マイナー・史跡巡り

土曜日

いなげや④ ~富士の巻狩り㊥~

曾我兄弟の仇討ちは、忠臣蔵などと並び、日本の三大仇討ちの1つとされ、江戸時代の歌舞伎等でも盛んに上演されたようです。(絵①
①親の仇・工藤祐経を追い詰める曾我兄弟
歌川広重 作

ただ、この仇討ちの裏には、かなり政治的な駆け引きも含まれているようです。

表に見える歴史は常にその時代の権力者によって書かれるものですから、裏の話の証拠は何も残りません。
ですので、場合によっては、史実に反しない範囲で推測しながら、この裏の物語を進めさせていただければと存じます。

1.今までのあらすじ
※詳細は「いなげや①」「いなげや②」「いなげや③」をご笑覧ください。(記事一覧にもあります。)

稲毛三郎重盛(しげもり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にあり、鎌倉の第1防衛拠点である枡形城で、病に伏せるようになりました。彼女は、頼朝が討伐した奥州藤原軍の亡者たちが、多摩川を越え枡形城へ押し寄せようとしているのが見えるのです。 1189年、奥州合戦から帰国した三郎は、衰弱した綾子を診た今若(義経の兄)と会って話しを聞きます。

今若は、病気の原因を見破り、綾子の命を亡者たちから助けているのが、江の島の弁財天であると予想しました。そして今若は、綾子の状況について綾子の父・北条時政(ときまさ:以下、時政)に伝え、弁財天に話しを聞きに行くよう書状にて勧めたとの事でした。

 1190年、江の島を訪れた時政に、弁財天は、鎌倉の鬼門から来襲する奥州の亡者裏鬼門から来襲する平家の亡者の話をし、これらから綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要であることを伝えます。これを聞いた時政は、実質的な鎌倉幕府の政権運営をしたいと考えていた矢先であったことから、何か策を練り始めました。

1192年、頼朝が上洛をした時に、時政は上洛に同伴した三郎と、三郎の従兄弟・畠山重忠(しげただ:以下、重忠)に胸の内を打ち明けます。時政の策謀に当初は戸惑う二人でしたが、綾子を助けたい三郎は時政に同調、重忠もしぶしぶですが同調することとなるのでした。

さて、翌1193年頼朝が征夷大将軍に任命されると、時政は、頼朝に軍事的示威行動の一つとして「富士の巻狩り」を富士の山麓で大規模に行うよう献策します。(写真②
実は時政、この巻狩りにて頼朝を亡き者にしようという計画をもっているのです。それは自分が烏帽子親となった曾我五郎時致(ときむね:以下、曾我五郎)とその兄・曾我十郎祐成(すけなり:以下、曾我十郎)を使うというものでした。

2.音止の滝

③曾我五郎が気配を覚られぬように
近くの岩場に身を潜めた轟音の滝
(音止の滝)
曾我兄弟が仇討ちを決行した1193年5月28日は、既に1ヶ月間、千にもなる武者たちが富士の裾野で狩りを続けた最終日の夜でした。

武者たちは、現在の地名・朝霧高原白糸の滝辺りから南側1.5kmの狩宿地区までの間で、自分たちが沢山獲物を倒した場所の近くに、数十箇所に分かれてそれぞれ陣を張るのです。(下記地図⑪参照

そして飲めや歌えのドンちゃん騒ぎ、今日の獲物をつるして火に掛け、ワイルドに肉を頬張りながら酒宴をするという盛り上がりようでした。

あちこちの陣で酒宴が盛り上がる中、轟音が鳴る滝の近くの岩陰に弟・曾我五郎が身を潜めています。(写真③

日中、狩りの間は勢子(せこ)に化けて、この巻狩りの舞台に潜入し、仇である工藤祐経(すけつね:以下、祐経)を探し続けた曾我兄弟。広い朝霧高原の中、夕刻頃になってやっと祐経を見つけ出します。

祐経発見後、兄弟2人で追跡をするには目立ちます。第一、弟・曾我五郎は、6年前、頼朝が箱根権現を参拝した時に、随参した祐経を付け狙うのです。この時は、曾我五郎は幼かったので、仇討ちどころか、逆に祐経に諭されるという失態をします(笑)。つまり曾我五郎は、祐経に面が割れているのです。

なので、曾我五郎は足音等、気配を消すことがしやすい、轟音の滝の近くで待機し、祐経は、兄・曾我十郎追跡し、仇討ち決行時刻が近づいたら、待機する五郎を呼びに戻るという手筈を2人で決めていたのです。

そんな兄弟2人の行動を、巻狩りをしながら、横目で追っている武者が居ました。
④白糸の滝

畠山重忠です。

重忠、三郎の2人は、時政から巻狩りでの策謀計画を聞かされた後、これに参加し、曾我兄弟の動静は重忠が、頼朝の動静は三郎が裏から把握し、必要な指示を時政に仰ぎ、フォローすることになっているのです。曾我兄弟にはこの事は知らせていません。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、亥(い)の刻を廻った頃(夜10時頃)、曾我十郎が戻ってきました。

⑤音止の滝の上部は隘路となっています
「工藤祐経が所属する武者たちの宴会場は、この近く、白糸の滝の上部辺りの場所だ。武者も皆、ぐでんぐでんに酔っぱらっている。予定通り仇討ちを決行しよう。(写真④

ただ、直近まで、この近くにいた頼朝は、予想よりも早く切り上げ、ここから半里程離れている狩宿の寝所(写真②)に戻ってしまった。」

ということを、十郎は五郎に伝えようとします。
しかし、写真③の滝の近くであるため、十郎の声は聞き取りづらく、五郎も何度も聞き直す次第。

⑥音止の滝の看板にも、同じ
ようなことが書かれています
流石に落差25mもあるこの滝の消音効果は、人の気配を消すのにも便利ですが、反面会話が成り立たないというのは当然のことでしょう。

しかし、討ち入り前の曽我兄弟は、こんな些細なことでも、大聲で話し、聞き返すを繰り返しているうちに、心が苛立ち、「心無い滝だ!」と憤慨するのです。

それをなんとは無しに、端(はた)で聞いていた畠山重忠。
「なんだ、そんなくだらないことで取り乱すな、兄弟。」と独り言を呟きます。

そして、彼らの滝の上部に行くと、今回の巻狩りで勢子が獲物が逃げられないように丸太で作った柵を幾つか見つけ、それらを次々と川(芝川)へ放り込みます。
ご存知のように重忠は、源平合戦・鵯越(ひよどりごえ)の時、一の谷の超急坂を馬が可哀想だからと背負って降りた名将ですから、丸太放り込みなぞ、朝飯前なのです。(この辺りは、拙著Blogのこちらをご笑覧ください。)

