マイナー・史跡巡り

日曜日

いなげや⑥ ~源範頼(のりより)~


①稲毛三郎重成像(右)と稲毛惣社(白幡八幡)(左)
《これまでのあらすじ》

1189年、稲毛三郎重盛(しげもり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にある枡形城で、病に伏せるようになります。(写真①

この原因を江の島の弁財天が何かを知っているとの今若(義経の兄)からの情報に基づき、綾子の父である北条時政(ときまさ:以下、時政)は江の島を訪れ、源氏が滅ぼした平家と奥州藤原氏の亡者たちが原因であると弁財天から聞き出します。更に綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要とも。これを聞いた時政は、策謀を練り始めます。


1192年の頼朝の上洛時に、時政は三郎と、三郎の従兄弟・畠山重忠(しげただ:以下、重忠)に胸の内を打ち明けます。時政の策謀に戸惑いながらも同調した二人、翌1193年の「富士の巻狩り」の中で頼朝暗殺計画に加担します。

②早馬のイメージ(道寸祭りより)
この計画は時政が烏帽子親も勤めた曾我兄弟工藤祐経(くどうすけつね)に対する仇討ちを上手く使い、頼朝もこの兄弟に暗殺させるというものでした。

結果は、工藤祐経こそ討ち果たせたものの、頼朝暗殺は寸でのところで失敗。兄は斬殺され、弟も捕らえられ斬首となります。

曾我兄弟の弟が捕らえられたタイミングで、時政はこの計画に自分たちが加担していることの情報漏えい対策の一環として、三郎を巻狩りの現場から鎌倉の間を7時間以内の早馬で往復させます。(写真②)

鎌倉に到着した三郎は「頼朝殿が暗殺されかけた」と時政に指示された通り、関係者に話し、鎌倉に居る工藤祐経の幼児(犬房丸)を抱きかかえ、また直ぐに巻狩りの現場に引き返すのです。


時政はわざと三郎に「頼朝殿が暗殺されかけた」と鎌倉で言わしめ、鎌倉に居る幕府関係者を不安に陥れることで、今回の曾我兄弟による頼朝暗殺失敗のフォローをしようと仕掛けたのです。その結果は・・・・。では、はじめましょう。

【今迄の話 リンク集】
いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~
いなげや② ~弁財天~
いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~
いなげや④ ~富士の巻狩り㊥~
いなげや⑤ ~富士の巻狩り㊦~

1.鎌倉

さて、稲毛三郎が犬房丸を真夜中の3時頃に連れ去ってから5時間後、鎌倉では大騒ぎが始まっていました。

頼朝殿が暗殺された!

という情報が飛び交うのです。三郎が言ったのは「暗殺されかけた」ですが、良くある喧伝間違い「暗殺されかけた⇒暗殺された」となった訳です。

③鎌倉(大蔵)幕府跡(御所) ※右は幕府屋敷の東御門跡
「直ぐに、狩宿へ使いを出しなさい!」

と情報統制の指揮を執るのは政子

しかし使いを出してから、鎌倉への戻りは、先に述べた通り、往復早馬でも、7時間以上は掛かります。つまり、この日の夕方にならないと、頼朝公が本当に暗殺されたかどうかは分からないのです。

緊急事態発生の御所では、使いの早馬を2,3出した後は、頼朝公の無事を祈るのみで、皆焦れるのです。(写真③

そんな中、緋糸縅之鎧(ひいとおどしのよろい)の立派ないでたちで、この沈痛な雰囲気の御所に颯爽と入ってきた人物が居ます。

頼朝の異母弟・範頼(のりより)です。(絵④

甲冑も脱がずに、つかつかと兄嫁である政子のところに来ると

「姉上、ご安心めされい!鎌倉には、この範頼がおります!!」

と威勢よく言うのです。

政子は、「範頼殿、かたじけなく存じます。」と感謝の口上を述べますが、ちょっと違和感を感じるのでした。

④源範頼
というのは、この範頼、平家討伐の西国遠征の時は、義経が常に搦め手側の機動部隊だったのに対し、正面側からの総大将を務めた人物です。義経が戦術の天才であるが故の自判断による行動が多かったのに対して、この範頼が頼朝に重用されたのは、戦況等について逐一頼朝に報告し、その判断を仰いだからに他なりません。

兵糧が無い、馬が無い、御家人間の争いに絶えない等、頼朝から突き放されることを怖がっているかのように、常に文を送ってきて、戦略判断を仰ぐ従順な範頼が「私に任せろ!」的な今回の態度というのは、実に似つかわしくないのです。

そうこうするうちに、早馬で戻って来た使者たちの報告を受けた政子らは、暗殺者嫌疑の曾我五郎が頼朝公の寝所の寸前で取り押さえられたことを聞いて、ホッと胸を撫でおろしました。

2.源(みなもとの)範頼

この鎌倉での空騒ぎ、勿論これだけで終わった訳ではありません。前回のBlogで描きましたように、「頼朝殿が暗殺されかけた」と夜中に鎌倉に駆けつけた三郎にワザと言わせたのは時政です。

⑤政子の所に来て話す父・時政
富士の巻狩りの一大イベントが完了し、頼朝公、御家人らと、鎌倉へ引き揚げて来た時政は、イベントの成功の報告と、自分の娘たちの近況を聞くために、政子の所にやってきます。(絵⑤

「政子、巻狩り最終日には要らぬ心配をかけたな。」

「三郎殿が真夜中に急に駆けつけ犬房丸をさらうように連れ出して、頼朝公が死にかけている、などと言われれば、それはもう皆心配で、心配で。」

「死にかけているとは言っておらんじゃろう?殺されかけたと言ったと聞いておるぞ。三郎本人は。」

「どちらでもかまいません。あの状況で、そのような紛らわしい状況を話されるのは、ちゃんと使いでも立てて、鎌倉へご報告いただかないと、却って混乱するばかりです!」

時政は、「その混乱をねらったのじゃがな。」とは言いません。時政は会話を続けます。

「で、鎌倉ではその噂で変な動きをするものはおらんかったか?」

⑥時政の娘たちの系図
※永井路子「続・悪霊列伝」から抜粋・加工
「ええ、皆一致団結して、この緊急事態に当たろうとして下さいました。範頼殿などは、頼朝の妻である私が気丈に振る舞っていることを涙ぐましく感じたのか、『姉上、安心してください。私が居ます』って優しく言ってくださった位ですから。」


「おおっ、範頼殿はやさしいのう!」

と言った時政の目の奥が一瞬光ったように、政子は感じました。

「妹たちはどうじゃ?」(図⑥

千万(せんまん、後の3代将軍源実朝)の乳母と、お父様がお決めになった徳子は、当初は枡形城の病床にある綾子の面倒を近くで見たいからということで、妙楽寺を出ることに乗り気ではなかったのです。そこで薬師の心得もある今若殿が代わりに綾子を診ることにしました。それで今、徳子は鎌倉にて乳母に専心できています。」(写真⑦

「やはり綾子は治らないのか?巻狩りの最中も随分と三郎も気を揉んでおった。枡形城に帰ったら、もうずーっと綾子を診ていたいと嘆息しておった。」
⑦妙楽寺の紫陽花
※現在は紫陽花寺として有名

「はい、今若殿のご報告によりますと、最近は『橋を、橋を!』と時々熱にうなされる中で叫び、何かに憑かれているような感じに悪化してきているようです。今若殿も盛んに護摩(ごま)を焚いて祈っているようですが、中々良い方向に向かわないようです。私たちも綾子のために鎌倉で護摩供養の準備をはじめたところです。」

「そうか、『橋を!』か・・・」

なにやら思いつくところのありそうな時政を、政子は何も言わずに見つめるのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

