マイナー・史跡巡り

月曜日

中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~

私は、豊臣秀吉の天下統一は、20万の大軍による小田原城攻めの完了により成就したと教育されてきたような気がします。

天下統一を果たす有終の美を飾るため、20万もの大軍による小田原城包囲戦は、毎夜毎夜宴会を開き、美女を沢山連れての物見遊山のような秀吉。豊臣軍は、圧倒的な大軍と供給物量を嵩に、北条軍の精鋭部隊である韮山城、山中城をたった半日程度で陥落します。

そして、小田原城西南約2.7kmの至近距離に、一夜城を築城する等、大軍に付き物の遅滞する行動は全く見られず、むしろ迅速な軍事行動に小田原城北条軍は戦意喪失。
①九戸城本丸にて

この破竹の勢いに、東北の伊達政宗が遅れて参陣するも、秀吉に恭順の意を表し、後は小田原城が落ちれば、秀吉の天下統一は成立すると。

そして小田原城は1590年7月落城。

これにより、日本国内での武家争乱は完了したものの、飽くなき野望を持つ秀吉は、日本国内だけではもの足りんと、中国は明をも攻略する無謀な計画を立てます。

そして、その冊封国(さくほうこく)である李氏朝鮮に服属を強要しましたが、拒まれたため、この明国鎮圧軍をまず朝鮮に差し向ける、歴史で習う朝鮮出兵に向かうと考えていました。

ところが今回、陸奥の国(岩手県)を旅していて、この認識を改めなければいけないことが分かりました。

もう少しこの辺りの日本史を勉強していれば、小田原城落城ではなく、その後の奥州仕置までが、秀吉の天下統一の総仕上げとの認識を持つことは出来たと思います。(反省します。)

しかし、更にその奥州仕置後に、豊臣軍が奥州の北側にある九戸城にて最後の鎮圧行動に出ていたことが分かりました。(写真①

つまり、この九戸城が落城した時こそ、天下統一の総仕上げだったことになるのです。

では、この九戸城鎮圧の経緯を、主に豊臣軍目線で見て行きたいと思います。

1.名馬の産地・奥州

さて、このBlogの前作まで長々と描いてきました鎌倉時代までの奥州王国、その富の源泉が「」と同時に「名馬」もあったと書いてきました。
②陸奥(岩手県北部)の9つの「戸」

この名馬、主に陸奥の国で成育されました。(図②

この時に出来た牧(まき)に、名前が付けられました。それが図②にあります一戸から九戸までと東西南北の四門です。

なので、八戸は中核市として有名ですが、他の数の「戸」が付く土地もあり、これらは名馬の牧の管理戸を表す形の地名だったのです。

これらの「戸」は名馬を生産するだけでなく、その土地、土地の豪族として力を付けて行きます。

源頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼし、奥州王国を滅亡させた後、この合戦で功績のあった南部氏をこの土地に配置します。

南部氏自体は元々甲州(山梨県)の南部、富士宮市のちょっと西、現在の南巨摩郡南部町を所領に持つ河内源氏の一族でした。

甲州ですから、実は南部氏も、後三年合戦で義家へ官職を投げうち駆けつけた、あの新羅三郎義光の子孫として、武田氏と同列なのです。

ただ、武田氏は後々、武田信玄で有名ですが、戦国時代に掛けて、甲州をまとめあげる訳ですから、南部氏がここ甲州に居座れば、いづれは武田氏に吸収合併されていたかもしれません。

2.三戸(さんのへ)と九戸(くのへ)

その南部氏が、勢力を拡大して行ったのが、陸奥の国の中の「三戸」です。ここを中心に、各戸で増長してきた豪族をまとめあげて行くのです。

特に南北朝以降に急激に勢力を拡大して行きます。また、他の戸を抑え、この南部氏と付かづ離れず勢力を拡大した「九戸」の豪族が九戸氏となります。室町幕府からは九戸氏は、南部氏と同列に見なされていたようです。
③九戸政実イメージ
九戸政実プロジェクト『マンガ 九戸政実物語』より

3.九戸政実(くのへまさじつ)

この九戸氏の中で16世紀後半、南部氏と奥州北部で勢力拡大を図ってきたのが九戸政実です。(絵③

この人が歴史のメインストリームに浮上してくるのは、この小田原城包囲の戦が終り、秀吉が奥州仕置軍という組織を作った後のこととなります。

九戸政実の乱」というものを起し、また大量の豊臣軍を、わずかな九戸城籠城兵で迎えうつことになるのです。

では、どのような経緯なのか、南部氏との関係から順に見て行きたいと思います。

4.南部信直(なんぶのぶなお)

さて、小田原城の北条氏が、秀吉への抵抗を多少は期待したであろう東北方面の武将たちでしたが、遅参したとは言え、仙台の雄・伊達政宗(だてまさむね)が秀吉に恭順の意を示す形となったことで、ほぼ東北も秀吉に逆らう勢力は無くなり、北条氏の希望も無くなりました。

伊達政宗の遅参は非常に有名ですが、この後、北奥州を代表する形で秀吉へ恭順の意を示したのが南部信直(なんぶのぶなお)という武将です。

実は、この南部信直が、南部氏の当主であるということに、九戸政実を始め、当時の奥州の数多くの武将が不満を持っていました。

④南部家の鎧(10代盛岡藩主のもの)
※盛岡城蔵
お家騒動の感があるので、簡単に説明します。この信直という人は、先代の養子なのです。ところが先代に実子が出来ます。よくあることですが、そうなると養子である信直は疎まれます。ところが先代は、わずか13歳の実子を残し他界するのです。

すると信直、この幼き実子を罠にかけ殺害し、自分が南部氏の当主に返り咲くのです。

なんかワルな感じしませんか(笑)?

どこまで本当に信直が手を下したのかの真相は、まだ闇の中のようです。

しかし、信直は頭の回転が早く優秀なので先代から養子に抜擢されたのですが、その優秀さが北奥州の朴訥な武将の間では狡猾さに見えたのでしょう。

更に信直をワルにみせるのが、小田原城落城後に、秀吉と脈を通じるようになった彼が、秀吉の権威を嵩に着て、北奥州に対する秀吉の圧政の後押しをしたように見えたからです。

ただ、ご存知のように、結局南部氏は、代々盛岡藩や八戸藩等、この北奥州で存続していくのです。(写真④

5.宇都宮仕置・奥州仕置

繰り返しになりますが、小田原征伐が秀吉の天下統一総仕上げだから、示威行動として20万もの大軍を引き連れて来たと、私は勘違いしていました。

⑤小田原城落城後の豊臣軍の行動
そもそもこの20万もの大軍、小田原城の北条氏だけでなく、北関東から奥州まで、広く秀吉が平定するための遠征軍だったのですね。

これらの遠征軍は、この後、宇都宮仕置、奥州仕置という活動を行います。(図⑤)

1590年7月11日に小田原城を落した後の豊臣軍の動きですが、約2週間後の26日には、宇都宮城に入り、東北方面の所領について以下のような裁定を行います。これを宇都宮仕置と言います。(図⑤

「仕置」とは、子供等にする「おしおき」の事なのですね。

南部信直常陸の国(茨城県)佐竹氏は、図⑤にある領土をそのまま安堵します。

しかし、伊達政宗は、かなり厳しい「お仕置き」を秀吉から受けます。

政宗には、この小田原征伐参陣の9か月以上前に、秀吉から1589年11月中に上洛して謁見しないと北条氏と同様に攻め入ると勧告されていました。

しかし、政宗は上洛どころか、その11月に会津(福島県)蘆名(あしな)氏に攻め入り、その一帯を切り取ってしまいます。これで150万石程に所領が膨れ上がっているのですが、以下の理由で、切り取った会津の地は、秀吉お気に入りの武将・蒲生氏郷(がもううじさと)に新封として与え、政宗は72万石まで減封されてしまいます。(写真⑥

【減封理由】

①勧告にも係わらず11月中に上洛しなかったこと
②そもそも蘆名氏領である会津に攻め入ったことは、惣無時令(武将同士の平和条約のようなもの、秀吉の許可なくに相手の領土に攻め入らない等の命令)に反していること
③小田原攻めに遅参したこと

⑥蒲生氏郷と言えばこの甲冑!!
※しかしどうしても佩楯の部分が
テンキーに見えてしまいます(笑)
特に②については、小田原攻めの口実が、真田昌幸名胡桃(なぐるみ)城に北条が攻め入ったのは惣無時令に反しているということから始まったくらいなのですから、政宗は本当は、秀吉に攻め滅ぼされても文句は言えなかったかもしれません。

