マイナー・史跡巡り

日曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~

①奥州藤原3代
前回まで前九年の役と後三年合戦について描きました。

今回からの話は、後三年合戦が奥羽で繰り広げられてから100年後の話です。

100年後、奥州王国は前回までの主人公であった藤原清衡(きよひら)から2代後の秀衡(ひでひら)が主となっています。

奥州藤原3代は、清衡、基衡(もとひら)、秀衡となります。(絵①

100年もの間、この奥州王国を中央政府からの半独立状態を維持できたのは、やはり金色堂をも作った奥州の「金」の力なのでしょう。

中央政府の有力者(関白?)と「金売り吉次」を介して関係を結び、安定した奥州支配を続けます。2代目基衡までは、そういった意味では後三年の悲惨な戦のあとのしばしの静けさが続いたと見ても良いのでしょう。(写真②:これらのミイラについては別途「中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~」参照

そして時代はこのblogでも取り上げた通り、保元の乱、平治の乱等、源平武士の台頭が京より西側を中心として繰り広げられ、奥州の東北地方は、合戦の舞台からは外れることが出来ていた訳です。

奥州藤原氏3代目の秀衡は、これら中央での武士の台頭に、危機感を強く持っていました。
②中尊寺金色堂に収められている藤原3代の遺体
※泰衡の首は訳あって現代まで忠衡(弟)
のものとされていましたが、研究から
現在は泰衡説が濃厚となっています

「きっと来る!また後三年合戦の源義家(よしいえ)の再来が!」

1.義経の取り込み

上記のような危機感を持った秀衡。この3代目はかなり先見性を持った人物でした。

よく3代目は初代に劣らず優秀と言われますが、その典型例ですね。

そこで、彼は保元・平治の乱を奥州から遠望しているだけではなく、京にて周旋活動をしている「金売り吉次」を使い、中央政権の動きを逐一キャッチし、今後の武士の世が固まってくる時代に対する奥州王国防衛の備えを開始します。

その一計が「義経の取り込み」です。

彼は、100年前の前九年・後三年の原因の基本は、中央から派遣されてきた当時の武士団の頭である源家(頼義・義家)との敵対にあるとの分析を行います。

そして、平治の乱で、平清盛源義朝(よしとも)の息子たち、頼朝と牛若丸を含めた数人を生かしたままにしたと聞くと、また金売り吉次を使って、それら源義朝の遺児たちの様子を探らせます。

将来源氏の世が来る事を予測して、ピカ1の遺児を奥州王国に招き入れてしまうことで、奥州王国を守ろうと考えたのです。

③義経後ろ姿
(鎌倉彫:満福寺蔵)
遺児たちの中で、一番武勇に長け、野心に燃える人物として白羽の矢が立ったのが牛若丸です。(写真③

伊豆に流刑中の頼朝にも、秀衡の関係者は会っていたようですが、頼朝に、秀衡はかつての義家の狡猾さを見るようであったこと、また北条一族に取り込まれている彼を見て、策士である彼は避けたようです。あれだけ義家に辛酸を舐めされられた奥州藤原家にとっては、純粋で透明性のある牛若丸の方が取り込む大将の器としてはもってこだったのだと想像されます。

何はともあれ、早速金売り吉次が牛若丸を平泉まで連れて帰ります。

2.奥州王国の独立性

当時は平家一門の世。「平家にあらずんば人にあらず」の勢いですから、義朝の息子を平泉に匿(かくま)う秀衡の動きを知らない訳がありません。

しかし、全く動じない秀衡。この当時秀衡は例の「金」で平家に取り入り、かつて義家が持っていた陸奥守の役職を確保。17万騎と言われる軍を組織した奥州王国は、平家と敵対した源氏の一人息子を匿うくらい何でもないと言わんばかりの独立性を持つ国にまで力を付けていたのです。当時政庁のあった柳之御所(平泉)の敷地規模からも、その広大な王国の様子は伝わってきます。(写真④

平泉に匿われた義経は15歳から23歳までの多感な時期を、駿馬の産地である平泉で、馬を乗り廻し、戦の技と戦術を磨いていくのです。

3.源平合戦

④奥州王国の政庁があった柳之御所跡
さて、1180年に頼朝が平家討伐の挙兵を起します。(詳細は別記事「三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~」をご笑覧ください。こちらをクリック

この頃、藤原秀衡のところにも、平家から源頼朝征伐の要請が来ており、秀衡も「OK!」文書を返しています。

挙兵し、鎌倉に着座した頼朝も、この奥州藤原氏と、もう少し南の常陸の国(茨城県)の佐竹氏(当時の関東武家勢力図は、こちらをクリック)が鎌倉に攻めて来る脅威を感じており、積極的に西の平家打倒に進軍することが出来ません。

ところが、この時、秀衡も頼朝も予測していなかったことが起りました。

義経が挙兵した頼朝の元に平泉から馳せ参じようとするのです。

秀衡は、伊豆に流されていた頼朝を見て、「義家の再来か?」とさえ思っていた訳ですから、これを滅ぼしておいた方が奥州王国の安寧のためには良策と考え、実際2万程の軍を鎌倉に向けようとしていました。

ところが、義経が頼朝のところに馳せ参じたいと、秀衡に申し出をしてくるのです。
⑤私の家の近くにある二枚橋ここを通り
義経は平泉から頼朝の元へ参じた

一度は馳参を思い止まらせましたが、まさか義経への説得に奥州王国の都合を話す訳にも行かず、説得は上手く行きません。ぶっちぎりで頼朝のところに行こうとする義経に最後は根負けし、佐藤兄弟という部下を付けて、平泉を送り出すのです。

義経は嬉しそうに、弁慶と佐藤兄弟を引き連れて、頼朝のところへ平泉から向かうのです。(写真⑤

これで秀衡は、義経への道義上、頼朝を攻めることは出来なくなりました。また頼朝はそんな背景は知らずに黄瀬川にて対面(詳細はこちらをクリック)する弟・義経に「これからは兄弟力を併せ、仇である平家打倒に共闘しようぞ!」と涙ながらに語らいます。(写真⑥

しかし、心の中では以下のように計略を練っているのです。かなりシュールな頼朝です。(笑)

「ふっ、これで奥州の脅威はこいつ(義経)が戦ってくれる間はあらかた消え失せたわ。ただ秀衡は、こいつ(義経)見殺しの覚悟で常陸の佐竹と共謀して鎌倉を攻撃してくるかも知れない。俺はこれらの牽制のためにも鎌倉に残り、平家討伐のための西行きは、義経と範頼に任せよう。」

⑥対面石(奥の杖側が頼朝、手前が義経)
それからの義経の平家打倒における活躍ぶりは、拙著blogでも「一の谷の戦い」を中心とした、合戦状況は3作品作りましたので、どうぞご笑覧ください。(最初の作品はこちらをクリック

源平争乱の間、奥州藤原氏は、中立を保ちました。多分、奥州藤原軍17万騎が動けば、常陸の佐竹氏と共謀しなくても、頼朝を滅ぼすことは出来たかもしれません。

しかし、秀衡はそれでは純粋な義経が黙っていない、頼朝を滅ぼせても、今度は義経まで敵に廻すことになり、それはそもそも義経を奥州に取り込んだ自分達の失策を認めることになるのです。

そこで、秀衡は他の策を考え、やはり義経を上手く使って奥州王国を安寧に導く方法を考えました。

まず源平争乱中、奥州王国は中立。そしてこの間も、ただ手をこまぬいて、義経らの活動を見ていた訳ではなかったのです。

4.腰越状

最後壇ノ浦で平家を倒した義経。凱旋し京に戻ってきた彼に、平家打倒の院宣を下していた後白河法皇は、伊予守等の役職を与え、また義経が鎌倉に断りなく恩賞を出すことを許可します。