この滝の上部の川幅は意外と狭く、丸太で出来た柵は岩と岩の間に上手く止まってくれます。そして水を堰き止めはじめるのです。(写真⑤

次の瞬間、滝の瀑布音がかなり小さくなりました。

勿論、曽我兄弟はこれに気が付き、「我々の願いが神に届いた。神のご加護だ!」とお互いのイライラ感が払拭され、幸先の良さを感じるのでした。

曾我十郎からの祐経と頼朝の現在位置の情報共有に加え、彼らは祐経襲撃の相談をします。

そして、幾ら宴会場の他の武者が酔っ払っているとは言え、宴会場への乱入を2人で決行するには、20人近くも居る武者の中では返り討ちにあう可能性が高いと考えます。

なので、もう暫くすれば祐経も、頼朝の宿のある狩宿地区写真②)に戻ろうとするであろうから、その道筋で待ち伏せをしようということになりました。

これを手短に決めた直後、滝はまた爆音を再開します。重忠の流した柵が水量に耐えきれず決壊しただけのことなのですが、曽我兄弟には、これから仇討ちをする自分たちに味方をする神の手助けに感じるのでした。

これらの経緯から、この滝は「音止の滝」と言う名前で有名になっています。(写真⑥

3.工藤祐経への仇討ち

音止の滝で、祐経待伏せ計画を立てた曾我兄弟は、この滝からわずか120mしか離れていない岩陰に移動し、祐経を待ちます。(写真⑦


ここから約1.5km程離れた頼朝ら武者たちの狩宿がある地区への間道が、この岩陰の前を通っています。(写真⑧
待つこと約半刻(1時間)。雨が降り出しました。

流石に盛り上がっていた宴会も雨によってお開きとなったのでしょう。
ついに現れました。

松明を持って、赤ら顔となった工藤祐経が。

なんと隣に遊女も従えています。

「あいや、待たれよ!!」
⑨工藤祐経の墓

と岩陰から飛び出した兄弟2人。咄嗟の事で祐経は動揺、尻もちをつき、遊女は「キャー」と言って何処かに逃げてしまいます。


祐経ににじり寄る兄弟、2人はこの瞬間を想像し、仇討ち前にそれぞれ次の歌を箱根権現に奉納しているのです。

ちはやぶる 神の誓ひの違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん」曾我十郎祐成

天くだり 塵に交はる甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん」曾我五郎時致

刀を握ったものの、腰が抜けて立てない祐経に、一言「親の仇!いざ」と十郎が声を

掛け、2人で刃を振り下ろすのでした。(写真⑨絵①も参照

◆ ◇ ◆ ◇

見事に工藤祐経を討ち果たした曾我兄弟。
しかしこれで全てが完了した訳ではありません。兄弟は、すぐさま間道狩宿地区へ走り始めます。(地図⑪参照

ところが、雨で宴会場から退散をして来たのは祐経だけではありませんでした。
どうやら、祐経はこの狩宿へ引き返す武者達に先んじて遊女と消えようとしたらしく、この仇討ちのわずか5分足らずの間に、後から続いてきた武者たちが、兄弟が立ち去ったばかりの現場で、血だらけで倒れている祐経を見つけます。


この中の武者の1人、新田四郎忠常(にったしろうただつね:以下、新田四郎)が、持っていた竹筒の水を瀕死の祐経に与え、抱き起します。末期(まつご)の水を飲み、力尽きようとする祐経。誰にやられたのかと叫ぶ新田四郎に、祐経は間道の先を指さし、こと切れるのです。

⑩新田四郎忠常は、この巻狩りの最中に
暴れの大猪を逆さに乗り仕留めた豪傑
としても有名(右の貴人が頼朝)
「まだ遠くには行っていない!」そう予測した新田四郎は、間道を走り出します。(絵⑩参照

他の武者も皆、これに従い、走り出すと、狩宿地区へ向かう曾我兄弟に直ぐに追いつくのでした。

あっという間に曾我兄弟は武者たちに取り囲まれてしまいました。


10人程は居るでしょうか。背中合わせにこれら囲まれた武者たちと対峙する曾我兄弟。

兄の十郎は五郎に囁きます。

「俺が血路を開く!お前は急ぎ頼朝のところへ!」


4.時政の曾我兄弟説得

「分かった兄者。後で会おうぞ!」

この五郎の言葉が終るか終わらないかのうちに、十郎は新田四郎目掛けて、「やーっ!」と飛び掛かります。十郎の急襲に、新田四郎は十郎の刀を受け、周囲の武者たちも十郎から新田四郎を守ろうとすると、包囲網が崩れました。

その隙に、五郎は飛び出し間道から少し外れ、雨の暗闇の中、狩宿地区の頼朝の寝所に向い全速力で走り続けます。(地図⑪参照

⑪曾我兄弟の仇討ちルート
もう無我夢中です。真っ暗な雨の中、間道からも外れ、やみくもに方向も分からずに走っています。

「あっ!」

気が付くと篠突く雨の中、五郎は泥の中に倒れていました。きっと泥濘に足を取られそのままどこかの斜面を滑り落ちたのでしょう。もうどっちがどこかも真っ暗で分かりません。

「ああ、兄者もきっとやられただろうな。」
「もう兄弟で本懐を遂げたから、これで終わりでも良いかな。」と思う曾我五郎。


しかし、この仇討ちをする前に、烏帽子親である北条時政に曾我兄弟は呼び出され、今回の巻狩りの計画を教えて貰い、仇討ちをする良い機会であることを伝えられた日のことを思い出しました。

◆ ◇ ◆ ◇

「お主らが仇討ちをしたいと思う心意気、この時政充分に分かる。そして是非、
烏帽子親としてお主らの力になりたいとも考えている。」
「ただな、お主ら、本懐を遂げた後の事まで含めて充分に検討しておるのか?工藤祐経は頼朝公の立派な御家人、いくら仇討ちだと言っても、それは頼朝公に刃を向けたことと同じじゃ。」

「勿論、覚悟はできてございます。」と曾我五郎。

「お主たちは本懐を遂げたら断罪(打ち首)も仕方が無いと考えるのは分かる。しかしな。曾我家はどうなる?お主らの母親、それから育て親となってくれた曾我家当主。これら御恩のある方々も断罪となるのだぞ!」