ただ、政宗は小田原攻めに遅参でも参陣したことで、なんとか首の皮は繋がった訳です。

となれば所領が半分以下にされても、まあ寛大な処置に見えなくもないとも思います。

そして、豊臣軍は政宗の案内で、蒲生氏郷浅野長政奥州仕置軍筆頭とし、宇都宮を出発します。

途中秀吉自身は宇都宮に戻ってしまいますが、奥州仕置軍は8月上旬の暑い盛りに、図⑤の水色の矢印のように、途中抵抗勢力を鎮圧しながら、奥州平泉あたりまでぐるぐるっと巡察行軍を行うのです。そして豊臣軍から代官等を奥州に残し、仕置軍は引き揚げます。

これにより、やっと秀吉の天下統一の総仕上げは完了するのです。

6.石田三成の深慮遠謀策

ここからは石田三成の出番です。戦乱が去ったら去ったで、新たな悩みが秀吉というか、豊臣家の安泰に腐心する三成に発生します。

それは

「天下統一後の経済社会システム

です。

応仁の乱以降、120年以上に渡って国内の戦乱に明け暮れた日本には、武士だけでなく、武器商人やらなんやら戦で生計を立ててきた人々が大量に膨れ上がっているのです。この人たちが天下統一で一気に失業となると、当時の日本経済は崩壊します。

このような天下統一によるハードランディングではなく、なんとかソフトランディングをしなくてはならないという発想及び対策は、三成以外できる武将は居ません。(絵⑦
⑦石田三成

そこで彼が思いついた深慮遠謀策が「朝鮮出兵」なのです。

彼は、この構想を推し進めるにあたり、奥州に対し、以下の2つの対策を練ります。

①寒さの厳しくなる朝鮮半島と同じ様な気候の奥州以北で役に立つ人夫を調達し、朝鮮出兵に投入すること
②奥州以北で戦をすることで、極寒の朝鮮半島での戦の事前演習をすること。

三成は、奥州仕置軍の巡察行軍中、奥州のあちこちで反乱があるのを目の当たりにしています。そこで彼が得た推論は、以下の通りです。

「奥州は元々まつろわぬ人である蝦夷(えみし)の国であり、中央権力に対する反骨精神が昔から強い。したがって、圧政を敷けば、かなり規模の大きな反乱がここで発生するのではないだろうか?その鎮圧のために軍を送れば、②が実現するし、更にその時の捕虜等を①にあてがえば良い。」

そして三成は、奥州仕置軍が残した代官に、かなり厳しい検地や刀狩り、取り立てを実施するように仕向けます。そこで南部信直は、先程述べた通り、この圧政の後押しをするのです。

これらはかなり効果を発揮します。図⑤で反乱を起こした葛西、大崎、和賀、稗貫等の地方から、不満分子が沢山発生し、それらの人々は皆、秀吉に取り込まれた南部氏に対抗する勢力となりうる九戸政実のところに集まるのです。

九戸政実は、九戸城にて戦の準備を開始します。(写真⑧

⑧九戸城展望
これはまさに三成の策にハマりつつあるわけです。

7.「九戸政実の乱」勃発

そして、とうとう小田原征伐の翌年1591年3月に九戸政実は、三戸城の南部信直に対し、本格的な戦闘を開始します。

九戸政実はこの時、この地域では珍しく、鉄砲を沢山所持しておりました。
というのは、出羽(秋田県)との国境あたりの山中に硫黄が採れる場所を隠し持っていたようです。(安部龍太郎氏著「冬を待つ城」から)

硫黄は当時の鉄砲にとって火薬として重要な成分ですから、高く売れるのです。これを売った金で鉄砲を大量に買い込んでいました。

これと名馬の機動力を活かす九戸軍に対して、南部軍は苦戦します。

南部信直は、1か月も持たず音をあげ、秀吉に援軍を要請します。

それから3か月後の7月、会津に居る蒲生氏郷を中心に、討伐軍が編成されます。

その数6万5千

一方、九戸城に集まる反乱分子は5千です。(絵⑨

⑨九戸城へ押し寄せる豊臣軍
※戦国ダンシ「九戸政実物語」より抜粋
続きは、次回描きたいと思います。
長文、ご精読頂き、誠にありがとうございました。

【九戸城】岩手県二戸市福岡城ノ内146−7
【盛岡城】岩手県盛岡市内丸1−80

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日曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~

①義経最期の地 高館(たかだち)
前回、奥州藤原氏3代目の藤原秀衡(ひでひら)源頼朝の謀略比べで、最後は江の島弁財天への祈願をしたことによる、紙一重の差で勝った頼朝の話をしました。(詳細はこちらをクリック

奥州王国の末路、話を続けます。

1.頼朝の深慮遠謀第2段

さて、秀衡亡き後の奥州藤原家を継いだのは、4代目、泰衡(やすひら)です。

秀衡は臨死に際し、泰衡ら息子と義経を集め、「義経を総大将として、皆で力を併せ頼朝に対抗する」という起請文を書かせたことは前回お話した通りです。

深慮遠謀を持つ秀衡の遺言的な起請文。これが健在である限り、秀衡程の智謀を持たない泰衡と義経をトップとする奥州王国軍17万騎を切り崩すのは、頼朝にも大変な事です。

②後三年合戦における同族の争い
清原家衡(左)と清衡(右)
※出典:胡原おみ氏「後三年合戦物語」
奈良時代の律令という国家のシステムが形成されてから、平安時代に入り、摂関政治等を経ながら、システムとして複雑化し、東北の蝦夷(えみし)の地にバーチャル(仮想)国家である奥州王国まで出来てしまいました。
この混沌とした日本を、シンプルな武士による統一国家になんとか再構成し直したいと考える頼朝。

当然彼はこのバーチャル国家である奥州王国を潰す必要を強く感じているのです。

というより、当時1189年より133年前の1056年に源頼義(よりよし)から始まった前九年の役と、その息子・源義家(よしいえ)が中心となった後三年合戦(1083年)で、源氏のDNAには「蝦夷の国は色々な意味でキケン!徹底的に排除すべし」という掟が刻み込まれてしまったのかも知れません。

現代と違って、この時代は時間の割に物事の進歩が遅いので、100年以上前と言っても、たかだか10数年前のことのように語り継がれているのだと思います。

そこで、頼朝は100年前の後三年合戦で、源義家(よしいえ)が用いた謀略に倣(なら)った深慮遠謀第2段を発動します。

以下の図③を見て下さい。
③後三年合戦の反省を活かした頼朝の構想
※図中の「外交圧力」とは
朝廷を介した間接的な圧力のこと
図③の上段ですが、義家は後三年合戦で奥羽の清原一族(藤原氏の始祖)を潰すために、兄弟である清衡(きよひら)家衡(いえひら)をワザと対立させるよう仕向け、同族同士で死力を尽くして戦い合うことで両者の力を削ぎ、最終的には両者ともに自分が潰してしまおうと考えていたのです。(絵②も参照)(詳細はこちらをクリック

④高館の義経堂
これは上手く行くように見えました。しかし、その義家の考え方を事前に察知した清衡が、義家を巧みに使い家衡を滅ぼした後、義家が清衡に手を出す前に京の朝廷等へのロビー活動による外交圧力により、義家を京へ呼び戻す事態を作り、更に義家を奥羽から退去するように仕向けるのです。そして清衡は、義家を追い出した後、奥州藤原氏を名乗り、最後の勝者となります。

図③下段ですが、この後三年合戦を参考に、頼朝は自分を義家に見立て、泰衡と義経の2人を、清衡と家衡に見立てます。そして、後三年合戦で何故義家が清衡と家衡の2氏諸共滅ぼせなかったのかを分析し、以下の2つの結論に達しました。

①義家自体が抗争の前面に出過ぎ
②義家が京の中央政権を抑えず、清衡に抑えられたことにより外交圧力を掛けられた

これらの反省を活かすことで、藤原泰衡と義経両者とも間違いなく潰し、自分が勝者になろうというのが、後に起こる奥州合戦への頼朝の構想です。

2.義経の高館(たかだち)での最期

頼朝は、早速朝廷に宣旨(せんじ)を出させ、泰衡に対し、義経を討伐するように外交圧力を掛けます。当然、泰衡は亡父・秀衡との約束上、これを拒絶します。ただ返答の言い方は、「義経は平泉に見当たりません。」との建前(たてまえ)で報告するのです。

しかし、これは頼朝の思うつぼ、頼朝は朝敵を匿う泰衡は賊軍として、またまた朝廷から泰衡討伐の宣旨を出してもらうよう京の中央政権に対して圧力を掛け続けるのです。

⑤奥州高館城大合戦之図(歌川国芳作)
※真ん中で奮戦するのが弁慶
暫くすると泰衡から頼朝の元に書状が来ます。内容は「もし義経が平泉に来たら、捕まえて鎌倉へ差し出します。」

