こちらこそ御家人の中で最多の御剣役を仰せ仕り、光栄至極でございます。」

「時に結城殿、良からぬ噂を聞いておるので他言無用でお聞き下さらぬか?」

「はっ?」

「目的は分からぬが、今日の御所殿との二人きりの会談中、不審な者が御所に侵入するかもしれないとの噂がこの時政の耳に届き申した。結城殿は御剣役なので、是非御所殿に何か危害が加わらぬよう四囲に気配りをお願い申す。なに、根も葉もない噂話に過ぎないとは思うものの、万が一があるといけないのでな。一応お耳にいれたまで。」

◆ ◇ ◆ ◇

夜半過ぎ、時政から忠告を受けたばかりの結城朝光は、頼朝と酒を酌み交わしながらの会合であっても、流石御剣役。床下のかすかな物音を察知し、何食わぬ顔で、板敷きの床に急に剣を突き立て、侵入者に手傷を負わせるのです。

そして床下からその不審者を引きずり出し誰何(すいか)すると、読者の方はお分かりのように、範頼の例の家人です。

「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ範頼殿の為に、形勢を伺うべく参った次第です。陰謀等ではありません。」と、手傷を治療されながら家人は弁明します。

家人が捕まった直後に、当然頼朝から呼び出しを受けた時政は、範頼の処置に意見します。

「しばらく時政の目の届きやすい伊豆国預かりとし、様子を見るのは如何でしょうか?」

「伊豆というと修善寺あたりか?」

「御意。修善寺に幽閉します。」

4.誅殺

それから1週間後、伊豆修善寺に範頼ら主従は幽閉されます。
ところが、幽閉された翌日、範頼らは、家人らが修善寺に立て籠もろうとした嫌疑で、結城朝光、新田四郎らに誅殺されてしまうのです。(写真⑩
⑩範頼の墓(修善寺)

これら誅殺の理由の1つに、時政が「曾我兄弟の仇討ち後の不穏当な動きと範頼が連動していた疑いが、伊豆に幽閉することで判明した」ことも挙げています。

範頼ら誅殺後に、曾我兄弟の同母兄弟である原小次郎(京の小次郎)という人物が範頼の縁座として処刑されているのです。

この原小次郎が範頼と何らかの連絡を取ろうとした等の挙動が推測できますが、正確には分かっていません。

もしかすると範頼事件のどさくさに紛れて、伊豆方面に若干残っている曾我兄弟関係者を抹殺することで、時政の情報漏えいの可能性を無くしたのかも知れません。

5.おわりに

曾我兄弟の仇討ちで、頼朝暗殺に失敗した時政でしたが、三郎に命じておいた「鎌倉に頼朝が殺されかけたとの風評をばら撒く作戦」は、範頼という源氏の大物を亡きものにすることで、源家の力を削ぐという成果を得ることが出来ました。

転んでもタダでは起きない北条時政。彼は粘り強く北条家台頭のために頑張ります。

しかし、元は自分の娘・綾子のためであり、稲毛三郎も妻の綾子の病が治るために頑張っているのですから、次回は綾子について描きたいと思います。

長文ご精読ありがとうございました。上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。

【鎌倉(大蔵)幕府跡】神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目11−45
【妙楽寺(紫陽花寺)】神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目9−3

【範頼の墓】 静岡県伊豆市修善寺1082


水曜日

東北史跡巡り⑥ ~厨川柵~

さて、東北紀行2日目は盛岡市から始まります。
市内のホテルを8時に出て、まず向かったのは、厨川柵(くりやがわさく)。(写真①
この柵は、大変有名な柵で、1056年の前九年の役の総仕上げ時と、それから133年後、1189年の頼朝の奥州合戦の総仕上げ時の2回に渡り、「蝦夷(えみし)対 源氏」の構造が描かれることになる場所です。
奥州合戦では、既に平泉でこの合戦の勝利は分かっているのに、源頼朝は、この柵の地にまでわざわざ来て、既に死亡している藤原泰衡の首を柱に八寸釘で打ち付け、28万にも及ぶ追従する軍勢に奥州合戦完勝を印象付ける行動をしたのだろうか?

