マイナー・史跡巡り

日曜日

神奈川台場 ~横浜港の誕生秘話~

①神奈川台場
今回、調査しました神奈川台場、東京のお台場に比べると、かなりマイナーな史跡となっております。

ただ、神奈川台場が出来た経緯について調べてみると、幕末に今の横浜の地が開港に至る経緯が見えてきましたので、ご報告させて頂きます。(絵①

1.欧米でも名のあった「神奈川湊(みなと)」

神奈川台場のあった土地(現在の横浜市神奈川区神奈川)は、江戸時代、東海道の宿として発展した街でした。(絵②

この有名な歌川広重『東海道五十三次』の「神奈川宿」の浮世絵。

絵中、船が係留されているのが神奈川湊です。またこの絵が描かれた頃は、開港されていませんが、画面中央に2つの岩山みたいなのがあるのが分かりますか?これが現在の横浜「みなとみらい」の辺りです。(山は、手前が野毛山、奥が山手の丘「港の見える丘公園」。)

この神奈川湊、鎌倉時代は鎌倉の鶴岡八幡宮が治めていました。やはり東京湾に面した良港として、鎌倉の中枢である八幡宮に献上される程だったのでしょう。
②歌川広重「東海道五十三次」に出て来る神奈川宿

更に脱線しますが、鎌倉から戦国時代に掛けて、この湊のすぐ脇にあった権現山城(ごんげんやまじょう)は、横浜市内の城郭としてはかなり大きく、また堅固でした。(写真③

北条早雲の時に、ここ神奈川の豪族上田氏が、早雲側に付き、北条側として初めて関東管領の上杉氏に叛旗を翻し、籠城したのです。この後、北条氏と上杉の関東における泥沼の戦いが繰り広げられ、最後はあの上杉謙信を生み出す結果となるきっかけの地でもあります。

この中世武士時代の横浜市内の詳細は、また別途Blogを分けてお話しようと考えています。

話を戻します。この浮世絵(絵②)だけですと、江戸時代の神奈川宿は、他の五十三次の宿の1つくらいにしか見えませんが、この神奈川が江戸時代、鎖国中でありながら、欧米人の間では有名だったのです。
③権現山城

それは何故か?
こちらの絵なのです。(絵④

有名な葛飾北斎富嶽三十六景の絵ですね。絵の名前は「神奈川沖浪裏」。つまりこの神奈川湊の沖での一現象を表したものなのです。

優美な富士山とは対照的に、凶暴な波濤が襲いかかり、翻弄される舟となす術もなく舟にしがみついている人を表すさまを、波一つ一つの緻密な対数螺旋の技法を使い表現されています。TVや映画等の動画は言うに及ばず、日本には写真も無い時代ですから、北斎の実体験の記憶だけで、ここまでリアルにその瞬間を描けるというのは、19世紀前半、欧米でも驚異の目で見られ、最も有名な日本美術作品の一つとなりました。

当時のゴッホや、作曲家ドビュッシーが絶賛し、自作品に取り入れるなど、欧州の芸術家達に影響を与えたこの作品は、まだ開国前の欧米人にも、日本の中の1地名であるKanagawaを印象付けたものなのです。

④神奈川沖浪裏 葛飾北斎画
2.本当の開港予定箇所は神奈川湊だった?

さて、地図⑤を見てください。

アメリカ領事館、イギリス領事館、フランス領事館など、多くの欧米領事館が、この神奈川地区に集中しています。

これは何を意味しているのでしょうか?

実は、幕末の欧米列強国は、開港を現在の横浜港の場所ではなく、この神奈川湊にして欲しいと強く希望していたのです。

2つ理由があります。

【理由1】この場所が、神奈川湊として長期に渡り良港として運用されてきた実績があること
【理由2】神奈川宿として、当時の交通の大動脈である東海道に面しており、江戸等の日本の主要都市への往来や物資輸送に利便性が高いこと
⑤神奈川湊にある欧米の領事館跡
ですので、領事館を開港に先立ち、この神奈川湊の辺りに沢山建てたのです。
と言ってもどの領事館もお寺を代行所として活用しています。(写真⑥
⑥欧米各国の領事館跡(全てお寺を利用)
また、話が飛びますが、幕末の有名な生麦事件地図⑤の上部に書かれた「生麦」で、薩摩藩の大名行列中に、国法で定められた土下座をせずに馬上にいたイギリス人・リチャードソンを、藩士が斬りつけました。
⑦領事館近くにあるヘボン医師診療所跡(宗興寺)
その後、殺されたリチャードソンの検死を行った場所が、地図⑤にもありますアメリカ領事館なのです。

更に脱線しますが、この検死時に立ち会ったヘボン医師は、あの「ヘボン式ローマ字」の開祖です。

この人が居なければ、今頃私たちはPCやスマホで「日本語ローマ字変換」も打てないところでしたね(笑)。(写真⑦

写真⑥の中にもありますが、今回、このアメリカ領事館があった本覚寺も訪問しました。(写真⑧

するとそのお寺の山門前に、笹薮に埋もれかけていましたが、1つ見慣れない人物の石碑を発見しました。(写真⑨

3.岩瀬肥後守

岩瀬肥後守忠震いわせ ひごのかみ ただなり)。私はこの人を知りませんでしたが、幕末に、小栗上野介、水野忠徳と併せ、「幕末三俊」と呼ばれた優秀な外交官だったのです。

⑧アメリカ領事館のあった本覚寺
以前私は、ロシアのプチャーチンが日本に通商条約を締結しに来た時に、日本側は「米国とも通商条約は結んでいない。和親条約止まりにして欲しい」と交渉したと、別記事「幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~」にて記述しました。(詳細はこちら

この主張を行い、後に日露和親条約締結(1855年)にまで漕ぎつけた外国奉行が、彼なのです。

一方、1854年に既に締結した日米和親条約で、伊豆の下田に来日していた米国のハリスは、更なる通商貿易のための条約、日米修好通商条約締結を目指します。

ハリスは、幕府に対して「米国は日本に対する領土的野心は少しも抱いていない。日本が警戒しなければならないのは、アヘン戦争の例にあるようにイギリスである。米国と穏当な通商条約を結べば、他の西洋諸国もこれに倣い、自然に日本は西洋諸国との戦争を回避することが出来る。」
との説明をし、洋学知識に詳しい老中首座堀田正睦(ほった まさよし)をはじめ、ロシアからの希求も聞いていた川路聖謨(かわじ としあきら)も含めた幕閣の多くがこの説に傾倒しはじめていました。

その後、水戸の徳川斉昭(なりあき)ら、通商条約締結反対派への強硬な締結押し切りを井伊直弼(いい なおすけ)が行い、1858年に朝廷の裁可無く締結する日米修好通商条約となるのですが、この時に、また米国との交渉の中心的な役割を果たすのが、岩瀬肥後守なのです。

4.日米修好通商条約

⑨笹やぶに埋もれかけた石碑(本覚寺内)
皆さんも、仕事で交渉の経験上、交渉の結果を記す契約書等の条文、交渉相手と自分達どちらで書きますか?基本、自分達で書かせて欲しいと最初は要求するのではないでしょうか?相手に書いてもらうと思わぬところに相手有利となってしまう文章が入り込んでいたりするリスクを避けるためにも、自分達で書いておいた方が良いと。

なにか相手を性悪説で見ているようで嫌な気もしますが、契約などの条約は、性善説ではなく、性悪説で見るのが普通です。

ところが、岩瀬肥後守は、ハリスに言います。

「今迄鎖国していた我々日本人は、通商とか貿易といったことについて全く知らない。ただ貴殿は、(先に述べたように)日本の未来を案じてこの条約を締結したいと言ってくれた。なので私、岩瀬は全面的に貴殿を信用し、条約草案の起稿を一切お任せする。」

驚きです。
まあ仕事でも、もうツウ・カーになった親しい者同士でしたら、相手に草案を一切お任せするみたいな発言はあるかも知れませんが、全く知らない世界で、しかも一国の命運を左右する条約を相手国の代表に任せるとは!やはり相手を全面的に信用するということは、自分もかなり誠実でなければ出来ない事ですね。

ただ岩瀬肥後守は、上記の言はあるものの、そこは「幕末三俊」の漢(おとこ)だけあって、ハリスから提出された草案を詳細に検討し、おかしいと思った箇所は徹底的に指摘・追求することで、ハリスを驚愕させました。ハリス自身、「どうせ鎖国してきた日本人は通商貿易を知らない。米国が不利に傾かないよう、どちらかと言えば日本が不利となるような条項に上手くしよう」と考えたようです。