これを見た頼朝はニヤッとします。「泰衡の奴、余程朝敵にされるのが怖いと見える。この書状で許せと言うのか?先代の秀衡だったら、こんな書状を送って来るようなヘマはせず、黙って今頃は義経と一緒に17万騎率いて鎌倉に攻めているであろうものを・・・」

そして、更に朝廷に対し、泰衡討伐の宣旨発出の要請を強めるのです。

やはり泰衡も義経らと同じ、将来を見通す構想力・戦略能力は殆ど持たない武将なのですね。完全に頼朝の手のひらで転がされています。

とうとう、朝敵にされそうな泰衡は、プレッシャーに耐えきれなくなり、平泉で義経が住んでいる高館(衣川館:ころもがわやかた とも言う)を数百騎で攻めます。(写真④絵⑤

⑥高館から北上川を臨む
※「夏草やつわものどもが夢のあと」
の句がここにある
本当に頼朝の思惑通りですね。もしこの数百騎が泰衡軍ではなく、頼朝の鎌倉軍だったら、多勢に無勢で勝ち目の無い戦いであったとしても、戦上手の義経の事ですから、撃退する可能性もあったかも知れません。しかし、そこは人情に篤い義経。ずっと世話になった奥州藤原氏から攻められれば、やられるに任せるしか無かったのでしょう。(写真⑥

実際、絵⑤のような弁慶の大立ち回りや、部下の奮戦とは対照的に、館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず写真①のお堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自刃します。享年31歳。1189年4月30日のことです。

そして、弁慶はご存知の通り、最期は写真①のお堂の前で、義経が自刃する時間を作り出すために、どんなに槍で刺されても、矢が刺さっても倒れることなく死んでいった「弁慶立ち往生」の伝説が残っています。

弁慶のお墓は、中尊寺の前の大きな松の下にあります。(写真⑦

「色変えぬ松の主(あるじ)や武蔵坊」
⑦中尊寺門前にある弁慶の松(墓)

後世に中尊寺の僧が詠んだ歌です。

3.義経の御首(みしるし)

泰衡は、6月に酒に浸した義経の御首を頼朝の居る鎌倉へと送り、恭順の意を示します。

義経の御首は、鎌倉の西の外れ、腰越の海岸で検視されます。前々回の「義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~」(ここをクリック)でも書きましたが、どういう訳か義経は壇ノ浦で平家を滅ぼして以来、兄・頼朝の居る鎌倉へは入れず、鎌倉の西の外れ、腰越止まりなのです。

しかも、この腰越海岸で検視された後、義経の首は海岸に打ち捨てられたままなのでした。(写真⑧

さて、義経が討たれたと聞いてから、1か月程、頼朝はいつも考えていました。

というのは上記作戦に2つ程見込み違いがあったのです。

1つは、義経を立てて鎌倉を攻めるのかそれとも鎌倉へ恭順の意を示すかで、奥州藤原一族の中でももう少し混乱があり、むやみに一族同士で消耗してくれればと思っていたのに、あまりにあっけなく恭順となってしまったことです。特に義経の御首を差し出されてしまえば、鎌倉方は本命である奥州王国殲滅の口実が霧消してしまいます。

⑧義経の御首が討ち捨てられた腰越海岸(手前)
海岸越しの湾を挟んで対岸は江の島です
もう1つは、朝廷がなかなか泰衡追討の院宣を下してくれなかったことです。頼朝のシナリオでは、泰衡たちが恭順の意を顕すのに、もう少し時間が掛かり、その間になんとか朝廷から泰衡朝敵の院宣を取り、それを錦の御旗に、奥州王国を殲滅する、そういう構想だったのです。

しかし、奥州から義経の御首が腰越で検視され、そのまま打ち捨てられたと聞いた時、頼朝は、ハッと思いつきます。「そうだ!そうしよう。江の島弁財天さま、ありがとうございます。」

4.奥州合戦と征夷大将軍

義経の御首を差し出すことで、恭順の意を示し、討伐の院宣の申請を取り下げてもらうよう努力した奥州藤原氏を、頼朝は1189年7月に大軍を持って鎌倉から攻めに出かけます。

頼朝は院宣の発出は諦めました。江の島弁財天に秀衡調伏の祈願をしていた1182年当時とは、平家を滅亡させた鎌倉軍の規模も強さも違います。また戦の天才、義経が指揮をしない奥州軍なぞは、院宣が無くても十分勝てると見込んだのです。

⑨灰となった平泉の中央庁舎「柳之御所」
※奥に見える小山が「高館」
以前Blogにも書きましたが、院宣がある場合は「役」、院宣が無い私戦の場合は「合戦」と呼びます。「前九年の役」は源頼義が安倍氏討伐の院宣により安倍氏を討ったのですが、「後三年合戦」では、源義家が清原家衡らを院宣無しで討伐しました。
同様に、この奥州王国殲滅作戦は、のち「奥州合戦」と呼ばれます。

ただし、殲滅のための口実は必要です。そこで、江の島弁財天が頼朝に囁いたかどうかは分かりませんが、屁理屈を考えついたのです。

「泰衡は『もし義経が平泉に来たら、捕まえて鎌倉へ差し出します』と言ったよな?それなのに大事な私の弟、義経を殺してしまうとは何事か!成敗してくれるわ。」

あきれてモノも言えない口実ですね(笑)。

しかし、それでも充分な勝算があれば、口実なぞ後で何とでも評価してくれというのは、大阪城を攻める口実を方広寺の鐘の刻印に求めた徳川家康と同じです(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇
8月、緒戦で負けた奥州軍は、平泉に火を放ち、北に逃走します。

⑩厨川柵(盛岡市)
夏真っ盛りの夕刻に頼朝が平泉へ到着しますが、広大な庁舎などは灰となり、人影もない寂寞とした景色が広がっていたと言います。(写真⑨

また焼け残った倉庫からは、予想通り莫大な「金」が出てきました。
鎌倉軍は目を見張りましたが、頼朝は一言、「この財が基で奥州王国は、100年以上の独立性を確保できていた訳だ。これで終わりにしよう。統一(武家)社会の幕開けだ。」

そして、泰衡を追いかけ、最後は100年以上前の前九年の役源頼義が、安倍頼時を滅ぼした現在の岩手県盛岡市にある厨川柵にまで進軍します。(写真⑩

この時頼朝の軍は28万4千にまで膨れ上がりました。

泰衡は、逃走中部下の裏切りにより、既にこの時、首をとられていました。
源頼義前九年の役の将軍として討ち取った安倍頼時にした故事に倣い、頼朝はこの泰衡の首を、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けたのです。それを見ていた28万の軍勢は一斉に鬨の声を上げ、源氏が奥州と戦い始め、100年以上経った今、新しい統一(武家)社会を完成に導いた頼朝に対し、歓喜したのでした。

⑪義経の御首は江の島の海岸から境川を遡り
6㎞上流の白旗神社まで頑張って北上
5.おわりに

いかがでしたでしょうか。前九年の役の話から始まった源氏と蝦夷(えみし)との対立抗争、100年間のスパンの話を全10回のシリーズでお届けして来たお話もこれが最後となります。

8月頭の2日間の調査以降、約4か月間の長きに渡り、お読み頂きどうもありがとうございました。

最後に腰越海岸に打ち捨てられた義経の御首がどうなったのか、物語風に描かせていただくことで、このシリーズをしめくくりたいと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

義経の首は、腰越海岸が満潮になると、潮にさらわれ流されました。沖には江の島があります。江の島弁財天は近づいてくる義経の首に声を掛けます。

「義経、義経、ご苦労様でした。この江の島の岩屋でゆっくりと休んでくださいね。あなたの活躍は充分見ていました。あなたは最期まで仁のある人物でしたね。」

⑫白旗神社にある義経首塚
「弁財天さま、私は尽くしてくれた泰衡殿も兄上である頼朝殿も、皆争わないで欲しかった。なので抵抗せずに泰衡殿に殺されることで、鎌倉にも奥州にも戦う口実を与えず平和が来ることを願って岩屋で休みます。」

「義経殿、それはちょっと違います。7年前、頼朝殿は私に奥州藤原氏の調伏を祈願しました。私もこの国が本当に統一された平和な社会になるには、バーチャルであっても奥州王国のような形は無い方が良いと考え、その計画は現在も進行中なのです。あなたには残念でしょうが、奥州王国は無くなってもらいます。」