政子と会ってから約2か月弱、何かの宴会の席で時政は御所の頼朝公に政子から聞いた範頼の行動を報告します。

御所(頼朝のこと)殿、範頼殿が、御所殿が討たれたかも知れないと不安な我が娘に、『ご安心めされい、御所殿が万が一亡くなっても、その跡は私が征夷大将軍として、立派に幕府を存続させますから。』と伝えておったことはご存知ですな!」

「範頼が・・・・」

と言って眉間にうっすら皺を寄せる頼朝の表情を時政は見逃しません。

◆ ◇ ◆ ◇

それから3日後の8月に入ったばかりの暑い最中、時政は頼朝に呼び出されます。
蝉の声が喧しい御所の門を潜り、頼朝謁見の間に着座し、平伏して頼朝を待ちます。

しばらくすると、平伏している時政の前に、パサっと一枚の書状が落とされます。

「時政、範頼が起請文を持って来た。読んでみよ。」
夏用の直垂姿(ひたたれすがた)、扇で仰ぎながら、時政の横に立つ頼朝が言います。(図⑧

「はっ」
⑧直垂姿
「時政、余はやはり疑い深いのが短所よの。政子からも範頼のあの日の行動を聞いた。そこで人を範頼の所へやって、余の後釜は頼家(よりいえ、嫡男)ではなく、範頼のつもりであるか?と詰問したところ。ほれこの通り、全く他意は無く、巻狩り当時は頼家殿も狩りに同伴していたことから、政子の不安を取り除くためのの発言だったと書いておる。」

「赤心、御所殿に忠誠を尽くすと書いてございますな。」

「そうだ。」

時政は少し考えます。そしてもう一度書状に目を落し、しばらくじっと見入っていました。

風は無く、蝉の声だけが御所の中を吹き抜けます。頼朝はせわしなく扇で、自分の顔を仰ぎ、

「時政、何か気になる事でもあるのか。」

「はっ、私の思い違いなら良いのですが、この書状の最後、範頼殿の花押(かおう)の前の名称でございます。」

「源範頼と記してあるが?」

「征夷大将軍に任命された源家嫡流以外の方が源(みなもと)姓を名乗るというのは、この起請文を書くという事の重大性においては、あってはならぬこと。そもそも起請文を書いて寄越すこと自体、怪しく、このような小さなところで、御所殿をないがしろにする範頼殿の意識が出てしまうのではないでしょうか?御所殿の用心は決して疑い深いのではなく、今までもその御用心こそが、上手く新しい武家の時代を築くことができた肝だと、時政感心しておりまする。範頼殿が黒とは言いませんが、この起請文だけで白と断定されるのは御所殿らしくございません。」

「むむ・・・。」

頼朝はしばらくじっと考えていました。御所は強い西日に晒され、蝉の声は日中の油蝉から、ヒグラシへと変わりはじめました。四半刻が過ぎたでしょうか?

「時政、どうすれば良いか?」

頼朝のいつも長い熟考時間は、拝謁している臣下の者の考えをまとめて貰うための時間でもあるのです。

頭領たる頼朝は、熟考後の自分の考えを軽々しく述べるのではなく、配下の考えを自分の考えに照らし合わせるのが仕事です。時政はまとめた自分の考えを上奏します。

「御所殿、範頼に対し何も音沙汰せず放って置くのが上策かと。」

3.伊豆への流刑

頼朝との面会を済まし、放って置けと提案した時政は、その言葉とは裏腹に、自分は範頼の屋敷を訪れます。

そして、範頼に会うと、御所殿からの伝言と称し、起請文の源姓の活用問題に触れ、頼朝の逆鱗に触れている旨伝えます。

範頼は、かなり狼狽します。

「と、時政殿、どうすれば宜しいか?」

「範頼殿、御所殿は2,3日以内には沙汰を下すと言っておられました。大人しく蟄居し、それを待てばよろしいかと。」

ところが、それから4,5日経っても、頼朝公からは何の音沙汰もありません。
とうとう1週間、なんら沙汰は無いのですが、この時蟄居している範頼の屋敷に矢文が射こまれます。

明日夜半、御所殿、結城殿とご会合

とだけ記してあります。これを最初に見つけた範頼の家人は、文を渡しながら、範頼に言います。

「殿、私が明日御所に忍び込み、それとなく結城殿との会話を聞いて参ります。結城殿とは、結城朝光(ゆうきともみつ)殿ですね。彼は、平家打倒で義経と一緒に戦いながらも、戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝えた冷徹な漢(おとこ)として知られています。この時同様に、頼朝殿のご兄弟である殿に、結城殿が何らかの沙汰を伝えに来る可能性もありますし、そうでないにしても、この状況で矢文が投げ入れられたのは、殿の話がなんらか出るに違いありません。」(絵⑨

⑨結城朝光
憔悴した顔の範頼は、うつろな目をその家人に向け、「そうか」とだけ言うのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

翌日の夕刻、鶴岡八幡宮の御剣役として、近日開催予定の神事について頼朝と相談に来た結城朝光ですが、御所に入る時に、執事仕事をしていた時政に呼び止められます。

「結城殿、また今年も八幡宮での戦勝祈願、御剣役宜しく頼みますぞ!」

「時政殿、こちらこそ御家人の中で最多の御剣役を仰せ仕り、光栄至極でございます。」

「時に結城殿、良からぬ噂を聞いておるので他言無用でお聞き下さらぬか?」

「はっ?」

「目的は分からぬが、今日の御所殿との二人きりの会談中、不審な者が御所に侵入するかもしれないとの噂がこの時政の耳に届き申した。結城殿は御剣役なので、是非御所殿に何か危害が加わらぬよう四囲に気配りをお願い申す。なに、根も葉もない噂話に過ぎないとは思うものの、万が一があるといけないのでな。一応お耳にいれたまで。」

◆ ◇ ◆ ◇

夜半過ぎ、時政から忠告を受けたばかりの結城朝光は、頼朝と酒を酌み交わしながらの会合であっても、流石御剣役。床下のかすかな物音を察知し、何食わぬ顔で、板敷きの床に急に剣を突き立て、侵入者に手傷を負わせるのです。

そして床下からその不審者を引きずり出し誰何(すいか)すると、読者の方はお分かりのように、範頼の例の家人です。

「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ範頼殿の為に、形勢を伺うべく参った次第です。陰謀等ではありません。」と、手傷を治療されながら家人は弁明します。

家人が捕まった直後に、当然頼朝から呼び出しを受けた時政は、範頼の処置に意見します。

「しばらく時政の目の届きやすい伊豆国預かりとし、様子を見るのは如何でしょうか?」

「伊豆というと修善寺あたりか?」

「御意。修善寺に幽閉します。」

4.誅殺

それから1週間後、伊豆修善寺に範頼ら主従は幽閉されます。
ところが、幽閉された翌日、範頼らは、家人らが修善寺に立て籠もろうとした嫌疑で、結城朝光、新田四郎らに誅殺されてしまうのです。(写真⑩
⑩範頼の墓(修善寺)

これら誅殺の理由の1つに、時政が「曾我兄弟の仇討ち後の不穏当な動きと範頼が連動していた疑いが、伊豆に幽閉することで判明した」ことも挙げています。

範頼ら誅殺後に、曾我兄弟の同母兄弟である原小次郎(京の小次郎)という人物が範頼の縁座として処刑されているのです。

この原小次郎が範頼と何らかの連絡を取ろうとした等の挙動が推測できますが、正確には分かっていません。

もしかすると範頼事件のどさくさに紛れて、伊豆方面に若干残っている曾我兄弟関係者を抹殺することで、時政の情報漏えいの可能性を無くしたのかも知れません。

5.おわりに

曾我兄弟の仇討ちで、頼朝暗殺に失敗した時政でしたが、三郎に命じておいた「鎌倉に頼朝が殺されかけたとの風評をばら撒く作戦」は、範頼という源氏の大物を亡きものにすることで、源家の力を削ぐという成果を得ることが出来ました。