⑦左上:後白河法皇 右上:奥州藤原秀衡
左下:源頼朝 右下:源義経
世間では、狸である後白河法皇が、これにより義経と頼朝が対立するだろうとワザと画策し、武家の2人を争わせ弱体化し、相対的に朝廷の権威が高まることを狙ったと解釈されます。私もそう思います。(絵⑦:左上

ただ、もう1人この後白河法皇にこの行動を仕向けた男が居ます。

そう、秀衡です。(絵⑦:右上

源平争乱中に、金売り吉次を使い、有力貴族や法皇等に金をばら撒き、義経に対する支援の周旋活動をしていたと思われます。

秀衡は、先程他の策を考えたと言いましたが、その策とは義経を源氏の頭領にしてしまうということです。

秀衡は、頼朝は義家の再来であり、絶対奥州王国を滅ぼしに来ると踏んでいますので、幼少期より取り込んでいた義経に頭を挿げ替えれば、奥州王国は安寧と考えた訳です。

ところが、義経に対する適正な評価が出来たのは、頼朝だけだったのですね。(絵⑦:左下

義経がもう少し政略的な大局観があれば、秀衡や後白河法皇の意向に沿った行動が出来たのでしょうが、この名将、天才的な戦術は生み出せても、戦略という概念すら持っていなかったのではないかと思うくらい政略に疎いのです。(絵⑦:右下

このように愚直な程に素直な義経は、何故平家を滅ぼす程の大成果を上げた自分が、兄・頼朝に認められないのか不思議でなりません。きっと頼朝の君側の奸(かん)の讒言(ざんげん)により、誤解が生じているに違いないと考えます。

⑧腰越の海岸
そこで壇ノ浦で捉えた平家総大将の宗盛(むねもり)を鎌倉へ連行し、ついでに直接兄・頼朝と話が出来れば、誤解は霧散すると考え、1185年5月、弁慶と一緒に京から鎌倉へ向かいます。

ところが鎌倉の手前4kmくらいの場所である腰越という海岸で、鎌倉入府にストップが掛かります。(写真⑧

そこで、この海岸脇にある満福寺という寺に暫く留まり、頼朝からの鎌倉入府許可を待ちます。

ところがいつまで経っても入府許可が出ません。

そこで、義経はこの場所で、頼朝に手紙を書くのです。この手紙は腰越状として有名です。

【腰越状意訳】写真⑨
私、義経は天皇の命を受けた頼朝公の代理となり、平家を滅ぼし、父・義朝の恥をすすぎました。

きっと褒美を頂けると思っていましたが、図らずも、讒言により、大きな手柄も褒めていただけなくなりました。

私、義経は、手柄こそあれ、何も悪いことはしていませんのに、お叱りを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。

あらぬ讒言に、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝え出来ず、数日をこの腰越で無為に過ごしています。

黄瀬川の対面以来、永くお会いできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。
なぜ、このような不幸せな巡り合わせとなったのでしょう。
⑨腰越状(満福寺蔵)

亡父・義朝の御霊(みたま)が、再びこの世に出て来ない限り、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることも、また哀れんでも頂けません。
<中略>
ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父の御霊を御安めする以外に、何一つ野望を持った事はありませんでした。

その上軍人として最上の高官である五位ノ尉に任命されたのは、自分だけでなく源家の名誉でもありましょう。

義経は野心などすこしもございません。
<中略>
疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。

元暦二年五月 日 源義経

◆ ◇ ◆ ◇

何でしょうか?彼が唯一政略っぽい事を述べているのは、上位職へ任官されたことは源家にとっての名誉だということだけです。政略に関する考え方があまりに疎ですね。

それに比べ、この手紙の中でもやたらと平治の乱で敗れた父・義朝の恨み返しの話ばかりが強調されています。

これは前回までの後三年合戦で、負けた家衡(いえひら)の義家・清衡らと戦う動機が「母上を殺した」というのと似ていませんか?家衡は最期「早く母上に会いたい」と言いながら、斬首されるのです。(詳細はこちらをクリック

⑩義経が逗留し腰越状をしたためた満福寺(上)
京へ戻る義経がこの寺の階段を下りたところに
今では江ノ電が走る(下)
その時、家衡も呟いています。「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」と。

つまり、この腰越状の文章上、既に義経は源家頭領としての器ではなかったことが、現れているのではないでしょうか。

結局、義経は鎌倉入りを許されず、6月9日に頼朝から、平宗盛を連れて京へ戻れとの下知を受けます。(写真⑩

これにより感情が昂った義経は、「頼朝に不満のある武士は、私に付いて来て一緒に反旗を翻そう!」と言ってしまいます。

これは頼朝の思うつぼであり、4日後13日、義経の所領・役職全て没収となりました。

この後、義経が殺されるまでの話は次回以降描いていきます。

ちなみに義経は、御首(みしるし)となった後も、この腰越の海岸で首実験がなされ、この海岸より鎌倉方面へ入ることは死んだ後もありませんでした。彼の首塚は鎌倉の西、藤沢にあります。

5.おわりに

世にいう判官贔屓(ほうがんびいき)における頼朝は、義経の天才ぶりに脅威・嫉妬を感じ、武家社会の秩序を乱す義経自体を悪者扱いにしたと見られがちですが、私はむしろ頼朝は義経を介し、背後にある奥州王国を見ていたのだと思います。

頼朝が届いた義経の御首を見て、「これで世の中の悪は去った」という場面が多くの歴史小説や映画等で出てきます。

多くの人は、この言葉を聞いて「悪とは何であろう?」と、人情豊で正しい行いの人義経に同情の念を寄せますが、彼は義経の御首を見ながら奥州王国の御首を見ていたのだと思います。
前九年・後三年から100年経った頼朝で奥州王国と源家の確執は終焉を見たのです。源家にとって奥州王国は「悪」そのものだったのでしょう。

その視点で、次回以降も描いていきたいと思います。
ご清読ありがとうございました。

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【二枚橋】神奈川県川崎市麻生区高石3丁目32
【対面石】静岡県駿東郡清水町八幡39
【満福寺】神奈川県鎌倉市腰越2丁目4−8

中尊寺金色堂⑦ ~後三年合戦 その5~

①金沢柵に建つ金沢八幡宮
さて、前回までの後三年合戦の戦況ですが、清原家衡(いえひら)・武衡(たけひら)連合軍は、一度は源義家(よしいえ)に勝利した沼柵を落され、そこから最終防衛拠点である金沢柵へ向かう義家らを伏兵で暗殺しようとしましたが、それも義家の兵法の教養により見破られます。
人物相関図はこちらをクリック

そして、先に金沢柵攻撃を仕掛けていた鎌倉景正(かまくらかげまさ)源義光(よしみつ)軍と合流し、この柵を秀武(ひでたけ)の進言によって兵糧攻めにします。これが効を奏し、金沢柵は食糧不足のために落柵は間違いない状況に追い込まれます。(写真①

そして、義家軍最後の金沢柵総攻撃の前夜、家衡は軍議に集まった家臣らに云います。

「今夜、この柵に火を放つ。皆はそのドサクサに紛れて逃げ延びて欲しい。俺はここに残る。」

今回はこの続きからです。

②名馬「花柑子」を射殺する家衡
1.金沢柵陥落

この夜、義家は全軍に通知を出しています。

「陣に敷設した仮屋を全て打ちこわし、その材木で暖を取るように。」

これは、家衡軍にわざと明日総攻撃をかけると噂を流していた清衡(きよひら)が以下のような先を読んだ提言をしたためです。

「家衡や武衡は、明日総攻撃の前に夜陰に紛れて撤退するでしょう。彼らは元々夜襲等が得意であることから、今回の撤退行動も夜間に起こします。ですので、夜間に落ち延びようとする敵を捕まえるためにも、火を焚き、金沢柵周辺を明るくすべきです。」