「そ、それでは義経は何の役にも立たなかったのですか?犬死ですか?」

「いえ、平家を倒したことは勿論、奥州にあなたが居たことも全て、統一(武家)社会を創るという大きな貢献であったことが分かりませんか?」

「岩屋で休んでいる場合ではございません。今より北へ向かい少しでも泰衡殿、いや奥州の役に立たねば・・・。」

と言って、少しでも奥州へ戻ろうと、江の島に注いている境川を、どんぶらこ、どんぶらこと満ち潮に乗って北上していました。
しかし、6㎞遡ったところで、首は力尽き果てました。(地図⑪
そこで御首を川からすくい上げ、首塚を作ったところが、白旗神社です。(写真⑫
⑬江の島のトンボロ
出典:高橋由一「江の島図」

これを江の島の上から見ていた弁財天は、至急、江の島周辺の海流の流れを変え、江の島と本土が繋がる砂浜を作ります。これはトンボロ現象というもので、現在の江の島もそうですが、1216年に突然出来たとの報告が当時の源実朝(さねとも)になされています。(絵⑬

地続きになったトンボロを通り、白旗神社の義経に会いに行った江の島弁財天は義経に何を伝えたかったのでしょうか。

勿論、トンボロが急にこの鎌倉時代初期に出来たことは、単なる偶然かも知れません。
ただ、悠大な源氏と奥州の歴史の区切りと何らかの関係があると思う方がロマンチックだなあと感じるのは私だけなのでしょうか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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【高館義経堂】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所14
【武蔵坊弁慶の墓】岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関衣関
【柳之御所跡】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所
【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目4
【江の島弁財天】神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号
【白旗神社】神奈川県藤沢市藤沢2丁目4−7

木曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~

①腰越から臨む江の島
前回のBlogでは、奥州藤原氏が、立ち上げたばかりの鎌倉に居る頼朝のところに2万の軍で攻めて来る予定であったと書きました。(詳細はここをクリック

挙兵したばかりの時期は、目の前の敵である平家だけでなく、奥州王国からも攻められる可能性のあった頼朝。

東北の奥州王国17万騎と西の平家から挟撃されれば、鎌倉方はやはりひとたまりもありません。

この当時の奥州藤原一族の長である藤原秀衡(ひでひら)は、義経を京の鞍馬山から平泉に金売り吉次を使って下向させ、養育しました。それは100年前の前九年と後三年の悲劇を繰り返さないために、源氏のピカ一の遺児である義経を奥州王国側に付ける目的だったのです。(前回のBlogもご参照頂けると嬉しいです。こちらをクリック

2万の軍で攻める予定であった奥州藤原氏がこれを思い止まったのは、この取り込んだ義経が、敵対しようとした頼朝の元に、兄弟の情により駆け込んでしまったからなのです。

この時頼朝は、義経と黄瀬川にて涙の対面をし、「よく来てくれた。兄弟仲良く父の仇を取るため、平家を討伐しようぞ!」等と人情論を述べながらも、その実、義経の背後にある奥州藤原氏が作り上げた奥州王国を強く意識・畏怖していました。

後年、討ち取られた義経の御首(みしるし)を見て、「悪は去った」と宣(のたま)った頼朝のくだりは有名ですが、頼朝は義経自身を「悪」と言ったのではなく、彼の御首に奥州王国の御首を重ねていたのだと思います。

ここまでが前回のBlogの概要ですが、先日、頼朝が如何に奥州藤原氏を怖れていたのかが分かる証拠を見つけました。
それが意外にも、かなり身近な有名な観光地にありました。

江の島です。(写真①

②弁財天のイメージ
(ゲームキャラ)
1.弁財天

関東方面に御在住の方なら、一度は行ったことのある江の島。私もガキの頃から、もう何十回も行っている場所ですので、この島に弁財天が祀られていることは良く知っていました。

水の神様である弁財天は、全国池や海等、およそ水のある処、至る所にあり、琵琶(びわ)を持った平和な女性の神様が祀られているというイメージです。(絵②

ところが、今回調べて初めて分かったのですが、江の島の弁財天は、このようなオーソドックスな弁財天とちょっとイメージが違うのです。(写真③

弁財天には2つのタイプがあることが分かりました。2臂像(にひぞう)8臂像(はっぴぞう)です。

2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっています。つまり絵②にみられる典型的な弁財天は、この2臂像のようです。「2」は腕の数なのでしょう。

一方、江の島のこの弁財天は8臂像で、8本の腕に、ありとあらゆる武器を持っており、これを駆使する技量をもっているという像なのです。(写真③
③江の島の八臂弁財天

つまり、江の島の弁財天は8臂像で、これは武神として祀られているのです。

2.文覚(もんがく)の助言

この弁財天、まだ挙兵2年目の1182年に頼朝が怪僧文覚(もんがく)に命じて、江の島に勧請(かんじょう)せしめ、21日間祈願させたものです。(絵④

教養高く、深い知見を持った文覚という人物は、非常に反骨精神が強かったようです。
時の権力者である後白河法皇に反発し、暴言を吐いて、残念なことに伊豆に流刑になってしまいました。

(文覚の過去や伊豆での生活については同志の内田氏のBlogが楽しいです。是非ご参照ください。ここをクリック

文覚は、当時同じく伊豆に流されていた頼朝に会い、父・義朝のドクロを見せ、平家打倒の挙兵を促したという伝説が残っています。

このドクロを見せた辺りの話の真偽はともかく、頼朝の挙兵に関して、頼朝が利害を超えて相談できる相手だったように感じます。当時の頼朝の後見役である北条時政らは、あくまで自分達の利害から入りますから、利害を超えて相談できる人はそんなには居なかったでしょう。

④祈願する文覚(歌川国芳画)
彼の言う通り平家打倒のため挙兵した頼朝が、挙兵当時から平家以上に怖れたもの、それが奥州王国でした。

頼朝は、「既に平家の公達の中に人物は居ない。これだけ政治の表舞台でも一般人からも評価の悪い平家は、もう滅びるのは時間の問題」と捉えていたのだと思います。

問題は秀衡が率いる奥州王国17万騎。頼朝自身本当は西へ平家討伐に行きたいところですが、それではこの鎌倉に奥州王国が攻め込んで来ればひとたまりもありません。ですので、坂東武者求心力の源である頼朝は鎌倉を動けない。彼の悩みは深いのです。

そこで頼朝は、当時罪を赦されて帰洛(きらく)していた文覚を鎌倉へ呼び寄せ、この秀衡対策に悩んでいることを相談します。すると文覚一言。

「弁財天を江の島に勧請なされい。」

「は?弁財天?」

頼朝も何で弁財天なのか分かりません。毘沙門天や阿修羅のような軍神を勧請するならまだ分かりますが、どうしてそんなやさしそうな弁財天を?

教養深い文覚は答えます。

「頼朝殿が一番恐れているのは、奥州王国の「金」ではないか?
弁財天は弁天とは違い、財を操る神でもある。
この弁財天を江の島に勧請した後、藤原秀衡の調伏祈願(対立者の破滅の祈願)をすることで、奥州王国の財力を削ぎ、秀衡を滅ぼすことができる。」

⑤頼朝が江の島に建てた鳥居
平家打倒の挙兵時にも、どこを抑えれば良いか文覚に相談し、ことごとく当たる文覚に心服している頼朝は早速、文覚に頼み弁財天を江の島に勧請し、21日間祈願させたという訳です。(絵④

この時、家臣団を引きいて江の島に来た頼朝は、写真⑤の鳥居を建てて行ったと吾妻鏡に記録があります。(写真⑤

3.秀衡の心労

頼朝は、この祈願の後、文覚の言葉通り、早速奥州王国の財に切り込み、この王国を攻め滅ぼす策を考えます。

そして、平家討伐後、挟撃の憂いが無くなり、強気になった頼朝は、早速秀衡宛てに以下の要求を突き付けるのです。

「金・駿馬等の平泉から朝廷へ献上してきた品々については、今後、鎌倉から朝廷へ取り次ぐこととするため、一度鎌倉へ納めること。」

この頼朝の要求を受けるか受けないかで、奥州藤原一族の中でもかなり紛糾しました。
何故なら、これを受け入れたら、奥州王国は鎌倉より一段下ということになってしまいます。

しかし、時の権力に同調し、そのパワーバランスの上に成り立って来た奥州王国。
長である秀衡は苦渋の色を顔に浮かべながら

藤原泰衡(ゲームキャラ)
史実より「乙女ゲーム」で有名
になってしまったようです(笑)
※彼の肖像画、このキャラしか
ググっても出て来ないのです
(T∇T)

出典:こちらをクリック
「これを受けなければ、鎌倉方が攻めて来る。奥州王国は名より実を取ることによって100年間存続してきた。鎌倉方より上とか対等とかの名をとっても意味あるまい、受け入れて、鎌倉方から攻められないという実を取ろう。致し方あるまい。」