曾我兄弟は、唇を噛みしめて下を向きます。彼らの母親は、彼らに仇討ちを思い止まって貰おうと思い、一時説得されかけた時もあったのです。母親も自分のことより、曾我の継父の恩を何よりも尊いものと感じていたからこそ、説得してきたことが、その時痛いほど良く分かったのです。
その時は「母上、大丈夫。我々はとうに仇討ちなぞ諦めております。」と嘘を言うことでなんとか切り抜けたのでした。

⑫倒れた五郎から見た間道付近の木々
(現:曾我兄弟の墓の上)
「・・・」
「では、一つだけわしに考えがある。絶対に他言無用じゃ。よいか。」
「はい。」
「見事工藤祐経を討ち果たした後、速やかに頼朝公を討つのじゃ!」
「な、なんと・・・」

「よいか。巻狩りは武者たちが武装して狩りをする、いわば軍事演習場のようなところじゃ。鎌倉よりはるかに、頼朝公に武装したまま謁見できる環境なのじゃ。頼朝公亡き後は、わしが執権として全ての行政・司法を牛耳る。なので、この謀(はかりごと)が成就した暁には、曾我家は不問に付すことを保証する。」
「・・・」

◆ ◇ ◆ ◇

シュルシュルシュルと空を切る音が聞こえたと思うと、五郎の横に松明(たいまつ)が煌々と光を放ち転がっていました。見ると松脂(まつやに)も十分に塗布してあるのです。

「誰だ!」

咄嗟に起き上がり、身構える五郎。しかし、誰も居ません。
松明が投げ込まれた方向かと思い、目を向けると、そちらに僅かな獣道があることが分かります。辿って行けばまた間道に出るかも知れません。


⑬狩宿地区への間道(現曾我兄弟墓前)
「また神のご加護か?」

松明で上空を見上げると木々の陰影がまるで「五郎急げ!」と言っているように感じました。(写真⑫

気を取り直した五郎は、「そうだ、最後までやらねば!」とまた、獣道を走り出します。


その木立の陰に、隠れて曾我五郎を見守る重忠の姿がありました。

曾我五郎は、松明を照らしながら
獣道をしばらく行くと、間道に出ました。(写真⑬

ここから頼朝の宿は直ぐ目と鼻の先であることに五郎は気づき、足袋の紐を結び直して、再び走り出すのでした。(絵⑭

《つづく》

5.おわりに


⑭雨の中間道を急ぐ曾我五郎
(國史畫帖『大和櫻』より)
また、最後までお読み頂き、本当にありがとうございます。

曾我兄弟の仇討ちは、色々な説や人情話が入り混じり、それらは大概江戸時代の歌舞伎公演での大好評も相まって、原型が分からない程になっているようです。

たとえば、絵①を見て頂くと分かると思うのですが、通説では工藤祐経の寝所に押し入り、遊女と寝ている祐経を叩き起こして首を刎ねるとなっています。
ただその場合、私が現地に行って見て来た音止の滝や隠れ岩、祐経のお墓、狩宿地区等の地理的な位置、そもそも隠れ岩の必然性等が説明つかないと感じたので、私が現場の位置関係等から想定して作話しました。

このように史実と現地に行って感じたことを組み合わせてフィクションとしている箇所もありますので、その点はご容赦願います。

次回、狩宿地区の頼朝公を狙う曾我五郎はどうなるのか、お楽しみに。




日曜日

いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~

鎌倉時代創成期の物語「いなげや」。

今回は、皆さんも良くご存知の「曽我兄弟の仇討ち」です。私も小学生の頃、この曽我兄弟が父親の仇・工藤祐経(くどうすけつね)を兄弟力を合わせて、やっつける話しや、最後に頼朝が出て来て、遠山の金さんバリに、見事な裁きをするのに、感動と爽快感を感じたものです。(絵①
①篠突く雨の中、朝霧高原で仇討ちを果たす曽我兄弟
出典:歌川国芳:「曽我兄弟本望遂圖」
歌舞伎等でも盛んに演じられ、江戸時代に忠臣蔵等と並び3大仇討ちとして大人気だったこの物語、実は色々と裏があるようです。それらの全てが、この「いなげや」の物語と繋がっているように感じましたので、今回はこの「曽我兄弟の仇討ち」を取り込んで、前回からの続きの物語を描いてみたいと思います。


1.前回までのあらすじ
※詳細は「いなげや①」「いなげや②」をご笑覧ください。(記事一覧にもあります。)

稲毛三郎重盛(しげもり:以下、三郎)の妻・綾子は、多摩川の南側にあり、鎌倉の第1防衛拠点である枡形城で、病に伏せるようになりました。彼女は、頼朝が討伐した奥州藤原軍の亡者たちが、多摩川を越え枡形城へ押し寄せようとしているのが見えるのです。
1189年、奥州合戦から帰国した三郎は、衰弱した綾子を診た今若(義経の兄)と会って話しを聞きます。今若は、病気の原因を見破り、綾子の命を亡者たちから助けているのが、江の島の弁財天であると予想しました。そして今若は、綾子の状況について綾子の父・北条時政(以下時政)に伝え、弁財天に話しを聞きに行くよう書状にて勧めたとの事でした。
②江島神社(江の島)の神紋
も北条氏と同じミツウロコ

1190年、江の島の弁財天を訪れた時政に、弁財天は、鎌倉の鬼門から来襲する奥州の亡者、裏鬼門から来襲する平家の亡者の話をし、これらから綾子や鎌倉自体を守るには生贄が必要であることを伝えます。

そして畠山重忠(以下、重忠)、三郎、時政の3人でこの国難を乗り切るよう、自分の蛇の化身の鱗(うろこ)3枚を残して海に消えるのです。この3つ鱗が、後々北条氏の有名な家紋となるのでした。(写真②

2.頼朝の上洛

時政は、江の島の弁財天に何か背中を押されたような気分になりました。
以前より自分が幕府の執権に留まるだけでなく、実質的な政権運営をしたいと考えていた矢先のことです。
この機に乗じて生贄に差し出すのは頼朝公にしよう。さすれば、政権運営と同時に、綾子も鎌倉の人々をも助けることが出来ると考えたのです。早速、彼は策を練りはじめました。

ちょうどこの直後、頼朝は朝廷への奥州合戦勝利報告と、後白河法皇との積年の対立構造解消のため、1千騎を従えて上洛します。頼朝は約束通り、三郎及び重忠を従え、上洛を果たすのです。重忠は、この上洛軍の先鋒を務める程の張り切りようでした。(絵③
③頼朝上洛図(歌川貞秀作)
この上洛はたったの40日間でしたが、それでも頼朝と後白河法皇との対面は8回を数え、両者のわだかまりは消えたかのように見えました。ところがこの時、法皇らが頼朝に下賜くださった位は権大納言・右大将であり、かねてから欲しいと頼朝が要求していた「大将軍」では無かったのです。彼は直ぐにこの役職を辞任し、2年後、後白河法皇の崩御直後にやっと「征夷大将軍」を改めて拝受することになるのです。