「また彼らは柵に火を放つ可能性が高いです。それに即応するためにも、こちらも火を焚いて暖を取って体力を蓄えると同時に、直ぐに行動に移せる軍体制を敷いておきましょう。」

③金沢柵の八幡宮境内と馬の像
そして、この晩、清衡の予言通りの行動に家衡が出ました。清衡は家衡の行動をそもそも自分達の兄・真衡(まさひら)館の焼討や、自分の妻子・母親を焼かれた苦い経験などが全て家衡の夜間の焼討だったことから、容易に想像できたのでしょう。

さて金沢柵陥落に際し、家衡は、名馬として名高い愛馬「花柑子(はなこうじ)」が義家軍に渡るのを惜しみ、自分で弓矢を用い射殺してしまいます。(絵②

逸れますが、金沢柵内にある金沢八幡宮境内には立派な馬の像が、写真③内の左側のようにありましたが、もしかしたら、この馬の像が「花柑子」なのでしょうか?(写真③

戻します。そしてその夜、金沢柵に火は放たれ、燃え盛る炎の中を逃げる家衡・武衡軍でしたが、残念ながら、これを予想し、暖を取って英気を養っていた義家軍らに次々と捕まり、撫で斬りにされるのです。

2.戦後処理

それら夜中に撫で斬りにされた家衡・武衡軍の将兵の首が翌日、落ちた柵内にずらっと並べられたのが絵④です。(絵④

④負けた家衡・武衡軍の将兵の首
は柵内に無造作に晒された
残忍な仕打ちはまだまだ続きます。
まず、武衡ですが、彼は戦中から源義家の弟・義光へ降伏の意思を表し、義家への取成しをお願いしてきました。しかし、義光から上告を受けた義家はこれを頑として拒否。

そして、金沢柵に火を放ち、夜陰に紛れての最後の逃亡劇では、武衡はなんと忍者のように、近くの池に潜り、厳重な義家軍の撫で斬りから逃れようとします。(写真⑤

彼は、葦や水藻等を体にまとい、刀の鞘の底を切り、片端を水面から出し、呼吸を繋いで、ほとぼりが冷めるを待っているつもりだったのでしょう。

しかし、それも虚しく数時間後には義家軍に見つかります。

義家の前に引き出された武衡、命乞いをします。この時、以前より、仲介を頼まれていた弟・義光が「兄貴、命だけは助けてやったら?」と助命嘆願をしますが、義家は「金沢柵の兵糧攻め前に投降してきたのであれば助命も考えたが、その後、特に部下である千任(ちとう)にあのような私への罵倒を浴びせた後の助命等受け入れられない」と突っぱね、斬首します。
⑤武衡が身を隠したと言われる
横手市杉沢の蛭藻沼

では、今の会話で出て来た千任(ちとう)、戦の後半で柵の上から義家に向かって大音声で義家の不義不忠をなじった彼はどうなったのでしょうか。

やはり厳重な義家軍の包囲網を突破できず、捕らえられます。

そして、かわいそうに、前回のblogで義家が「死に勝る恥ずかしめを与える」と言った通り、前歯を金箸で折られ、舌を抜かれるという虐待を受けます。(絵⑥

そして、最後は絵⑦のように、生きたまま、木から吊るされ、大量出血で死ぬまで放置されるのです。(絵⑦

この絵の中で、吊るされた千任の足元に転がっているのが、先に述べた斬首された武衡の首です。千任が力尽きかけ、足を地面に伸ばすと武衡の首を踏んづけるというようにし、

「かつての主君の頭を踏みつける気分はどうだ?不義不忠と思わんか?」

⑥千任への虐待
と義家からなじられると、慌てて足を引っ込める。しかし、それも彼が力尽きかけるまでの短い最期の「もがき」なのです。

かなり残忍ですね。義家は。

この絵⑦の中でも馬も人も殺されている場面が描かれています。また柵等が燃えている場面も描かれています。

このように金沢柵が落ちてからの家衡・武衡軍は悲惨な目に合わせられるのです。

では、一番の総大将、家衡はどうなったのでしょうか?前回のblogで、彼は「俺はここに残る。」と宣言しました。

ところが、彼は行商人の姿に変装し、逃げようとしていたのです。(絵⑧
直ぐに、義家配下の武将に見つかり、矢で射かけられます。

⑦吊るされる千任と
足元に転がる武衡の首
これを先に述べた自分の愛馬「花柑子」を矢で射殺した報いだという説もありますが・・・。

捕まった家衡は涙ながらに云います。

「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」
「早く母上に会いたい。」

そう、思いだしてください。家衡と清衡の母親は同じなのです。(人物相関図はこちら
家衡は、秀武(ひでたけ)叔父にそそのかされ清衡館を襲います。

秀武は、清衡館に居る家衡の母だけは家衡が襲撃前には逃がす約束をしましたが、実際には誰かの陰謀で逃がすことが出来ず、結局自分の手で焼き殺してしまったのです。

家衡は、清衡が仕組んだ策謀だと思い込み、その恨みを晴らそうとして今回の戦(後三年合戦)が始まったのです。このシリーズの「その2」を読まれた方は、この件の犯人は分かりますね。清衡ではありません。(分からない人はここをクリック
⑧変装して逃げる家衡は矢で射られる

家衡は純粋な出羽豪族清衡家のお坊ちゃんだったのです。ある意味、可哀想に感じるのは私だけでしょうか?

彼は、その2つの言葉を残し、その場で矢を射た武将に斬首されます。

1087年11月、後三年合戦は義家軍の勝利で終わり、清原家は清衡以外滅亡するのです。

3.清衡の謀略

さて、清衡も、源義家が、前九年の役の恨みから、抹殺しようと考えている清原一族の1人であることは間違いありません。
⑨上:白河の旧東山道沿いにある
   吉次の墓(首藤氏ご提供)
下:栃木県壬生町にある吉次
 の墓(小林氏ご提供)

しかし、清衡もそれは充分に分かっています。彼は、最初に企図した通り、父親・藤原経清(つねきよ)の恨み対象である清原一族を死滅させることが出来ました。この後は、早急にこの義家をリムーブしなければ、こちらが殺られてしまいます。(人物相関図はこちら

そんな事は想定済みの彼は、後三年合戦が起る前から、清衡の隠密集団である金売り吉次(複数居ます)を使い、有力公家を中心に京の中央政府へ玉山金山から出る金子を上納し続けています。(写真⑪参照

また少々脱線しますが、シリーズ「その2」でも述べました通り、日本全国あちこちに金売り吉次の墓があることから、吉次は複数人で、あちこちで「金」を使い、周旋業務をこなしていたようです。(写真⑨

話戻りますが、義家は、この合戦の兵糧等の調達のため、京の中央政府へ納める年貢すら自分達で使ってしまうのです。
戦が終わった後、義家は中央政府に対して家衡追討の官符(かんぷ:追討のための費用)を要求します。

さて、この状況を見た清衡は一策、日頃の金売り吉次によるロビー活動を展開します。(写真⑨

吉次が公家に「金」を上納する時、義家のこの合戦での対応等を当然聞かれますので、やんわりと彼の非業、行き過ぎた行為等を、公家に伝えます。

この話で義家に対する心証が悪くなった公家に、吉次は云います。

「この度の戦、義家公の私戦であり、陸奥守という公職の仕事ではございません。」

実は、今まで一度も出て来ませんでしたが、出羽守は当然この戦時におります。
もし、朝廷から正式に公の仕事として清原氏を鎮圧するのであれば、沼柵や金沢柵のある現在の秋田県の出羽守に命じるのが筋な訳なのです。そこを金売り吉次は公家に説明して廻るのです。

4.義家の諦め(清衡の勝利)

そんな清衡の周旋を知らず、義家は得意顔で京へ凱旋して来ます。(絵⑩
⑩京へ凱旋する源義家(右側白馬に跨る貴人)
ところが、京に戻った義家に朝廷は官符を調達するどころか、公私混同甚だしいとばかりに、陸奥守解任を言い渡します。この差配に怒った義家は、恩賞の証拠として持参した家衡や武衡の首を、持っていても仕方がないということで、その辺りの池に打ち捨てて行くのです。絵⑩の左下の池に首が2つ浮いているのが分かりますか?