転んでもタダでは起きない北条時政。彼は粘り強く北条家台頭のために頑張ります。

しかし、元は自分の娘・綾子のためであり、稲毛三郎も妻の綾子の病が治るために頑張っているのですから、次回は綾子について描きたいと思います。

長文ご精読ありがとうございました。

【鎌倉(大蔵)幕府跡】神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目11−45
【妙楽寺(紫陽花寺)】神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目9−3

【範頼の墓】 静岡県伊豆市修善寺1082


水曜日

東北史跡巡り⑥ ~厨川柵~

さて、東北紀行2日目は盛岡市から始まります。
市内のホテルを8時に出て、まず向かったのは、厨川柵(くりやがわさく)。(写真①
この柵は、大変有名な柵で、1056年の前九年の役の総仕上げ時と、それから133年後、1189年の頼朝の奥州合戦の総仕上げ時の2回に渡り、「蝦夷(えみし)対 源氏」の構造が描かれることになる場所です。
奥州合戦では、既に平泉でこの合戦の勝利は分かっているのに、源頼朝は、この柵の地にまでわざわざ来て、既に死亡している藤原泰衡の首を柱に八寸釘で打ち付け、28万にも及ぶ追従する軍勢に奥州合戦完勝を印象付ける行動をしたのだろうか?

それが知りたくて、この地に来てみたのですが・・・。

1.厨川柵

あるのは写真②の看板だけなのです。(写真②

この看板の裏の白壁は、天昌寺(てんしょうじ)というお寺のもので、それ以外、それらしいものは何もありません。

②厨川柵疑定所に建つ看板
看板には、やはりここが厨川柵の一部であったことや、この白壁の天昌寺が、その時ここの所領を頼朝から貰った工藤氏と関係が深い事などが書かれています。

工藤氏と言えば、曽我兄弟の敵討ちで有名な悪役に工藤祐経(すけつね)という有名な伊豆地方出身の武将が居ますが、どうもその流れの傍流のようですね。頼朝と伊豆での挙兵時からの戦友だったのでしょう。その分派がこの盛岡の地に南部氏の臣下等になり、中世の間勢力を保っていたようです。

しかし、奥州藤原氏を倒した頼朝がわざわざ28万もの軍勢を従え、凱旋行事をした場所にしては、有名な史跡がある訳ではなく、場所も確定できないようなのです。

これはどういうことなのでしょうか?

この看板から白壁沿いにぐるーっと廻り、この白壁の中のお寺・天昌寺の正面口まで歩きながら考えました。(写真③

③天昌寺正面口
ここの石碑の脇にある天昌寺を説明した看板には、天昌寺の脇にある写真④が、当時の厨川柵の柵防跡のようなことが書かれていました。(写真④
④厨川柵の柵防跡?
当時の史料が非常に少ない等も原因なのでしょうが、いずれにせよ、どこからどこまでが明確に厨川柵だったのかは、歩き回って看板等で確認する限り、まだ特定できないようです。

2.征夷大将軍発祥の地

頼朝はここ厨川柵までやってきたことで、征夷大将軍となりました。

以後、武家の棟梁と言えば、征夷大将軍(秀吉は違いますが)が、明治維新になるまで700年も続く訳です。そのトリガーを引いた場所なのですから、この歴史的遺構が「何も無い」というのは、繰り返しになりますが、本当に不思議です。

それが逆に「どうしてそうなっているのだろう?」とあれこれと考えさせる動機になります。

そこで一つ思いついたことがあります。頼朝は実は「征夷大将軍」という役職をゲットすることに拘っていたのではなく、「将軍」という役職に拘っていたと云うものです。

絵⑤を見てください。

⑤陸奥鎮守府将軍として宴会をする頼義(右上)
出典:東京国立博物館所蔵「前九年合戦絵巻(摸本)」

この絵は、出典に描かれている通り、頼朝から133年昔にこの厨川柵で最後を迎えた「前九年の役」の頃の一巻を描いています。

この時、「まつろわぬ(蝦夷)である安倍一族」を征圧しようと朝廷は、源頼義(よりよし)を陸奥の国府多賀城(仙台)へ派遣します。

この絵は、多賀城へ着任した頼義とその息子義家(よしいえ:絵真ん中)らが、歓迎会を受けている場面を表しています。

絵中、右上にいる頼義の上に「将軍」と書かれているのが分かりますでしょうか?

これは、この当時頼義が「将軍」と呼ばれていたことを象徴しています。
彼が多賀城に赴任した時の役職が、「陸奥鎮守府将軍」というものでした。(表⑥

⑥源頼義と頼朝の比較表
頼義自身はこの官職にそんなに拘ったわけではありません。

ところが、140年後の頼朝は拘りました。彼は頼義の将軍の上を行く、大将軍になりたかったのではないでしょうか。なんか子供みたいですね(笑)。

表⑥全体に集約したことを読み取って頂けると嬉しいのですが、頼朝は全ての点において、140年前の頼義の上を行く源家の棟梁であると武士団に見せたかったのです。

よく、「頼朝は藤原泰衡(やすひら)らの奥州征伐をしたから、蝦夷(奥州)征伐で「征夷」となり、昔坂上田村麻呂が征夷大将軍になったことに因み、征夷大将軍になったのでは?」と聞かれることがありますが、それは少々誤解ではないかと思われます。

というのは、そうであれば、頼朝が征夷大将軍に任命されるのは奥州合戦の前、つまり1189年より前でなければなりません。ところが任命されたのは1192年。つまりこの厨川柵で奥州合戦の勝利を宣言し、戦が終った後なのです。

頼朝が欲しがった「大将軍」、これに該当する役職として朝廷側が候補にしたのは「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」等の複数候補が上がったようです。

「征東将軍」は源義経らに滅ぼされた木曽義仲が任官していたもの、「上将軍」は中国の古い役職としてはありましたが、この役職を含む律令制を採り入れた日本では、未だかつて使われたことの無い役職でした。

となると、残るは今迄良く使われてきた「征夷大将軍」のみ。

また、この役職が決まる時には、既に奥州合戦は終わっているため征服すべき夷(蝦夷)は存在しない、つまり「征夷」という「大将軍」の前の二文字は、現実的には意味が無く、ということは何か問題になるようなことも発生しないということなのです。
(現実的に「征夷」という言葉が問題となってくるのは、ここから約700年後の幕末の「攘夷」論からです。)

そこで、「征夷大将軍」を与えることに朝廷側で決定したという説が、最近有力になってきています。(出典:Wikipedia

3.厨川柵で頼朝が顕示したかったこと

結局、この厨川柵で、源頼朝が、後々、鎌倉武士団と言われる28万の猛者に見せたかったものは何だったのでしょうか?