それが知りたくて、この地に来てみたのですが・・・。

1.厨川柵

あるのは写真②の看板だけなのです。(写真②

この看板の裏の白壁は、天昌寺(てんしょうじ)というお寺のもので、それ以外、それらしいものは何もありません。

②厨川柵疑定所に建つ看板
看板には、やはりここが厨川柵の一部であったことや、この白壁の天昌寺が、その時ここの所領を頼朝から貰った工藤氏と関係が深い事などが書かれています。

工藤氏と言えば、曽我兄弟の敵討ちで有名な悪役に工藤祐経(すけつね)という有名な伊豆地方出身の武将が居ますが、どうもその流れの傍流のようですね。頼朝と伊豆での挙兵時からの戦友だったのでしょう。その分派がこの盛岡の地に南部氏の臣下等になり、中世の間勢力を保っていたようです。

しかし、奥州藤原氏を倒した頼朝がわざわざ28万もの軍勢を従え、凱旋行事をした場所にしては、有名な史跡がある訳ではなく、場所も確定できないようなのです。

これはどういうことなのでしょうか?

この看板から白壁沿いにぐるーっと廻り、この白壁の中のお寺・天昌寺の正面口まで歩きながら考えました。(写真③

③天昌寺正面口
ここの石碑の脇にある天昌寺を説明した看板には、天昌寺の脇にある写真④が、当時の厨川柵の柵防跡のようなことが書かれていました。(写真④
④厨川柵の柵防跡?
当時の史料が非常に少ない等も原因なのでしょうが、いずれにせよ、どこからどこまでが明確に厨川柵だったのかは、歩き回って看板等で確認する限り、まだ特定できないようです。

2.征夷大将軍発祥の地

頼朝はここ厨川柵までやってきたことで、征夷大将軍となりました。

以後、武家の棟梁と言えば、征夷大将軍(秀吉は違いますが)が、明治維新になるまで700年も続く訳です。そのトリガーを引いた場所なのですから、この歴史的遺構が「何も無い」というのは、繰り返しになりますが、本当に不思議です。

それが逆に「どうしてそうなっているのだろう?」とあれこれと考えさせる動機になります。

そこで一つ思いついたことがあります。頼朝は実は「征夷大将軍」という役職をゲットすることに拘っていたのではなく、「将軍」という役職に拘っていたと云うものです。

絵⑤を見てください。

⑤陸奥鎮守府将軍として宴会をする頼義(右上)
出典:東京国立博物館所蔵「前九年合戦絵巻(摸本)」

この絵は、出典に描かれている通り、頼朝から133年昔にこの厨川柵で最後を迎えた「前九年の役」の頃の一巻を描いています。

この時、「まつろわぬ(蝦夷)である安倍一族」を征圧しようと朝廷は、源頼義(よりよし)を陸奥の国府多賀城(仙台)へ派遣します。

この絵は、多賀城へ着任した頼義とその息子義家(よしいえ:絵真ん中)らが、歓迎会を受けている場面を表しています。

絵中、右上にいる頼義の上に「将軍」と書かれているのが分かりますでしょうか?

これは、この当時頼義が「将軍」と呼ばれていたことを象徴しています。
彼が多賀城に赴任した時の役職が、「陸奥鎮守府将軍」というものでした。(表⑥

⑥源頼義と頼朝の比較表
頼義自身はこの官職にそんなに拘ったわけではありません。

ところが、140年後の頼朝は拘りました。彼は頼義の将軍の上を行く、大将軍になりたかったのではないでしょうか。なんか子供みたいですね(笑)。

表⑥全体に集約したことを読み取って頂けると嬉しいのですが、頼朝は全ての点において、140年前の頼義の上を行く源家の棟梁であると武士団に見せたかったのです。

よく、「頼朝は藤原泰衡(やすひら)らの奥州征伐をしたから、蝦夷(奥州)征伐で「征夷」となり、昔坂上田村麻呂が征夷大将軍になったことに因み、征夷大将軍になったのでは?」と聞かれることがありますが、それは少々誤解ではないかと思われます。