最後の最期まで、大狸だった後白河法皇に頼朝は翻弄された訳ですね。

一方、この上洛中に、三郎と重忠は、時政から「折り入って話しがある」との申し出を受けます。

3.時政の策謀

時政の京の宿所へ招かれた三郎と重忠の2人。
下座に着座する三郎と重忠。自分達の義父である時政が上座に着くと、2人は平伏します。

時政は静かに話しを始めます。



「さて、このたびの鎌倉殿(頼朝公)上洛同伴、大儀であった。これで名実ともに武家社会の再構築は完成し、鎌倉殿も満足げじゃったな。」
「お義父上、この歴史的な上洛に関して、私、先鋒を務めることが出来た栄誉に身も震える想いでございます。」と重忠。
「おお、そうであったな。重忠は鎌倉殿の片腕のような働きであった。なるほど平安末期から機能不全に陥っていた武家社会を再構築した頼朝公は大したものだ。だがの、短兵急で作り上げたこの社会、色々と問題も出ておる。思えば源家は100年前の義家の時代から血塗られた一族。源義仲(木曽義仲)や義経殿を見てみよ。日本を実効的に支配する力はない。平家の血をひくわしが日本の実質的な主になる。」

「な、なにを言い出すのですか。」
④上洛中、三郎と重忠に話しをする時政(イメージ)
※3つ鱗の紋章が旗(左上)や幕に見られます

「源家は古いモノを打ち破り、革新的な社会機能は作れても、それを永代に渡り運用できる能力はない。実はな。先日江の島の弁財天に岩窟の中でお会いして来た時にお告げがあったのじゃ。源家が日本の主では、この国は安定しない。よって平家の末裔である北条が日本の主を務めよ。もしお前の子孫が正しい運用が出来なければ、七代以上は続かないから覚悟しろと。」


「かなり乱暴なお告げですな。」あまりに藪から棒な時政の言い分に不満顔の重忠です。

「重忠。おぬし、今でこそ鎌倉殿への情が移っているようであるが、10年前、平家側から源家側へ鞍替えする時に、何と言っていたか覚えておるか?」

「はあ?」

「『私(重忠)は、平家方として石橋山合戦で鎌倉殿へ刃を向けただけでなく、自分の祖父である三浦義明(みうらよしあき)さえ討ち取った程の覚悟で、源家と敵対してきました。これは私の中に流れる秩父平氏の血。』とそなたは申しておったではないか。」

「・・・」
重忠は、時政の指摘が確かなのでうなだれました。



三郎は黙っていました。時政は娘・綾子のことには触れません。あくまで自分の策謀を正当化する事しか言っていないのです。やはり、綾子への親子の情で国家の一大事を語る訳にはいかないとお義父上は考えているのだろうか。

そして時政は、最後に3つ鱗の話を2人にし、今後北条家が政権の主導権を取れるように、この紋章を家紋にする覚悟だと述べたのです。この覚悟を聞いた2人は、時政の並々ならぬ情熱に心を揺さぶられましたが、まだ時政の勝手な立身・保身のためだけではないかとの疑惑は払拭しきれません。(絵④

三郎は、今若が時政に綾子の話をしているのを知っていますので、時政に聞きます。
「綾子は・・・、綾子は良くなるのでしょうか?」
「うむ、良くなる。そして鎌倉の多くの命が助かるのじゃ。」

綾子を助けたい一心で、三郎は言います。

⑤富士山の西側に広がる朝霧高原
「私は、時政殿に従います。」
この三郎の一言で、重忠も時政についていく覚悟を決めました。

4.曾我五郎 



それから2年後の1192年7月、頼朝が念願の「征夷大将軍」に任命され、主だった武将は祝賀のため鎌倉に集まりました。

時政は、この祝いの席で頼朝へ献策します。征夷大将軍になられた武将のトップの威光を世間に知らしめるためには、当時の軍事演習である「巻狩り」の大規模なものを開催しては如何でしょうか。

場所は時政の領地の近く、富士山の東側の裾野から南廻りに西側へと獲物を勢子(せこ、鉦などの鳴り物を叩きながら獲物を驚かせて移動させる人夫たちで追いこんで行きます。開催時期は、後白河法皇の喪が明ける来年(1193年)の3月以降と献策するのです。(写真⑤

頼朝の快諾を得た時政は、早速鎌倉に祝賀に来ている三郎・重忠を自分の屋敷に呼び寄せます。
「三郎、綾子の病状はどうだ?」 「はっ、私の見る限り、一向に回復の気配も見られず、却って徐々に悪化しているようにも見えまする。相変わらず『橋を!』とうわ言ばかり申し、熱にうなされる日々でございます。」
 「そうか、では急がねばならないの。例の件1つ具体的な策が出来た。」

三郎と重忠は顔を見合わせます。
時政は続けます。
「現在、わしの元に、伊豆の国衆だった河津祐泰(かわづすけやす)次男坊が飛び込んできた。祐泰は知っての通り、同じ伊豆の国衆・工藤祐経(くどうすけつね)と土地問題が発端となって祐経に殺されてしまったのじゃが、この次男坊・父親・祐泰の仇が討ちたくて仕方が無いようじゃ。とりあえず、烏帽子親(成人式を司る名付け親、武士としては実の親よりも大切と言われた。幼名から改名する名を与える役割も持つ)をわしに勤めて欲しいとのことじゃった。」

「わしは、これを引き受け、奴に『時致(ときむね)』と、わしの一字を(いみな)として与えたのじゃ。母親の再婚先・曾我家の息子として、曾我五郎時致と名乗っておる。」(絵⑥右

「時致の兄は、この曾我家を継いでいるため、名を曾我十郎祐成(すけなり)と言うのであるが、弟と一緒に父の仇討ちをしたいとのことじゃ。」(絵⑥左

「わしは今回、彼らの本懐を遂げさせたいと考えておる。そこで鎌倉殿に『富士の巻狩り』を提案し快諾頂いた。」

「その仇討ちとやらと、2年前にお話し下さった話しとどう関係があるのです?」
じれったそうに重忠が問いただします。

時政は重忠をじっと見つめた後、三郎と重忠を手招きしました。2人はそろそろと時政の近くに寄ると、彼は囁きます。

「曾我五郎時致を使い頼朝公を殺る! 鎌倉のため、そして綾子のためにも頼朝公に生贄になってもらう必要があるのだ。」

5.富士の巻狩り(上)