⑩アメリカ公使館跡にあるハリスの碑(麻布善福寺)
それらを全て看破し、ハリスを黙させた岩瀬肥後守は、畏怖されると同時に、尊敬されました。

そのため岩瀬肥後守の石碑は当時のアメリカ領事館のあった本覚寺境内に、写真⑨のようにあるという訳です。

以下のポイントで岩瀬肥後守は日米修好通商条約上で優位に立つことが出来たのです。

【ポイント1】当初11港を開国するよう要請があったものを4港に抑えることに成功
【ポイント2】輸出入品に関する価格決定権を日本側が持つことができた

以後、彼は米国も加えたオランダ、ロシア、イギリス、フランス、5か国との修好通商条約すべてに立会い、調印しました。全部に立ち会ったのは岩瀬肥後守ただひとりです。

5.岩瀬肥後守の苦悩と横浜開港

岩瀬肥後守が、これ程の国家の大役を果たせたのは、やはり誠実な彼の人格にあると思われます。しかし、彼は横浜開港に当たって苦悩します。

というのは、修好通商条約で開港予定地1つは「神奈川湊」と明記されているのです。横浜ではありません。地図⑤のまさに欧米が開港を希望した神奈川湊、神奈川宿の辺りです。そこで欧米は、どやどやと神奈川宿の辺りに領事館を設ける訳ですが、これに幕閣からストップを掛かるよう、岩瀬肥後守に圧力がかかります。

「神奈川宿は江戸への直結ルート、交通の大動脈である場所にあるため、開港後、東海道伝いに江戸が攻められては大変!よって何としても東海道沿いの神奈川湊の開港は止めさせよ!」

⑪「御開港横浜正景」1863年
※左下に神奈川台場を配置
中央の開港場を支えるように描かれている
ハリスに対しても筋が通らない事は遠慮せずに交渉を進める岩瀬肥後守です。幕閣の高官だからと言って、変な忖度等する訳がありません。

「いや、私たちははっきりと神奈川湊を開港すると決め、条文化しているのです。ここはきっぱり神奈川湊を開港しなければ、武士の面目が立ちません!」

別記事「幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~」でも記述しました(詳細はこちら)が、この当時の幕府は、東海道等の幹線沿いに欧米人が入り込むことを極度に恐れます。

プチャーチンが津波で大破したディアナ号の修復を江戸から近いために物資が豊富に供給できる浦賀(三浦半島)港に回航したいと申し出ても、「江戸に近いからダメ!」と。

欧米列強が、江戸城に攻めて来る可能性は低いと思われますが、当時は兎に角異様に恐れます。そのお蔭であの東京のお台場11基を、ペリーが再来航する期間1年以内に造り上げる等、江戸城防衛ということになると、過剰なまでに防衛環境構築能力を発揮するのです。
⑫明治初期の頃の神奈川台場
※権現山辺りから臨む

なので、折角の岩瀬肥後守の主張も、空しく掻き消され、彼は左遷されます。安政の大獄時期だったこともあり、彼はそのまま失意のもと、44歳という若さで亡くなるのです。

勿論、米国は怒ります。「条約通り神奈川湊を開港しなさい!」

幕府の役人は言います。「いえ、この場所(現在の横浜港:地図⑤参照)も神奈川湊の一部でございまして。ほれ、この有名な富嶽三十六景の神奈川沖の浮世絵(絵④参照)のように、関東は冬場空っ風のような北風が強く、波濤が高くなります。そこで北側の船着き場より、西側の横浜村の方が舟がつけやすいのですよ。横浜村は野毛山山手の丘に挟まれて風を避けられる構造になっていますから。実際神奈川宿の舟は、海が荒れた時はしょっちゅう横浜村に舟を付けます。欧米皆さまの大きな船ならどちらに付けても宜しいのでしょうが、カッター(上陸用小舟)等での上陸を考慮された場合は、横浜村の方が利便性が高いですよ。条約通り、そこは神奈川湊の一部ですし。」

と条約に書かれている神奈川湊とは横浜村が含まれていることを想定して書かれたものなので、居留地はそっちにしてくれと、口八丁で米国を丸め込むのです。

それなりに理に適っているということで、結局欧米列強は、今の横浜港の関内に居留地を持つことになるのです。(絵⑪

更に幕府は、本来の神奈川湊に砲台を築いてしまうのです。(絵⑪写真⑫写真①も参照)

⑬今も残る神奈川台場の石垣
東海道へ外国兵が上陸して陸路江戸へ向かうことを避けるためです。これらの砲台は、品川砲台やお台場等、東海道が海岸線に寄る処にはほぼ造っています。

この事実から考えても、東海道の宿のある神奈川湊を開港場にするなんて、当時の幕府にとってはとんでもないことだったのでしょう。

6.おわりに

この神奈川台場、欧米諸国に対する建前としては、来航する外国船の治安を守るためという大義名分で造ったのではないかと絵⑪等を見て思います。いずれにせよ、この台場は大正時代まで礼砲を打つ平和利用にしか使われなかったようです。

ただ、この台場を造るために、写真③にある権現山城址からは、大量の土砂が掘り出されたために、権現山は低くなり、城郭跡はかなり失われたようです。

台場自体も、殆ど埋めたてられ、ほんの一部だけ住宅街の中に残っています。(写真⑬

もし、岩瀬肥後守が左遷されることなく、彼の主張が通っていたら、開港場も今の横浜でなく、写真⑬の神奈川台場の辺りだったかも知れないと思うと、感慨深いものがありました。

今回の調査の後、ベイブリッジの麓、大黒PA(地図⑤参照)から今の横浜港と神奈川湊を一望できる景色をフィルムに収めました。(写真⑭
⑭大黒ふ頭から見る横浜港(中央付近)と神奈川湊(右風車付近)
この写真を見ると、なるほど幕府が修好通商条約締結後に主張したように、横浜も神奈川湊も同じ港であるという主張も何となく分かる気もします。

しかし、相手をちゃんとリスペクトしつつも、主張するところはきちんと主張し、誠実に物事は進めると言った日本武士らしい岩瀬肥後守。

彼が、米国等へ策を弄せず「神奈川湊は神奈川湊、横浜村とは違いまする!」と幕閣側へ主張するその誠実な姿は、やはりどこか日本人としてのプライドとして大事にしたい生き様だなと思いながら、150年後の横浜の象徴であるベイブリッジを渡り、帰路に着いたのでした。

最後までご精読頂き、ありがとうございました。

製作のはげみになりますので、お手数ですが記事末にある「人気ブログランキング」をクリック頂きますようお願い申し上げます。

【神奈川台場】神奈川県横浜市神奈川区神奈川1丁目
【権現山城】神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷5
【アメリカ領事館跡(本覚寺)】神奈川県横浜市神奈川区台町3-1
【ヘボン医師診療所跡(宗興寺)】神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷10−6

中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~

さて、豊臣軍6万5千の兵が、5千で守る九戸城に迫るところで、前回のこのシリーズは終わっています。(詳細はこちら

今回は、その続きです。

1.九戸城包囲網

まず、前回の最後で、蒲生氏郷(がもううじさと)浅野長政らが、南部信直(のぶなお)の援軍で、九戸城へ押し寄せる場面を描きました。

現在の九戸城と、その周辺をどのように豊臣軍が取り囲んだのかについて地図①に示します。
①現在の九戸城と包囲する豊臣軍の配置
九戸城はかなり堅固な城であり、豊臣軍に救援を求めた南部信直は、北東へ陣取り、それと相対する南西に蒲生氏郷らが構えます。東側に浅野長政井伊直政といった錚々(そうそう)たる豊臣方の腹心が陣を張るのです。

②九戸城本丸から津軽為信らが陣を構えた方角を臨む
また西北、馬淵川を挟んで、秋田県の名前の由来となる秋田実季(さねすえ)、津軽地方(弘前藩)を治める津軽為信(ためのぶ)をはじめとする、奥州勢が陣を張ります。(写真②

私が九戸城に立て籠もる九戸政実でしたら、一番腹が立つのは、昨日の友だった奥州勢、特に津軽為信でしょう。

2.津軽為信

津軽為信は、九戸政実と同じ様に南部氏支族でした。南部信直への世継ぎ争いで、信直と九戸政実が対立した時には、津軽為信は、政実側についたのです。(絵③参照

そして南部家の惣領が信直と決まった後、信直は九戸政実に津軽氏討伐の軍令を出します。しかし、政実は津軽為信をかばい、討伐しません。それどころか、政実は、信直に反乱を起こしそうな様相を呈してきたので、信直自身が津軽為信を討伐できるような状況でもなくなったのです。

③津軽為信
そこで津軽為信は、南部家から独立し、津軽地方をどんどん切り取っていく訳です。
つまり、津軽為信が自身の勢力拡大をすることが出来た大きな要因は、九戸政実に依るところが大きいのです。

しかし、津軽為信は豊臣軍に付きました。
奥州仕置で津軽を安堵された為信は、やはり時の権力に反抗する九戸政実は切り捨てるのですね。

このような状況は、実は現在まで尾を引いているようです。

青森県の中で、津軽為信の津軽地方と八戸等の南部地方はあまり仲が良くないような話が結構Webにもいくつかあります。(地図④

勿論、この地方の間には地図④のように奥羽山脈があることも影響しているのでしょうが、この津軽為信が南部信直に逆らうだけでなく、その時味方をした九戸政実をも見捨てたことも対立の一因としてあるのでしょう。

一説には、津軽地方の中心弘前と、南部地方の八戸との間で、県庁所在地争いがあり、間を取って青森市が出来たという話もあります。
④津軽地方と南部地方

オーストラリアがメルボルンシドニーの間を取って、キャンベラを首都にしたのと同じですね。

現在の県庁所在地争いにまで、この時の九戸城攻防の影響が残っているのです。

3.冬を待つ城

さて、話を九戸城包囲へ戻します。6万5千もの豊臣軍をたった5千の反乱軍で迎撃した九戸政実に勝算はあったのでしょうか?