というのは、そうであれば、頼朝が征夷大将軍に任命されるのは奥州合戦の前、つまり1189年より前でなければなりません。ところが任命されたのは1192年。つまりこの厨川柵で奥州合戦の勝利を宣言し、戦が終った後なのです。

頼朝が欲しがった「大将軍」、これに該当する役職として朝廷側が候補にしたのは「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」等の複数候補が上がったようです。

「征東将軍」は源義経らに滅ぼされた木曽義仲が任官していたもの、「上将軍」は中国の古い役職としてはありましたが、この役職を含む律令制を採り入れた日本では、未だかつて使われたことの無い役職でした。

となると、残るは今迄良く使われてきた「征夷大将軍」のみ。

また、この役職が決まる時には、既に奥州合戦は終わっているため征服すべき夷(蝦夷)は存在しない、つまり「征夷」という「大将軍」の前の二文字は、現実的には意味が無く、ということは何か問題になるようなことも発生しないということなのです。
(現実的に「征夷」という言葉が問題となってくるのは、ここから約700年後の幕末の「攘夷」論からです。)

そこで、「征夷大将軍」を与えることに朝廷側で決定したという説が、最近有力になってきています。(出典:Wikipedia

3.厨川柵で頼朝が顕示したかったこと

結局、この厨川柵で、源頼朝が、後々、鎌倉武士団と言われる28万の猛者に見せたかったものは何だったのでしょうか?

それは、過去の源氏の中で一番だった頼義を頼朝は越えたぞ!!頼義が討ち漏らした安倍一族の末裔を、頼義が安倍一族を討ち滅ぼしたつもりになっていたこの厨川柵という聖地で、140年後にこの頼朝自身が討ち滅ぼしたぞ!俺は頼義より偉いだろう?歴代の源氏の中でピカ一だろう!頼義らは将軍ではあったが、俺は更に上行く大将軍になってやる。
ではないかと想像しました(笑)。

頼朝は、平家打倒で伊豆で挙兵してから、直ぐに石橋山の合戦ここをクリック)で、関東の平家側鎮圧軍に敗れ、以降戦での完全勝利の経験はありません。富士川の戦いここをクリック)では勝利しましたが、これも戦を仕掛ける前に、水鳥の音で平家軍が逃げ出すという状況ですから、頼朝の武勇を喧伝するには、少々力不足です。その後は弟の義経や範頼らが、平家を西へ西へと追い落とし、最後は山口県下関の「壇ノ浦」で殲滅する訳です。

勿論、頼朝が鎌倉に残ったのは、戦下手だからではありません。奥州藤原氏上総(茨城県)の佐竹氏らの抑えとして、鎌倉に鎮座することにしたのです。

また頼朝は、義経のような戦の現場で状況に応じ臨機応変に戦い方を変え、華々しく平家を追い落とす、いわば戦術肌の人材ではありません。じっくり何年も先を見越して布石する、いわば戦略の人なのです。

なので、頼朝が軍を動かすときにはほぼ勝利は決まっている訳です。

平家打倒の戦略も、頼朝は用意周到に、伊豆の流人生活を送っていた17年間に関東武士団を味方につけるという布石を行っていました。
挙兵し、石橋山で敗れはしたものの、大局的には大軍を組織できると踏んでいたのだと思います。あとは平家を滅ぼすために、部下や自分の親族等から誰か戦術に長けた者を戦現場の指揮官として使えばよいと考えていたのでしょう。

奥州合戦も同じです。先のBlogで述べたように、義経追捕の全国手配をした時から、奥州藤原三代の作った奥州王国を潰す算段は完成していたのでしょう。何も頼朝自ら、岩手県は盛岡市の厨川柵まで遠路はるばる来なくても、奥州王国はつぶれたのです。