1193年5月、頼朝は、征夷大将軍たる権威を誇示するための大軍事演習として富士の裾野で大規模な巻狩りを行います。(絵⑦
⑦富士の巻狩り(神奈川県立歴史博物館蔵)
⑧東名御殿場付近から愛宕山を臨む(富士山は画面右外)
手前のなだらかな丘陵が富士山南側の裾野
巻狩りは、時政の提言どおり、富士山の裾野の東側(現在の静岡県御殿場辺り)から始まり、西側(現在の朝霧高原)にまで及びました。

現在でも東名高速の御殿場IC辺りから南の愛宕山方面にある富士山の裾野は平たくて広大ですね。この裾野伝いに朝霧高原まで巻狩りを行った当時の遠景は、現在とあまり違わないのではないかと想像してしまいます。(写真⑧

『吾妻鏡』には「(弓の)射手たる輩の群参、あげて計ふべからず 云々」との記述があり、相当数の武将たちが参加したと想定されます。

この大規模な狩りは、色々なエピソードを生み出します。
頼朝の息子である頼家が鹿を倒したことを、わざわざ鎌倉に居る政子に報告するも「それがどうした、大将軍の嫡子なら当然やろ」発言問題、新田四郎による大猪退治、工藤家長老の神鹿の怪異等々です。

巻狩りも終盤・頼朝は時政らによって準備された朝霧高原の宿所に入りました。この周辺に武将達の宿もあります。(写真⑨写真⑩参照)
⑨巻狩り終盤の頼朝の宿
住所もその名の通り狩宿地区にて
⑩頼朝の宿所から見える富士山
※笠をかぶっています
そして狩りは勢子の獣の追い込み・弓射手による大猟を経て大成功のうちに終わります。

頼朝の宿所から約1.5㎞の白糸の滝の周辺で、獲った獲物を肴に最後の酒宴が開かれていました。遊女も呼んでの大宴会、その中に、曽我兄弟が仇討ちをしたいと願っている工藤祐経も居るのです。

(つづく) 

お読み頂き、本当にありがとうございます。
上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。

【頼朝の宿所:狩宿の下馬桜】のGoogleMaps

いなげや② ~弁財天~

前回の話までを要約します。(詳細はここをクリック

畠山重忠と共に源頼朝の麾下(きか)となった稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり、以下三郎)は、北条時政の娘を(頼朝の妻・政子の妹たち)をそれぞれ嫁に迎えることになります。三郎は、この時代には珍しい愛妻家で、妻・綾子も三郎にぞっこんです。三郎が平家打倒で西国に行っている間も、三郎の身の上が心配で溜まりません。無事に戻って来た三郎に駆け寄る綾子・・・。しかし、平家討伐後、間もなく今度は奥州藤原氏討伐に向け出発する三郎を、イヤイヤながらも送った綾子は心配で体調を崩すようにになります。

ある朝、彼女が枡形城から、朝靄が立ち込める多摩川方面を見ると、なんとそこには20万の奥州藤原軍が遠望されたのです。(写真①参照、前作写真⑨も参照
①枡形城CG 上奥に多摩川が見える 
綾子は右上の母屋で起居していたと想定
出典:http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/
1.奥州王国の亡霊たち

多摩川の向う側に現れた大軍は、真っ直ぐに多摩川河畔まで突進して来ます。そして河畔に到着すると、渡河出来る場所を探しウロウロし始めるのです。

地図②を見て下さい。枡形城目前の多摩川の辺りは、現在もそうですが、かなりの川幅と水深があります。1974年に決壊した場所(碑)も城の目の前です。(詳細はこちらのBlog参照

現在は稲田堤の大きな橋が多摩川に掛けられていますが、この当時は、軍事防衛上の観点から、わざと橋は掛けていないので、浅瀬を見つけて渡河するしかないのです。(地図②

②枡形城から多摩川を臨む
懸命に渡る場所を探す奥州の軍。最初こそ、その黒黒と押し寄せる軍影に恐怖を感じた綾子でしたが、意外にも段々彼らが不憫に思えてきました。
というのは、枡形城の綾子の位置からは、押し寄せる軍の人々の顔までは分からない筈なのですが、彼女には、何か彼らが泣いているように思えてならないのです。そして、また彼らが統率の取れた奥州の軍勢というよりは、押し寄せて来た亡者たちのような体(てい)、騎馬に乗っているものは誰も居ません。

そのうち彼らが多摩川に渡河に入りました。といっても浅瀬という感じではなく、皆泳いで渡ろうとします。しかし、軍の大半が川半ばまで行ったところで、多摩川の上流から、さーっと巨大な蛇のような影が流れてきて
あっ!
という間に渡河中の軍が、巨大な蛇の影と一緒に下流へと流されたように見えました。(写真③
③枡形城付近の弁天洞窟にある大蛇像(新東京百景)
多摩川は蛇信仰のメッカで狛江市や
枡形城辺りにも蛇信仰の寺社が多い
綾子は、このあっ!と思った瞬間、臥所(ふしど)から起き上がりました。慌てて駆け寄る城の窓から見る多摩川河畔には、今見た軍は全く見当たりません。朝靄の中で、多摩川はいつものようにゆったりと流れていました。

2.今若による夢の見立て

④上:常盤御前、義経(牛若)と一緒に
   平家の追手から雪中を逃げる今若
下:枡形城下の妙楽寺住職となった
今若は悪禅師
とも言われた
綾子はこのような夢を、最初は月に1度程度でしたが、徐々に短い間隔で何度も見るようになります。そして、この夢を見る前後は、必ず熱を出し、「あの人たちに橋を!」と悲痛な声を出しながら、うなされるようになったのです。

1189年に奥州合戦は厨川柵で奥州藤原氏4代目・泰衡の首を木柱に掲げ、頼朝軍の大勝利で終りました。稲毛三郎は、頼朝と共に鎌倉へ帰り、凱旋・褒賞を受けた際、頼朝から以下の名誉ある言葉を貰います。