秀衡はこの時既に65歳、とても鎌倉に対抗する軍を指揮できる歳ではなく、息子の泰衡(やすひら)もその器量はありません。(絵⑥

また藤原一族も一枚岩ではなく、対立もあるため、鎌倉に勝つためのリーダーシップを取れる人物が平泉には居ないのです。

この時、まだ義経も奥州には来ていません。吉野の山で静御前と別れている頃です。
秀衡らは、この要求を受け入れます。

更に、頼朝は奥州財崩しのための二の矢を打ちます。今度は朝廷を通して院宣として以下の要求をしてきます。

「大仏のある東大寺再建に3万両出せ。」

朝廷の院宣です。結局頼朝は自分に対抗するだけの奥州王国ではなくて、朝廷にも対抗しているという確証が欲しいのです。

ただ、日頃朝廷と貢ぎ物等で強固なコネを作ってきた奥州藤原氏は、この要求を今度はガンとして跳ね返します。

「今まで慣例では千両が良いところだ。3万両は多すぎる。」

頼朝は、朝廷に「ご覧ください。奥州は云う事聞かない悪い奴でしょ?もっと圧力掛けて下さい。」と言いますが、朝廷は日頃の奥州王国との付き合いがありますから、差して問題視しません。

文覚が祈願した通りにはなかなか行きません。頼朝も少々焦ってきましたが、実はちゃんとこの策は効を奏し始めていたのです。

この奥州王国の財を操るいやらしい政治的駆け引きこそが、頼朝を始め、人には予測出来ませんでしたが、江の島の弁財天からすると、非常に重要なプロセスだったのです。

2つの大事を引き起こすのです。

1つは、政治的駆け引きに業を煮やした秀衡が、元々構想していた最後の手段に出てしまうのです。

4.総大将義経

それは逃亡中の義経を平泉に招き入れることです。金売り吉次を使ったかもしれません。(写真⑦
⑦変装し逃亡する義経一行
(満福寺襖絵)

前回のBlogでも描きました(詳細はこちら)が、秀衡は、100年前の前九年・後三年の経験を活かし、平治の乱で敗れた義朝の遺児の中でピカ一と思われる義経を鞍馬山から吉次により平泉へ連れ出し、養育し味方につけることで、源氏からの災いをリスクヘッジしようと考えていたのですから。

頼朝のいやらしい政治的駆け引きに疲れた秀衡は、義経を総大将とする乾坤一擲に掛け、息子泰衡をはじめとする奥州藤原一族に、義経に従い一丸となって鎌倉方と戦う準備をします。これは秀衡の深慮遠謀(しんりょえんぼう)なのです。

とうとう最後の手段に出た奥州王国。ともあれ鎌倉方と戦う機運が熟しました。

5.頼朝の深慮遠謀

逆に、頼朝はワザと義経を平泉まで逃しているのです。
義経の行動を殆ど掴んでいたにも係わらず、これを泳がせ、平泉まで行かせたのは2つの理由からです。

1つは、頼朝を頂点とする行政ハイアラーキを確立するために利用しました。つまり義経を捕まえるためと称し、全国に「守護・地頭」という追捕機能を配したのですね。
ワザとどこに居るか分からんから、全国に追捕機能を設けるみたいな形で、自分の臣下を全国配備しました。この守護・地頭が、この後武士の時代が終わる幕末までの延々700年間、武士の支配システムの基礎として如何に影響力のある役職かは、皆さん良くご存知の通りです。

そしてもう1つは、勿論、奥州王国を滅ぼすためです。義経を奥州が保護すれば、滅ぼすのに十分な口実ができる訳です。
奥州17万騎に対して、この後の奥州攻めで鎌倉方が出した軍勢は総数28万4千騎。圧倒的に有利です。そして、泰衡などは大した人物ではないと踏んでいます。

⑧一番深慮遠謀な感じの頼朝の肖像画
※頼朝の肖像画や彫刻は沢山ありますが、
やはりこの顔が一番大戦略家の表情?
ただ、1点、ここまで深慮遠謀してきた頼朝にも見通せない1事があります。(絵⑧

秀衡と戦って本当に勝てるか?

非常にシンプルなこの1事は、頼朝と秀衡の戦略・政略に対する「深慮遠謀」、どちらが深く、どちらが遠くまで見通せているかという合戦です。兵の多寡、いくさの戦術ではなく、戦略合戦です。これだけは人の奥深さ故、どうしても読めないのです。

6.調伏祈願の効果

この最後の不確定な要素、ここで2つめの大事が起こるのです。江の島の弁財天への調伏祈願がちゃんと作用してしまったとしか思えません。

秀衡が薨去(こうきょ)します。享年66歳。

脊髄に持病を持っていたと言われますが、急に悪化してしまいます。
秀衡は最期を悟った時、最後の気力を振り絞り、泰衡ら息子と義経を集め、「義経を総大将として、皆で力を併せ頼朝に対抗する」という起請文を書かせます。

秀衡としては、頼朝らが攻めて来る一事が気になって仕方なく、死んでも死にきれない心境だったのでしょう。

ただ、頼朝の江の島における調伏祈願には勝てなかったということでしょうか。(写真⑨
⑨夕焼けと富士山をバックにした江の島(手前)

秀衡があと1年生きていたらと思うと・・・残念です。。。

7.おわりに

藤原秀衡という巨星を失った奥州藤原氏は、もう大戦略家の頼朝の敵ではありませんでした。後は弁財天に頼らなくても、彼が思うように義経を始め、奥州藤原氏を滅ぼしたという感じです。

次回は平泉の高館(たかだち)での義経滅亡等を描きますので、ご笑覧宜しくお願いします。

この私の話とは違って、頼朝に追われる義経が平泉に帰ってきたことを、困惑しながらも受け入れてあげた秀衡というのが通説になっています。義経を受け入れたがため、奥州王国は滅びたとも・・・。

ただ、もしそうであるなら、秀衡が鞍馬山から、平家から糾弾されるリスクを冒しても、義経を連れて養育したことや、義経を総大将にして一族結束して戦えと云った秀衡は、義経に対しては単に人の好い爺さんだったとしか思えません。また、もし義経が平泉に来る前に捕まったら、頼朝は奥州王国を滅ぼさなかったでしょうか?そうなら江の島に弁財天を勧請するでしょうか?

⑩江の島弁財天(江島神社)
なので、秀衡は頼朝に匹敵するくらい深慮遠謀な人物であったと想定し、奥州王国の最終BCP(事業継続計画)である義経17万騎総大将計画をスタートするには、あえて義経を平泉に誘導したと想定しました。そしてほぼ互角であった秀衡と頼朝ですが、最後は江の島での調伏祈願という紙一重の差で頼朝に軍配が上がったのではないかと思った次第です。

すべては江の島の弁財天が知っていますね。(写真⑩

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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【江島神社】神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号

日曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~

①奥州藤原3代
前回まで前九年の役と後三年合戦について描きました。

今回からの話は、後三年合戦が奥羽で繰り広げられてから100年後の話です。

100年後、奥州王国は前回までの主人公であった藤原清衡(きよひら)から2代後の秀衡(ひでひら)が主となっています。

奥州藤原3代は、清衡、基衡(もとひら)、秀衡となります。(絵①

100年もの間、この奥州王国を中央政府からの半独立状態を維持できたのは、やはり金色堂をも作った奥州の「金」の力なのでしょう。

中央政府の有力者(関白?)と「金売り吉次」を介して関係を結び、安定した奥州支配を続けます。2代目基衡までは、そういった意味では後三年の悲惨な戦のあとのしばしの静けさが続いたと見ても良いのでしょう。(写真②:これらのミイラについては別途「中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~」参照

そして時代はこのblogでも取り上げた通り、保元の乱、平治の乱等、源平武士の台頭が京より西側を中心として繰り広げられ、奥州の東北地方は、合戦の舞台からは外れることが出来ていた訳です。

奥州藤原氏3代目の秀衡は、これら中央での武士の台頭に、危機感を強く持っていました。
②中尊寺金色堂に収められている藤原3代の遺体
※泰衡の首は訳あって現代まで忠衡(弟)
のものとされていましたが、研究から
現在は泰衡説が濃厚となっています

「きっと来る!また後三年合戦の源義家(よしいえ)の再来が!」

1.義経の取り込み

上記のような危機感を持った秀衡。この3代目はかなり先見性を持った人物でした。

よく3代目は初代に劣らず優秀と言われますが、その典型例ですね。

そこで、彼は保元・平治の乱を奥州から遠望しているだけではなく、京にて周旋活動をしている「金売り吉次」を使い、中央政権の動きを逐一キャッチし、今後の武士の世が固まってくる時代に対する奥州王国防衛の備えを開始します。