ただ、奥州合戦でも現場指揮官を立てると、平家を滅ぼした義経のように、その戦功により朝廷側から反頼朝勢力として使われるリスクがあります。
また頼朝自身がこの合戦で自分が如何に凄い大将なのかを、武士団に示しておいた方が、盤石な鎌倉政権を築くことになると踏んだのだと思います。

数十万の武士団が見守る中、槍を持って頼朝は泰衡と一騎打ち、一寸の差で頼朝が勝ち、高々ととったばかりの泰衡の首級を掲げ、数十万の武士団を前に大音声で勝利宣言をする

なんてことは、哀しいかな戦略の人である頼朝には出来ません。全て論理で殺していくのです。敵である藤原泰衡は、部下によって頼朝が厨川柵に到着前に暗殺。その首級は頼朝に引き渡されます。

そこで彼は表⑥にあるように、140年前の「前九年の役」の頼義の真似をして、既に死亡している泰衡の首級を八寸釘で木柱に打ち付け、晒し首にすることで、28万の武士団への示威行動としたのです。
そして、頼義の「将軍」より偉い「大将軍」を朝廷へ所望するという理屈なのですね。

4.蝦夷(えみし)の人々の気持ち

では、そのような記念すべき鎌倉政権盤石化の礎石となるべき厨川柵に何も無いのはなぜか?

以前、このBlogのシリーズで私は奥州藤原氏の最後の当主である泰衡を以下のように断じてしまいました。(詳細はこちらを参照

「泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物である」

上記厳しい評価も根拠レスでないことは、こちらのBlogを読んで頂ければ分かるとは思いますが、一方で、実は泰衡は平泉を築いてきた奥州藤原氏の4代目に相応しい文化的慧眼を持った人物だったのかも知れません。

この厨川柵で幼少の頃敗北を味わった藤原(安倍)清衡(きよひら)が平泉に中尊寺を建立して以来、毛越寺・無量光院等、奥州藤原家代々に渡り築いてきた黄金楽土の平泉を、泰衡は頼朝軍によって焼失させる訳にはいかないと考え、あえて腰抜けの汚名を被る覚悟で、平泉から北へ逃亡したという説があります。そして部下の裏切りにより殺害され、頼朝に差し出された首は前九年の役の故事にならい、八寸の釘により木柱に打ち付けられるのです。

もし、これが本当なら、軍略では才の無い泰衡も、精神世界の中では頼朝より上を行く人物だったのかもしません。
いずれにせよ、一つ言えるのは、泰衡は部下に殺害されますが、決して人望の無い人物では無く、その後彼の首は、彼を慕う人々によって、そっと平泉は中尊寺へ戻され、先の奥州藤原三代と対等にミイラ化されるのです。ただ、鎌倉幕府に気を使い、彼の首が入っている首桶には弟の「忠衡(ただひら)公」と書かれることによって、カモフラージュされますが・・・。(写真⑦

⑦奥州藤原氏三代のミイラが入った棺(左)四代目秀衡の首桶には弟の「忠衡」との銘
昭和25年(1950年)の遺体調査では、泰衡の首には縫合された跡があり、手厚く葬られていたことが分かっています。(写真⑧
⑧秀衡の首(ミイラ化)
A:八寸釘の跡 B,C:縫合痕

これらの事実を基に、この厨川柵が何故遺構として残っていないのかを考察しますと、やはり、東北は蝦夷(えみし)の人々にとって、厨川柵で頼義と頼朝、両源氏の棟梁が行った行為は、無理無体な迫害としてしか映らないのではないでしょうか。
いくら武家政治の基盤の始まりなどと言っても、蝦夷にとっては、迫害以外の何ものでも無く、それらは蝦夷にとって消し去りたい記憶の1つなのではないか。だからこそ、この厨川柵の史跡は殆ど無くなり、この土地を頼朝に与えられた工藤氏は、敗者である安倍・藤原一族のために天昌寺を建立していたのではないか。更に言うなら、泰衡の首を忠衡と偽るのと同様、天昌寺をその目的のためとは表向きは言えない雰囲気があったのではないかと想像してしまいます。