「三郎、奥州王国の脅威は去った。しかし、蝦夷は独立心の強いさぶろわぬ民であるがゆえ、いつまた再興せぬとも限らぬ。引き続き鎌倉の鬼門である東北方面の備えとして、しっかりと枡形城での守備を続けて欲しい。」
「ははっ、政子殿の妹・綾子殿と枡形城、この三郎、しっかりと守って見せまする。」
「あははは。三郎、相変わらず綾子へのぞっこん度を隠さないお前は芯の優しい武者よの。まあ、奥州からの来襲脅威が消えたばかりの今、そう固くならず、城の守備は当面
麾下に任せ、わしと一緒に上洛し、大将軍の官位授与に付き合ってはくれぬか?それとも、また綾子と離れるのがつらいか?」
「いえいえ、滅相もございません。鎌倉殿が綾子の姉・政子殿と離れるのですから、どうして臣下の私が綾子と離れないでいることができましょうや。上洛のご警護、必ずや承りました。」

このような名誉ある約束までして、気分良く三郎は、綾子が待つ枡形城へ戻ってきました。

枡形城に戻ると、以前平家征伐から帰ってきた時のように、喜び三郎のもとに駆けつけてくると思っていた綾子が、なんと臥所に引きこもったまま、三郎が見舞いに行っても、「三郎殿、あの人たちに橋を!」「橋を!」とうわ言のように繰り返すだけなのです。

驚いた三郎を、枡形城の麓にある妙楽寺の住職・今若(いまわか)が、この件で相談があると申し出てきます。(絵④

今若は、牛若だった義経の実の兄なのです。この時は既に阿野全成(あの ぜんじょう)と名を変えていました。頼朝が鎌倉入りする前に涙の対面(義経と同じですね)をして、これまた政子の妹の徳子(阿波局)を妻として与えられていました。
そして、ここ枡形城の麓、妙楽寺を頼朝から与えられ、徳子と暮らしているのです。(写真⑤
⑤義経の兄・今若が住職をしていた妙楽寺
つまり、徳子は綾子の姉なのです。実は綾子は、最初にあの奥州軍襲来の夢を見てから、これまでに何度も同じ不可解な夢を見ることについて、姉の徳子には時々相談をしていたのでした。
徳子は夫・今若が、京都の醍醐寺で修行した優秀な僧だったことを知っていましたので、今若なら妹・綾子の夢の意味が分かると思い、この話を打ち明けていたのです。
勿論、徳子の話を聞いた今若自身も枡形城の綾子の様子も見に行き、薬師の心得もある彼は、気に効く薬を調合して綾子に与えたりしていたのでした。
⑥妙楽寺の紅葉絨毯

さて稲毛三郎が今若を訪ねると、彼は妙楽寺境内の美しい紅葉の中を三郎と歩き、もみじの絨毯が足下に敷き詰められた腰掛け石に2人で座ります。(写真⑥
そして、静かに話しを始めました。

「三郎、奥州合戦、ご苦労じゃった。」
「今若殿には、私が留守の間、綾子の病気のことで、色々とお世話になりました。私が出陣する前は、病弱とは言え、普通だった綾子が、約1年で帰ってくると別人のような状態にまで悪化していることに驚きを隠しえません。」
「そうか。これはあくまでわしの予見でしかないが、綾子殿は鬼に魅入られているように見える。」
「と申しますと・・・」
「三郎殿、頼朝公が鎌倉を動けなかった理由が分かるか?それは鬼門と裏鬼門、両方に最強の敵がいたからじゃ。つまり鬼門に弟・義経を頭領とする奥州藤原軍、裏鬼門に平宗盛が率いる平家軍。」
「三郎も微力ながら参陣し、両軍とも打ち滅ぼしましたが・・・。」
「いやいや、鬼門と裏鬼門の軍は、滅ぼして終りといかんところが恐ろしいのだ。鬼籍に入っても襲ってくるんじゃよ。奴らは鬼籍に入った自分が見える者を、精神的に殺すのじゃ。」
「ということは、綾子が殺される?」
「そう思うのじゃが、不可解なのは、まだ綾子殿は亡くなってはいない。何かが寸でのところで綾子殿を守っているように見える。」
「それは・・・?」
「弁財天じゃよ。」
「弁財天?」
「古来、この多摩川は暴れ川として有名じゃった。暴れ川の氾濫域は広く、普段は浸水しない河原が発達したことから、蛇の棲息が多かったのじゃ。もう少し上流には、堤防が決壊しそうになった時に、沢山の蛇が決壊直前の堤防のひび割れに頭を突っ込んで決壊を阻止した伝説まである。ここから多摩川を挟んで対岸にある狛江は、昔は高麗(こま)江と言っての。仏教を伝来しに来た朝鮮高麗の人たちが沢山住み着いていた。彼らも多摩川の治水に大陸の治水技術を導入したのだが、一方で多摩川のこの根強い蛇信仰、実は仏教の弁財天の化身と捉え、多摩川のあちこちに弁財天を作ったのじゃ。」
⑦1182年に頼朝が奥州征伐を祈念し
奉納した江島神社の鳥居(江の島)

「それと綾子の病気は関係があるのですか?」
「大いにある。まだ平家も打倒していない1182年に頼朝公が江の島の弁財天に、文覚殿を介して奥州藤原氏の滅亡を祈念したことは聞いておろう。(写真⑦詳細は拙著Blogのこちらを参照

あの時、単に奥州藤原氏の滅亡を祈念しただけではなく、当然鬼門の軍であることから、鬼籍に入った亡霊の奥州軍からも守って欲しいと祈念しているのじゃ。なので弁財天様は多摩川の蛇を使って亡者となった奥州軍を取り除いているのじゃよ。だから綾子殿は直ぐには亡くならなかったわけだ。ただし、どういう訳か奥州の亡者たちに魅入られたとしか思えない発言を綾子殿はうわ言のように繰り返すのじゃ。」
「なんと言うのですか?」
「橋を造れと。多摩川に橋なぞ作ったらそれこそ奥州の亡者どもがなだれを打って鬼門から鎌倉へ攻め入り、主だったものは皆変死してしまう!」
「・・・」
「実は、この件については、綾子殿の父君である時政殿には伝えてある。時政殿は現在、
伊豆の北条の里でゆっくりと過ごされているようなので、この件について、江の島の弁財天に再度どうすれば良いかを聞きに言って貰う手筈となっている。」

3.北条時政の江の島参拝

1190年当時、北条時政は、頼朝の旗揚げ前の領有地北条の里の守山城に、まるで隠居したかのように引っ込んでいます。
前年に願成就院という奥州征伐必勝祈願のための寺を建てたりしていますが、この寺もどちらかというと、北条氏の氏寺として創建されたようなのです。この頃辺りから、かねてから時政の心に秘めた大きな野望が作動しはじめるような気がします。願成就院も名前からすると、それらの野望が叶いますようにという意味で造られたのかも知れません(写真⑧
⑧伊豆の北条の里にある願成就院 ※時政の墓があります 出典:Wikipedia
いずれにせよ、時政が色々と伊豆で策謀を練っていたことは事実のようです。