さて、清衡の策謀はこれだけに留まりません。

この後三年合戦が「私戦」とされたことで、義家は、鎌倉景正をはじめとする武士団への恩賞が出せなくなります。

これは大問題。

後に「一所懸命」とか「御恩と奉公」とか言われるように、武士団の上下関係の信頼は、土地や金銭と命を懸けることのトレードオフで成り立っているのですから。

義家への求心力は完全に損なわれ、軍神どころか下手をすれば逆賊として成敗される可能性すらあります。

⑪玉山金山坑道跡
※「古都ひらいずみガイドの会」より抜粋
義家も内心、「困った!」と思ったでしょう。

そこに清衡は、陸奥守解任で、多賀城を去る義家の所へ挨拶に来ました。
今までお世話になったお礼にとすっと桐箱を差し出します。

そして、「つまらぬ菓子類故、後で照覧あれ」とその場を辞します。

皆さんもうお判りでしょう。そう、彼は玉山金山の「金」を義家に渡し、十分に恩賞が配られるように手配したのです。(写真⑪
このように恩義を義家に売る事により、義家が素直に二度と奥州(陸奥)に戻らない、清衡を恨まないようにしたのです。

後でその金子を目にした義家は笑いながら言います。

「これは清衡にいっぱい喰わされたわい(笑)」

5.おわりに

如何でしたでしょうか?後三年合戦。

シリーズの最初に書きましたように、謀略に長けた清衡は、父・藤原経清や安倍一族の恨みの対象である清原氏を、源義家を利用することで滅ぼすことが出来ました。

勿論、自分も滅ぼされるリスクがあったのですが、それも想定済みの緻密な謀略の策定。
やはり1stガンダムのシャアのようなキャラですね。

⑫奥州藤原氏の政庁のあった「柳之御所」跡
陸奥守の任を解かれた義家以後100年間、源氏は奥州へ介入出来ませんでした。

清衡は、自分の父の恨みを晴らしたこの時点で、姓を父の藤原に戻します。

これが奥州藤原初代、藤原清衡となり、陸奥にも出羽にも便の良い平泉に奥州支配の政庁「柳之御所」(やなぎのごしょ)を移し、前九年の役から後三年合戦の血塗られた歴史を振り切り、新しい蝦夷(えみし)奥州王国を作り上げるのです。(写真⑫

また、それまでの戦没者の霊を弔う意味から、平泉中尊寺を建立するのです。

金色堂に金がふんだんに使われているのも、今迄お話してきたように、清衡が諸所の謀略に金を使うことでこの奥州王国を建設した象徴的なものが「金」だからです。

そう思うと、金色堂に込められた清衡の想いのとてつもない大きさを感じますね。(写真⑬
※金色堂への清衡の想いは、別著作blog「Tsure-Tsure」に纏めましたので、こちらをご笑覧ください。

◆ ◇ ◆ ◇
前九年の役から始まった今回のお話、後三年合戦も含めて、長い事お付き合い頂き、本当にありがとうございました。

写真⑬の金色堂前で写真を撮っている私は、このような深い清衡らが係わったその前の戦跡があるなぞ、全く知りませんでした。その後、知れば知る程、その大きな歴史の流れの礎がここにあることに驚きました。
⑬中尊寺金色堂外国の方が沢山訪れていました

この2つの奥州での戦が後の武士団形成への大きなステップになったことは間違いありません。
源義家が、清衡から貢がれた「金」を基とした私財を投入して武士団の恩賞を行ったことが、却って武士団としての団結力を強め、後の鎌倉時代の武士の時代を創る元になるのです。

そう考えると清衡は単に義家を上手く使って、奥州から清原氏を追い払い、奥州王国を建てたということより、鎌倉時代から明治維新まで続く武士の時代の魁(さきがけ)となったことが最大の功績かもしれません。
◆ ◇ ◆ ◇

そして100年後に飛び、奥州における義経と奥州藤原氏の滅亡を併せたレポートを次回以降したいと思います。宜しくお願いします。

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【金沢柵】秋田県横手市金沢中野金洗沢
【蛭藻沼】秋田県横手市杉沢谷地中
【柳之御所】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所
【中尊寺金色堂】西磐井郡平泉町平泉衣関78

中尊寺金色堂⑥ ~後三年合戦 その4~

①沼柵跡
【※画像や絵を別ウィンドウで表示したい場合は画像本体ではなく、下の文字部分をクリックしてください】

前回の話のおさらいです。

家衡(いえひら)が、源義家(みなもとのよしいえ)・清衡(きよひら)連合軍に出羽(秋田県)の沼柵で勝利しました。(写真①)

くやしい義家軍は、第2次家衡征伐軍を組織します。

家衡は、支援に駆けつけた叔父の武衡(たけひら)らと、沼柵だけではなく、更に規模の大きな金沢柵に主力を移し、沼柵の部隊とも協働して、義家軍を追い落とす作戦を立てます。(人物相関図はこちらをクリック

また、義家も応援に駆け付けた弟・義光(よしみつ)や鎌倉景正(かまくらかげまさ)ら武将と詳細に金沢柵の攻略作戦を建てるのです。(地図②)
②義家らの第2次家衡征伐作戦(再掲)
そして、第2次家衡征伐が開始されます。

1.鎌倉景正(かまくらかげまさ)の奮闘

さて、まずは鎌倉景正の奮闘ぶりから見て行きます。
彼は東側(地図②の一番右側)から金沢柵の正面へと先陣切って戦いに行きます。

景正この時、若干16歳。
かなり血気盛ん、勇猛果敢だったようで、義家らが立てた3軍に分かれて家衡の本隊にかかる作戦などは鼻で笑い飛ばし、「俺が正面から家衡やっつければ終わりだろ!」のような勢いでした。
③右目に矢が刺さったまま
連射する鎌倉景正

ただ、家衡軍と対峙する前の戦闘で、彼は右目に敵の矢を受けてしまいます。(絵③)

しかし、矢が刺さってもひるまないのが彼の凄いところ。射られた直後、片目で狙い定め、矢を連射する等、鬼神の活躍を続けます。

そして矢が刺さったまま陣に戻った景正に、三浦為継(ためつぐ)が、相模国の同郷のよしみで刺さった矢を抜いてやろうと申し出ます。

ところが、この矢、かなり深くまで突き刺さっていたため、なかなか抜けません。そこで為継は景正の顔に足を掛けて抜こうとするのですが、景正は急に自分の短刀を抜き、為継の掛けた足に切りかかります。(絵④)

せっかく矢を抜いてあげようとしたのに、切りかかられた為継は怒ります。
すると景正は「戦場で矢に射抜かれて死ぬのは本望であるが、刺さった矢を抜いてもらうのに、顔に足を掛けらる恥辱を耐えねばならないならいっそ死んだほうがまし。」と言い、これには為継も感心し、端座して真剣に矢を抜いたそうです。(個人的には、ならば為継に切りかからず、小刀で自分の腹切ればいいのに・・・と意地悪く思っちゃいます)