それは、過去の源氏の中で一番だった頼義を頼朝は越えたぞ!!頼義が討ち漏らした安倍一族の末裔を、頼義が安倍一族を討ち滅ぼしたつもりになっていたこの厨川柵という聖地で、140年後にこの頼朝自身が討ち滅ぼしたぞ!俺は頼義より偉いだろう?歴代の源氏の中でピカ一だろう!頼義らは将軍ではあったが、俺は更に上行く大将軍になってやる。
ではないかと想像しました(笑)。

頼朝は、平家打倒で伊豆で挙兵してから、直ぐに石橋山の合戦ここをクリック)で、関東の平家側鎮圧軍に敗れ、以降戦での完全勝利の経験はありません。富士川の戦いここをクリック)では勝利しましたが、これも戦を仕掛ける前に、水鳥の音で平家軍が逃げ出すという状況ですから、頼朝の武勇を喧伝するには、少々力不足です。その後は弟の義経や範頼らが、平家を西へ西へと追い落とし、最後は山口県下関の「壇ノ浦」で殲滅する訳です。

勿論、頼朝が鎌倉に残ったのは、戦下手だからではありません。奥州藤原氏上総(茨城県)の佐竹氏らの抑えとして、鎌倉に鎮座することにしたのです。

また頼朝は、義経のような戦の現場で状況に応じ臨機応変に戦い方を変え、華々しく平家を追い落とす、いわば戦術肌の人材ではありません。じっくり何年も先を見越して布石する、いわば戦略の人なのです。

なので、頼朝が軍を動かすときにはほぼ勝利は決まっている訳です。

平家打倒の戦略も、頼朝は用意周到に、伊豆の流人生活を送っていた17年間に関東武士団を味方につけるという布石を行っていました。
挙兵し、石橋山で敗れはしたものの、大局的には大軍を組織できると踏んでいたのだと思います。あとは平家を滅ぼすために、部下や自分の親族等から誰か戦術に長けた者を戦現場の指揮官として使えばよいと考えていたのでしょう。

奥州合戦も同じです。先のBlogで述べたように、義経追捕の全国手配をした時から、奥州藤原三代の作った奥州王国を潰す算段は完成していたのでしょう。何も頼朝自ら、岩手県は盛岡市の厨川柵まで遠路はるばる来なくても、奥州王国はつぶれたのです。

ただ、奥州合戦でも現場指揮官を立てると、平家を滅ぼした義経のように、その戦功により朝廷側から反頼朝勢力として使われるリスクがあります。
また頼朝自身がこの合戦で自分が如何に凄い大将なのかを、武士団に示しておいた方が、盤石な鎌倉政権を築くことになると踏んだのだと思います。

数十万の武士団が見守る中、槍を持って頼朝は泰衡と一騎打ち、一寸の差で頼朝が勝ち、高々ととったばかりの泰衡の首級を掲げ、数十万の武士団を前に大音声で勝利宣言をする

なんてことは、哀しいかな戦略の人である頼朝には出来ません。全て論理で殺していくのです。敵である藤原泰衡は、部下によって頼朝が厨川柵に到着前に暗殺。その首級は頼朝に引き渡されます。

そこで彼は表⑥にあるように、140年前の「前九年の役」の頼義の真似をして、既に死亡している泰衡の首級を八寸釘で木柱に打ち付け、晒し首にすることで、28万の武士団への示威行動としたのです。
そして、頼義の「将軍」より偉い「大将軍」を朝廷へ所望するという理屈なのですね。

4.蝦夷(えみし)の人々の気持ち

では、そのような記念すべき鎌倉政権盤石化の礎石となるべき厨川柵に何も無いのはなぜか?

以前、このBlogのシリーズで私は奥州藤原氏の最後の当主である泰衡を以下のように断じてしまいました。(詳細はこちらを参照

「泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物である」

上記厳しい評価も根拠レスでないことは、こちらのBlogを読んで頂ければ分かるとは思いますが、一方で、実は泰衡は平泉を築いてきた奥州藤原氏の4代目に相応しい文化的慧眼を持った人物だったのかも知れません。

この厨川柵で幼少の頃敗北を味わった藤原(安倍)清衡(きよひら)が平泉に中尊寺を建立して以来、毛越寺・無量光院等、奥州藤原家代々に渡り築いてきた黄金楽土の平泉を、泰衡は頼朝軍によって焼失させる訳にはいかないと考え、あえて腰抜けの汚名を被る覚悟で、平泉から北へ逃亡したという説があります。そして部下の裏切りにより殺害され、頼朝に差し出された首は前九年の役の故事にならい、八寸の釘により木柱に打ち付けられるのです。

もし、これが本当なら、軍略では才の無い泰衡も、精神世界の中では頼朝より上を行く人物だったのかもしません。
いずれにせよ、一つ言えるのは、泰衡は部下に殺害されますが、決して人望の無い人物では無く、その後彼の首は、彼を慕う人々によって、そっと平泉は中尊寺へ戻され、先の奥州藤原三代と対等にミイラ化されるのです。ただ、鎌倉幕府に気を使い、彼の首が入っている首桶には弟の「忠衡(ただひら)公」と書かれることによって、カモフラージュされますが・・・。(写真⑦

⑦奥州藤原氏三代のミイラが入った棺(左)四代目秀衡の首桶には弟の「忠衡」との銘
昭和25年(1950年)の遺体調査では、泰衡の首には縫合された跡があり、手厚く葬られていたことが分かっています。(写真⑧
⑧秀衡の首(ミイラ化)
A:八寸釘の跡 B,C:縫合痕

これらの事実を基に、この厨川柵が何故遺構として残っていないのかを考察しますと、やはり、東北は蝦夷(えみし)の人々にとって、厨川柵で頼義と頼朝、両源氏の棟梁が行った行為は、無理無体な迫害としてしか映らないのではないでしょうか。
いくら武家政治の基盤の始まりなどと言っても、蝦夷にとっては、迫害以外の何ものでも無く、それらは蝦夷にとって消し去りたい記憶の1つなのではないか。だからこそ、この厨川柵の史跡は殆ど無くなり、この土地を頼朝に与えられた工藤氏は、敗者である安倍・藤原一族のために天昌寺を建立していたのではないか。更に言うなら、泰衡の首を忠衡と偽るのと同様、天昌寺をその目的のためとは表向きは言えない雰囲気があったのではないかと想像してしまいます。

5.おわりに

昭和25年(1950年)の遺体調査で、泰衡の首桶から80粒ほどの蓮の種が見つかったのだそうです。
その種は平成10年に発芽し、「中尊寺ハス」として有名になっています。(写真⑨
⑨中尊寺ハス
泰衡の首級と一緒にこの蓮の種を首桶に入れた、800年以上前の名も知れぬやさしい蝦夷の方は、泰衡の真の理解者だと思います。

その方は、泰衡が後世、臆病者と誤解され続けても、数百年後、数千年後に、この蓮の種を蒔き、美しい蓮の花が咲くのを見た人の中に、きっと泰衡の心根のやさしさを、真に理解してくれる人が現れることを期待して種を入れたのかも知れませんね。



長文最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。 

東北史跡巡り⑤ ~じゃじゃ麺~

私のマイナー史跡巡りという行動は、現地に向かう前の事前調査も少なく、計画性も無く、行った先の史跡で「あ、そうなんだ!じゃあ、これはどこで起きたのかな?」と呟きながら、リアルタイムでググります。

すると、その史実に関しての知識と同時に、関連史跡も分かるので、次にその中で興味のある史跡へ移動します。

そこでまた「あ、そうなんだ!じゃあ、・・・」の連鎖により、段々分かってくるという感じです。

本当に最近はIT化で便利な世の中になりました。かなりマイナーな史跡でも、Google検索と、GoogleMapさえあれば、最短で到着できます。

スマホさえあれば、効率よく情報を探し、行動できる時代。最近は写真のように、車据え付けのカーナビよりも、GoogleMapのカーナビの方ばかり使います(笑)(写真①
①車載のカーナビよりスマホのGoogleMapを使う

中学生の頃は、図書館で国土地理院の地図を開き、一生懸命その史跡を調べ、現地でも詳細の場所はどこか分からず、半日歩き廻り史跡を探すのが当たり前でした。

その頃に比べると隔世の感があります。

しかし、効率が良くなった分だけ、弾丸のような史跡訪問行程となり、今度は移動時間・食事時間が勿体なく感じてきました。
そこで日本全国何処に行っても、トイレ、公衆無線LANによる情報収集、美味しいコーヒー、朝飯・昼飯の利用、全てコンビニばかりとなってきております。