そこに、今若から綾子の病状について書状が届くと、時政は目をくわっと開き、
「これじゃ!これ!」
と叫び、直ぐに江の島の弁財天へ向かいます。
⑨江の島の八臂弁財天

江の島では、1182年に頼朝が奥州王国征伐の祈念に来た時には、写真⑨のような敵調略のために8つの道具を持つ八臂(はっぴ)弁財天だったお姿が、1190年に時政が江の島最南端にある岩屋の洞窟で会った時には、絵⑩の国貞画のように、大蛇のお姿へと変わっておられました。

1182年の頼朝祈念時にも、この弁財天へ参詣したことのある時政が
「お姿が変わられましたな。」
と声を掛けますと

「そなたの娘・綾子を助けるのに、忙しいのです。八臂弁財天の姿でいる暇などはないのですよ。
もうここ3か月以上、毎日数回は多摩川を大蛇となって、渡河しようとする奥州軍の亡者たちを川の中で掃討しているのです。亡者が渡り切ったら、枡形城のあなたの娘・綾子や徳子も亡くなるでしょう。亡者だけにひっきりなしに渡河する数は出るのです。」

弁財天は話しを続けます。

「実は今、西側からも平家の亡者たちが裏鬼門の結界を破って、鎌倉へ向かっております。私はこちらも対応しなければならないとなると、鬼門の多摩川方面は、今までのように手厚くは対応していられなくなります。」
「どうすれば良いのでしょうか?」
「生贄(いけにえ)が必要です。」
「生贄?」
「そうです。亡者の恨みを少しでも晴らすことが、鬼籍軍を霧散させる方法なのです。多分両軍とも頼朝公が生贄になれば即霧散するのでしょうが、それでは私も頼朝公から依頼され、義経を含む奥州軍征伐に成功させた意味が無くなってしまいます。」
「・・・」
時政は考えた。これは暗に弁財天は娘・綾子や徳子を鬼門の奥州軍の亡者たちの生贄にしろと言っているのではないだろうか?
⑩北条時政の前に現れた弁財天
左:歌川国貞 右:月岡芳年
時政は腑に落ちないものを感じ、

「弁財天さま、頼朝公が生贄になれば、鬼門の奥州軍の亡者、これから来る裏鬼門の平家の亡者、全て霧散させることが出来るのですね?」

弁財天は、コクっと頷きます。
⑪これ以後北条家の家紋となるミツウロコ
「時政、この国難、時政を筆頭に、畠山重忠、稲毛三郎重成の元平家の三人で乗り越えるよう・・・。」

それだけ言い残すと弁財天は海へ戻って行きました。

すると、今まで弁財天が居た場所に、3つの鱗が落ちていました。まるで時政・重忠・三郎の3人を象徴するように。(家紋⑪

(つづく)

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。


次は、鎌倉幕府始まって以来の大軍事演習「富士の巻狩り」での陰謀へと話しは繋がって行きます。

【枡形城】神奈川県川崎市多摩区枡形6-4740
【妙楽寺(あじさい寺)】神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目9−3
【多摩川の弁天洞窟(威光寺)】東京都稲城市矢野口2411 
 ※現在弁天洞窟は崩落の恐れがあるため閉鎖中
【願成就院】静岡県伊豆の国市寺家83-1
【江島神社弁財天】神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号

いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~

いきなりですが、東京近郊の方でしたら、ファミリアな方が多いと思うのですが、スーパーの「いなげや」(写真①

①いなげや
この店舗の名称「いなげや」が川崎の多摩川南岸に所領を持っていた稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)にちなんで付けられたのをご存知でしょうか?

今回から鎌倉時代初期の、この武将の話を取り上げたいと思います。少し大きな話ですので、複数のシリーズにまたがり、お話させてください。
こちらも、私個人の想定も多分に含まれておりますので、あくまで1つの説としてお楽しみ頂ければと存じます。

1.東国の平氏

私の近所に「平」という土地があります。(写真②

②近所にある「平」という地名(稲毛惣社前)
ご存じのように、平氏は「桓武平氏」という流れから来ているのですが、どうやら「平」という姓は、平氏の始祖である桓武天皇が平安京に遷都したことにより、この平安京の頭文字「平」から来ているという説が有力です。

多分そうなのでしょうが、私は平氏の源流に近い平将門(たいらのまさかど)を調査した時に、その拠点にある國王神社拙著Blogはこちら)等のあたり、上総地方(茨城県)の土地の、それはそれは平らなことに驚きました。

北海道にも負けない平らな雄大さを現場で感じ、このような馬が走り回れる環境が、坂東武者が騎馬に長けているという基礎を作ったのだろうと想像しました。(写真③

なので、関東平野の悠大な平さを象徴して「」と付けたような気がしてなりません。

③平将門の拠点となった茨城県
坂東市は「平」で悠大な土地
(出典:@yb_woodstock)
良く「東国の源氏、西国の平氏」のように言われることがあります。


これは、源平合戦の頃の源氏が鎌倉という東国を拠点とし、平氏が厳島神社を守り神とし、福原(兵庫県)のような西国に拠点を築き、最後は山口県下関の壇ノ浦で滅びるためにそう言われるようです。

ただ、それぞれの出自となると、実は全く反対なのです。
つまり「東国の平氏、西国の源氏」なのです。

平氏は、先に述べたように平将門の乱の時の根拠地は、
上総地方(茨城県坂東市)の辺りですし、これを鎮圧した従兄弟の平貞盛(さだもり:清盛の先祖)もその周辺と、坂東武者は大方、平氏出身が多いのです。(詳細は拙著Blog「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」参照

逆に、源氏は河内源氏近江源氏等の呼び方に代表されるように、西国出身なのです。源氏にゆかりの深い石清水八幡宮も京都ですね。(写真④

④石清水八幡宮
※トリップアドバイザー提供

2.秩父平氏と北条時政

さて、今回の稲毛三郎重成、彼は神奈川県横浜市に住む私の近所に拠点を持つのですが、写真②の土地名に代表されるように「平氏」なのです。

そして、これから、この稲毛三郎重成を語るにあたり、出て来る主な人物は1名を除き、全て平氏出身なのです。ちなみに除いた1名とは源頼朝(みなもとのよりとも)、源家そのものです。