④顔に足を掛ける三浦為継に
小刀で切りかかる鎌倉景正
この話、後世に伊達政宗の独眼についても同じようなエピソードを聞いたことがありますが、景正の話と混同されているようです。

また、この鎌倉景正、源頼朝の石橋合戦にも出てきます。北条時政と大庭景親の名乗り&毒舌合戦の中です。鎌倉景正は大庭景親の曾祖父にあたるのです。是非、「マイナー・史跡巡り」の「三浦一族② ~石橋山合戦~」の中から探してみてください。(ここをクリック

2.雁行(がんこう)の乱れ

さて、このような勇猛果敢な鎌倉景正の活躍と義光らの迂回し家衡軍の背後を突く戦略は功を奏し、金沢柵の家衡・武衡らは、沼柵の友軍に大部隊を繰り出す余裕はありません。(地図②参照

一方、前回の雪辱を晴らそうとする源義家は、今回は泥沼対策もしっかりと行い、沼柵を陥落させます。

そして、金沢柵へ向かうのです。(地図②の薄茶の矢印

向かう途中、有名な義家のエピソードがあります。

途中経路、この頃は湿地帯、雄物川の支流等も沢山あり、丈の高い葦や蒲が沢山生い茂った場所です。そこを金沢柵へ移動中の義家たちの前を、雁(かり)の群れが上空高く整然と列を成して飛んでいきます。

ところが、義家ら一隊の数百メートル先で、その群れの列が急に乱れます。
これを見ていた義家は、「前面に敵!伏兵が居る!全軍弓を構えよ!」と大声で下知します。

そして、真っ先に駆け、葦原に隠れていた伏兵30人を片っ端から射殺すのです。(絵⑤)
⑤伏兵を発見し射殺す義家軍(後三年合戦絵巻)
この30人の伏兵は、家衡と一緒に戦っていた武衡が、大部隊が繰り出せない沼柵支援のために向かわせた手下の少数精鋭隊でした。沼柵が落ちたと聞き、沼柵支援の計画を変更しこの地で義家が金沢柵へ向かうところを待伏せし、ゲリラ戦で首を挙げてしまおうと企図していたのです。

「つわもの野に伏すとき、雁 列を破る」


という孫子の兵法を学んでいた義家が気づいたこの行動は、「さすが軍神だけのことはある」と後世語り草になっているのです。
ちなみに下の動画は今の話について、この地元秋田県横手市が作成した2分程度の動画です。是非ご照覧ください。

3.金沢柵兵糧攻め

さて、沼柵を落した義家軍は、計画通り3方向から金沢柵を攻撃します。

しかし、流石は清原一族最大の金沢柵、その守りは強固で、なかなか落ちません。これでは、また前回の沼柵の敗戦時同様、冬将軍到来による敗退という憂き目にあってしまいます。

この時、義家陣営として同行している清衡は秘かに作戦を考えてました。

前回のblogで、「城」と「柵」の違いについてご説明した中で、「柵はある意味前進基地なので、兵站等は後方部隊からこの前進基地へ運搬する形態が多く、城程の蓄えは少なかったようです。実は、これが後三年合戦でも柵を使っていた家衡らの盲点になります。」と記述しましたように、柵内に蓄えは殆ど無く、後方部隊からの支援物資に頼っていました。

そこで清衡は、義光らに、金沢柵の後方支援部隊を常に襲撃させ、補給路を断ち、兵糧攻めにすれば殆ど蓄えの無いこの柵はすぐ落ちるだろうと考えました。

しかし、清衡はこの兵糧作戦を直接義家に進言しません。金売り吉次の発案のように見せかけ、彼から叔父の秀武に義家に進言させる栄誉を譲るように見せかけるのです。(人物相関図はこちら

秀武から進言を受けた義家は早速、この作戦を実行に移します。日本史史上初めてと言われるこの兵糧攻めは、見事に効を奏し、金沢柵の家衡軍の気力を削いで行きます。
⑥金沢柵を逃げる女・子供を
惨殺する義家(秀武)軍

まだ情緒ある戦をするこの時代、金沢柵に籠る家衡と叔父武衡は、「流石に女・子供は、この食糧不足は可哀想だ。柵から逃がしても、同族の清衡・秀武らが義家に頼み込み、見逃してくれるだろう。」と考え、柵内の女・子供を外に開放します。

これを見ていた義家、秀武に向い言います。

「秀武殿、そちが計画したこの兵糧攻め、見事そちが完遂せい。女・子供が逃げては、その分食い扶持が減り、中途半端なものに終わろうぞ!」

秀武は、同族の誼(よしみ)で、多少の女・子供は見逃したかったのですが、義家は清原一族に恨みを持っていますから、殲滅したいのです。ただ、義家自身が殲滅すれば、後世に義家が悪く言われてしまいます。(結局言われますが・・・。)

また清衡も以前お話しましたように、清原一族は自分以外殲滅したいのです。清衡は、このような事態になることを予見し、叔父秀武に兵糧攻めの作戦を教え、義家に上奏する栄誉を譲ったように見せ、嵌(は)めたのです。

泣く泣く秀武は、柵を出て来た女・子供を殺戮。(絵⑥)

⑦柵上で義家を罵倒する千任(ちとう)
慌てて柵に逃げ帰る女・子供や城兵たちも、秀武を人非人(にんぴにん)として、強く非難します。これで、金沢柵には沢山の非戦闘員である女・子供も外に逃げ出せなくなり、食糧不足は更に深刻化するのです。

4.千任(ちとう)の罵倒

さて、このような食糧不足で金沢柵の中は大飢饉です。馬の肉も食べ、木の根をかじり、頑張りますが限界が来ました。この後500年後に豊臣秀吉が行った鳥取城包囲による兵糧攻めでは人肉を食べたという記録があります。今回の飢饉は、流石にそこまでは至らなかったようですが、日本史初の兵糧攻めということで、「汚い手を使いやがる!」と柵内では大非難の声が義家軍に向けられます。

ここ柵内に、家衡の養育係りだった千任(ちとう)という正義感の強い武将が、武衡の部下としておりました。
食糧不足で気力が萎えていながらも、ふり絞って柵の上に登り、義家に向い大声で叫びます。(絵⑦)
⑧千任の罵倒に怒る陣中の義家
(絵⑦とこの絵の髑髏の位置に注目)

「義家、よく聞け!貴様ら源氏は、先の戦(前九年の役)で、清原の家来になるとまで誓い、加勢を頼み、陸奥の安倍一族を討つことができた。それが今、主君である清原一族を攻めるとは、恩知らずも良いところだ!!この不義不忠、罰が下るは必定!!」

確かに義家の父・頼義(よりよし)は前九年の役の黄海川の戦いで安倍一族に負けた後、当時の当主清原武則(たけのり)に千任の言う通りに頼み込んだのです。元々陸奥の安倍氏と出羽の清原氏は蝦夷(えみし)同族として依存関係があったのですが、これを破り、源氏に味方をしてもらうには、「臣下になりますので」と謙らない限り無理だった訳です。

この罵倒を聞いていた義家の弟・義光は「ふむ、なるほど!一理あるな。」等と妙に納得しています。義光は兄・義家のピンチと聞いてこの戦に役職投げうち駆けつけましたが、どこか清原家衡・武衡らに対する同情があったような振る舞いが見られます。

一方、義家は怒り心頭です。周囲の者にぼやきます。「言わせておけ、ほざけるのも今のうちだ。奴を捕えたものには、何でも好きなものを褒美に取らす。そして奴には死に勝る恥ずかしめを与えよう。」(絵⑧)