こればかりだとさすがに哀しく感じることもあります(笑)。

そこで、今回盛岡に行ったこともあり、せめてもの贅沢(大笑)として、盛岡名物じゃじゃ麺を食べました。(写真②
②本場盛岡市で食べたじゃじゃ麵

◆ ◇ ◆ ◇
※以降の写真も全て食す前の写真ですので、ご安心して閲覧ください(笑)。

じゃじゃ麺、東京でもたまに社食等で昼に食べたりします。
汁気の無い麺は焼きそばでもなんでもそうですが、鉄板上でジャージャー音がしますから、この麺もその音で東北の人がこの名前を付けたのだろうくらいに思っていました。

Wikiで調べると、元々は中国の家庭料理の1つなのですね。じゃじゃも中国語で「炸醤麺(ジャージアンミエン)」から来ているとのこと。

③コンビニでゲットしたじゃじゃ麺
ただ、コンビニ等でも売っているじゃじゃ麺は、本場とは違って、砂糖などを用いたた甘みが強く、さらに唐辛子や豆板醤などで辛めの味付けがされているのだそうです。

また麺もラーメンなどと同じものが使われていることが多いのだそうで、それで私が「焼きそば等と同じ無水の麺」と感じたのだと思います。(写真③

で、結局岩手県は盛岡市のじゃじゃ麺が、中国の家庭料理の伝統を一番継承しているとのこと。

私が食べたお店は、「不来方(こずかた)」というお店で、盛岡市内では3番目に古い、じゃじゃ麺の老舗ということで宿泊したホテルから紹介されました。(写真④
④盛岡市の老舗「不来方」(こずかた)

夏休みとは云え、日曜日の夜だけあって、お店には人があまり居ない、というか私しか居ない状況でしたが、その分、ご店主から色々とじゃじゃ麺について教えて頂けました。

まず、じゃじゃ麺の麺ですが、先程、ラーメンのような無水の麺ではなく、平たいきし麺のような独特の麺を使うのが本場であり、不来方でも写真⑤ような平打ちうどんかきし麺のように感じられる独特の麺でした。(写真⑤
⑤麺はきし麺のような独特の平麺

これに、特製の肉味噌とキュウリ、ネギをかけ、好みに合わせたトッピング(私の場合はチャーシューです)をします。(写真⑥
⑥肉味噌とキュウリ、肉味噌の奥にネギ、
チャーシューのトッピングと右は薬味類

そして、これに、薬味としてラー油、お酢、おろしショウガやニンニクをかけ、グワーッと良くかき混ぜ、写真⑤のような状態にします。

この肉味噌とキュウリと麺等が良く絡んで、甘辛くとても美味しいです。ラーメンとも和麺とも違うこの食感は独特ですね。東京で食べるじゃじゃ麺とも違い、独特の盛岡らしさを感じます。

食べながら、ふと目に留まったテーブル上写真⑦左の”ちーたんたん”。
「これは何ですか?」とご店主に聞きましたところ、写真⑦の右側ようなものであることが分かりました。(写真⑦
⑦ちーたんたん
うどん・そば等の和麺によくある「蕎麦湯」をベースにして卵で溶いたスープです!

これもなかなかでした。「蕎麦湯」って栄養価が高いと言われていますよね。やはり盛岡じゃじゃ麺も独特とは云うものの、和麺と同じような製作方法で、その茹で汁は栄養価が高く、スープにするのですね。

この盛岡じゃじゃ麺、ご店主のお話ですと、戦前の旧満州で、中国人たちが寒い冬等に良く食べる家庭料理の味が忘れられず、終戦後、盛岡に復員されてきて、日本の麺等の食材を使って屋台を始めたのが始まりだそうです。

そして盛岡の人たちの舌に合うようにアレンジを繰り返し、「じゃじゃ麺」としての独特の味を形成したのだそうです。

宇都宮餃子と同じような経緯ですね。

面白いのは、宇都宮餃子も満州でのスイトンから。このじゃじゃ麺も満州。

満州は冬場はかなり寒いのです。

盛岡等東北も宇都宮もかなり寒い土地で満州に似ています。そういう気候の共通性もあるので、親しみやすい料理となったのではないでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇
「不来方(こずかた)」って洒落た名前をお店につけたなあと、この時は思いましたが、翌日見て廻った市内の「盛岡城」は、地元の南部氏に盛岡と名付けられる前570年間は「不来方城」と呼ばれていたことを初めて知りました。(写真⑧
⑧盛岡城は570年間「不来方城」だった

また、岩手を代表する石川啄木の詩に
⑨盛岡城にある啄木の詩

不来方(こずかた)の
お城の草に寝ころびて
空に吸はれし十五の心

というのがありましたね。(写真⑨

この不来方という地名、お店でちょっと洒落ているなあと感じたのは、「来ない方」なんて、山下達郎の大ヒット曲「クリスマス・イブ」の中の「きっと君は来ない」の歌詞を彷彿させるじゃないですか。恋愛チックでロマンスがあるなあと思ったのです。

ところが、由来を調べると福島県いわき市の勿来(なこそ)と同じで、「来ないで欲しい方」、勿来も「な来(こ)そ」すなわち「来るなかれ」。

これは、当時京にあった朝廷から「こっち(京)へ来るな!」と言われていた地名ということです。酷いですよね。

「マイナー・史跡巡り」の中尊寺金色堂シリーズで描いていますが、結局朝廷は力があるけど従わない東北の蝦夷(えみし)を敵視すること甚だしい歴史の傷が、この「不来方」という名前にあるのです。

全然ロマンチックでないですね。それで南部氏は、この城の名前が良くないと考え「盛岡城」にしたようですよ。

また長くなりました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。



東北史跡巡り④ ~衣川柵~

東北調査紀行は平泉の中尊寺等、奥州藤原氏の関連史跡を見た後、時代は前後しますが、前九年の役で、源頼義(よりよし)によって滅ぼされた安倍氏の史跡を見て廻りました。(絵①
①衣川柵で安倍貞任(さだとう)を追う源義家(よしいえ)
「マイナー・史跡巡り」で、前九年の役について2話のシリーズで取り上げました。
(シリーズ前半はこちらをクリック、後半はこちら

シリーズ中の登場人物が複雑で分かりづらいというご指摘を多々頂きました(笑)。

このTsure-Tsureは、日本史理解が主眼ではないのですが、やはり分からないより分かった方が読み進めやすいことから、前九年の役の相関図を図②に再掲しておきます。これから読み進める上で人名がこんがらがった時に、この相関図の中に人物名を探してみてください。そうするとグッと中身が分かって面白いですよ。
②前九年の役(1056年~1065年)人物相関図
1.並木屋敷(衣川柵)

さて、平泉中尊寺から車で20分も走ると、並木屋敷(衣川柵)という場所に到着します。相関図①安倍頼時の政庁があった場所です。

奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が平泉に開いた「柳之御所」は前回の紀行文でも掲載しましたが、北上川の岸辺の広大な土地を使った奥州王国に相応しい規模感がありました。(こちらの写真を参照

ところが、これとは対照的に安倍頼時の政庁跡は、殆ど影・形がありません。(写真③
③安倍氏の政庁があった並木屋敷(衣川柵)
ちなみに上の写真で、私が立木を支えているのは、この立木、根本が腐って、この場所でゴロンと倒れていたからです。一生懸命持ち上げて押さえながら写真に納まったものです。愛情を込めて言いますが、流石マイナー史跡ですね(笑)。

ちなみに、この写真左側にある看板の説明を以下に掲載します。(説明看板④
④並木屋敷(衣川柵)の説明看板
正直、この時点の私には、ここに書かれていることが、どういうことなのかさっぱり分かりませんでした。このマイナー史跡が、日本史のメインストリームにどう絡むのかを、私のようなあまり知識の無い人にも分かりやすく説明して頂けると助かるのですが・・・(笑)。