5.おわりに

昭和25年(1950年)の遺体調査で、泰衡の首桶から80粒ほどの蓮の種が見つかったのだそうです。
その種は平成10年に発芽し、「中尊寺ハス」として有名になっています。(写真⑨
⑨中尊寺ハス
泰衡の首級と一緒にこの蓮の種を首桶に入れた、800年以上前の名も知れぬやさしい蝦夷の方は、泰衡の真の理解者だと思います。

その方は、泰衡が後世、臆病者と誤解され続けても、数百年後、数千年後に、この蓮の種を蒔き、美しい蓮の花が咲くのを見た人の中に、きっと泰衡の心根のやさしさを、真に理解してくれる人が現れることを期待して種を入れたのかも知れませんね。



長文最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。 

東北史跡巡り⑤ ~じゃじゃ麺~

私のマイナー史跡巡りという行動は、現地に向かう前の事前調査も少なく、計画性も無く、行った先の史跡で「あ、そうなんだ!じゃあ、これはどこで起きたのかな?」と呟きながら、リアルタイムでググります。

すると、その史実に関しての知識と同時に、関連史跡も分かるので、次にその中で興味のある史跡へ移動します。

そこでまた「あ、そうなんだ!じゃあ、・・・」の連鎖により、段々分かってくるという感じです。

本当に最近はIT化で便利な世の中になりました。かなりマイナーな史跡でも、Google検索と、GoogleMapさえあれば、最短で到着できます。

スマホさえあれば、効率よく情報を探し、行動できる時代。最近は写真のように、車据え付けのカーナビよりも、GoogleMapのカーナビの方ばかり使います(笑)(写真①
①車載のカーナビよりスマホのGoogleMapを使う

中学生の頃は、図書館で国土地理院の地図を開き、一生懸命その史跡を調べ、現地でも詳細の場所はどこか分からず、半日歩き廻り史跡を探すのが当たり前でした。

その頃に比べると隔世の感があります。

しかし、効率が良くなった分だけ、弾丸のような史跡訪問行程となり、今度は移動時間・食事時間が勿体なく感じてきました。
そこで日本全国何処に行っても、トイレ、公衆無線LANによる情報収集、美味しいコーヒー、朝飯・昼飯の利用、全てコンビニばかりとなってきております。

こればかりだとさすがに哀しく感じることもあります(笑)。

そこで、今回盛岡に行ったこともあり、せめてもの贅沢(大笑)として、盛岡名物じゃじゃ麺を食べました。(写真②
②本場盛岡市で食べたじゃじゃ麵

◆ ◇ ◆ ◇
※以降の写真も全て食す前の写真ですので、ご安心して閲覧ください(笑)。

じゃじゃ麺、東京でもたまに社食等で昼に食べたりします。
汁気の無い麺は焼きそばでもなんでもそうですが、鉄板上でジャージャー音がしますから、この麺もその音で東北の人がこの名前を付けたのだろうくらいに思っていました。

Wikiで調べると、元々は中国の家庭料理の1つなのですね。じゃじゃも中国語で「炸醤麺(ジャージアンミエン)」から来ているとのこと。

③コンビニでゲットしたじゃじゃ麺
ただ、コンビニ等でも売っているじゃじゃ麺は、本場とは違って、砂糖などを用いたた甘みが強く、さらに唐辛子や豆板醤などで辛めの味付けがされているのだそうです。

また麺もラーメンなどと同じものが使われていることが多いのだそうで、それで私が「焼きそば等と同じ無水の麺」と感じたのだと思います。(写真③

で、結局岩手県は盛岡市のじゃじゃ麺が、中国の家庭料理の伝統を一番継承しているとのこと。

私が食べたお店は、「不来方(こずかた)」というお店で、盛岡市内では3番目に古い、じゃじゃ麺の老舗ということで宿泊したホテルから紹介されました。(写真④
④盛岡市の老舗「不来方」(こずかた)