元々は、南部信直が豊臣秀吉に恭順し過ぎ、蝦夷の国としての自立性が脅かされたことに対する反乱です。九戸政実にしてみれば、南部信直だけが敵であれば、これを倒し、南部領の覇者となることは可能と考えていたでしょう。

この時、南部氏より九戸氏の方が財を沢山持っていました。というのは、前回のBlogでも書きましたように、当時隠し持っていた松尾鉱山で大量に採れた硫黄を、鉄砲の主要成分として高く売って財を形成していたのです。(写真⑤

ですので、当然軍備等も南部氏より充実していました。

⑤松尾鉱山の廃墟となったアパート
1960年代まで硫黄の生産東洋1の鉱山跡
その証拠にこの当時南部信直は三戸城という城を根城にしていたのですが、九戸城落城後は、蒲生氏郷が九戸城を改築し、「福岡城」と改名して南部信直の本拠地に変更させています。

九戸城の方が三戸城より、堅固で機能性に富んでいたのは、まさに九戸氏と南部氏の財力の違いだったと想定されます。(写真⑥

また脱線しますが、南部氏がこの「福岡城」に居を構えても、地元の人達は、この城を「九戸城」と呼び続けたので、直ぐに今の盛岡市にある「不来方(こづかた)城」に居城を移します。「不来方」は、私のBlog「Tsure-Tsure」の中で理由等を書きましたが、不吉な名前とされ、「盛岡城」と改名し、今の盛岡市の礎となった訳です。(写真⑦

⑥九戸城本丸の石垣と堀
※石垣は東北最古級です
「福岡城」「盛岡城」南部氏の両城とも「岡」が付きますね(笑)。

また話を戻します。

しかし、いくら南部氏に対しては有利だった九戸政実でも、天下の豊臣軍を相手にするのはかなり難しいでしょう。

この場合、やはりこの陸奥の国特有の戦い方があります。それは、500年前の後三年合戦の出羽国(秋田県)沼柵における源義家軍の撃退です。(詳細は、こちらのリンクをお読みください。)

この時、源義家は秋田県の冬将軍を甘く見ていたのです。極寒と豪雪、大軍であればある程、補給路が確保できずに、城(当時は柵)を包囲したまま、冬を越すことは困難となります。

冬将軍到来で包囲網はガタガタとなり、撤退したのです。

⑦盛岡城址(不来方城)
唯一九戸政実らに勝機があるとすれば、この時と同様に、大軍であっても、土地を良く知る九戸軍が少数精鋭でもって、補給路を断ち、冬将軍を迎えさせ、豊臣軍を撤退させる。そして次の征伐軍を編成してくる前に南部氏を討ち滅ぼすか、講和に持って行く。

これしかないと考えていました。

そこで、九戸政実は、以下3つを準備するのです。

(1)大量の食料・弾薬・鉄砲の買い込みと城内への備蓄
(2)九戸城周辺の徹底した村民立ち退き準備
(3)伊達政宗を使い、討伐軍編成並びに出発を遅らせる外交努力

(1)(2)は先に述べましたように、松尾鉱山で作った財を基に実施します。
特に(2)の村民立ち退きは、豊臣軍の補給路をゲリラ戦で断つのと同時に食糧を村民らから現地調達できないように阻止するためです。

また(3)についてですが、伊達政宗は、宇都宮仕置で領土の半分を奪われた(前回のBlog参照蒲生氏郷が大嫌いです(笑)。

今回の討伐軍のリーダーはこの蒲生氏郷。(絵⑧
⑧蒲生氏郷公イメージ
出典はこちら

表向きは豊臣秀吉に恭順の意を顕した伊達政宗ですが、裏では九戸政実に加担していたとの説があります。(安部龍太郎氏「冬を待つ城」より)

なので、本来1591年4月に南部信直からヘルプを貰ったにも係わらず軍を編成するのは3か月後の7月、九戸城を包囲したのは9月になってからという遅々とした進行になるように、九戸政実は、伊達政宗に頼み、上手くコントロールしたようです。

4.蒲生氏郷

絵⑧にも描かれていますが、彼の胸に十字架があるのが分かりますでしょうか?

そうなのです。蒲生氏郷はキリシタン大名だったのです。
ちなみに当時のキリスト教宣教師のオルガンティノは、ローマ教皇に、「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」と彼を報告しているのです。

そんな彼は、秀吉からの信頼も篤く、伊達政宗から秀吉が没収した福島の土地を蒲生氏郷へ与えたのは、伊達政宗へのけん制や、反骨精神の強い難しい土地、奥州を纏めさせようとしたからなのでしょう。

実は石田三成も、秀吉の篤い信頼を受ける氏郷を信頼し、今回、九戸城を囲む氏郷(写真⑨)に宛てに、以下の主旨の書状を送っています。
⑨九戸城大手門から見た蒲生氏郷の陣の方角

「自分(三成)は現在、佐竹、宇都宮、相馬の軍勢3万を率いていわき(福島県)から浜通りを北上している。今回の九戸城攻めは単に南部家の内紛に介入する以外に2つの目的がある。それはこの戦終了と同時に来る朝鮮出兵をすることと関係する。
第1に、朝鮮は極寒の地であることから、その戦方法に馴れて置く必要があること。
第2は極寒の地で役に立つ奥州の人足が必要であること。
この2つを満足するには、今回の戦、なるべく長引かせ、全軍に冬場の戦を経験させると同時に、その間で奥州の不満分子一掃を大義名分に人足の徴発を行う方が、関白殿下のご威信を損なうことが無くて良い。」

これを読んだ氏郷は嫌気が差します。

戦場の現場経験が少ない三成は、自分の理想とする要件(ここでは朝鮮出兵)ばかりを主眼に置いて、机上の空論を押し付けて来る。
そんなに事は簡単か?九戸政実だって我々を冬将軍まで釘付けにしておきたいと思っているに違いない。その証拠にこの近隣の村人が誰もおらず、後方の補給路はわずか2千程度のゲリラ戦で既にかく乱を開始されている。私の任務は先陣の大将として九戸城を攻め落とすことであり、三成の思惑にかまけている暇はない。三成が着陣する前に早々に戦を終わらせなければ!

5.投降

⑩九戸城は至る所に高台があり
銃眼を備えた土壁から狙い撃ち
しやすい構造となっている
蒲生氏郷、九戸城に総攻撃を仕掛けます。
しかし、九戸城はなかなか落ちません。なにぶん東洋1の硫黄の産出を誇る松尾鉱山を後ろ盾に持つ九戸城ですから、鉄砲の火薬は腐るほど出来ますし、その硫黄で買った鉄砲を駆使すると同時に、九戸城の地の利を上手く生かして反撃して来ます。(写真⑩

蒲生氏郷は焦ります。
「うーむ、九戸城は、想定していたよりかなり手強い。これでは三成が来る前に落すことは不可能。どうすべきか・・・」

悩んだ氏郷は早々に九戸政実と和睦をする策で行きます。

和睦条件は九戸一族数名の武将の首を差し出すこと。そうすれば、九戸城に立て籠もる全員を助けるというものです。キリシタン大名でも、責任者の首を差し出すことは譲れないのでしょう。

九戸政実も流石に戦ってみて、6万5千もの大軍を冬将軍が来るまであと3か月もここにとどめておくのは難しいと判断したようです。

実は彼は伊達政宗がもう少し粘り、あと1,2か月は包囲が遅くなることを期待していました。500年前の後三年合戦で、源義家が沼柵を包囲したのも、稲作の終わった11月からでした。9月は流石に早すぎるのです。なので、この和睦に自分達だけの首ですむのであればということで応じました。

ただ、実はこの方向で氏郷が九戸政実と話を進めている最中に、浅井長政らから物言いが入ります。

6万5千もの兵を連れて、5千しか城兵の居ない城を囲んだのに、たった数名の首だけで和睦を結んだとあっては、豊臣軍は腰抜けか?と天下の笑いものになる。せめて城攻めで、数百の兵の首を挙げて降参させたという体(てい)を作らないと、関白殿下に申し訳が立たないと。

流石に最小の犠牲で、他の命を救いたいと考えるキリシタン大名の氏郷は、この長政らの主張を嫌がったことでしょう。

ただこの問題に対し、彼らが対処したことは確かなようです。
⑪九戸城で発掘された首の無い遺体

通説として、九戸政実とその一族7名が蒲生氏郷へ投降した直後、6万5千の豊臣軍は、和睦の条件を反故とし、九戸城へなだれ込み、城兵・女・子供構わず「撫で斬り」にしたという話があります。

写真⑪は九戸城の大手門辺りから発掘された首の無い遺体です。「撫で斬り」の話はこの城地域で長く伝承され、この写真等が有力な根拠とされています。(写真⑪

ただ、これらの撫で斬りされた遺体の数は少なく、確証までは得られていないようです。
また、蒲生氏郷の信条や性格からそこまでやるのか等の疑問も生まれます。実際Facebookの友人等と、この話をした時も、私と同じような疑問を持っている人は少なからずいらっしゃることが確認できました。