稲毛三郎重成は、武蔵野国(埼玉県)に居を構える畠山重忠(はたけやましげただ)とは従兄弟であり、重忠も重成も「秩父平氏」と呼ばれています。

そして、この2人の従兄弟に姉妹を嫁がせた男がいます。

北条時政(ほうじょうときまさ)

そう、彼は自分の娘、政子を頼朝へ嫁がせたことは非常に有名ですね。
つまり、時政は、「源頼朝」「畠山重忠」「稲毛三郎重成」の3人の義父になるのです。

北条時政も平氏の出自であることは有名です。
これで1名の源氏と、3名の平氏のキャスティングは出来ました(笑)。(絵⑤
⑤左上:源頼朝  右上:北条時政
   左下:畠山重忠 右下:稲毛三郎重成
前振りが長くなりましたが、これからこのキャスティングで演出される、愛と陰謀の物語(?)を描いて行きたいと思います。

3.枡形(ますかた)城

この物語の主人公、稲毛三郎重成(以後、三郎)の居城は、多摩川の南側の河岸段丘の上にある枡形城と言います。(写真⑥
⑥枡形城本丸跡
頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたり、西の平家と並んで意識した仮想敵国が、北は平泉を拠点に20万もの軍を有するとされていた奥州藤原氏であることは、このBlogでも何度も取り上げた通りです。
四方を山に囲まれた鎌倉の土地の構造自体が防衛線となるのですが、これはあくまで第2防衛線です。
第1防衛線は、平家に対しては西の箱根、奥州藤原氏に対しては、ここ多摩川の南側の河岸段丘にある枡形城小沢城等の城々なのです。(写真⑦
⑦北側から鎌倉を攻めて来る奥州王国
に対する第1防衛線として多摩川南岸
丘陵地帯に枡形城等、多くの城を構築
この城に、三郎は北条時政の娘・綾子(仮名)を迎え入れます。同時期に畠山重忠も時政の娘・時子(仮名)を迎え入れます。あの北条政子の妹たちです。

そもそも秩父平氏である畠山重忠や稲毛三郎らは、頼朝挙兵当初は、平家側として、頼朝達と敵対しました。頼朝挙兵に功の大きい三浦義明(みうらよしあき)を討ち滅ぼしたりしたのです。(詳細は拙著Blog「三浦一族③ ~衣笠城落城~」参照

この時、平家軍に負けた頼朝が安房(千葉県房総半島館山)へ逃れ、そこから再起を果たします。東京湾を海岸線沿いにぐるーっと廻り、鎌倉入りを目指すのです。すると徐々に頼朝への参陣が増えていき、今の東京都隅田川の辺りに陣を敷いた時には、頼朝に従う武者の数2万に膨れ上がります。


その勢いに圧されたのでしょうか、畠山重忠・稲毛三郎の秩父平氏は、隅田川の頼朝の元へと参陣し、恭順の意を顕すのです。この時、頼朝も「よか、よか」と妻政子の妹2人を、この2人の妻として渡すのです。

わずか数か月前まで、鎌倉小坪海岸や、三浦半島の衣笠城で激しく頼朝支援軍を討ち滅ぼしていた畠山重忠らが、いとも簡単に投降するだけでも不思議なのに、頼朝も簡単に赦すだけでなく、妻まで与える・・・。不思議過ぎませんか?


何かありますね。絶対。

私の邪推ですが、やはり北条時政?!同じ平氏出身の時政が裏で、重忠や三郎を説き伏せ、また頼朝にも耳打ちし、更には自分の娘2人を彼らに渡す。

何やら策謀の匂いがします。

4.綾子

さて、三郎の枡形城に輿入れて来た綾子。彼女は、姉である政子が男勝りだったことの反動でしょうか、常に「三郎殿、三郎殿」と稲毛三郎重成に寄り添い、何をするにも一緒に居ようとするのです。

そんな彼女を愛おしいと思う三郎。2人は非常に仲睦まじい夫婦になり、廻りからも揶揄される程でした。

ところが、三郎は直ぐに義経に従い、畠山重忠と一緒に、平家討伐へと西国へ駆り出されます。上の写真⑤で馬を担いでいる重忠の銅像は、一の谷の戦いで、他の武将が、自分の愛馬に無理を課して急斜面を降りるのに対して、「馬が可哀想だ。負ぶっておりよう。」という重忠の豪傑振りを現したものですが、この時稲毛三郎も一の谷の戦いに重忠と一緒に参戦していたようです。

この平家討伐の稲毛三郎不在期間中、綾子は三郎が心配で心配で溜まりません。綾子はかなり甘えん坊なのです。そのような性格が三郎にも可愛く映ったのでしょう。

壇ノ浦で勝利し、枡形城へ帰参した三郎の胸元へ、周囲の目も憚らずに、綾子は飛び込んできます。

そして涙目になりながら言います。

⑧枡形城の見事な紅葉
「もし三郎殿が戦死でもしようものなら、私も死んでしまいます。どうかもう2度とこのお城から離れないでください。」
「よしよし、分かった。もう2度と枡形城から出まい。平家が滅亡した今、鎌倉殿(頼朝のこと)にとって一番心配なのは、強い強い奥州の藤原秀衡だ。この城はその奥州藤原軍20万が攻めてきた時に、鎌倉殿を守らなければならない重要な城。わしが離れてはならない城だからな。安心せい。」


◆ ◇ ◆ ◇

ところが、その頼朝自身が、平家殲滅の時には動かなかった鎌倉を、奥州藤原氏を攻め滅ぼす時には動くのです。

そして稲毛三郎にも奥州合戦への参戦を促す書状が届きます。

「綾子、すまぬが行ってくるぞ」
「はい・・・、かならずやご生還を果たしてください。」
という綾子の目には、また涙が一杯溜まっています。

三郎が出陣してからの綾子は、また精神的に不安定な日々を送り続けました。そして幼少から病弱な彼女は、三郎が奥州に出発した日が経つにつれて、徐々に精神的に追いやられ、伏せこむ日が出てきました。

ある朝、彼女は枡形城から、朝靄が立ち込める多摩川方面を見ると、なんとそこには20万の奥州藤原軍が遠望されたのです。(写真⑨
⑨枡形城から多摩川方面を臨む
地平線左に新宿TOCビル、右側に
スカイツリーが分かりますか?
まさに上記写真⑨の枡形城からみた北側方面は、左から新宿のビル軍(群)から右側の東京スカイツリーにかけ、奥州軍20万が展開し、枡形城へと押し掛けてくるように、綾子には見えるのです。

現代とは違って建物など何もない時代ですから、大軍が来れば、この「」な関東平野、直ぐに目につくのでしょう。

長くなりましたので、続きは次回にしたいと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。