夏休みとは云え、日曜日の夜だけあって、お店には人があまり居ない、というか私しか居ない状況でしたが、その分、ご店主から色々とじゃじゃ麺について教えて頂けました。

まず、じゃじゃ麺の麺ですが、先程、ラーメンのような無水の麺ではなく、平たいきし麺のような独特の麺を使うのが本場であり、不来方でも写真⑤ような平打ちうどんかきし麺のように感じられる独特の麺でした。(写真⑤
⑤麺はきし麺のような独特の平麺

これに、特製の肉味噌とキュウリ、ネギをかけ、好みに合わせたトッピング(私の場合はチャーシューです)をします。(写真⑥
⑥肉味噌とキュウリ、肉味噌の奥にネギ、
チャーシューのトッピングと右は薬味類

そして、これに、薬味としてラー油、お酢、おろしショウガやニンニクをかけ、グワーッと良くかき混ぜ、写真⑤のような状態にします。

この肉味噌とキュウリと麺等が良く絡んで、甘辛くとても美味しいです。ラーメンとも和麺とも違うこの食感は独特ですね。東京で食べるじゃじゃ麺とも違い、独特の盛岡らしさを感じます。

食べながら、ふと目に留まったテーブル上写真⑦左の”ちーたんたん”。
「これは何ですか?」とご店主に聞きましたところ、写真⑦の右側ようなものであることが分かりました。(写真⑦
⑦ちーたんたん
うどん・そば等の和麺によくある「蕎麦湯」をベースにして卵で溶いたスープです!

これもなかなかでした。「蕎麦湯」って栄養価が高いと言われていますよね。やはり盛岡じゃじゃ麺も独特とは云うものの、和麺と同じような製作方法で、その茹で汁は栄養価が高く、スープにするのですね。

この盛岡じゃじゃ麺、ご店主のお話ですと、戦前の旧満州で、中国人たちが寒い冬等に良く食べる家庭料理の味が忘れられず、終戦後、盛岡に復員されてきて、日本の麺等の食材を使って屋台を始めたのが始まりだそうです。

そして盛岡の人たちの舌に合うようにアレンジを繰り返し、「じゃじゃ麺」としての独特の味を形成したのだそうです。

宇都宮餃子と同じような経緯ですね。

面白いのは、宇都宮餃子も満州でのスイトンから。このじゃじゃ麺も満州。

満州は冬場はかなり寒いのです。

盛岡等東北も宇都宮もかなり寒い土地で満州に似ています。そういう気候の共通性もあるので、親しみやすい料理となったのではないでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇
「不来方(こずかた)」って洒落た名前をお店につけたなあと、この時は思いましたが、翌日見て廻った市内の「盛岡城」は、地元の南部氏に盛岡と名付けられる前570年間は「不来方城」と呼ばれていたことを初めて知りました。(写真⑧
⑧盛岡城は570年間「不来方城」だった

また、岩手を代表する石川啄木の詩に
⑨盛岡城にある啄木の詩

不来方(こずかた)の
お城の草に寝ころびて
空に吸はれし十五の心

というのがありましたね。(写真⑨

この不来方という地名、お店でちょっと洒落ているなあと感じたのは、「来ない方」なんて、山下達郎の大ヒット曲「クリスマス・イブ」の中の「きっと君は来ない」の歌詞を彷彿させるじゃないですか。恋愛チックでロマンスがあるなあと思ったのです。

ところが、由来を調べると福島県いわき市の勿来(なこそ)と同じで、「来ないで欲しい方」、勿来も「な来(こ)そ」すなわち「来るなかれ」。

これは、当時京にあった朝廷から「こっち(京)へ来るな!」と言われていた地名ということです。酷いですよね。

「マイナー・史跡巡り」の中尊寺金色堂シリーズで描いていますが、結局朝廷は力があるけど従わない東北の蝦夷(えみし)を敵視すること甚だしい歴史の傷が、この「不来方」という名前にあるのです。

全然ロマンチックでないですね。それで南部氏は、この城の名前が良くないと考え「盛岡城」にしたようですよ。

また長くなりました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。