その一計が「義経の取り込み」です。

彼は、100年前の前九年・後三年の原因の基本は、中央から派遣されてきた当時の武士団の頭である源家(頼義・義家)との敵対にあるとの分析を行います。

そして、平治の乱で、平清盛源義朝(よしとも)の息子たち、頼朝と牛若丸を含めた数人を生かしたままにしたと聞くと、また金売り吉次を使って、それら源義朝の遺児たちの様子を探らせます。

将来源氏の世が来る事を予測して、ピカ1の遺児を奥州王国に招き入れてしまうことで、奥州王国を守ろうと考えたのです。

③義経後ろ姿
(鎌倉彫:満福寺蔵)
遺児たちの中で、一番武勇に長け、野心に燃える人物として白羽の矢が立ったのが牛若丸です。(写真③

伊豆に流刑中の頼朝にも、秀衡の関係者は会っていたようですが、頼朝に、秀衡はかつての義家の狡猾さを見るようであったこと、また北条一族に取り込まれている彼を見て、策士である彼は避けたようです。あれだけ義家に辛酸を舐めされられた奥州藤原家にとっては、純粋で透明性のある牛若丸の方が取り込む大将の器としてはもってこだったのだと想像されます。

何はともあれ、早速金売り吉次が牛若丸を平泉まで連れて帰ります。

2.奥州王国の独立性

当時は平家一門の世。「平家にあらずんば人にあらず」の勢いですから、義朝の息子を平泉に匿(かくま)う秀衡の動きを知らない訳がありません。

しかし、全く動じない秀衡。この当時秀衡は例の「金」で平家に取り入り、かつて義家が持っていた陸奥守の役職を確保。17万騎と言われる軍を組織した奥州王国は、平家と敵対した源氏の一人息子を匿うくらい何でもないと言わんばかりの独立性を持つ国にまで力を付けていたのです。当時政庁のあった柳之御所(平泉)の敷地規模からも、その広大な王国の様子は伝わってきます。(写真④

平泉に匿われた義経は15歳から23歳までの多感な時期を、駿馬の産地である平泉で、馬を乗り廻し、戦の技と戦術を磨いていくのです。

3.源平合戦

④奥州王国の政庁があった柳之御所跡
さて、1180年に頼朝が平家討伐の挙兵を起します。(詳細は別記事「三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~」をご笑覧ください。こちらをクリック

この頃、藤原秀衡のところにも、平家から源頼朝征伐の要請が来ており、秀衡も「OK!」文書を返しています。

挙兵し、鎌倉に着座した頼朝も、この奥州藤原氏と、もう少し南の常陸の国(茨城県)の佐竹氏(当時の関東武家勢力図は、こちらをクリック)が鎌倉に攻めて来る脅威を感じており、積極的に西の平家打倒に進軍することが出来ません。

ところが、この時、秀衡も頼朝も予測していなかったことが起りました。

義経が挙兵した頼朝の元に平泉から馳せ参じようとするのです。

秀衡は、伊豆に流されていた頼朝を見て、「義家の再来か?」とさえ思っていた訳ですから、これを滅ぼしておいた方が奥州王国の安寧のためには良策と考え、実際2万程の軍を鎌倉に向けようとしていました。

ところが、義経が頼朝のところに馳せ参じたいと、秀衡に申し出をしてくるのです。
⑤私の家の近くにある二枚橋ここを通り
義経は平泉から頼朝の元へ参じた

一度は馳参を思い止まらせましたが、まさか義経への説得に奥州王国の都合を話す訳にも行かず、説得は上手く行きません。ぶっちぎりで頼朝のところに行こうとする義経に最後は根負けし、佐藤兄弟という部下を付けて、平泉を送り出すのです。

義経は嬉しそうに、弁慶と佐藤兄弟を引き連れて、頼朝のところへ平泉から向かうのです。(写真⑤

これで秀衡は、義経への道義上、頼朝を攻めることは出来なくなりました。また頼朝はそんな背景は知らずに黄瀬川にて対面(詳細はこちらをクリック)する弟・義経に「これからは兄弟力を併せ、仇である平家打倒に共闘しようぞ!」と涙ながらに語らいます。(写真⑥

しかし、心の中では以下のように計略を練っているのです。かなりシュールな頼朝です。(笑)

「ふっ、これで奥州の脅威はこいつ(義経)が戦ってくれる間はあらかた消え失せたわ。ただ秀衡は、こいつ(義経)見殺しの覚悟で常陸の佐竹と共謀して鎌倉を攻撃してくるかも知れない。俺はこれらの牽制のためにも鎌倉に残り、平家討伐のための西行きは、義経と範頼に任せよう。」

⑥対面石(奥の杖側が頼朝、手前が義経)
それからの義経の平家打倒における活躍ぶりは、拙著blogでも「一の谷の戦い」を中心とした、合戦状況は3作品作りましたので、どうぞご笑覧ください。(最初の作品はこちらをクリック

源平争乱の間、奥州藤原氏は、中立を保ちました。多分、奥州藤原軍17万騎が動けば、常陸の佐竹氏と共謀しなくても、頼朝を滅ぼすことは出来たかもしれません。

しかし、秀衡はそれでは純粋な義経が黙っていない、頼朝を滅ぼせても、今度は義経まで敵に廻すことになり、それはそもそも義経を奥州に取り込んだ自分達の失策を認めることになるのです。

そこで、秀衡は他の策を考え、やはり義経を上手く使って奥州王国を安寧に導く方法を考えました。

まず源平争乱中、奥州王国は中立。そしてこの間も、ただ手をこまぬいて、義経らの活動を見ていた訳ではなかったのです。

4.腰越状

最後壇ノ浦で平家を倒した義経。凱旋し京に戻ってきた彼に、平家打倒の院宣を下していた後白河法皇は、伊予守等の役職を与え、また義経が鎌倉に断りなく恩賞を出すことを許可します。

⑦左上:後白河法皇 右上:奥州藤原秀衡
左下:源頼朝 右下:源義経
世間では、狸である後白河法皇が、これにより義経と頼朝が対立するだろうとワザと画策し、武家の2人を争わせ弱体化し、相対的に朝廷の権威が高まることを狙ったと解釈されます。私もそう思います。(絵⑦:左上

ただ、もう1人この後白河法皇にこの行動を仕向けた男が居ます。

そう、秀衡です。(絵⑦:右上

源平争乱中に、金売り吉次を使い、有力貴族や法皇等に金をばら撒き、義経に対する支援の周旋活動をしていたと思われます。

秀衡は、先程他の策を考えたと言いましたが、その策とは義経を源氏の頭領にしてしまうということです。

秀衡は、頼朝は義家の再来であり、絶対奥州王国を滅ぼしに来ると踏んでいますので、幼少期より取り込んでいた義経に頭を挿げ替えれば、奥州王国は安寧と考えた訳です。

ところが、義経に対する適正な評価が出来たのは、頼朝だけだったのですね。(絵⑦:左下

義経がもう少し政略的な大局観があれば、秀衡や後白河法皇の意向に沿った行動が出来たのでしょうが、この名将、天才的な戦術は生み出せても、戦略という概念すら持っていなかったのではないかと思うくらい政略に疎いのです。(絵⑦:右下

このように愚直な程に素直な義経は、何故平家を滅ぼす程の大成果を上げた自分が、兄・頼朝に認められないのか不思議でなりません。きっと頼朝の君側の奸(かん)の讒言(ざんげん)により、誤解が生じているに違いないと考えます。

⑧腰越の海岸
そこで壇ノ浦で捉えた平家総大将の宗盛(むねもり)を鎌倉へ連行し、ついでに直接兄・頼朝と話が出来れば、誤解は霧散すると考え、1185年5月、弁慶と一緒に京から鎌倉へ向かいます。

ところが鎌倉の手前4kmくらいの場所である腰越という海岸で、鎌倉入府にストップが掛かります。(写真⑧

そこで、この海岸脇にある満福寺という寺に暫く留まり、頼朝からの鎌倉入府許可を待ちます。

ところがいつまで経っても入府許可が出ません。

そこで、義経はこの場所で、頼朝に手紙を書くのです。この手紙は腰越状として有名です。

【腰越状意訳】写真⑨
私、義経は天皇の命を受けた頼朝公の代理となり、平家を滅ぼし、父・義朝の恥をすすぎました。

きっと褒美を頂けると思っていましたが、図らずも、讒言により、大きな手柄も褒めていただけなくなりました。

私、義経は、手柄こそあれ、何も悪いことはしていませんのに、お叱りを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。

あらぬ讒言に、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝え出来ず、数日をこの腰越で無為に過ごしています。