どうやら、作家安部龍太郎氏もその一人らしく、彼はその著書「冬を待つ城」では、詳細は省きますが、このように話が出来ています。

蒲生氏郷は、和睦を結んだ九戸政実にこの問題を相談します。政実は「私に一計あります。三百の首を揃えましょう」と言い、ある特殊任務で潜入した津軽為信の兵を騙して、城の本丸手前のこの骨が発掘された辺りの窪地に引き入れ、上から鉄砲で300程刈り取るのです。
特殊任務故、津軽為信は、自兵がやられたとは公言出来ません。政実は、それら戦死者の首を九戸城の城兵として氏郷へ差し出すことで、氏郷の面目を保ち、開城するというものです。特殊任務等の詳細は是非小説をお読みになりご確認ください。
⑫私が訪問した時も九戸城は発掘調査が進行していました

話として上手いと思います。この辺り事実はまだ九戸城の発掘調査の結果等を待たないと分からないようです。将来真相が分かる事を期待したいと思います。(写真⑫

6.おわりに

さて、こうやって、石田三成が着陣する前に、九戸城を落した蒲生氏郷ですが、落城後は、この九戸城を改修し、「福がある岡」という幸先の良い名前「福岡城」に改名し、南部信直の居城として使うよう指示をします。

また、投降した九戸政実とその縁者7名の武将は、その場ではなく、遥か遠く南の仙台付近(宮城県栗原市)にまで連れて行かれ、斬首されます。

九戸政実のこの潔い対応に、九戸城周辺の住民は、判官贔屓に近い同情の念を強く持ちます。

そして落城後入城してきた南部氏に対し、冷たい眼差しを注ぎ続けるのです。耐えきれなくなった南部氏は、先に述べた通り、当時の「不来方(こずかた)城」を、幸先の良い「盛りあがりのある岡」ということで「盛岡城」と改名し、そちらに移転、今の盛岡市の基を作るのです。

また、九戸政実を慕う人々は、遥か遠くで斬首された政実の首を秘かに持ち帰り、城から約3里(12㎞)離れた政実の出生地、九戸村の山中に丁重に埋め、その魂を鎮めるのです。
⑬九戸政実の首塚と同床異夢の木

九戸城から車を30分走らせ、私もその首塚を探しました。(写真⑬

写真のように、かなり山深い中に見つからないように埋めたであろうその首塚は、人っ子一人なく、寂しい限りでしたが、お墓そのものは良く手入れがなされ、流石地元の人に今も愛さている九戸政実と感心できます。

その塚の前に「同床異夢の木」というものがあります。(写真⑬の右半分の2本の木)

これは、南部信直と九戸政実を指していると言われます。つまり南部氏も九戸氏も、8世紀、桓武天皇の時代の阿弖流為(アテルイ)等の反抗から始まった蝦夷(えみし)の独立運動というDNAを、脈々と受け継いだ結果生まれたのです。これが同床ということです。
しかし、11世紀の前九年の役・後三年合戦を経て、一次は奥州藤原三代による時の政権の中でのバーチャルな国家の形とした奥州王国で100年は存続するも、頼朝により崩壊させられたその後も、蝦夷という仲間意識として独立したい夢を持つ者と、一族の存続が蝦夷の存続であるという夢を持つ者に分かれる訳です。

前文の夢を持つものが九戸政実、後文が南部信直です。

南部信直の夢はある意味、この後成立する幕藩体制では、蝦夷と言わず全国どこの大名も同じですから、九戸政実は実質8世紀の阿弖流為から900年間に渡る最後の蝦夷らしい気概を持っていたと言えるかもしれません。

征夷大将軍という言葉、この蝦夷の独立を阻止するために出来た役職であることから、蝦夷鎮圧から始まった中世武士団の台頭は、この九戸城の鎮圧で完了。この後、征夷大将軍となる家康はその征圧対象は無いままに役職名だけ残ります。

つまり東北のこの地域で始まった中世武士は、この地域の紛争で幕を閉じると言っても過言では無く、一地方の反乱とはとても思えない重さをこの九戸政実の首塚に感じながら、私はこの山奥を後にしました。

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月曜日

中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~

私は、豊臣秀吉の天下統一は、20万の大軍による小田原城攻めの完了により成就したと教育されてきたような気がします。

天下統一を果たす有終の美を飾るため、20万もの大軍による小田原城包囲戦は、毎夜毎夜宴会を開き、美女を沢山連れての物見遊山のような秀吉。豊臣軍は、圧倒的な大軍と供給物量を嵩に、北条軍の精鋭部隊である韮山城、山中城をたった半日程度で陥落します。

そして、小田原城西南約2.7kmの至近距離に、一夜城を築城する等、大軍に付き物の遅滞する行動は全く見られず、むしろ迅速な軍事行動に小田原城北条軍は戦意喪失。
①九戸城本丸にて

この破竹の勢いに、東北の伊達政宗が遅れて参陣するも、秀吉に恭順の意を表し、後は小田原城が落ちれば、秀吉の天下統一は成立すると。

そして小田原城は1590年7月落城。

これにより、日本国内での武家争乱は完了したものの、飽くなき野望を持つ秀吉は、日本国内だけではもの足りんと、中国は明をも攻略する無謀な計画を立てます。

そして、その冊封国(さくほうこく)である李氏朝鮮に服属を強要しましたが、拒まれたため、この明国鎮圧軍をまず朝鮮に差し向ける、歴史で習う朝鮮出兵に向かうと考えていました。

ところが今回、陸奥の国(岩手県)を旅していて、この認識を改めなければいけないことが分かりました。

もう少しこの辺りの日本史を勉強していれば、小田原城落城ではなく、その後の奥州仕置までが、秀吉の天下統一の総仕上げとの認識を持つことは出来たと思います。(反省します。)

しかし、更にその奥州仕置後に、豊臣軍が奥州の北側にある九戸城にて最後の鎮圧行動に出ていたことが分かりました。(写真①

つまり、この九戸城が落城した時こそ、天下統一の総仕上げだったことになるのです。

では、この九戸城鎮圧の経緯を、主に豊臣軍目線で見て行きたいと思います。

1.名馬の産地・奥州

さて、このBlogの前作まで長々と描いてきました鎌倉時代までの奥州王国、その富の源泉が「」と同時に「名馬」もあったと書いてきました。
②陸奥(岩手県北部)の9つの「戸」

この名馬、主に陸奥の国で成育されました。(図②

この時に出来た牧(まき)に、名前が付けられました。それが図②にあります一戸から九戸までと東西南北の四門です。

なので、八戸は中核市として有名ですが、他の数の「戸」が付く土地もあり、これらは名馬の牧の管理戸を表す形の地名だったのです。

これらの「戸」は名馬を生産するだけでなく、その土地、土地の豪族として力を付けて行きます。

源頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼし、奥州王国を滅亡させた後、この合戦で功績のあった南部氏をこの土地に配置します。

南部氏自体は元々甲州(山梨県)の南部、富士宮市のちょっと西、現在の南巨摩郡南部町を所領に持つ河内源氏の一族でした。

甲州ですから、実は南部氏も、後三年合戦で義家へ官職を投げうち駆けつけた、あの新羅三郎義光の子孫として、武田氏と同列なのです。

ただ、武田氏は後々、武田信玄で有名ですが、戦国時代に掛けて、甲州をまとめあげる訳ですから、南部氏がここ甲州に居座れば、いづれは武田氏に吸収合併されていたかもしれません。

2.三戸(さんのへ)と九戸(くのへ)

その南部氏が、勢力を拡大して行ったのが、陸奥の国の中の「三戸」です。ここを中心に、各戸で増長してきた豪族をまとめあげて行くのです。

特に南北朝以降に急激に勢力を拡大して行きます。また、他の戸を抑え、この南部氏と付かづ離れず勢力を拡大した「九戸」の豪族が九戸氏となります。室町幕府からは九戸氏は、南部氏と同列に見なされていたようです。
③九戸政実イメージ
九戸政実プロジェクト『マンガ 九戸政実物語』より

3.九戸政実(くのへまさじつ)

この九戸氏の中で16世紀後半、南部氏と奥州北部で勢力拡大を図ってきたのが九戸政実です。(絵③

この人が歴史のメインストリームに浮上してくるのは、この小田原城包囲の戦が終り、秀吉が奥州仕置軍という組織を作った後のこととなります。

九戸政実の乱」というものを起し、また大量の豊臣軍を、わずかな九戸城籠城兵で迎えうつことになるのです。

では、どのような経緯なのか、南部氏との関係から順に見て行きたいと思います。

4.南部信直(なんぶのぶなお)

さて、小田原城の北条氏が、秀吉への抵抗を多少は期待したであろう東北方面の武将たちでしたが、遅参したとは言え、仙台の雄・伊達政宗(だてまさむね)が秀吉に恭順の意を示す形となったことで、ほぼ東北も秀吉に逆らう勢力は無くなり、北条氏の希望も無くなりました。

伊達政宗の遅参は非常に有名ですが、この後、北奥州を代表する形で秀吉へ恭順の意を示したのが南部信直(なんぶのぶなお)という武将です。

実は、この南部信直が、南部氏の当主であるということに、九戸政実を始め、当時の奥州の数多くの武将が不満を持っていました。

④南部家の鎧(10代盛岡藩主のもの)
※盛岡城蔵
お家騒動の感があるので、簡単に説明します。この信直という人は、先代の養子なのです。ところが先代に実子が出来ます。よくあることですが、そうなると養子である信直は疎まれます。ところが先代は、わずか13歳の実子を残し他界するのです。

すると信直、この幼き実子を罠にかけ殺害し、自分が南部氏の当主に返り咲くのです。

なんかワルな感じしませんか(笑)?