勿論、帰宅後一通りBlogを描くために調査した後である今は分かりますので、解説させてください。

この看板には奥州王国の「前九年の役」で討たれた安倍氏の話と「後三年合戦」で討たれた清原氏の話の2つが1度に書かれています。

まず前半の文章、図②に出て来る安倍頼時、彼の死後は息子の安倍貞任(さだとう)が治めていた18年間、前九年の役で、ここを貞任が撤退しなければならない時まで、政庁だったことが書かれています。

また、看板後半の文章は、前九年の役が終り、安倍氏が滅んだ後、1083年に始まる後三年合戦に入る頃までの20年間、清原氏嫡流の居城だったようです。

図⑤は、後三年合戦に出て来る人物を超簡単に書いたものですが、看板に出て来る清原武則(たけのり)は一番上、前九年の役で最後安倍氏と対立する代表者で、看板に出ている武貞(たけさだ)は、その息子、平泉中尊寺を建立した藤原清衡の継父です。そして、やはり看板に出て来る真衡(さねひら)は、その継父の長男です。
ちなみに後三年合戦では、この真衡、清衡、家衡(いえひら)の3兄弟(清衡だけ父違いですが)が争うのです。(詳細はこちらのシリーズ
ちなみに、2番目の清衡は岩手県江刺市に住んでいました。また家衡は秋田県横手市です。皆バラバラなのですね。
⑤後三年合戦を中心とした人物相関図(再掲)
そして、看板の最後に書かれている衣川柵が安倍氏の時代は必要無かったが、清原氏の時代は必要で、衣川柵と呼んだと書かれていますが、これは結局前九年の役で滅ぼされた安倍氏の残党がまだこの辺りに残っていて、ゲリラ戦等を清原氏に仕掛けてくるため、柵が必要だったと言いたいのだと思います。個人的にはこの記述は、この看板では不要ではないかと思いますが・・・。

かなりややこしい看板ですね(笑)。

2.安倍氏と安倍首相

さて、実はこの前九年の役で滅ぼされてしまった安倍一族、現在の安倍晋三首相と繋がっています。

⑥安倍貞任
と申しますのは、安倍首相ご自身が、2013年7月の参院選で岩手県入りした演説の中で「安倍貞任(さだとう)の末裔が私になっている。ルーツは岩手県」と話しています。(絵⑥

安倍首相は、前九年の役の後半の首謀者(前半は貞任の父・頼時であるが戦死)として戦死した貞任の末裔と言っていますが、貞任ではなく兄の宗任(むねとう)の子孫だろうと言う人がいます。(図②参照、ここをクリック

というのは、前九年の役を生き延びた宗任は、役の後、京に連行され、後に伊予(愛媛県)に流されます。安倍首相は山口県の一族ですから、この伊予に流された宗任の子孫の誰かが、長州(山口県)に落ち延び、安倍首相の先祖になったのではないかという説です。

ただ、真相は分かりません。首相が演説で言うのですから、やはり首相安倍家の言い伝えで貞任の末裔なのかもしれません。

貞任は、180cmを越える大柄な体躯の持ち主で、概して東北の蝦夷人は中央の人よりも体躯は大きいようですが、その中でも特に大きかったようです。安倍首相も体大きいですよね。絵⑥で見ると、心なしか表情が安倍首相に似ているような気もします(笑)。

3.戦中における雅(みやび)な句のやりとり

前九年の役で、この衣川柵を攻める源頼義の息子が、源氏伝説のヒーロー、義家(よしいえ)です。

前九年の役の後半戦、頼義・義家は激しくこの衣川柵を攻めたてます。耐えきれなくなった安倍貞任、北の厨川(くりやがわ)柵に向けて、敗走を始めます。

まだ20歳前後の義家、総大将の貞任の逃走に追い縋り、馬上から大音声(おんじょう)で以下の下の句を貞任へ投げかけます。(絵①参照
「衣のたて(館)はほころびにけり」

すると、貞任は、同じく馬上でニッと笑い、
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
と上の句を返して来るのです。

義家は驚きます。京の武人の中にも、連歌のような雅(みやび)な振る舞が出来る人は少ないのに、この蝦夷の地で、この戦況の中、機微と優雅さに満ちた武人に会えるとは。(写真⑦ 絵①参照
⑦ねぶたでの貞任と義家の衣川柵追撃シーン
※返り血を浴びた貞任は鬼になります
とても雅な感じの貞任ではないです(笑)
敵味方の2人で作った上下の句を併せると以下のようになります。

年を経し糸の乱れの苦しさに、衣のたて(館)はほころびにけり

衣川の館(たて)衣類の縦(たて)糸をかけて「衣のたてはほころびにけり」と義家は詠んだのですが、それに対して貞任は、組織の乱れと、衣類の乱れが見苦しいとかけて返句したのです。

つまり
「経年劣化で糸が悪くなってくると、衣類はほころんでくるものよ」
と言う表層的な解釈の裏に
「安倍一族という組織も何年も経つと乱れて来て、とうとう衣川柵は今日ほころんでしまった」
という意味深な内容を込めた歌が完成したのです。

流石、安倍首相のご先祖ですね。多分、安倍首相はこの歌を心に刻んで組閣をしていることと思います(笑)。

4.厨川柵(盛岡)へ

さて、見るべきものが少なくても、想像は果てしなく広がる衣川柵の私ですが、既に18時を廻っていました。(写真⑧
さて次にどこに行こうか? 宿すら予約していない弾丸旅行です(笑)。
⑧衣川柵で次は何処に行こうか
考える私(笑)
やはり、貞任が逃げる先、厨川柵だろうと考え、厨川柵がどこにあるのかググります。
すると、それはここから100㎞は離れた盛岡の北側にあることが分かりました。

早速、Webで盛岡市内のシティホテルに予約を入れ、近くのガソリンスタンドで、給油してから東北道を盛岡へと走らせました。

20時過ぎには、盛岡市内のホテルに到着。(写真⑨
その後、じゃじゃ麺を食べに市内に出ますが、その時のじゃじゃ麺のレポートは既に、このBlogに掲載しております。興味のある方はこちらをご笑覧ください。
⑨盛岡市内は「ホテルエース」という
シティホテルに宿泊しました
次回、東北紀行2日目は、前九年と奥州合戦の史跡・厨川柵から始まり、次に一気に戦国末期の九戸城へと時代が飛びます(笑)。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。次回をお楽しみに。



東北史跡巡り③ ~柳之御所~

今回は、中尊寺金色堂から始まった東北調査紀行の第3弾です。
※第1弾、第2弾はこちら⇒東北調査紀行1東北調査紀行2

前回、平泉の中尊寺を訪問した後、義経の最期の地とされる高館を訪問しました。(写真①
①高館義経堂から歩いて「柳之御所跡」へ向かう
そして、写真①の場所まで戻ると、そのまま南東方向へ歩き出し、奥州王国の政庁があった場所、「柳之御所(やなぎのごしょ)跡」に向かいました。

今回は、ここから話を続けます。

1.柳之御所跡

さて、今回見て廻った場所の見取り図です。(写真②
②高館から柳之御所へ
※歩いたコースは黄色い点線です
出典:柳之御所資料館模型
写真①の高館義経堂の入口を起点に黄色い点線に沿って2㎞程歩くと、柳之御所跡に着きます。

そもそも平泉は、写真③の解説にもありますように、奥六郡(看板地図中、紫に塗られた東北内陸部)の玄関口(中央政権の派出所である仙台 多賀城から見て)に、藤原清衡(きよひら)が造った中核都市なのです。(写真③
③奥六郡(奥州王国)と平泉
出典:柳之御所資料館
私が盛んにblogで「奥州王国」と言っているのは、この奥六郡のことです。

勿論、奥六郡も中央政権下に存在する一地方郡ではありますが、奥州藤原氏は、この郡からの税収だけでなく、奥羽で取れる金や名馬から上がる利潤を上手く活用し、仮想的な蝦夷(えみし)の半独立経済圏、いわばバーチャル王国を作り上げていたのです。