黄瀬川の対面以来、永くお会いできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。
なぜ、このような不幸せな巡り合わせとなったのでしょう。
⑨腰越状(満福寺蔵)

亡父・義朝の御霊(みたま)が、再びこの世に出て来ない限り、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることも、また哀れんでも頂けません。
<中略>
ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父の御霊を御安めする以外に、何一つ野望を持った事はありませんでした。

その上軍人として最上の高官である五位ノ尉に任命されたのは、自分だけでなく源家の名誉でもありましょう。

義経は野心などすこしもございません。
<中略>
疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。

元暦二年五月 日 源義経

◆ ◇ ◆ ◇

何でしょうか?彼が唯一政略っぽい事を述べているのは、上位職へ任官されたことは源家にとっての名誉だということだけです。政略に関する考え方があまりに疎ですね。

それに比べ、この手紙の中でもやたらと平治の乱で敗れた父・義朝の恨み返しの話ばかりが強調されています。

これは前回までの後三年合戦で、負けた家衡(いえひら)の義家・清衡らと戦う動機が「母上を殺した」というのと似ていませんか?家衡は最期「早く母上に会いたい」と言いながら、斬首されるのです。(詳細はこちらをクリック

⑩義経が逗留し腰越状をしたためた満福寺(上)
京へ戻る義経がこの寺の階段を下りたところに
今では江ノ電が走る(下)
その時、家衡も呟いています。「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」と。

つまり、この腰越状の文章上、既に義経は源家頭領としての器ではなかったことが、現れているのではないでしょうか。

結局、義経は鎌倉入りを許されず、6月9日に頼朝から、平宗盛を連れて京へ戻れとの下知を受けます。(写真⑩

これにより感情が昂った義経は、「頼朝に不満のある武士は、私に付いて来て一緒に反旗を翻そう!」と言ってしまいます。

これは頼朝の思うつぼであり、4日後13日、義経の所領・役職全て没収となりました。

この後、義経が殺されるまでの話は次回以降描いていきます。

ちなみに義経は、御首(みしるし)となった後も、この腰越の海岸で首実験がなされ、この海岸より鎌倉方面へ入ることは死んだ後もありませんでした。彼の首塚は鎌倉の西、藤沢にあります。

5.おわりに

世にいう判官贔屓(ほうがんびいき)における頼朝は、義経の天才ぶりに脅威・嫉妬を感じ、武家社会の秩序を乱す義経自体を悪者扱いにしたと見られがちですが、私はむしろ頼朝は義経を介し、背後にある奥州王国を見ていたのだと思います。

頼朝が届いた義経の御首を見て、「これで世の中の悪は去った」という場面が多くの歴史小説や映画等で出てきます。

多くの人は、この言葉を聞いて「悪とは何であろう?」と、人情豊で正しい行いの人義経に同情の念を寄せますが、彼は義経の御首を見ながら奥州王国の御首を見ていたのだと思います。
前九年・後三年から100年経った頼朝で奥州王国と源家の確執は終焉を見たのです。源家にとって奥州王国は「悪」そのものだったのでしょう。

その視点で、次回以降も描いていきたいと思います。
ご清読ありがとうございました。

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【二枚橋】神奈川県川崎市麻生区高石3丁目32
【対面石】静岡県駿東郡清水町八幡39
【満福寺】神奈川県鎌倉市腰越2丁目4−8

中尊寺金色堂⑦ ~後三年合戦 その5~

①金沢柵に建つ金沢八幡宮
さて、前回までの後三年合戦の戦況ですが、清原家衡(いえひら)・武衡(たけひら)連合軍は、一度は源義家(よしいえ)に勝利した沼柵を落され、そこから最終防衛拠点である金沢柵へ向かう義家らを伏兵で暗殺しようとしましたが、それも義家の兵法の教養により見破られます。
人物相関図はこちらをクリック

そして、先に金沢柵攻撃を仕掛けていた鎌倉景正(かまくらかげまさ)源義光(よしみつ)軍と合流し、この柵を秀武(ひでたけ)の進言によって兵糧攻めにします。これが効を奏し、金沢柵は食糧不足のために落柵は間違いない状況に追い込まれます。(写真①

そして、義家軍最後の金沢柵総攻撃の前夜、家衡は軍議に集まった家臣らに云います。

「今夜、この柵に火を放つ。皆はそのドサクサに紛れて逃げ延びて欲しい。俺はここに残る。」

今回はこの続きからです。

②名馬「花柑子」を射殺する家衡
1.金沢柵陥落

この夜、義家は全軍に通知を出しています。

「陣に敷設した仮屋を全て打ちこわし、その材木で暖を取るように。」

これは、家衡軍にわざと明日総攻撃をかけると噂を流していた清衡(きよひら)が以下のような先を読んだ提言をしたためです。

「家衡や武衡は、明日総攻撃の前に夜陰に紛れて撤退するでしょう。彼らは元々夜襲等が得意であることから、今回の撤退行動も夜間に起こします。ですので、夜間に落ち延びようとする敵を捕まえるためにも、火を焚き、金沢柵周辺を明るくすべきです。」

「また彼らは柵に火を放つ可能性が高いです。それに即応するためにも、こちらも火を焚いて暖を取って体力を蓄えると同時に、直ぐに行動に移せる軍体制を敷いておきましょう。」

③金沢柵の八幡宮境内と馬の像
そして、この晩、清衡の予言通りの行動に家衡が出ました。清衡は家衡の行動をそもそも自分達の兄・真衡(まさひら)館の焼討や、自分の妻子・母親を焼かれた苦い経験などが全て家衡の夜間の焼討だったことから、容易に想像できたのでしょう。

さて金沢柵陥落に際し、家衡は、名馬として名高い愛馬「花柑子(はなこうじ)」が義家軍に渡るのを惜しみ、自分で弓矢を用い射殺してしまいます。(絵②

逸れますが、金沢柵内にある金沢八幡宮境内には立派な馬の像が、写真③内の左側のようにありましたが、もしかしたら、この馬の像が「花柑子」なのでしょうか?(写真③

戻します。そしてその夜、金沢柵に火は放たれ、燃え盛る炎の中を逃げる家衡・武衡軍でしたが、残念ながら、これを予想し、暖を取って英気を養っていた義家軍らに次々と捕まり、撫で斬りにされるのです。

2.戦後処理

それら夜中に撫で斬りにされた家衡・武衡軍の将兵の首が翌日、落ちた柵内にずらっと並べられたのが絵④です。(絵④

④負けた家衡・武衡軍の将兵の首
は柵内に無造作に晒された
残忍な仕打ちはまだまだ続きます。
まず、武衡ですが、彼は戦中から源義家の弟・義光へ降伏の意思を表し、義家への取成しをお願いしてきました。しかし、義光から上告を受けた義家はこれを頑として拒否。

そして、金沢柵に火を放ち、夜陰に紛れての最後の逃亡劇では、武衡はなんと忍者のように、近くの池に潜り、厳重な義家軍の撫で斬りから逃れようとします。(写真⑤

彼は、葦や水藻等を体にまとい、刀の鞘の底を切り、片端を水面から出し、呼吸を繋いで、ほとぼりが冷めるを待っているつもりだったのでしょう。

しかし、それも虚しく数時間後には義家軍に見つかります。

義家の前に引き出された武衡、命乞いをします。この時、以前より、仲介を頼まれていた弟・義光が「兄貴、命だけは助けてやったら?」と助命嘆願をしますが、義家は「金沢柵の兵糧攻め前に投降してきたのであれば助命も考えたが、その後、特に部下である千任(ちとう)にあのような私への罵倒を浴びせた後の助命等受け入れられない」と突っぱね、斬首します。
⑤武衡が身を隠したと言われる
横手市杉沢の蛭藻沼