このエピソードについても、秋田県横手市が作成した2分半の動画がありますので、是非ご照覧頂ければと存じます。(下)

5.金沢柵陥落前夜

そして、1087年の11月、既に雪が降りだしそうな気候の中、金沢柵の家衡・武衡らは軍議を開きます。

義家軍は、前回の沼柵の敗戦から、今回は雪が降る前に決着を付けたいと考えているため、最後の総攻撃をこの柵に仕掛けて来ようとしています。それに対する家衡・武衡軍は食糧不足で兵も疲弊しきっており、とても太刀打ちできる状況ではありません。
家衡は軍議の中で、武衡を含めた諸将にボソッと伝えます。

⑨金沢柵敗者の晒し首
次回解説します
「今夜、この柵に火を放つ。皆はそのドサクサに紛れて逃げ延びて欲しい。俺はここに残る。」

長くなりましたので、最終回は次回とさせてください。

6.おわりに

先にお話ししましたように、柵から出て来た女・子供のような非戦闘員まで惨殺するような行為について、秀武にそれを命じた義家は京の中央政府からも非難されることになりました。

しかし義家はその後、その残酷な所業が直るどころか、どんどんエスカレートして行きます。(絵⑨)
『梁塵秘抄』では、「源氏の中でも八幡太郎義家は特に恐ろしい」と評されます。『宇治拾遺物語』や『故事談』では「父親の頼義は晩年、自らの行いを悔い、功徳を積んだので極楽へ行けたが、息子の義家は更に残酷だったにも係わらず、それを悔いることが無かったため、死後地獄に落ちた」との話があります。

最終回は、残念ですがそれら残酷極まりない場面が頻出します。また、この場合清衡はどうなるのでしょうか?やはり地獄行でしょうか?その辺りも引き続き描いて行きたいと思います。

また最後までお読みいただきありがとうございました。
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【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野

中尊寺金色堂⑤ ~後三年合戦 その3~

前回、清衡(きよひら)義家(よしいえ)の「たぬきとキツネの化かし合い」の様相を呈してきた後三年合戦の中盤を描きました。人物については、また図①を参照しながら読み進めて頂ければと思います。
①後三年合戦人物相関図(更新)
※ここをクリックすると別ウィンドウで開きます。



清衡が、家衡に初手の攻撃を仕掛けさせ、正当防衛を理由に国守である義家に家衡を攻めて貰う。強い強い義家ですから、家衡は簡単に滅びるだろうという清衡の作戦。

これに気づいた義家は、清衡が義家を利用して家衡を滅ぼすのを傍観させるのではなく、両者とも本気で憎み合い、お互い死力を尽くして戦いあうように仕向けます。

そして、これに成功。この話の続きからです。
②沼柵址

1.沼柵での戦い

家衡が清衡館を襲ったことから、国守の義家が清衡側に付いたことを知ると、家衡は代々清原家の有力な柵の1つ、沼柵(ぬまさく)という城のようなものに立て籠もります。(写真②)

◆ ◇ ◆ ◇
東北地方は、有力な防御拠点を「城」とは言わず「柵」と言うことが多いですね。

ご存知の方は多いと思いますが、城はそもそもその地域の人々が守りの拠点としているのに対して、柵はその地域外から来たよそ者が、その地域の敵に対して自身を守るために柵で陣固めをした土地を指します。

特に東北は、その蝦夷(えみし)の土地によそ者の朝廷軍が陣固めをして行った「柵」があちこちにあったため、城より柵の方が多いのです。多賀城でさえ、国府としての行政機能が入るまでは多賀柵だったようです。

また、城は守りの拠点としているので、兵糧を何年分も蓄えられる等、多くの兵士が籠って情勢が変わるのを守りながら待つという機能に長けていますが、柵はある意味前進基地なので、兵站等は後方部隊からこの前進基地へ運搬する形態が多く、城程の蓄えは少なかったようです。

実は、これが後三年合戦でも柵を使っていた家衡らの盲点になります。
◆ ◇ ◆ ◇

さて、沼柵ですが、流石清原氏代々の柵だけあって、西側~北側に流れる雄物川とその支流が、この柵周辺を、それこそ「泥沼」化していることで、周辺から大変攻めづらい構造になっていました。(地図③)
③沼柵における両軍対峙図
※拡大はここをクリック

そこに、南側から義家・清衡連合軍が攻めてきます。

平安時代の義家の頃から、源氏はやはり騎馬による戦が得意だったようで、この時も馬を中心に颯爽と沼柵によせる義家軍でした。
ところがこれに対し、泥沼地帯に潜んでいる家衡の伏兵らが、次々と矢を射かけるのです。沼地に足を取られた馬上の武者たちは流矢の餌食になっていきます。

これらの伏兵によるゲリラ戦法でかなりのダメージを受け、義家らは停滞を余儀なくさせられます。

ほんの数日で家衡を制圧しようとした義家らでしたが、秋から開始したこの戦が数か月も掛かりそうな情勢に立たされることとなったのです。

④沼柵辺りの積雪は多い
上記地図③の東「横手公園」
から沼柵方面を臨む
清衡は、義家に諫言します。

「ご自身がかつて前九年の役の『黄海川の戦い』の時に経験された以上に、出羽の冬は積雪が多く、冬の戦いは自軍が消耗するだけです。ここは一度撤退しましょう!」

義家は、「なんの家衡ごときは、あと数日で落として見せる!清衡こそ、もっと力入れて戦え!貴様もしかしたら、家衡が身内だからそんな躊躇したような事言うのではないのか?!」

そう言われると、清衡もそれ以上強くは言えなくなってしまいます。

結局、義家は冬まで沼柵前に留まりましたが、多賀城方面からの補給路は、家衡のゲリラ戦法と2mを超す大雪により、ボロボロに絶たれ、食料は欠乏、病人は続出し、戦闘続行は不可能な状況に陥りました。(写真④)

清衡の諫言通りです。
義家は悔しい思いで、沼柵を見上げながら、全軍に下知します。

「撤退!!」

2.両軍それぞれへの加勢
⑤清原武衡像(横手市)

さて、沼柵で勝利を収めた家衡は清原一族での評価が上がります。

「あの軍神 義家に勝った漢(おとこ)。流石は清原家の嫡男」

そして、叔父である清原武衡(きよはら・たけひら)が、現在の福島県いわき市の所領地から援軍に駆けつけて来るのでした。(写真⑤)

逆に負け戦でがっかりしている義家のところにも、強力な助っ人が現れます。

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)

あの武田信玄の武田家始祖のこれまた神格化された人物です。このblogでも何度か武田家の家宝「楯無(たてなし)鎧」(写真⑥)を紹介しましたが、この武田家が信長に滅ぼされるまで大事に持っていた鎧は、この義光が着用していたものです。(写真⑥)

彼は、兄・義家が沼柵で家衡に負けたと聞いて、宮仕えの身分であったにも係わらず、長期休暇を朝廷に申請し、兄を支援しに行こうとしました。
ところが、朝廷からはダメ出しされてしまいます。そこでさっさと退職願いを出して、出羽まで来たと言います。

この話は後の源平合戦時に、義経が頼朝の陣中に奥州平泉から駆けつけた話と並べる兄弟愛の美談として良く比較されます。義家は頼朝のように弟を謀殺したりはしませんでしたけど。
⑥義光が着用していた「楯無」
武田家家宝

3.次の戦闘への準備

さて、義家に義光が支援に来たという情報を聞いて、家衡らは義家らの次の攻撃が相当過酷なものになると覚悟します。

そこで彼らは考えます。「既に沼柵にてこずった義家らは、今度来襲してくるときは、必ず沼柵落しの対策をしてくるはず。であれば、次は沼柵に立籠もるよりも、更に規模の大きな金沢柵に立籠もり、沼柵に置く友軍と協働して、義家軍をかく乱する方が良い」と。
図⑦を見て下さい。