どこまで本当に信直が手を下したのかの真相は、まだ闇の中のようです。

しかし、信直は頭の回転が早く優秀なので先代から養子に抜擢されたのですが、その優秀さが北奥州の朴訥な武将の間では狡猾さに見えたのでしょう。

更に信直をワルにみせるのが、小田原城落城後に、秀吉と脈を通じるようになった彼が、秀吉の権威を嵩に着て、北奥州に対する秀吉の圧政の後押しをしたように見えたからです。

ただ、ご存知のように、結局南部氏は、代々盛岡藩や八戸藩等、この北奥州で存続していくのです。(写真④

5.宇都宮仕置・奥州仕置

繰り返しになりますが、小田原征伐が秀吉の天下統一総仕上げだから、示威行動として20万もの大軍を引き連れて来たと、私は勘違いしていました。

⑤小田原城落城後の豊臣軍の行動
そもそもこの20万もの大軍、小田原城の北条氏だけでなく、北関東から奥州まで、広く秀吉が平定するための遠征軍だったのですね。

これらの遠征軍は、この後、宇都宮仕置、奥州仕置という活動を行います。(図⑤)

1590年7月11日に小田原城を落した後の豊臣軍の動きですが、約2週間後の26日には、宇都宮城に入り、東北方面の所領について以下のような裁定を行います。これを宇都宮仕置と言います。(図⑤

「仕置」とは、子供等にする「おしおき」の事なのですね。

南部信直常陸の国(茨城県)佐竹氏は、図⑤にある領土をそのまま安堵します。

しかし、伊達政宗は、かなり厳しい「お仕置き」を秀吉から受けます。

政宗には、この小田原征伐参陣の9か月以上前に、秀吉から1589年11月中に上洛して謁見しないと北条氏と同様に攻め入ると勧告されていました。

しかし、政宗は上洛どころか、その11月に会津(福島県)蘆名(あしな)氏に攻め入り、その一帯を切り取ってしまいます。これで150万石程に所領が膨れ上がっているのですが、以下の理由で、切り取った会津の地は、秀吉お気に入りの武将・蒲生氏郷(がもううじさと)に新封として与え、政宗は72万石まで減封されてしまいます。(写真⑥

【減封理由】

①勧告にも係わらず11月中に上洛しなかったこと
②そもそも蘆名氏領である会津に攻め入ったことは、惣無時令(武将同士の平和条約のようなもの、秀吉の許可なくに相手の領土に攻め入らない等の命令)に反していること
③小田原攻めに遅参したこと

⑥蒲生氏郷と言えばこの甲冑!!
※しかしどうしても佩楯の部分が
テンキーに見えてしまいます(笑)
特に②については、小田原攻めの口実が、真田昌幸名胡桃(なぐるみ)城に北条が攻め入ったのは惣無時令に反しているということから始まったくらいなのですから、政宗は本当は、秀吉に攻め滅ぼされても文句は言えなかったかもしれません。

ただ、政宗は小田原攻めに遅参でも参陣したことで、なんとか首の皮は繋がった訳です。

となれば所領が半分以下にされても、まあ寛大な処置に見えなくもないとも思います。

そして、豊臣軍は政宗の案内で、蒲生氏郷浅野長政奥州仕置軍筆頭とし、宇都宮を出発します。

途中秀吉自身は宇都宮に戻ってしまいますが、奥州仕置軍は8月上旬の暑い盛りに、図⑤の水色の矢印のように、途中抵抗勢力を鎮圧しながら、奥州平泉あたりまでぐるぐるっと巡察行軍を行うのです。そして豊臣軍から代官等を奥州に残し、仕置軍は引き揚げます。

これにより、やっと秀吉の天下統一の総仕上げは完了するのです。

6.石田三成の深慮遠謀策

ここからは石田三成の出番です。戦乱が去ったら去ったで、新たな悩みが秀吉というか、豊臣家の安泰に腐心する三成に発生します。

それは

「天下統一後の経済社会システム

です。

応仁の乱以降、120年以上に渡って国内の戦乱に明け暮れた日本には、武士だけでなく、武器商人やらなんやら戦で生計を立ててきた人々が大量に膨れ上がっているのです。この人たちが天下統一で一気に失業となると、当時の日本経済は崩壊します。

このような天下統一によるハードランディングではなく、なんとかソフトランディングをしなくてはならないという発想及び対策は、三成以外できる武将は居ません。(絵⑦
⑦石田三成

そこで彼が思いついた深慮遠謀策が「朝鮮出兵」なのです。

彼は、この構想を推し進めるにあたり、奥州に対し、以下の2つの対策を練ります。

①寒さの厳しくなる朝鮮半島と同じ様な気候の奥州以北で役に立つ人夫を調達し、朝鮮出兵に投入すること
②奥州以北で戦をすることで、極寒の朝鮮半島での戦の事前演習をすること。

三成は、奥州仕置軍の巡察行軍中、奥州のあちこちで反乱があるのを目の当たりにしています。そこで彼が得た推論は、以下の通りです。

「奥州は元々まつろわぬ人である蝦夷(えみし)の国であり、中央権力に対する反骨精神が昔から強い。したがって、圧政を敷けば、かなり規模の大きな反乱がここで発生するのではないだろうか?その鎮圧のために軍を送れば、②が実現するし、更にその時の捕虜等を①にあてがえば良い。」

そして三成は、奥州仕置軍が残した代官に、かなり厳しい検地や刀狩り、取り立てを実施するように仕向けます。そこで南部信直は、先程述べた通り、この圧政の後押しをするのです。

これらはかなり効果を発揮します。図⑤で反乱を起こした葛西、大崎、和賀、稗貫等の地方から、不満分子が沢山発生し、それらの人々は皆、秀吉に取り込まれた南部氏に対抗する勢力となりうる九戸政実のところに集まるのです。

九戸政実は、九戸城にて戦の準備を開始します。(写真⑧

⑧九戸城展望
これはまさに三成の策にハマりつつあるわけです。

7.「九戸政実の乱」勃発

そして、とうとう小田原征伐の翌年1591年3月に九戸政実は、三戸城の南部信直に対し、本格的な戦闘を開始します。

九戸政実はこの時、この地域では珍しく、鉄砲を沢山所持しておりました。
というのは、出羽(秋田県)との国境あたりの山中に硫黄が採れる場所を隠し持っていたようです。(安部龍太郎氏著「冬を待つ城」から)

硫黄は当時の鉄砲にとって火薬として重要な成分ですから、高く売れるのです。これを売った金で鉄砲を大量に買い込んでいました。

これと名馬の機動力を活かす九戸軍に対して、南部軍は苦戦します。

南部信直は、1か月も持たず音をあげ、秀吉に援軍を要請します。

それから3か月後の7月、会津に居る蒲生氏郷を中心に、討伐軍が編成されます。

その数6万5千

一方、九戸城に集まる反乱分子は5千です。(絵⑨

⑨九戸城へ押し寄せる豊臣軍
※戦国ダンシ「九戸政実物語」より抜粋
続きは、次回描きたいと思います。
長文、ご精読頂き、誠にありがとうございました。

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日曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~

①義経最期の地 高館(たかだち)
前回、奥州藤原氏3代目の藤原秀衡(ひでひら)源頼朝の謀略比べで、最後は江の島弁財天への祈願をしたことによる、紙一重の差で勝った頼朝の話をしました。(詳細はこちらをクリック

奥州王国の末路、話を続けます。

1.頼朝の深慮遠謀第2段

さて、秀衡亡き後の奥州藤原家を継いだのは、4代目、泰衡(やすひら)です。

秀衡は臨死に際し、泰衡ら息子と義経を集め、「義経を総大将として、皆で力を併せ頼朝に対抗する」という起請文を書かせたことは前回お話した通りです。

深慮遠謀を持つ秀衡の遺言的な起請文。これが健在である限り、秀衡程の智謀を持たない泰衡と義経をトップとする奥州王国軍17万騎を切り崩すのは、頼朝にも大変な事です。

②後三年合戦における同族の争い
清原家衡(左)と清衡(右)
※出典:胡原おみ氏「後三年合戦物語」
奈良時代の律令という国家のシステムが形成されてから、平安時代に入り、摂関政治等を経ながら、システムとして複雑化し、東北の蝦夷(えみし)の地にバーチャル(仮想)国家である奥州王国まで出来てしまいました。
この混沌とした日本を、シンプルな武士による統一国家になんとか再構成し直したいと考える頼朝。