なので、その概念的な意味合いも含めて、私はあえて奥六郡のことを奥州王国と呼んだ訳です。

逆の視方(みかた)をすれば、古(いにしえ)の奈良時代に律令で決めた行政機能は、平安時代の藤原摂関政治の基、荘園制度等の発展により、グダグダに崩れ始め、このような京の都から遠い地方では、バーチャル王国の存続を許してしまうような、複雑な国に日本はなってしまったのです。

このような制度の限界を感じ、奥州王国を日本という国の中の大きな腫瘍のように感じ、これを潰さなければ真の統一社会は出来ないと考えた漢(おとこ)がいました。

源頼朝ですね。

彼は、高館にて義経を討ち、その首を差し出した奥州藤原氏4代目の泰衡(やすひら)を赦すどころか、28万もの大軍を持って、自ら平泉へ攻め入ります。これを奥州合戦と言います。

泰衡は、勝ち目なしと踏んだのか、平泉の柳之御所に自ら火を掛け、灰と化して、平泉を放棄し北方の厨川柵(くりやがわさく)へと逃げて行きます。

頼朝軍は、1189年の8月にその何もかも無くなった平泉に入城します。

多分季節も私が訪問した時期と同じ頃ですから、灰こそありませんが、景色としては写真④のような、だだっ広い政庁跡を見たのかも知れません。(写真④
④何もない(東側から見た)「柳之御所跡」
また歩いている途中、写真⑤のような池等も多く見られましたが、この辺り、池を持つ邸宅や高屋(たかや)と呼ばれる倉庫が立ち並ぶ通りだったようです。(写真⑤
⑤池を持つ邸宅跡
実は何もかも無くなったと思っていた、ここの倉庫に唯一残されていたものがあります。

」です。しかも大量に。

これを見つけた頼朝軍は大変驚きましたが、頼朝は全く動じません。
彼はこれがあるからバーチャル王国である奥州王国は潰すべきと、ずーっと構想していたのですから。

2.泰衡からの書状

さて、平泉に入城した頼朝の宿所に、書状が投げ込まれたと『吾妻鏡』にはあります。泰衡からの書状です。概要は以下の通り。(Wikipediaから)

「義経を討ち取ったのは、罪ではなく勲功ではないでしょうか?そもそも義経を平泉に招き入れ、保護したのは亡父・秀衡であって、私はなんらそれらに関与していません。罪無くして成敗されるのは不本意です。現在累代の在所(柳之御所のことか?)を去り、山中を彷徨い、大変難儀しています。出来れば私も頼朝殿の家来の一人として頂けませんか?せめて遠流として欲しいです。」

理が通った話のように感じます。しかし、頼朝は、100年前の後三年合戦源義家(よしいえ)が慈悲をかけた清衡(きよひら)が、結局は裏切り、奥州王国を打ち立ててしまうことを知っています。そう、奥州藤原氏はやはり根絶やしにしなければならないのです。

また、泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物であるということをこの書状で赤裸々にしてしまっています。

これでは頼朝は、泰衡は傑出した人物だから、殺すのは勿体無いとは思わないでしょう。
理不尽ですが、現代もこの時代も、その辺りの匙加減は同じですね。結局泰衡は、逃亡中に部下から殺害され、その首を頼朝軍に差し出されてしまいます。

◆ ◇ ◆ ◇

このシリーズの「~東北調査紀行1~」で、金色堂には奥州藤原3代のミイラがあるとお話しました。(ミイラの写真はここをクリック

4代目の泰衡の首もあるのです。しかし公式には3代のみということになっていました。(写真⑥右
⑥奥州藤原氏3代の棺(左)と
「忠衡公」と書かれた首桶(右)
何故でしょうか?

それは泰衡の御首が入れてある棺に書かれている名前です。(写真⑥左

忠衡(ただひら)公」と書かれています。

忠衡とは泰衡の弟で、最後まで亡父・秀衡(ひでひら)の遺言を遵守し、義経を守ろうとした人物です。

長い間、この首桶に書かれた文字を信じ、この首は弟の忠衡のものだと信じられてきました。

いや、信じる以前に忠衡のものか、泰衡のものかの客観的な判断が出来ない程、この首は損傷していたようです。16箇所の切創や刺創、さらには鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡があるという凄惨なものです。(写真⑦

なので、言い伝えのように忠衡としていたのですが、1950年代のX線調査等により、この首の頭蓋骨部分に18㎝以上の釘を貫通させた後が見つかったのです。(写真⑦のA、B,Cは削がれた部分)
⑦泰衡の首
「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」でも書きましたが、頼朝は奥州合戦で、平泉を無血開場した後、北へ逃げた泰衡を追いかけ、現在の盛岡市にある厨川柵まで駒を進めます。

この厨川柵、実に133年前の1056年、前九年の役の帰結として、当時の陸奥国守の源頼義(よりよし)が安倍氏征伐を行い、当主安倍頼時(よりとき)の首を八寸釘で打ち抜いて柱に打ち付けたのです。
この故事に倣い、頼朝は泰衡の首を同じ八寸釘で同様に打ち付けたとの記録が吾妻鏡に残っているのです。

その記録と頭蓋骨の貫通跡が一致します。それ以来、この首はやはり奥州藤原氏4代目泰衡のものと鑑定されたのです。

ではどうして首桶に「忠衡公」と書かれているのでしょうか?

奥州王国が滅びても、中尊寺は残った訳であり、当然その中核である金色堂、さらにはそこに安置してある藤原氏のミイラ等は、鎌倉幕府から注目される訳です。

残された奥州王国の人々は、何とか4代目泰衡の首も、3代目までと同様に残してあげたい。しかし、奥州合戦における頼朝軍の敵のトップたる泰衡を、他の3代と同様に堂々と残すことは、鎌倉幕府が続く限りは出来ないのです。
⑧私のためだけに再度開館してくださった柳之御所資料館

そこで、奥州王国の人々は一計を練り、弟の「忠衡公」の首と称して、泰衡の首を3代と一緒に葬ることで、幕府からの訴追を逃れたという訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

以上の話全て、「柳之御所資料館」(写真⑧)で知りました。しかし、この資料館に到着した時には、閉館時間である17時を10分程度過ぎており、館員の方々が車で帰宅されようとしていたところを、無理に頼んで、態々私だけのために、資料館をまた開けて下さるというご負担を強いました。この場を借りて感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。(写真⑧

3.無量光院(むりょうこういん)跡

さて、平泉も駆け足で見て廻り、中尊寺駐車場へ向かう私の視野に美しい池が飛び込んできました。(写真⑨
⑨無量光院跡
ここは、無量光院跡と呼ばれる場所で、3代目藤原秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂を模して、建てた寺院の跡です。(写真②で地理的な位置もご参照ください

写真⑨の真ん中にある看板を読むと、なんと平泉市がVR(バーチャル・リアリティ)の取組みをしており、写真⑩のような院の建設当時の想像図が、特設ゴーグルを掛けることで、この場所で見えるとのことでした。(写真⑩

確かに平等院鳳凰堂によく似ていますね。

ちなみに、写真⑩の右側の写真にありますように、私が訪れた8月には、ちょうどこの平泉の金鶏山(きんけいさん)の山頂と本堂等の建造物の中軸線上に夕日が沈むのを見られるのだそうです。(残念ながらこの日は日没頃曇ってしまい見えませんでした。)
⑩無量光院のVR写真

4.おわりに


1代目清衡は中尊寺を、2代目基衡(もとひら)毛越寺(もうつうじ)、3代目秀衡無量光院と、ここ平泉を、奥州王国の京の都とすることに一生懸命だったようですが、多分その蝦夷(えみし)の国家形成が、バーチャル(仮想)なだけに「儚(はかな)い」ものであることを奥州藤原氏3代は予想していたのではないでしょうか?