金沢柵は沼柵より北東側にあり、ここに居る家衡らの軍を直接義家らの軍が突こうとすれば、当然沼柵に居る家衡軍が、後方から義家らの軍に襲いかかり、挟撃による殲滅作戦を展開されてしまいます。

また、義家らが沼柵を先に攻撃する場合でも、金沢柵から家衡軍が打って出れば、同様に挟撃されるリスクがあります。

よってこのリスクを回避するには義家らは兵を2分して、それぞれの柵に当たらせなければなりません。戦力に分割損が出ます。そうこうするうちにまた冬将軍到来で義家軍は敗退せざるを得ないでしょう。

⑦家衡は金沢柵へ防衛拠点を動かすこ
とにより義家連合軍のかく乱を狙う
しかし、義家側も前回の戦の敗退の要因分析は充分に行い、沼柵の攻略検討もさることながら、ある1つの結論に達しています。
それは単純に兵力数です。

兵力の詳細は未だ不明で諸説ありますが、元々、沼柵に動員した家衡軍が1千、対する義家軍が5千、5倍で攻めても落ちませんでした。家衡征伐第2陣は、義光や鎌倉権五郎景正(かまくらげんんごろうかげまさ:絵⑧)らの支援もあり、2万の軍を出します。家衡側も叔父の武衡軍が多少増えたので2千にはなりますが、それでも10倍の差です。これなら分割損があろうとなかろうと流石に落とせるだろうと考えるのです。

ただ欠点は、この頃はまだ兵農分離が全くされていない時代ですので、これだけの兵力を集めるのは稲の刈り取り農作業が完了する11月頃まで待たなくてはならず、また出羽の冬将軍到来のリスクを甘受しなければならないということです。

4.第2次家衡軍征伐作戦

⑧鎌倉権五郎景正
第2次家衡征伐作戦は、図⑨の通りです。義家・義光兄弟で練り上げた作戦を見て行きましょう。(図⑨)
まず義家軍は、当初2万の軍全軍で沼柵に向けて進軍します。(図中①)
しかし、実態は以下の3軍に分けてあるのです。

第1陣:鎌倉正景軍(先鋒:金沢柵正面突破軍)
第2陣:義家軍(本隊)
第3陣:義光軍(陽動作戦用遊撃軍)

一方、金沢柵の家衡軍は、沼柵の友軍を支援するために金沢柵を出発します。(図中②)

これを第1陣の鎌倉正景軍が先鋒として先回りし、野戦を開始します。(図中③)

そこに陽動作戦で、敵に気づかれないようにぐるっと迂回してきた義光軍が金沢柵の後方から家衡軍に襲いかかり、大混乱を引き起こします。(図中④)

そして、沼柵対策は本隊の義家軍が前回の戦で一番良く分かっていることから、沼柵軍の殲滅を図り、後方の憂いが無くなり次第、金沢柵へ向い、完全勝利を得ます。(図中⑤)
⑨第2次家衡軍掃討作戦概略図
この作戦の結果は次回お話します。

5.おわりに

⑩鎌倉景正の活躍を現す功名塚(金沢柵)
この金沢柵の3軍の中に沼柵での戦い時に、1軍を担った清衡の名前が出て来ません。どうしたのでしょうか?
これも文献等ではっきしたことが書かれておらず諸説ありますが、1説には清衡と義家は前回の沼柵の失敗で反目しあうようになり、第2次家衡征伐作戦時、清衡は義家の軍に従軍しますが、積極的に活用されない立場にさせられたというものです。
私は、実は沼柵の戦い時、清衡があえて冬将軍の到来による撤退の忠告を行い、義家を煽り嫌われ、わざと一線から引いたのではないかとさえ思っています(笑)。

清衡と義家は「たぬきとキツネの化かし合い」、この戦で弟と死力を尽くして戦っては義家の思うつぼ。ほぼ共倒れになり家衡も自分も易々と義家に滅ぼされてしまう。
清衡軍は来るべき義家軍との戦いに備え、体力温存しなければと考え、あえて消極的参戦に止めたのだと思えますが、皆さんどう思われますか?(笑)

最後までお読みいただきありがとうございました。
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【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
 

中尊寺金色堂④ ~後三年合戦 その2~

①源義家
前回からはじまりました後三年合戦。長男の清原真衡(さねひら)が叔父秀武(ひでたけ)討伐の留守に、彼の屋敷を襲った清原清衡(きよひら)・家衡(家衡)の前に立ちはだかったのは、レジェンド源義家(よしいえ)。(絵①)

流石に軍神の異名を取るだけあって義家は滅法強いです。
清衡・家衡兄弟、馬1頭に2人で乗り、ほうほうの体で戦場から脱出するのでした。

この話の続きです。相変わらず登場人物が色々と出てきますので、図②に前回作成しました人物相関図を、今回の話の展開に合わせ更新しました。(図②)

前回のblogの図との違いが分かりますか?同じに見えるかも知れませんが、その違いが今回のお話の核となるところです。(前回の図はここをクリック

是非、話の途中で人物が良く分からなくなった時に図②をご参照ください。
②後三年合戦人物相関図(更新)
※絵は 胡原おみ氏「漫画後三年合戦物語」から
※ここをクリックすると別ウィンドウで開きます

1.金売り吉次


この時秀武討伐で遠征中の真衡、自陣で急死します。
それまで、すこぶる元気で病一つ冒したことのない真衡が、「急な病死」とのこと。

清衡と家衡は、戦の対象が急死したので、戦う必要が無くなったことに、ほっと安堵します。しかし清衡は考えます。

あやしい!

清衡は、奥州の忍者のようなもの「金売り吉次」を調査に真衡陣に潜入させます。
②金売り吉次(イメージ)

また脱線しますが、「金売り吉次」と言うと、義経を京の鞍馬山から連れ出し、奥州藤原氏3代目の秀衡(ひでひら)に仕えさせた大商人のイメージが定着してきましたが、実は「金売り吉次」は固有名詞ではなく、既に清衡の時代から何人も居た隠密行動をする連中の事を指すとの説があります。(絵②)

彼らは、戦国時代の忍者のような術こそ使いませんが、最大の武器があります。

「金」です。

当時の奥州は玉山金山(たまやまきんざん)などの大規模な金鉱がありました。

ここから産出される金は、後に中尊寺金色堂を造るくらい豊かなものでしたが、この金を上手く使うことによって蝦夷(えみし)の地は力を持ったと同時に、朝廷からは危険視された訳です。

金を制すものは奥州を制す。

これを制した清衡が奥州を制した訳です。

2.真衡暗殺

さて、話を戻しましょう。真衡は公式には「病死」となっていましたが、「金売り吉次」が、真衡軍が秀武討伐から帰陣する中に潜入し、関係者に「金」を掴ませて話を聞いたところ、どうやら義家の刺客が真衡を暗殺したことが分かってきました。

「金売り吉次」からその報告を受けた清衡は全てを悟りました。

義家は、清原一族を恨んでおり、根絶やしにしたいのだ」と。
つまり、今回の戦で義家は、秀武を成敗に行った真衡と組んだように見せかけて、自分は真衡の留守を襲った清衡・家衡を戦で潰し、真衡は秀武討伐中の陣中で病死に見せかけ殺害。一気に清原一族の中核を殲滅しようとしたのです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

21年前の前九年の時、義家は18歳の若武者で、安倍一族との戦いで大敗を喫した「黄海川の戦い」では、たった7騎でのみ逃走し、その活路を切り開いた活躍は、後に軍神と呼ばれる程の武勇を発揮しました。