当然彼はこのバーチャル国家である奥州王国を潰す必要を強く感じているのです。

というより、当時1189年より133年前の1056年に源頼義(よりよし)から始まった前九年の役と、その息子・源義家(よしいえ)が中心となった後三年合戦(1083年)で、源氏のDNAには「蝦夷の国は色々な意味でキケン!徹底的に排除すべし」という掟が刻み込まれてしまったのかも知れません。

現代と違って、この時代は時間の割に物事の進歩が遅いので、100年以上前と言っても、たかだか10数年前のことのように語り継がれているのだと思います。

そこで、頼朝は100年前の後三年合戦で、源義家(よしいえ)が用いた謀略に倣(なら)った深慮遠謀第2段を発動します。

以下の図③を見て下さい。
③後三年合戦の反省を活かした頼朝の構想
※図中の「外交圧力」とは
朝廷を介した間接的な圧力のこと
図③の上段ですが、義家は後三年合戦で奥羽の清原一族(藤原氏の始祖)を潰すために、兄弟である清衡(きよひら)家衡(いえひら)をワザと対立させるよう仕向け、同族同士で死力を尽くして戦い合うことで両者の力を削ぎ、最終的には両者ともに自分が潰してしまおうと考えていたのです。(絵②も参照)(詳細はこちらをクリック

④高館の義経堂
これは上手く行くように見えました。しかし、その義家の考え方を事前に察知した清衡が、義家を巧みに使い家衡を滅ぼした後、義家が清衡に手を出す前に京の朝廷等へのロビー活動による外交圧力により、義家を京へ呼び戻す事態を作り、更に義家を奥羽から退去するように仕向けるのです。そして清衡は、義家を追い出した後、奥州藤原氏を名乗り、最後の勝者となります。

図③下段ですが、この後三年合戦を参考に、頼朝は自分を義家に見立て、泰衡と義経の2人を、清衡と家衡に見立てます。そして、後三年合戦で何故義家が清衡と家衡の2氏諸共滅ぼせなかったのかを分析し、以下の2つの結論に達しました。

①義家自体が抗争の前面に出過ぎ
②義家が京の中央政権を抑えず、清衡に抑えられたことにより外交圧力を掛けられた

これらの反省を活かすことで、藤原泰衡と義経両者とも間違いなく潰し、自分が勝者になろうというのが、後に起こる奥州合戦への頼朝の構想です。

2.義経の高館(たかだち)での最期

頼朝は、早速朝廷に宣旨(せんじ)を出させ、泰衡に対し、義経を討伐するように外交圧力を掛けます。当然、泰衡は亡父・秀衡との約束上、これを拒絶します。ただ返答の言い方は、「義経は平泉に見当たりません。」との建前(たてまえ)で報告するのです。

しかし、これは頼朝の思うつぼ、頼朝は朝敵を匿う泰衡は賊軍として、またまた朝廷から泰衡討伐の宣旨を出してもらうよう京の中央政権に対して圧力を掛け続けるのです。

⑤奥州高館城大合戦之図(歌川国芳作)
※真ん中で奮戦するのが弁慶
暫くすると泰衡から頼朝の元に書状が来ます。内容は「もし義経が平泉に来たら、捕まえて鎌倉へ差し出します。」

これを見た頼朝はニヤッとします。「泰衡の奴、余程朝敵にされるのが怖いと見える。この書状で許せと言うのか?先代の秀衡だったら、こんな書状を送って来るようなヘマはせず、黙って今頃は義経と一緒に17万騎率いて鎌倉に攻めているであろうものを・・・」

そして、更に朝廷に対し、泰衡討伐の宣旨発出の要請を強めるのです。

やはり泰衡も義経らと同じ、将来を見通す構想力・戦略能力は殆ど持たない武将なのですね。完全に頼朝の手のひらで転がされています。

とうとう、朝敵にされそうな泰衡は、プレッシャーに耐えきれなくなり、平泉で義経が住んでいる高館(衣川館:ころもがわやかた とも言う)を数百騎で攻めます。(写真④絵⑤

⑥高館から北上川を臨む
※「夏草やつわものどもが夢のあと」
の句がここにある
本当に頼朝の思惑通りですね。もしこの数百騎が泰衡軍ではなく、頼朝の鎌倉軍だったら、多勢に無勢で勝ち目の無い戦いであったとしても、戦上手の義経の事ですから、撃退する可能性もあったかも知れません。しかし、そこは人情に篤い義経。ずっと世話になった奥州藤原氏から攻められれば、やられるに任せるしか無かったのでしょう。(写真⑥

実際、絵⑤のような弁慶の大立ち回りや、部下の奮戦とは対照的に、館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず写真①のお堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自刃します。享年31歳。1189年4月30日のことです。

そして、弁慶はご存知の通り、最期は写真①のお堂の前で、義経が自刃する時間を作り出すために、どんなに槍で刺されても、矢が刺さっても倒れることなく死んでいった「弁慶立ち往生」の伝説が残っています。

弁慶のお墓は、中尊寺の前の大きな松の下にあります。(写真⑦

「色変えぬ松の主(あるじ)や武蔵坊」
⑦中尊寺門前にある弁慶の松(墓)

後世に中尊寺の僧が詠んだ歌です。

3.義経の御首(みしるし)

泰衡は、6月に酒に浸した義経の御首を頼朝の居る鎌倉へと送り、恭順の意を示します。

義経の御首は、鎌倉の西の外れ、腰越の海岸で検視されます。前々回の「義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~」(ここをクリック)でも書きましたが、どういう訳か義経は壇ノ浦で平家を滅ぼして以来、兄・頼朝の居る鎌倉へは入れず、鎌倉の西の外れ、腰越止まりなのです。

しかも、この腰越海岸で検視された後、義経の首は海岸に打ち捨てられたままなのでした。(写真⑧

さて、義経が討たれたと聞いてから、1か月程、頼朝はいつも考えていました。

というのは上記作戦に2つ程見込み違いがあったのです。

1つは、義経を立てて鎌倉を攻めるのかそれとも鎌倉へ恭順の意を示すかで、奥州藤原一族の中でももう少し混乱があり、むやみに一族同士で消耗してくれればと思っていたのに、あまりにあっけなく恭順となってしまったことです。特に義経の御首を差し出されてしまえば、鎌倉方は本命である奥州王国殲滅の口実が霧消してしまいます。

⑧義経の御首が討ち捨てられた腰越海岸(手前)
海岸越しの湾を挟んで対岸は江の島です
もう1つは、朝廷がなかなか泰衡追討の院宣を下してくれなかったことです。頼朝のシナリオでは、泰衡たちが恭順の意を顕すのに、もう少し時間が掛かり、その間になんとか朝廷から泰衡朝敵の院宣を取り、それを錦の御旗に、奥州王国を殲滅する、そういう構想だったのです。

しかし、奥州から義経の御首が腰越で検視され、そのまま打ち捨てられたと聞いた時、頼朝は、ハッと思いつきます。「そうだ!そうしよう。江の島弁財天さま、ありがとうございます。」

4.奥州合戦と征夷大将軍

義経の御首を差し出すことで、恭順の意を示し、討伐の院宣の申請を取り下げてもらうよう努力した奥州藤原氏を、頼朝は1189年7月に大軍を持って鎌倉から攻めに出かけます。

頼朝は院宣の発出は諦めました。江の島弁財天に秀衡調伏の祈願をしていた1182年当時とは、平家を滅亡させた鎌倉軍の規模も強さも違います。また戦の天才、義経が指揮をしない奥州軍なぞは、院宣が無くても十分勝てると見込んだのです。

⑨灰となった平泉の中央庁舎「柳之御所」
※奥に見える小山が「高館」
以前Blogにも書きましたが、院宣がある場合は「役」、院宣が無い私戦の場合は「合戦」と呼びます。「前九年の役」は源頼義が安倍氏討伐の院宣により安倍氏を討ったのですが、「後三年合戦」では、源義家が清原家衡らを院宣無しで討伐しました。
同様に、この奥州王国殲滅作戦は、のち「奥州合戦」と呼ばれます。

ただし、殲滅のための口実は必要です。そこで、江の島弁財天が頼朝に囁いたかどうかは分かりませんが、屁理屈を考えついたのです。

「泰衡は『もし義経が平泉に来たら、捕まえて鎌倉へ差し出します』と言ったよな?それなのに大事な私の弟、義経を殺してしまうとは何事か!成敗してくれるわ。」

あきれてモノも言えない口実ですね(笑)。

しかし、それでも充分な勝算があれば、口実なぞ後で何とでも評価してくれというのは、大阪城を攻める口実を方広寺の鐘の刻印に求めた徳川家康と同じです(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇
8月、緒戦で負けた奥州軍は、平泉に火を放ち、北に逃走します。