では、今の会話で出て来た千任(ちとう)、戦の後半で柵の上から義家に向かって大音声で義家の不義不忠をなじった彼はどうなったのでしょうか。

やはり厳重な義家軍の包囲網を突破できず、捕らえられます。

そして、かわいそうに、前回のblogで義家が「死に勝る恥ずかしめを与える」と言った通り、前歯を金箸で折られ、舌を抜かれるという虐待を受けます。(絵⑥

そして、最後は絵⑦のように、生きたまま、木から吊るされ、大量出血で死ぬまで放置されるのです。(絵⑦

この絵の中で、吊るされた千任の足元に転がっているのが、先に述べた斬首された武衡の首です。千任が力尽きかけ、足を地面に伸ばすと武衡の首を踏んづけるというようにし、

「かつての主君の頭を踏みつける気分はどうだ?不義不忠と思わんか?」

⑥千任への虐待
と義家からなじられると、慌てて足を引っ込める。しかし、それも彼が力尽きかけるまでの短い最期の「もがき」なのです。

かなり残忍ですね。義家は。

この絵⑦の中でも馬も人も殺されている場面が描かれています。また柵等が燃えている場面も描かれています。

このように金沢柵が落ちてからの家衡・武衡軍は悲惨な目に合わせられるのです。

では、一番の総大将、家衡はどうなったのでしょうか?前回のblogで、彼は「俺はここに残る。」と宣言しました。

ところが、彼は行商人の姿に変装し、逃げようとしていたのです。(絵⑧
直ぐに、義家配下の武将に見つかり、矢で射かけられます。

⑦吊るされる千任と
足元に転がる武衡の首
これを先に述べた自分の愛馬「花柑子」を矢で射殺した報いだという説もありますが・・・。

捕まった家衡は涙ながらに云います。

「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」
「早く母上に会いたい。」

そう、思いだしてください。家衡と清衡の母親は同じなのです。(人物相関図はこちら
家衡は、秀武(ひでたけ)叔父にそそのかされ清衡館を襲います。

秀武は、清衡館に居る家衡の母だけは家衡が襲撃前には逃がす約束をしましたが、実際には誰かの陰謀で逃がすことが出来ず、結局自分の手で焼き殺してしまったのです。

家衡は、清衡が仕組んだ策謀だと思い込み、その恨みを晴らそうとして今回の戦(後三年合戦)が始まったのです。このシリーズの「その2」を読まれた方は、この件の犯人は分かりますね。清衡ではありません。(分からない人はここをクリック
⑧変装して逃げる家衡は矢で射られる

家衡は純粋な出羽豪族清衡家のお坊ちゃんだったのです。ある意味、可哀想に感じるのは私だけでしょうか?

彼は、その2つの言葉を残し、その場で矢を射た武将に斬首されます。

1087年11月、後三年合戦は義家軍の勝利で終わり、清原家は清衡以外滅亡するのです。

3.清衡の謀略

さて、清衡も、源義家が、前九年の役の恨みから、抹殺しようと考えている清原一族の1人であることは間違いありません。
⑨上:白河の旧東山道沿いにある
   吉次の墓(首藤氏ご提供)
下:栃木県壬生町にある吉次
 の墓(小林氏ご提供)

しかし、清衡もそれは充分に分かっています。彼は、最初に企図した通り、父親・藤原経清(つねきよ)の恨み対象である清原一族を死滅させることが出来ました。この後は、早急にこの義家をリムーブしなければ、こちらが殺られてしまいます。(人物相関図はこちら

そんな事は想定済みの彼は、後三年合戦が起る前から、清衡の隠密集団である金売り吉次(複数居ます)を使い、有力公家を中心に京の中央政府へ玉山金山から出る金子を上納し続けています。(写真⑪参照

また少々脱線しますが、シリーズ「その2」でも述べました通り、日本全国あちこちに金売り吉次の墓があることから、吉次は複数人で、あちこちで「金」を使い、周旋業務をこなしていたようです。(写真⑨

話戻りますが、義家は、この合戦の兵糧等の調達のため、京の中央政府へ納める年貢すら自分達で使ってしまうのです。
戦が終わった後、義家は中央政府に対して家衡追討の官符(かんぷ:追討のための費用)を要求します。

さて、この状況を見た清衡は一策、日頃の金売り吉次によるロビー活動を展開します。(写真⑨

吉次が公家に「金」を上納する時、義家のこの合戦での対応等を当然聞かれますので、やんわりと彼の非業、行き過ぎた行為等を、公家に伝えます。

この話で義家に対する心証が悪くなった公家に、吉次は云います。

「この度の戦、義家公の私戦であり、陸奥守という公職の仕事ではございません。」

実は、今まで一度も出て来ませんでしたが、出羽守は当然この戦時におります。
もし、朝廷から正式に公の仕事として清原氏を鎮圧するのであれば、沼柵や金沢柵のある現在の秋田県の出羽守に命じるのが筋な訳なのです。そこを金売り吉次は公家に説明して廻るのです。

4.義家の諦め(清衡の勝利)

そんな清衡の周旋を知らず、義家は得意顔で京へ凱旋して来ます。(絵⑩
⑩京へ凱旋する源義家(右側白馬に跨る貴人)
ところが、京に戻った義家に朝廷は官符を調達するどころか、公私混同甚だしいとばかりに、陸奥守解任を言い渡します。この差配に怒った義家は、恩賞の証拠として持参した家衡や武衡の首を、持っていても仕方がないということで、その辺りの池に打ち捨てて行くのです。絵⑩の左下の池に首が2つ浮いているのが分かりますか?

さて、清衡の策謀はこれだけに留まりません。

この後三年合戦が「私戦」とされたことで、義家は、鎌倉景正をはじめとする武士団への恩賞が出せなくなります。

これは大問題。

後に「一所懸命」とか「御恩と奉公」とか言われるように、武士団の上下関係の信頼は、土地や金銭と命を懸けることのトレードオフで成り立っているのですから。

義家への求心力は完全に損なわれ、軍神どころか下手をすれば逆賊として成敗される可能性すらあります。

⑪玉山金山坑道跡
※「古都ひらいずみガイドの会」より抜粋
義家も内心、「困った!」と思ったでしょう。

そこに清衡は、陸奥守解任で、多賀城を去る義家の所へ挨拶に来ました。
今までお世話になったお礼にとすっと桐箱を差し出します。

そして、「つまらぬ菓子類故、後で照覧あれ」とその場を辞します。

皆さんもうお判りでしょう。そう、彼は玉山金山の「金」を義家に渡し、十分に恩賞が配られるように手配したのです。(写真⑪
このように恩義を義家に売る事により、義家が素直に二度と奥州(陸奥)に戻らない、清衡を恨まないようにしたのです。

後でその金子を目にした義家は笑いながら言います。

「これは清衡にいっぱい喰わされたわい(笑)」

5.おわりに

如何でしたでしょうか?後三年合戦。

シリーズの最初に書きましたように、謀略に長けた清衡は、父・藤原経清や安倍一族の恨みの対象である清原氏を、源義家を利用することで滅ぼすことが出来ました。

勿論、自分も滅ぼされるリスクがあったのですが、それも想定済みの緻密な謀略の策定。
やはり1stガンダムのシャアのようなキャラですね。

⑫奥州藤原氏の政庁のあった「柳之御所」跡
陸奥守の任を解かれた義家以後100年間、源氏は奥州へ介入出来ませんでした。

清衡は、自分の父の恨みを晴らしたこの時点で、姓を父の藤原に戻します。

これが奥州藤原初代、藤原清衡となり、陸奥にも出羽にも便の良い平泉に奥州支配の政庁「柳之御所」(やなぎのごしょ)を移し、前九年の役から後三年合戦の血塗られた歴史を振り切り、新しい蝦夷(えみし)奥州王国を作り上げるのです。(写真⑫

また、それまでの戦没者の霊を弔う意味から、平泉中尊寺を建立するのです。

金色堂に金がふんだんに使われているのも、今迄お話してきたように、清衡が諸所の謀略に金を使うことでこの奥州王国を建設した象徴的なものが「金」だからです。

そう思うと、金色堂に込められた清衡の想いのとてつもない大きさを感じますね。(写真⑬
※金色堂への清衡の想いは、別著作blog「Tsure-Tsure」に纏めましたので、こちらをご笑覧ください。

◆ ◇ ◆ ◇
前九年の役から始まった今回のお話、後三年合戦も含めて、長い事お付き合い頂き、本当にありがとうございました。

写真⑬の金色堂前で写真を撮っている私は、このような深い清衡らが係わったその前の戦跡があるなぞ、全く知りませんでした。その後、知れば知る程、その大きな歴史の流れの礎がここにあることに驚きました。
⑬中尊寺金色堂外国の方が沢山訪れていました

この2つの奥州での戦が後の武士団形成への大きなステップになったことは間違いありません。
源義家が、清衡から貢がれた「金」を基とした私財を投入して武士団の恩賞を行ったことが、却って武士団としての団結力を強め、後の鎌倉時代の武士の時代を創る元になるのです。

そう考えると清衡は単に義家を上手く使って、奥州から清原氏を追い払い、奥州王国を建てたということより、鎌倉時代から明治維新まで続く武士の時代の魁(さきがけ)となったことが最大の功績かもしれません。
◆ ◇ ◆ ◇

そして100年後に飛び、奥州における義経と奥州藤原氏の滅亡を併せたレポートを次回以降したいと思います。宜しくお願いします。

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【金沢柵】秋田県横手市金沢中野金洗沢
【蛭藻沼】秋田県横手市杉沢谷地中
【柳之御所】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所
【中尊寺金色堂】西磐井郡平泉町平泉衣関78