③「義家、てめえ清原家の臣下になるって
言ったじゃねえか!」叫ぶ清原軍
※詳細は次回以降
そのような英雄的経歴を持つ彼が一番恥辱を感じたのは、父・頼義が、安倍氏討伐のために、清原一族の支援を求め、「一緒に戦ってくれるのであれば、私たち源氏は清原一族の臣下となって構わない。」とまで、自分達を卑下する必要があったことなのです。(絵③)

また、安倍一族を破った後の所領(奥6郡)も、本来頼義らが受領して良い筈なのですが、清原一族の臣下となり、支援して貰った立場上、実質的には清原一族が治めることになったのです。

源頼義・義家親子が苦労して戦った前九年の役は、結果的に彼ら親子にとってなんら益になることは生じず、役が終わった翌年、頼義は朝廷へ他国の国守へ転勤願いを出している程です。

これくらいの事で、清原一族を根絶やしにするなんて・・・と思うのは現代の感覚で、この証左は、後、この合戦中に出てくる史実が語ってくれます。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

④多賀城跡にある多賀神社
ということは、義家の屈折した野望と、清衡の野望はある意味一致します。事態は上手く使えば、清衡の野望を遂げることに大きく寄与することになるかも知れません。

彼は筆を執り、義家と秀武叔父に文を書きます。それを吉次に持たせ、夫々の館に向かわせます。

義家は、その書面を読み終えるとニヤリとします。

3.家衡との所領分配

それから1週間程経つと、清衡のところに、義家から使いが来ます。「至急、義家の館に来て欲しい」とのことでした。

そこで、清衡・家衡は、多賀城の義家の館に向かいます。(写真④)
家衡は敗北後の呼び出しですので、陸奥国守としての裁きを言い渡されるのだろうとビクビクしています。

⑤清衡と家衡の土地割譲
※水色が家衡、ピンクが清衡
予想通り、裁きの言い渡しでした。ただし、真衡が家長として治めていた奥6郡を清衡と家衡に半分ずつ分け与えるというものです。(地図⑤)

地図⑤の北3郡(点線内水色部分)が家衡、南3郡(ピンク部分)が清衡の土地として割譲すると義家は言います。

義家に敗れた清衡・家衡なのですから、斬首や領地召し上げ等の沙汰であってもおかしくないのに、領地までくれるとは・・・。ちょっと疑問に思う家衡に義家は云います。

「今回の兄弟ケンカの原因は自身の短慮にあったと、秀武殿から詫びを入れて来た。そして自分はどうなっても良いので、清衡・家衡2人には寛大な措置を!という嘆願があった。予は秀武殿の心意気に感心し、2人を許し、真衡の土地を割譲したいという訳じゃ。」

家衡は感激してその場を辞します。

この後、清原一族と義家は、束の間ですが平和な日々が続きます。
清衡は割譲された土地が義家の居る多賀城に近いこともあり、また以前お話した魂胆もあるので、義家に急接近します。

ところが、土地割譲当初感激していた家衡は、徐々に不満を募らせて行きます。
それは、この土地割譲が清衡にとって非常に有利であることに気が付くからです。

まず、多少土地が広くても、南3郡に比べると米の取れ高が小さいのです。まあ、それだけであれば兄弟の差なので我慢も出来ますが、最大の差は良い金鉱の有無です。

⑥玉山金山
以前お話しました玉山金山をはじめとする金は、この清衡側の土地で採掘可能なのです。

この採掘される金を使い、清衡はありとあらゆる周旋を行っているのです。(写真⑥)

実は、清衡はここから産出される金を使い、義家に土地割譲について自分が優位になるよう周旋したのです。

清原一族を殲滅したいと考える義家の考えを察知した清衡は、なんとか自分が殲滅候補の最後になるように工夫・調整するのにも金を使ったのだと思います。そして、それに成功します。

義家は清衡・家衡が連合する清原一族には、先の戦などから自分だけでは勝てないと正確に認識しました。なので、順番に1人づつ始末します。
その場合の次のターゲットは、清衡ではなく、家衡になったのです。

家衡も、この不公平な土地割譲をした義家や、それに急接近する清衡が気に入りません。

このような対立が熟したところで、清衡が兄弟紛争を仕掛けます。

ただ、この紛争は単に戦を清衡と家衡ですれば良いというものではありません。
清衡は義家を味方につける大義名分が必要なのです。
それには家衡側から、清衡を最初に攻撃させる必要があるのです。

家衡から攻撃された清衡は、その正当防衛に、役人(国守)である義家に陳情し、味方についてもらう。そして家衡を滅ぼす大儀名分と義家を味方に付けた清衡は易々と家衡を滅ぼす。

清衡はその役を、かつて真衡の庭にお祝いの品を投げつけることで後三年合戦を引き起こした秀武叔父に、担ってもらうのです。

⑦「平安の風わたる公園」にある
平安当時の館再現
4.清衡館への夜襲

秀武叔父も、既に清衡に調略されています。秀武叔父は滅ぼした安倍一族から清衡を連れて来た時から、彼に同情的でした。

秀武叔父は清衡が生き残り、清原家がまとまれば良いと考えていたのでしょう。

よくよく清衡とも相談し、先に描きました義家への取成しの対応や、今回の家衡との衝突の発火役も担ったのだと想像します。

秀武叔父は、家衡の屋敷に行き、彼に言います。(写真⑦)

「兄・清衡は、家衡さまをないがしろにしています。清原武則の直系である家衡さまこそが、清原家の家長であって良い立場であるのに!」

「秀武どうすれば良い?」と家衡は秀武に問いかけます。

「清衡の館に夜襲をかけるべきです。焼き払えば良い。」
「しかし、清衡の館には母が居る。」
「お母上は、この秀武が事前にお逃がしいたしましょう。」

家衡は清衡の館を夜襲することを決心します。

⑧清衡館襲撃
実は、この母上を逃すことは、当然清衡の母上でもあることから、空約束ではなく、清衡からも固く言われていることです。他にも清衡の妻子も皆、夜襲と同時に避難させる計画でした。

ところが、家衡が清衡館を襲う夜、何者かが家衡軍の襲来の少し前に、館に火を掛けるのです。(絵⑧)

清衡は慌てて消火し、母・妻子を避難させようとしますが、そこに家衡軍が攻め寄せ、わやくちゃになり、結果母、妻子全員焼死させてしまうのです。

清衡は、これは家衡のものがやったに違いない。家衡は、清衡が自分を陥れるために自作自演でやったことに違いないと確信しあい、本当にこの2人は憎み合い始めるのです。

5.おわりに

この清衡の作戦の想定外の失敗についても諸説ありますが、やはりこれも義家が画策したとの説が強いです。

清衡は義家を甘く見ていますね。義家は、清衡に気を許しているように見せかけますが、実は、清衡と家衡が心の底から憎み合い、加速して互いに力を奪い合うよう仕向けているのです。そして清衡と家衡がお互い死力を尽くして闘った後に、漁夫の利を狙うかのような形で、義家が清原家を易々と殲滅することを考えているのですから・・・。

先に描きました義家が清衡から貰った書面を読んでニヤリとしたのは、清衡が義家の計画が見通せたように、義家もまた清衡の計画が見通せてしまったからなのです。
⑨金沢柵から沼柵方面を臨む
(両柵とも合戦のクライマックス)

この時点で、この後三年合戦は、清衡と義家の「たぬきときつねの化し合い」の様相を呈して来るのです。

ただ、外面的には、清衡&義家軍 v.s.家衡軍の戦いがこの合戦のクライマックスとして続きます。
次回描きたいと思います。(写真⑧)

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