⑩厨川柵(盛岡市)
夏真っ盛りの夕刻に頼朝が平泉へ到着しますが、広大な庁舎などは灰となり、人影もない寂寞とした景色が広がっていたと言います。(写真⑨

また焼け残った倉庫からは、予想通り莫大な「金」が出てきました。
鎌倉軍は目を見張りましたが、頼朝は一言、「この財が基で奥州王国は、100年以上の独立性を確保できていた訳だ。これで終わりにしよう。統一(武家)社会の幕開けだ。」

そして、泰衡を追いかけ、最後は100年以上前の前九年の役源頼義が、安倍頼時を滅ぼした現在の岩手県盛岡市にある厨川柵にまで進軍します。(写真⑩

この時頼朝の軍は28万4千にまで膨れ上がりました。

泰衡は、逃走中部下の裏切りにより、既にこの時、首をとられていました。
源頼義前九年の役の将軍として討ち取った安倍頼時にした故事に倣い、頼朝はこの泰衡の首を、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けたのです。それを見ていた28万の軍勢は一斉に鬨の声を上げ、源氏が奥州と戦い始め、100年以上経った今、新しい統一(武家)社会を完成に導いた頼朝に対し、歓喜したのでした。

⑪義経の御首は江の島の海岸から境川を遡り
6㎞上流の白旗神社まで頑張って北上
5.おわりに

いかがでしたでしょうか。前九年の役の話から始まった源氏と蝦夷(えみし)との対立抗争、100年間のスパンの話を全10回のシリーズでお届けして来たお話もこれが最後となります。

8月頭の2日間の調査以降、約4か月間の長きに渡り、お読み頂きどうもありがとうございました。

最後に腰越海岸に打ち捨てられた義経の御首がどうなったのか、物語風に描かせていただくことで、このシリーズをしめくくりたいと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

義経の首は、腰越海岸が満潮になると、潮にさらわれ流されました。沖には江の島があります。江の島弁財天は近づいてくる義経の首に声を掛けます。

「義経、義経、ご苦労様でした。この江の島の岩屋でゆっくりと休んでくださいね。あなたの活躍は充分見ていました。あなたは最期まで仁のある人物でしたね。」

⑫白旗神社にある義経首塚
「弁財天さま、私は尽くしてくれた泰衡殿も兄上である頼朝殿も、皆争わないで欲しかった。なので抵抗せずに泰衡殿に殺されることで、鎌倉にも奥州にも戦う口実を与えず平和が来ることを願って岩屋で休みます。」

「義経殿、それはちょっと違います。7年前、頼朝殿は私に奥州藤原氏の調伏を祈願しました。私もこの国が本当に統一された平和な社会になるには、バーチャルであっても奥州王国のような形は無い方が良いと考え、その計画は現在も進行中なのです。あなたには残念でしょうが、奥州王国は無くなってもらいます。」

「そ、それでは義経は何の役にも立たなかったのですか?犬死ですか?」

「いえ、平家を倒したことは勿論、奥州にあなたが居たことも全て、統一(武家)社会を創るという大きな貢献であったことが分かりませんか?」

「岩屋で休んでいる場合ではございません。今より北へ向かい少しでも泰衡殿、いや奥州の役に立たねば・・・。」

と言って、少しでも奥州へ戻ろうと、江の島に注いている境川を、どんぶらこ、どんぶらこと満ち潮に乗って北上していました。
しかし、6㎞遡ったところで、首は力尽き果てました。(地図⑪
そこで御首を川からすくい上げ、首塚を作ったところが、白旗神社です。(写真⑫
⑬江の島のトンボロ
出典:高橋由一「江の島図」

これを江の島の上から見ていた弁財天は、至急、江の島周辺の海流の流れを変え、江の島と本土が繋がる砂浜を作ります。これはトンボロ現象というもので、現在の江の島もそうですが、1216年に突然出来たとの報告が当時の源実朝(さねとも)になされています。(絵⑬

地続きになったトンボロを通り、白旗神社の義経に会いに行った江の島弁財天は義経に何を伝えたかったのでしょうか。

勿論、トンボロが急にこの鎌倉時代初期に出来たことは、単なる偶然かも知れません。
ただ、悠大な源氏と奥州の歴史の区切りと何らかの関係があると思う方がロマンチックだなあと感じるのは私だけなのでしょうか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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【高館義経堂】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所14
【武蔵坊弁慶の墓】岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関衣関
【柳之御所跡】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所
【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目4
【江の島弁財天】神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号
【白旗神社】神奈川県藤沢市藤沢2丁目4−7

木曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~

①腰越から臨む江の島
前回のBlogでは、奥州藤原氏が、立ち上げたばかりの鎌倉に居る頼朝のところに2万の軍で攻めて来る予定であったと書きました。(詳細はここをクリック

挙兵したばかりの時期は、目の前の敵である平家だけでなく、奥州王国からも攻められる可能性のあった頼朝。

東北の奥州王国17万騎と西の平家から挟撃されれば、鎌倉方はやはりひとたまりもありません。

この当時の奥州藤原一族の長である藤原秀衡(ひでひら)は、義経を京の鞍馬山から平泉に金売り吉次を使って下向させ、養育しました。それは100年前の前九年と後三年の悲劇を繰り返さないために、源氏のピカ一の遺児である義経を奥州王国側に付ける目的だったのです。(前回のBlogもご参照頂けると嬉しいです。こちらをクリック

2万の軍で攻める予定であった奥州藤原氏がこれを思い止まったのは、この取り込んだ義経が、敵対しようとした頼朝の元に、兄弟の情により駆け込んでしまったからなのです。

この時頼朝は、義経と黄瀬川にて涙の対面をし、「よく来てくれた。兄弟仲良く父の仇を取るため、平家を討伐しようぞ!」等と人情論を述べながらも、その実、義経の背後にある奥州藤原氏が作り上げた奥州王国を強く意識・畏怖していました。

後年、討ち取られた義経の御首(みしるし)を見て、「悪は去った」と宣(のたま)った頼朝のくだりは有名ですが、頼朝は義経自身を「悪」と言ったのではなく、彼の御首に奥州王国の御首を重ねていたのだと思います。

ここまでが前回のBlogの概要ですが、先日、頼朝が如何に奥州藤原氏を怖れていたのかが分かる証拠を見つけました。
それが意外にも、かなり身近な有名な観光地にありました。

江の島です。(写真①

②弁財天のイメージ
(ゲームキャラ)
1.弁財天

関東方面に御在住の方なら、一度は行ったことのある江の島。私もガキの頃から、もう何十回も行っている場所ですので、この島に弁財天が祀られていることは良く知っていました。

水の神様である弁財天は、全国池や海等、およそ水のある処、至る所にあり、琵琶(びわ)を持った平和な女性の神様が祀られているというイメージです。(絵②

ところが、今回調べて初めて分かったのですが、江の島の弁財天は、このようなオーソドックスな弁財天とちょっとイメージが違うのです。(写真③

弁財天には2つのタイプがあることが分かりました。2臂像(にひぞう)8臂像(はっぴぞう)です。

2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっています。つまり絵②にみられる典型的な弁財天は、この2臂像のようです。「2」は腕の数なのでしょう。

一方、江の島のこの弁財天は8臂像で、8本の腕に、ありとあらゆる武器を持っており、これを駆使する技量をもっているという像なのです。(写真③
③江の島の八臂弁財天

つまり、江の島の弁財天は8臂像で、これは武神として祀られているのです。

2.文覚(もんがく)の助言

この弁財天、まだ挙兵2年目の1182年に頼朝が怪僧文覚(もんがく)に命じて、江の島に勧請(かんじょう)せしめ、21日間祈願させたものです。(絵④

教養高く、深い知見を持った文覚という人物は、非常に反骨精神が強かったようです。
時の権力者である後白河法皇に反発し、暴言を吐いて、残念なことに伊豆に流刑になってしまいました。

(文覚の過去や伊豆での生活については同志の内田氏のBlogが楽しいです。是非ご参照ください。ここをクリック

文覚は、当時同じく伊豆に流されていた頼朝に会い、父・義朝のドクロを見せ、平家打倒の挙兵を促したという伝説が残っています。

このドクロを見せた辺りの話の真偽はともかく、頼朝の挙兵に関して、頼朝が利害を超えて相談できる相手だったように感じます。当時の頼朝の後見役である北条時政らは、あくまで自分達の利害から入りますから、利害を超えて相談できる人はそんなには居なかったでしょう。

④祈願する文覚(歌川国芳画)
彼の言う通り平家打倒のため挙兵した頼朝が、挙兵当時から平家以上に怖れたもの、それが奥州王国でした。

頼朝は、「既に平家の公達の中に人物は居ない。これだけ政治の表舞台でも一般人からも評価の悪い平家は、もう滅びるのは時間の問題」と捉えていたのだと思います。

問題は秀衡が率いる奥州王国17万騎。頼朝自身本当は西へ平家討伐に行きたいところですが、それではこの鎌倉に奥州王国が攻め込んで来ればひとたまりもありません。ですので、坂東武者求心力の源である頼朝は鎌倉を動けない。彼の悩みは深いのです。

そこで頼朝は、当時罪を赦されて帰洛(きらく)していた文覚を鎌倉へ呼び寄せ、この秀衡対策に悩んでいることを相談します。すると文覚一言。

「弁財天を江の島に勧請なされい。」

「は?弁財天?」

頼朝も何で弁財天なのか分かりません。毘沙門天や阿修羅のような軍神を勧請するならまだ分かりますが、どうしてそんなやさしそうな弁財天を?