⑪何も無い(南から見た)柳之御所跡にて
※左手の小山が高館義経堂
と考えたのは平泉は、この奥州王国の入口に位置することは先に述べました。(写真③参照

普通そのような都市であれば、王国への敵来襲に備えて、城砦を築く等、武力による防禦建造物で固めるべきですよね。

ところが、奥州藤原氏3代は、ここに寺院等、スピルチュアルなもののみで固めており、またその建造物には、末法思想が色濃く出ているのです。

私はバーチャル国家とは?という疑問に一つの答えを奥州藤原氏から貰っているように感じました。

皆さまはどう感じられますか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました。



東北史跡巡り② ~弁慶之墓と義経高館~

拙著メインブログの「マイナー・史跡巡り」の進捗に合わせて、色々な紀行文が交じり合うので、混乱される方もいらっしゃるかもしれません。

今回は、中尊寺金色堂から始まった東北調査紀行の第2弾です。
※第1弾は、こちらをクリック下さい。

中尊寺を見た後は、そのまま歩いて、義経の最期の地である「高館(たかだち)」を目指します。(巻末のGoogleマップもご参照ください。)

まず、中尊寺を出て、目に入るのが、弁慶の墓です。(写真①
①中尊寺門前にある弁慶の墓碑と松
立派な松です。これは弁慶がずーっと義経に従い、「立ち往生」で殉死するまで変わらぬ忠義を尽くしたことを讃えるために、後世の中尊寺の僧・素鳥(そちょう)が以下の句を添えて植えたようです。

「色変えぬ松の主(あるじ)や武蔵坊」

弁慶の「立ち往生」については、既に「マイナー・史跡めぐり」にも描きました。
弁慶については、義経の部下で存在したことは史実らしいですが、ただ、彼の数々の奇行(?)は、後に判官贔屓と相まって、創作された話が多いようです。

私の家の直ぐ近くにも「弁慶鍋転がしの坂」等というのがあります。あまりの急な坂に落馬しそうになった弁慶、なんとか持ち直しましたが、鞍の後ろに釣るしてあった鍋の紐が切れ、鍋は断崖を落ち、谷底に消えて行ったという伝承です。

写真のように確かに急な坂ですが、史実としては、少々怪しいですよね(笑)。(写真②
②弁慶鍋転がしの坂
※遠方に見えるのは丹沢山系と富士山等
現代だったら、鍋を落しても住宅街の誰かが拾ってくれそうですけど(笑)。

富士山に丹沢は大山、箱根の二子山、遠方には天城山も見えるこの景観の良さから、何か地名をということで義経伝説にあやかり、付けたのでしょう。勿論、奥州と鎌倉の行き来にこの土地付近を通った事に関しては、かなり確度が高いようです。旧鎌倉街道が走っていますので。

ただ、そのような伝説が多い中でも、弁慶の最期・「立ち往生」だけは真実だと思いたいです。(絵③
③満福寺(腰越)の襖絵「弁慶の立ち往生」

さて、この弁慶のお墓から2km程度離れたところに、義経最期の地・高館はあります。

そこを目指して、トコトコ歩いていると、道端に写真④のような石碑を見つけました。(写真④
④卯の花 清水の碑
ここには、奥の細道で松尾芭蕉に同行した曽良(そら)の句がありました。

「卯の花に兼房みゆる白毛かな」

義経の部下と、藤原泰衡の軍勢がここで激しく交戦しました。
この句は、その中の1人、白髪を振り乱し勇猛果敢に戦った66歳の兼房(かねふさ)について詠んだものです。兼房は、義経らの最期を見届けた後、敵の大将と組討ち、火の中に消えて行ったと伝えられています。
⑤卯の花

卯の花は写真⑤のように、真っ白で、これがここに咲いていたのでしょうね。それを見た曽良は、兼房の白髪を思いだしたのでしょう。(写真⑤

「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」にも書きましたように、義経自身は、奥州藤原氏である泰衡への遠慮から、泰衡軍に対して、無抵抗のまま自刃しました。しかし、彼の部下たちは、主人である義経の不憫を想い、若干31歳だった義経に対し、66歳の白髪のご老人である兼房でさえ、見事な献身による最期を遂げています。

一部にはこれらは判官贔屓が生み出した伝説という見方もありますが、このような献身が出来る人物・義経を見出した兼房は、ある意味大変幸せな最期だったのかも知れないなと思いながら先を急ぎます。

◇ ◆ ◇ ◆

そこから、約10分くらいのところに、義経の高館はありました。(写真⑥
⑥高館の義経堂(左)と義経供養塔(右)
義経、最期はこんなに小さな持仏堂で奥さんと4歳の幼女を手に掛け、自刃をしたのですね。お堂の近くには義経の供養塔もありました。(写真左)

このお堂は、石段を登り切ったところに、ちょっと写っている写真が観光用に多用されているのを良く見かけます。(「マイナー・史跡巡り」の写真【ここをクリック】もそれです)

つまり、かなり高いところにあるため、北上川流域が綺麗に見える場所なのです。(写真⑦
⑦高館から北上川流域を臨む
この景色は、奥州王国と源家との争乱とは非常に対照的に、静かで美しく、目まぐるしく変わる人の業が馬鹿馬鹿しくさえ感じられるのは私だけでしょうか?

やはり私だけでは無いのですね。芭蕉のあの有名な句が、高館のこの景色が見える場所に建っています。(写真⑧

「夏草や、兵(つわもの)どもが夢の跡」

⑧芭蕉の名句の碑
この句は、何も義経の最期に対してのみを想定して、作られたものではないでしょう。ただ、具体的なイメージ無しではこのような名句は生み出せません。やはり句を生み出す景色が必要で、それはこの北上川流域の景色なのかなと思います。

更に、この高館を北上川方面に下ったところにある奥州藤原三代の御所があった「柳之御所」跡も、ここもまさに芭蕉の句を彷彿させる景色が広がっています。

柳之御所については、次回また訪問紀行文で取り上げますが、このように平泉には、芭蕉のこの名句を彷彿させる場所が数多くあることも、平泉が世界遺産へと登録された1つの要因ではないかと思いました。

最後に、この看板が気になったので掲載します。(写真⑨
⑨高館が義経北海道逃亡伝説の起点と明記のある看板
藤原泰衡が、この高館を襲った時に自刃したとされる義経は、実は影武者だったとあります。本物の義経は、弁慶らと一緒に、襲われる1年前に北を目指して旅に出たと言う伝説。この看板は、ここ高館が義経北行伝説の起点であるという訳です。

この後、東北地方の北から北海道に至るまで、各地に点々と残る弁慶と義経の伝説の数々や、最後義経はチンギス・ハーンとなり、中国大陸で「モンゴル帝国」を打ち建てた等、壮大な伝説まで残っています。

確かに、1年前にそっと脱出出来る可能性は大いにあるでしょうし、各地の伝説もそれを上塗りするだけの根拠になり得るでしょう。またモンゴル帝国の成立も1206年と、1189年にここ高館から義経が脱出してから17年後と時間的な整合性はあります。

ただ、私の家の周りにも数々ある義経・弁慶伝説や、それこそ腰越状、藤沢の白旗神社、須磨寺の「弁慶の鐘」に至るまで、全てに判官贔屓の介入が感じられることも確かです。

いずれにせよ、芭蕉の句は高舘を「夢の終焉の地」としています。それに対し、この「義経北行伝説」は同地を「夢のはじまりの地」としている訳です。

皆さんでしたら、どっちを選びますか?

勿論、写真⑦のような北上川は全てを知っていると思いますので、是非平泉は高館に行かれ、感じ取って頂ければと存じます。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

上記、平泉3か所を以下の地図の青いポイントで提示します。