教養深い文覚は答えます。

「頼朝殿が一番恐れているのは、奥州王国の「金」ではないか?
弁財天は弁天とは違い、財を操る神でもある。
この弁財天を江の島に勧請した後、藤原秀衡の調伏祈願(対立者の破滅の祈願)をすることで、奥州王国の財力を削ぎ、秀衡を滅ぼすことができる。」

⑤頼朝が江の島に建てた鳥居
平家打倒の挙兵時にも、どこを抑えれば良いか文覚に相談し、ことごとく当たる文覚に心服している頼朝は早速、文覚に頼み弁財天を江の島に勧請し、21日間祈願させたという訳です。(絵④

この時、家臣団を引きいて江の島に来た頼朝は、写真⑤の鳥居を建てて行ったと吾妻鏡に記録があります。(写真⑤

3.秀衡の心労

頼朝は、この祈願の後、文覚の言葉通り、早速奥州王国の財に切り込み、この王国を攻め滅ぼす策を考えます。

そして、平家討伐後、挟撃の憂いが無くなり、強気になった頼朝は、早速秀衡宛てに以下の要求を突き付けるのです。

「金・駿馬等の平泉から朝廷へ献上してきた品々については、今後、鎌倉から朝廷へ取り次ぐこととするため、一度鎌倉へ納めること。」

この頼朝の要求を受けるか受けないかで、奥州藤原一族の中でもかなり紛糾しました。
何故なら、これを受け入れたら、奥州王国は鎌倉より一段下ということになってしまいます。

しかし、時の権力に同調し、そのパワーバランスの上に成り立って来た奥州王国。
長である秀衡は苦渋の色を顔に浮かべながら

藤原泰衡(ゲームキャラ)
史実より「乙女ゲーム」で有名
になってしまったようです(笑)
※彼の肖像画、このキャラしか
ググっても出て来ないのです
(T∇T)

出典:こちらをクリック
「これを受けなければ、鎌倉方が攻めて来る。奥州王国は名より実を取ることによって100年間存続してきた。鎌倉方より上とか対等とかの名をとっても意味あるまい、受け入れて、鎌倉方から攻められないという実を取ろう。致し方あるまい。」

秀衡はこの時既に65歳、とても鎌倉に対抗する軍を指揮できる歳ではなく、息子の泰衡(やすひら)もその器量はありません。(絵⑥

また藤原一族も一枚岩ではなく、対立もあるため、鎌倉に勝つためのリーダーシップを取れる人物が平泉には居ないのです。

この時、まだ義経も奥州には来ていません。吉野の山で静御前と別れている頃です。
秀衡らは、この要求を受け入れます。

更に、頼朝は奥州財崩しのための二の矢を打ちます。今度は朝廷を通して院宣として以下の要求をしてきます。

「大仏のある東大寺再建に3万両出せ。」

朝廷の院宣です。結局頼朝は自分に対抗するだけの奥州王国ではなくて、朝廷にも対抗しているという確証が欲しいのです。

ただ、日頃朝廷と貢ぎ物等で強固なコネを作ってきた奥州藤原氏は、この要求を今度はガンとして跳ね返します。

「今まで慣例では千両が良いところだ。3万両は多すぎる。」

頼朝は、朝廷に「ご覧ください。奥州は云う事聞かない悪い奴でしょ?もっと圧力掛けて下さい。」と言いますが、朝廷は日頃の奥州王国との付き合いがありますから、差して問題視しません。

文覚が祈願した通りにはなかなか行きません。頼朝も少々焦ってきましたが、実はちゃんとこの策は効を奏し始めていたのです。

この奥州王国の財を操るいやらしい政治的駆け引きこそが、頼朝を始め、人には予測出来ませんでしたが、江の島の弁財天からすると、非常に重要なプロセスだったのです。

2つの大事を引き起こすのです。

1つは、政治的駆け引きに業を煮やした秀衡が、元々構想していた最後の手段に出てしまうのです。

4.総大将義経

それは逃亡中の義経を平泉に招き入れることです。金売り吉次を使ったかもしれません。(写真⑦
⑦変装し逃亡する義経一行
(満福寺襖絵)

前回のBlogでも描きました(詳細はこちら)が、秀衡は、100年前の前九年・後三年の経験を活かし、平治の乱で敗れた義朝の遺児の中でピカ一と思われる義経を鞍馬山から吉次により平泉へ連れ出し、養育し味方につけることで、源氏からの災いをリスクヘッジしようと考えていたのですから。

頼朝のいやらしい政治的駆け引きに疲れた秀衡は、義経を総大将とする乾坤一擲に掛け、息子泰衡をはじめとする奥州藤原一族に、義経に従い一丸となって鎌倉方と戦う準備をします。これは秀衡の深慮遠謀(しんりょえんぼう)なのです。

とうとう最後の手段に出た奥州王国。ともあれ鎌倉方と戦う機運が熟しました。

5.頼朝の深慮遠謀

逆に、頼朝はワザと義経を平泉まで逃しているのです。
義経の行動を殆ど掴んでいたにも係わらず、これを泳がせ、平泉まで行かせたのは2つの理由からです。

1つは、頼朝を頂点とする行政ハイアラーキを確立するために利用しました。つまり義経を捕まえるためと称し、全国に「守護・地頭」という追捕機能を配したのですね。
ワザとどこに居るか分からんから、全国に追捕機能を設けるみたいな形で、自分の臣下を全国配備しました。この守護・地頭が、この後武士の時代が終わる幕末までの延々700年間、武士の支配システムの基礎として如何に影響力のある役職かは、皆さん良くご存知の通りです。

そしてもう1つは、勿論、奥州王国を滅ぼすためです。義経を奥州が保護すれば、滅ぼすのに十分な口実ができる訳です。
奥州17万騎に対して、この後の奥州攻めで鎌倉方が出した軍勢は総数28万4千騎。圧倒的に有利です。そして、泰衡などは大した人物ではないと踏んでいます。

⑧一番深慮遠謀な感じの頼朝の肖像画
※頼朝の肖像画や彫刻は沢山ありますが、
やはりこの顔が一番大戦略家の表情?
ただ、1点、ここまで深慮遠謀してきた頼朝にも見通せない1事があります。(絵⑧

秀衡と戦って本当に勝てるか?

非常にシンプルなこの1事は、頼朝と秀衡の戦略・政略に対する「深慮遠謀」、どちらが深く、どちらが遠くまで見通せているかという合戦です。兵の多寡、いくさの戦術ではなく、戦略合戦です。これだけは人の奥深さ故、どうしても読めないのです。

6.調伏祈願の効果

この最後の不確定な要素、ここで2つめの大事が起こるのです。江の島の弁財天への調伏祈願がちゃんと作用してしまったとしか思えません。

秀衡が薨去(こうきょ)します。享年66歳。

脊髄に持病を持っていたと言われますが、急に悪化してしまいます。
秀衡は最期を悟った時、最後の気力を振り絞り、泰衡ら息子と義経を集め、「義経を総大将として、皆で力を併せ頼朝に対抗する」という起請文を書かせます。

秀衡としては、頼朝らが攻めて来る一事が気になって仕方なく、死んでも死にきれない心境だったのでしょう。

ただ、頼朝の江の島における調伏祈願には勝てなかったということでしょうか。(写真⑨
⑨夕焼けと富士山をバックにした江の島(手前)

秀衡があと1年生きていたらと思うと・・・残念です。。。

7.おわりに

藤原秀衡という巨星を失った奥州藤原氏は、もう大戦略家の頼朝の敵ではありませんでした。後は弁財天に頼らなくても、彼が思うように義経を始め、奥州藤原氏を滅ぼしたという感じです。

次回は平泉の高館(たかだち)での義経滅亡等を描きますので、ご笑覧宜しくお願いします。

この私の話とは違って、頼朝に追われる義経が平泉に帰ってきたことを、困惑しながらも受け入れてあげた秀衡というのが通説になっています。義経を受け入れたがため、奥州王国は滅びたとも・・・。

ただ、もしそうであるなら、秀衡が鞍馬山から、平家から糾弾されるリスクを冒しても、義経を連れて養育したことや、義経を総大将にして一族結束して戦えと云った秀衡は、義経に対しては単に人の好い爺さんだったとしか思えません。また、もし義経が平泉に来る前に捕まったら、頼朝は奥州王国を滅ぼさなかったでしょうか?そうなら江の島に弁財天を勧請するでしょうか?

⑩江の島弁財天(江島神社)
なので、秀衡は頼朝に匹敵するくらい深慮遠謀な人物であったと想定し、奥州王国の最終BCP(事業継続計画)である義経17万騎総大将計画をスタートするには、あえて義経を平泉に誘導したと想定しました。そしてほぼ互角であった秀衡と頼朝ですが、最後は江の島での調伏祈願という紙一重の差で頼朝に軍配が上がったのではないかと思った次第です。

すべては江の島の弁財天が知っていますね。(写真⑩

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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【江島神社】神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号